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#異能力バトル
聖杯
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聖杯
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第三話 月蝕の観測者と、桃色の騎士の誓い
穂群原学園の放課後は、いつもなら穏やかなものだった。
部活動へ向かう生徒たちの声。
校庭を走る運動部の足音。
吹奏楽部が音合わせをする、少し外れた金管の響き。
夕陽に照らされる校舎の窓。
冬木の街へ降りていく坂道。
そのすべてが、今は遠い。
遠坂衛二の前には、黒い月が浮かんでいた。
月輪の形をした術式。
それは神秘というより、傷口に近い。
空間そのものに開いた、願いを吸い上げる穴。
その下に立つ少女――ミライは、白いコートの裾を夕風に揺らし、感情の読めない瞳で衛二を見つめていた。
「証明して」
ミライは静かに言った。
「あなたが器ではなく、人間だということを」
その言葉と同時に、黒い月輪から影が溢れ出した。
影は地面に落ちるより早く形を変える。
槍。
鎖。
刃。
獣の顎。
それらが一斉に衛二へ向かって走る。
「エイジ!」
アストルフォが跳んだ。
桃色の髪が夕暮れの光を受け、炎のように輝く。
彼の動きは軽い。
あまりにも軽く、楽しげで、しかし一切の無駄がない。
影の槍が迫る。
アストルフォはくるりと身を翻し、踵で槍の腹を蹴り砕いた。
次の鎖を手首のひねりだけで避け、さらに伸びてきた影の刃を短剣で弾く。
「だーめ!」
明るい声。
けれど、芯は鋼のようだった。
「ボクのマスターに触るなら、まずボクを通してからにして!」
衛二はその背中を見た。
細い。
華奢にさえ見える。
けれどその背中が、今は何より頼もしい。
「投影、開始」
衛二の手に、黒白の双剣が現れる。
干将・莫耶。
衛宮士郎が幾度となく投影した、夫婦剣。
だが衛二のそれは、父のものよりさらに濃い。
贋作ではない。
模造でもない。
本物と寸分違わぬ概念密度。
宝具としての霊格すら、限りなく原典に肉薄している。
衛二は片方を逆手に持ち、踏み込んだ。
黒い影が三方向から襲いかかる。
右から槍。
左から鎖。
正面から、巨大な爪。
「五大元素、風」
衛二の足元に風が巻いた。
身体が軽くなる。
槍を避ける。
鎖を斬る。
爪の下を潜り抜ける。
「火」
莫耶の刃に炎が宿る。
ただ燃やすだけではない。
魔力を焼く炎。
術式の結合だけを断ち切る遠坂の火。
衛二は影の爪を斬り裂いた。
黒い魔力が火花となって散る。
ミライは動かない。
ただ見ている。
まさしく観測役の名に相応しく、戦場の中心にいながら、どこか他人事のように。
「投影魔術と五大元素の同時運用。霊格補強済みの双剣。魔力変換効率は魔術師の域を超えている」
ミライが呟く。
「やはり、器としての適性は極めて高い」
「俺を物みたいに評価するな」
衛二は干将を投げた。
剣は一直線にミライへ向かう。
ミライの前に影の壁が立ち上がる。
干将が突き刺さる。
その瞬間、衛二は右手を握った。
「壊れた幻想」
干将が爆ぜる。
爆発は壁を内側から食い破った。
普通ならば、宝具を破壊するなど大技だ。
ましてや一度投げた剣に魔力を再接続し、任意のタイミングで壊れた幻想へ移行するなど、英霊エミヤでさえ容易には行えない。
だが衛二は、それを当然のようにやる。
影の壁が砕ける。
爆煙の向こう、ミライの髪が揺れた。
傷はない。
