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「話があります」いつになく真剣な声でそう切り出した甲斐田に少し体が強ばる。
なんて事ないいつもの夜になるはずだった。
夜ご飯もお風呂も終え、ソファでスマホを触っている。
カーテンの隙間から淡い月の光が差し込むいつも通りの夜。
「桜魔に行くことになりました」
「今更改まってどうしたん?桜魔とか何回も行ってたやん」
嫌な予感はしていた。
いつにない真剣な声、表情。
それらのせいでいつもとは違うことを嫌でも認識させられる。
それでも、それが嫌な予感で終わることを期待して、震える声で不安を覆い隠すように返す。
「今回の件はいつもとは違うんです。正直、帰って来れるかもわかりません」
そんな俺の期待を裏切るかのように、彼から発せられた言葉は簡潔で、たった二言だけで俺を絶望に突き落とした。
何も言えなかった。
なんで急に。
帰って来れるかわからないとか言わないで。
いつから行くの。
やだ、行かないで。
言いたいことはたくさんあった。
でもそれらが口に出ることはなく、喉の奥で魚の骨がつっかえたように留まり続ける。
「そっか」
たくさんの言いたいことを飲み込んでようやく口に出せたのはそんな在り来りな一言だけ。
たぶんその一言でさえも掠れていて、震えていて、気付かないうちに夜に溶け込んでしまいそうなくらい小さかったと思う。
出発までの時間を少しでも引き延ばすように、いつもよりゆっくり朝の支度をする。
きゅっと丸まってぐっすり眠っている2匹の猫、外から聞こえる通学中の小学生の元気な話し声、ほんのり苦い香りがするコーヒー。
そのどれもがいつもと同じで、僕達にとって、どれだけ重苦しく憂鬱な1日でも、世界はいつも通り動いていることを実感する。
いつもと違うのは不破さんだけ。
朝起きたときからずっと今にも泣き出しそうな顔をしている。
どうせなら楽しそうに笑っていてほしい。
不破さんの笑顔が1番好きだから。
そう言ったら彼はきっと笑って見送ってくれるだろう。
でもそれはなんだか違う気がして、僕にそんなことを言う資格はないと思って結局言葉にできないまま時間が過ぎる。
行きたくない。
生まれて初めてそう思った。
命の危険がある任務に行くのは別にこれが初めてではない。
これまでに一不破さんと出会う前に何度か行ったことがあるが、そんなこと全く思わなかった。
死んだら死んだで仕方ないと思っていたし、愛すべき故郷のために死ねるならむしろ本望だとさえ思っていた。
それが今では、こんなにも家を出るのが憂鬱で、この場所が名残惜しい。
「不破さん、そろそろ行かなきゃ」
少しつついただけで零れ落ちてしまいそうな程、目に涙を溜め、僕の服を掴んでいる不破さんに声を掛ける。
さっきから何か言いたげに口を開いては閉じている不破さんは、きっと自分が放った言葉が僕の足枷になるとでも考えているのだろう。
いっそのこと、行かないで、とでも言ってくれたらいいのに。
そうしたら一一
故郷なんて捨てて不破さんの為だけに生きるのに。
そんなことを考えていても時間は刻一刻と迫ってくるので、重い腰をあげてソファから立ち上がる。
「ねえ不破さん、好きだよ。不破さんは?」
わかりきった答えをわざと問い掛けてみる。
最後くらいは彼の口から直接聞きたかったから。
「さあどうやろね?」
「ちゃんと帰ってきたら好きって言ってあげてもいいよ」
強がるようにそう言い放った彼の声は、驚く程に震えていて、か細くて、こんな声初めて聞いたな、なんてどこか他人事のように考える。
普段泣いているときに聞く声とは違う、怖くて、不安で、今にも押し潰されてしまいそうなのに、未だ希望を持っている声。
不破さんはまだ諦めてないんだ。
僕が帰ってくると信じて待ってくれるんだ。
僕は諦めていたのに。
「それならがんばらなきゃね。不破さんの好きなんて滅多に聞けないんだから」
必ず生きて帰ってこよう。
寂しがり屋で強がりな、大切で愛おしい恋人のために。
彼を見送ってから数ヶ月が経った。
彼のことを忘れたことなんてなかったし、夜だって眠れなかった。
毎朝、今日は帰ってくるかも、なんて期待して、毎晩、落胆して涙を流す。
んぽちゃむ
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それでも帰ってくると信じて待ち続ける。
まだ好きだと言ってないから。
がんばると言ってくれたから。
かちゃり、と鍵が回る音がした。
反射的に顔を上げる。
聞き間違えるはずがない。
ずっと望んでいて、何度も夢にまで見た音だったから。
「ただいま」
聞き慣れた、大好きな優しい声。
声の方へゆっくりと顔を向ける。
視界に映った姿に息が止まる。
大きなガーゼの貼られた頬、包帯の巻かれた腕、何枚も絆創膏の貼られた指先。
見ているだけでも痛々しいのに、いつもとかわらない優しい笑顔で話しかけてくる。
「……はる?」
信じられなくて、でも信じたくて名前を呼ぶ。
呼んだ瞬間、目の奥が熱くなり、喉がぎゅっと締まった。
「ただいま、不破さん」
その一言で張り詰めていた糸がぷつんと切れた。
ぼろぼろと涙が溢れる。
滲む視界の中、勢いのまま大好きな彼に抱きついた。
「遅いわ、あほ、ばか……怖かった」
情けなく声を震わせながら、ぎゅっと服を掴む。
もうどこにも行かないように。
「ねえ不破さん、僕ちゃんと帰ってきたよ?」
少し揶揄うような言い方をする。
懐かしい、少し嫌いで大好きな言い方。
「おかえり」
彼が何を言いたいのかわかっているが、恥ずかしくて誤魔化すようにぶっきらぼうに言う。
優しく笑う声が聞こえた。
「それだけ?」
絶対わかって言ってる。
わかってるくせに意地悪する。
いつもそうだ。
「そうじゃないでしょ?」
あの朝と同じ、促すような、少しの期待を含んだ声。
忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。
「……好き、大好き、寂しかった」
帰ってきたら言うと決めていた言葉。
何回も何十回も、1人の夜に繰り返した言葉。
きっと声は震えていて、顔も涙でぐしゃぐしゃだろう。
それでも、青空を閉じ込めたような穏やかな彼の目を見ながら何回も伝える。
「……好き、大好き」
帰ってきたら言うと決めていた言葉。
何回も何十回も、一人の夜に繰り返した言葉。
それでもきっと、この気持ちはまだ足りない。
愛してる。
コメント
1件
ああ、もう、読み終わってしばらく胸がぎゅっとなりました……。「帰ってきたら好きって言ってあげてもいいよ」って、あの朝の強がりが、最後の「好き、大好き」に繋がるところが本当に好きです。お互いを想い合う温度がじんわり伝わってきて、不破さんが待つ数ヶ月の描写にも泣けました。帰ってきてよかった……おかえり、って心から言いたくなります。素敵なエピソードをありがとうございました🌷