虫も殺せそうになく、陽だまりのように穏やかだった光留が今や復讐の鬼になっているとはとても信じられない。でも彼が今そうなっているとしたら、そうなるように彼を変えたのはほかならぬ私自身だ。彼がなんらかの方法で私を罰したいと言うなら、私は無条件でそれを受け入れるつもりだった。
舅の口から光留の名前を聞いた日の翌日、その日はクリスマスイブのちょうど一ヶ月前だったけど、私はまず香菜さんと会って事情を聞き、また私の考えを伝えることにした。
菊池家のリビング。
動画鑑賞会のときとは違って春ちゃんと陸君も同席している。きわどい話もあるかもしれないが、特に陸君にとって光留は実父。親子関係に隠し事を持ち込みたくないという考えでこうした、とはじめに香菜さんから説明があった。
「ごめんなさい。どうせいつか分かることなんだから、こっちから教えてあげればよかったんだけど、光留のことを七海さんにどう伝えればいいか、私もよく分からなかったんだよね」
「別に私、怒ってませんから。私は彼に本当にひどいことをしました。私と別れたあと香菜さんが恋人として彼を支えてくれたというなら、私はそのことでも香菜さんに感謝します」
いきなり香菜さんに謝られたけど、香菜さんが私に謝る筋合いはないと思う。光留はあくまで私にとってはただの元カレ。私と別れてから彼が誰とつきあおうが、それは彼の自由だ。でも何か引っかかるというか、胸がもやもやするのも紛れもない事実だった。
「恋人? うん、普通そう思うよね。光留とのあいだに子どもまで作ったわけだから。でもたぶん私と光留は恋人同士じゃない。なぜ恋人じゃないのか、はじめから順を追って説明するね」
春ちゃんと陸君の表情を見て、私より二人の方がこの話を聞きたがってるのが分かったから、無理に言わなくてもいいですよとは今さら言いづらい。
「十五年前、私は夫だった慎司の浮気を疑って興信所に依頼して調査させた。調査の結果、慎司と七海さんの交際が分かったわけだけど、調査の過程で七海さんには慎司と交際を始める直前まで別の恋人がいたことも分かった。つまりそれが光留。興信所は光留の実家まで調べてくれたから、私は実家経由で彼と連絡を取った。恋人の七海さんを慎司に盗られたショックで彼はひどく落ち込んでいた。私は自分が慎司の妻であるとまず明らかにした上で、私を裏切った夫に復讐したいと光留に話を持ちかけた。慎司は七海さんとはただの遊びだったと再構築を申し出ていたけど、ほかの女を妊娠までさせといて何を言ってるのと私は許す気なんてさらさらなかった。もちろん慰謝料も養育費ももらうけど、春との面会は一切許さないという条件で離婚することにした。そしたらあいつ、面会できないなら養育費は月一万だって言い出して、どうしてもあいつを春に近づけたくなかったから、泣く泣くその条件を飲んだ。結局あいつに対する一番の復讐はなんだろうと考えて、あいつが求めている私の体をほかの男に抱かせることだという結論に達した。光留は私の提案に乗り気じゃなかったけど、恋人を慎司に奪われた仕返しにあなたは慎司の奥さんである私を奪ってやればいいと説得して、ようやく彼の復讐心に火がついた。私と彼を結びつけたものは恋じゃなくて復讐心だった。つまり彼にとって私は恋人ではなくて、同じ相手に対する復讐を誓った同志だということ。戦友と言い換えてもいいかもしれない。恋人ではないけど、この十五年ずっと彼とのあいだに体の関係もあった。彼は優しかった。産んだ子どもが慎司との子どもだけというのは嫌だと言ったら、彼の血を引いた子どもまで私に産ませてくれた。もちろん認知もしてくれた。自分の子どもである陸だけでなく、春の父親代わりにもなってくれた。生活費の援助だけでなく、春の通う私学の高い学費まで面倒みてくれた。彼には本当に感謝してる。これは恋ではないけど、もし七海さんが離婚して光留とよりを戻すことになるなら、それは正直悲しいなって思う」
「私が光留さんを奪うことはないので安心してください。だって、いくら香菜さんが恋人じゃないと言い張っても、今の話を聞いた限りはお二人は恋人同士なんだなという感想しか持てなかったですから。香菜さんのことを抜きにしても、春ちゃんと陸君の父親を奪うことなんて絶対にできません。もっとも私が復縁を望んだところで、裏切られて私を恨んでる彼が、私との復縁なんて望んでるわけないんですけどね」
「それは違うよ」
と言い返してきたのは香菜さんでなく、なんと春ちゃんだった。
「光留さん――実のお父さんじゃないから私はそう呼んでるけど――光留さんが愛してる相手がお母さんじゃないことはずっと前から知ってた。いつか本当に好きな人と結ばれるといいねって私たちずっと光留さんを励ましてきたんだ」
春ちゃんに続いて陸君も口を開いた。陸君たちのために光留との復縁は望まないと話したのに、当の陸君はなぜかひどく怒って見えた。
「七海さん、父親を失う僕らがかわいそうだからお父さんとやり直しできないって言いたいの? お父さんを失うことより、自分がかわいそうだって思われることの方がいやだ。かわいそうな自分のせいでお父さんの夢を奪ってしまうなんて、そんな親不孝なことはないよ。それにお父さんが七海さんと復縁したとしても、お父さんはお父さん。責任感の強い人だからきっと父親としての責任は果たしてくれると思ってる」
この子たちは大人だ。凛や竜也はもちろん、私と比べても見劣りしないくらい大人だと感心した。そうはいっても、私の一存だけで決められる話でもない。まずは光留と一度会って話してから。