彼女の足元に、別の月輪が展開されていた。
「防がれたか」
「攻撃判断、優秀。だが出力に躊躇がある」
ミライは淡々と告げる。
「校門周辺への被害を避けた。校舎の結界維持を優先した。周囲の生徒への影響を恐れた。あなたは敵を殺すより、環境を守る計算を先に入れている」
「それが悪いか」
「悪くはない。器としては不純。人間としては、良い傾向」
「……さっきから、何なんだよ」
衛二の声に苛立ちが混じる。
「俺を器にしたいのか、人間かどうか試したいのか、どっちだ」
ミライは沈黙した。
ほんの一瞬だけ。
その沈黙が、彼女の無表情に初めて影を落とした。
「私は観測役。選定者ではない」
「なら、誰が選ぶ」
「月蝕の巫主」
その名を口にした瞬間、黒い月輪がわずかに歪んだ。
アストルフォが影の獣を蹴り飛ばし、衛二の隣へ戻ってくる。
「巫主? それが月蝕教団のボス?」
「ええ」
ミライは頷く。
「砕けた神杯の欠片を集め、新たな杯を作ろうとしている者。願いを救済と呼び、犠牲を必要経費と呼ぶ者」
「最低だね」
アストルフォの声から、いつもの軽さが消えた。
「願いって、そんなふうに使うものじゃないよ」
「では、どう使うもの?」
ミライが問う。
アストルフォは一瞬も迷わなかった。
「誰かを笑顔にするため」
その答えは、とてもアストルフォらしかった。
単純で。
まっすぐで。
けれど、何より強い。
「願いは誰かを縛るものじゃない。誰かを器に押し込めるものでもない。願いが重くて苦しいなら、一緒に持ってあげればいい。叶わない願いなら、泣いてもいいってそばにいてあげればいい」
アストルフォは衛二の前に一歩出た。
「エイジを器にするなんて、絶対に許さない」
ミライはアストルフォを見つめる。
「なぜそこまで守るの」
「好きだから」
あまりにも自然に言った。
衛二の心臓が跳ねる。
「ア、アストルフォ」
「だってそうでしょ?」
アストルフォは振り返り、にこっと笑った。
「ボク、エイジのこと好きだもん。マスターとしても、人としても。優しくて、強くて、すぐ無茶して、褒めると照れて、甘えたいのに我慢しようとするところも、全部好き」
「戦闘中に言うことか、それ」
「戦闘中だから言うんだよ。こういうの、ちゃんと伝えられる時に伝えないと!」
その笑顔は眩しすぎた。
黒い月の下でも、夕闇の中でも、アストルフォだけが春のように明るい。
衛二は息を吐いた。
頬が熱い。
でも、不思議と怖くない。
影の群れ。
月蝕教団。
器として狙われる自分。
そのすべてが重いのに、アストルフォが隣にいるだけで、立っていられる。
「……なら、俺も言っておく」
「え?」
「俺も、アストルフォが好きだ」
アストルフォの目が丸くなった。
戦場の空気が、一瞬止まる。
「え、え、エイジ? 今?」
「今言えって言ったのはそっちだろ」
「言ったけど! 言ったけど、返ってくると思ってなくて!」
「じゃあ取り消すか?」
「だめ! 絶対だめ! 今のボクの宝物にする!」
アストルフォの顔が一気に赤くなる。
そして赤くなったまま、嬉しそうに笑った。
「エイジ、後でぎゅーね。すっごく長いやつ」
「勝ったらな」
「勝つ!」
アストルフォは弾けるように駆け出した。
ミライの影が再び伸びる。
今度の影は、先ほどより濃い。
黒い月輪が三重に重なり、術式の圧が増す。
「感情による魔力増幅を確認」
ミライが呟く。
「契約強度、上昇。マスターとサーヴァント間の精神同調率、想定以上」
「分析してる暇があるの?」
アストルフォが影の間をすり抜ける。
彼は真正面から力で押し潰すタイプではない。
速度。
軽やかさ。
予測不能の軌道。
それらで相手の計算を狂わせる。
ミライの月輪から伸びる影の刃が、アストルフォの頬をかすめる。
薄く傷が走った。
「アストルフォ!」
「平気!」
アストルフォは笑った。
「エイジに心配されるの、ちょっと嬉しい!」
「馬鹿、避けろ!」
「はーい!」
衛二は歯を食いしばる。
アストルフォを前に出しすぎるな。
自分も動け。
守られるだけになるな。
父ならどうする。
母ならどうする。
いや。
自分なら、どうする。
「投影、開始」
衛二の周囲に剣が浮かび上がる。
一本。
三本。
八本。
十六本。
形はそれぞれ違う。
かつて父が記録した剣。
英霊エミヤの残した戦闘理論。
遠坂の宝石魔術に適応するため衛二自身が改良した投影刃。
さらに、神杯の残滓を切り離すために即興構築した解体剣。
それらが衛二の背後に円を描く。
「全投影、元素接続」
刃に五色の光が灯った。
地。
水。
火。
風。
空。
それぞれの剣が異なる属性を帯び、影の術式に合わせて最適な破壊を行う。
ミライがわずかに目を細めた。
「多重投影宝具群。制御数、十六。魔力消費、極小。異常」
「異常で結構」
衛二は左手を振る。
剣群が放たれた。
空を裂く音。
影の鎖が地属性の剣で固定される。
影の刃が風属性の剣で軌道を逸らされる。
影の獣が火属性の剣で術式核を焼かれる。
黒い月輪の周囲を、水属性の剣が巡り、汚染魔力を洗い落としていく。
そして空属性の剣が、ミライの術式接続点を探った。
「そこか」
衛二は踏み込む。
アストルフォが即座に合わせた。
「いくよ、エイジ!」
「ああ!」
二人の動きが重なる。
アストルフォが影の壁を蹴り砕き、衛二がその隙間へ剣を投げ込む。
ミライが月輪をずらす。
衛二はそれを読んで、二本目の剣をすでに投げている。
一本目は囮。
二本目が本命。
ミライの右肩近くで剣が爆ぜた。
壊れた幻想。
しかし爆発は彼女を傷つけない。
周囲の月輪だけを破壊する、限定解放。
黒い月が一つ砕けた。
「……見事」
ミライの声に、わずかな感情が混じる。
称賛か。
驚きか。
あるいは安堵か。
衛二には判断できなかった。
残る月輪は二つ。
アストルフォがさらに踏み込む。
桃色の髪が舞う。
影の矢が放たれる。
アストルフォはそれを避けきれない。
衛二は反射的に動いた。
「投影!」
手の中に盾が現れる。
父が解析したことのある円盾。
ただし完全な宝具ではなく、一瞬だけ守るための部分投影。
衛二はアストルフォの前へ飛び出した。
影の矢が盾に突き刺さる。
衝撃。
「ぐっ……!」
「エイジ!」
「平気だ!」
盾が軋む。
影の矢には、願望干渉が込められていた。
ただの攻撃ではない。
当たった相手の精神へ潜り込み、「望み」を暴き、歪め、術式へ変換する。
衛二の脳裏に、声が響いた。
――父を超えたいのか。
――母に認められたいのか。
――強くありたいのか。
――愛されたいのか。
――失いたくないのか。
――ならば器になれ。
――すべての願いを抱け。
――すべての愛を受け入れろ。
「っ、黙れ……!」
衛二の足が地面に沈みそうになる。
魔力量なら負けない。
術式構造なら読める。
だが願いの干渉は、理屈ではない。
胸の奥にある弱さを直接掴んでくる。
父の背中。
母の期待。
遠坂家。
衛宮の理想。
冬木の傷跡。
そして、昨日出会ったばかりなのに、もう失いたくないと思ってしまった桃色の騎士。
全部を突きつけられる。
「エイジ!」
アストルフォが衛二の背中を抱きしめた。
戦闘中だというのに。
敵の目の前だというのに。