そう思ったとき、香菜さんが言いづらそうにまた何か言い出した。
「これは自分の恥をさらすことになるから、できれば言わずに済ませたいと思ったんだけどね。――十五年前、七海さんを一度この家に呼んだよね? なんで呼んだと思う?」
「香菜さんが慎司から受け取った慰謝料の五百万円の出どころを確認したかったのと、慎司と離婚してよかったという気持ちを私に伝えるためだと聞きましたけど」
「どっちも電話だけで済む話。実はあのとき奥の部屋に光留を待機させてたんだ。突然リビングに入ってきた光留と二人で七海さんをさんざんに罵倒して、罵倒しながら目の前でイチャイチャする姿を見せつけて七海さんを泣かせてやろうという計画だった。でも七海さんが帰るまで光留は部屋から出てこなかった。私はあなたから光留を奪った気になってたけど、いくら体を重ねても心までは奪えなかった。だから、光留を恋人にすることは、十五年前にはもうあきらめていたんだ。そもそもあいつらへの復讐だってさ、私は自分のためにやってることだけど、光留がなんでやってると思う?」
「私を奪った慎司が許せなかったからですか」
「違うよ。それなら慎司一人に仕返しすれば済む話。光留は舅や姑に何かされたわけじゃないからね」
「じゃあ、香菜さんに頼まれたからですか」
「それも違う。もしそうなら十五年なんて待たずにもうとっくに復讐してるよ。もっと早くあいつらに復讐してれば七海さんはなおさら困ったことになっただろうけど、そんなこと気にせずにね。まだ分からないの? 長年七海さんを苦しめたあいつらが、光留にはどうしても許せなかったからだよ!」
光留が私のために復讐してくれていると知って驚いた。それにしても、なんかもう私と光留が復縁することが前提で話が進んでいる。三人がここまで言うのだから、光留がそれを望んでいるのは確かなようだ。
もちろん私だって復縁できるなら光留と復縁したい。でも復縁して本当に光留は幸せになれるだろうか? 光留は新世界運輸の親会社の副社長。私には何もない。三十五歳の家事以外何もできないおばさんでしかない。
光留はその気になれば私なんて比較にならないほど条件のいい相手と結婚することもできるはずだ。私と復縁できるのを十五年も待っていてくれた? 女としてこれほどうれしいことはないけど、会えなかった十五年のあいだに光留の中で私がとんでもなく美化されていたなんてことはないのだろうか? もしそうならリアルな私を見た瞬間にがっかりするだけだろう。
「七海さん、またなんかネガティブなことばっか考えてるみたいね。でも悪いけど、私だって光留を取られることになりそうで悔しいんだから、これ以上七海さんを励ますつもりはないよ」
そのとき香菜さんはシッシッと子どもたちを追い出す仕草をした。
「これからまた動画の鑑賞会をやるから、あんたたちは部屋に戻ってなさい」
「もしかして凛の?」
「そう。しかも隠し撮りじゃないよ。生まれて初めての行為だったのに、撮影したいって言われて二つ返事でOKしちゃう頭の緩さに、男の方もびっくりしてたってさ」
「お母さん、私もその動画見たいんだけど」
春ちゃんがいいこと思いついたという顔で提案した。
「なんで?」
「動画の中で凛が言ってたセリフを明日学校で凛の前で偶然を装って披露してやろうと思って」
私が姑相手に実行したささやかな復讐と同じだ。
「この動画、拡散させるんだよね。拡散される前に僕らで思い切り笑い飛ばしてやろうよ。さんざん七海さんを馬鹿にした報いを受けるときがとうとう来たんだよ」
陸君も私の復讐心を掻き立てる。
ちなみに、凛が心を奪われて体まで捧げた男は、凛は彼を名門私立男子高校の生徒だと思い込んでいるが、実は姑の不貞の相手になった土屋蒼馬の子分の、十七歳の無職の少年。その男を凛に紹介したのは春ちゃん。春ちゃんは同じ学校の中学部にいた凛に近づき、権威ある者に媚びへつらわずにはいられないという祖父譲りの凛の弱点を突いて、
「私の友達の友達が他校の男子なんだけどね、彼が凛ちゃんに興味あるんだって。会ってみれば分かるけど、彼、超イケメンで、親がお金持ちでね、しかも彼の通ってる高校というのがまたすごくてさ――」
と凛を煽りその気にさせた。凛はもちろん春ちゃんが自分の異母姉妹だなんて知らないし、まさか異母姉妹の春ちゃんが自分を地獄に叩き落とそうとしてるだなんて夢にも思ってないのだった。
結局、四人で動画を見た。テレビ画面に映し出された部屋の様子に見覚えがあり、姑の不貞を隠し撮りしたときと同じホテルだとすぐに気づいた。
姑が行為する動画を見たときは気持ち悪いとしか思えなかった。あれは行為に溺れる姑が七十歳で、いい年してみっともないという気持ちからそう感じたのだろうと思っていたが、そうではなかったようだ。十四歳の凛がその幼い肉体のすべてを晒して、痛みをこらえながら好きになった男と必死に行為する動画を見ても、気持ち悪いとしか思えなかった。
どうやら私は麻生家の人々に対して精神的にアレルギー反応を起こす体質になってしまっているようだ。私の心の平和を考えるなら、一刻も早くあの人たちから離れる必要がある。
ただ、凛の動画の拡散は少し待ってもらった。誰かを愛することを覚えた今なら、凛は私につらく当たった過去を悔いて、今までの言動を改めることができるのではないかと少しは期待したからだ。
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