彼は迷わず、衛二を抱きしめた。
「大丈夫! ボクの声を聞いて!」
「アストルフォ……」
「エイジは器じゃない。器にならなくていい。全部の願いを抱えなくていい。父さんを超えなくても、母さんに完璧って言われなくても、世界中の誰かを救えなくても」
アストルフォの声が、衛二の中へ届く。
「ボクは、エイジがエイジだから好きなんだよ」
その言葉が、黒い声を切り裂いた。
「強いからじゃない。すごい魔術師だからじゃない。遠坂家次期当主だからでも、衛宮士郎の息子だからでもない」
アストルフォの腕に力がこもる。
「頑張ってるのに、まだ足りないって顔をするところ。誰かの願いを壊せなくて苦しむところ。照れると目を逸らすところ。甘えたい時に、少しだけって言うところ」
「……そんなところまで」
「全部好き」
衛二の呼吸が戻る。
胸の奥で、何かがほどけた。
盾に刺さった影の矢が、軋みながら崩れていく。
衛二はゆっくり顔を上げた。
「……ありがとう」
「うん」
「もう大丈夫だ」
「ほんと?」
「ああ」
衛二は盾を消し、双剣を握り直した。
そして、ほんの少しだけ笑う。
「でも、今のはかなり恥ずかしかった」
「えへへ。ボクも言っててちょっと照れた」
「なら言うなよ」
「言わないと届かないこともあるから」
アストルフォは衛二から離れ、隣に立った。
ミライは二人を見ていた。
黒い瞳に、ほんのわずかな揺らぎがある。
「精神干渉、失敗。理由、契約者間の情緒的結合」
「違う」
衛二は言った。
「絆だ」
アストルフォが嬉しそうに笑う。
「うん、絆!」
衛二は右手を上げた。
残った投影剣が一斉に浮かぶ。
「アストルフォ、合わせられるか?」
「もちろん!」
「月輪の中心をずらす。そこを叩いてくれ」
「了解、マスター!」
アストルフォが駆ける。
ミライの月輪が影を展開する。
だが衛二はもう読んでいた。
月輪は攻撃と防御を同時に行う術式。
しかし願望干渉を混ぜたことで、構造にわずかな遅延がある。
攻撃直後、防御の切り替えに零点二秒。
人間には短すぎる。
サーヴァントには十分。
「今!」
衛二は空属性の剣を放った。
剣が月輪の中心へ突き刺さり、術式の座標を強制的に固定する。
ミライの目がわずかに見開かれた。
アストルフォが跳ぶ。
夕陽を背にしたその姿は、まるで桃色の星だった。
「いっくよー!」
アストルフォの一撃が、黒い月輪を蹴り抜いた。
月輪が砕ける。
二つ目。
残るは一つ。
ミライが後退する。
初めて、彼女が距離を取った。
「戦闘継続は不利」
「逃がすか」
衛二は追撃の剣を投げる。
しかしミライの足元に黒い影が広がった。
転移術式。
逃げる気だ。
「アストルフォ!」
「任せて!」
アストルフォが駆け出す。
だが、その瞬間。
校門の外側に、新たな気配が現れた。
鋭い魔力。
宝石のように精密で、炎のように強い。
「そこまでよ」
遠坂凛の声が響いた。
赤いコートを翻し、凛が結界の外から現れる。
その隣には衛宮士郎。
そして少し後ろに、ユイ・アインツベルン。
凛の手には宝石が握られていた。
「穂群原学園の敷地内で、うちの息子に手を出すなんて。いい度胸ね」
「母さん」
「話は後。衛二、怪我は?」
「ない」
「アストルフォは?」
「ボクも平気!」
「ならよし」
凛はミライを見た。
その表情が、魔術師のものに変わる。
「月蝕教団。まさか本当に動き出すとはね」
士郎は衛二の隣に立ち、周囲を一瞬で確認した。
「結界はまだ維持されてる。一般人に影響はない」
「父さん」
「よく耐えたな、衛二」
短い言葉。
それだけで、衛二の胸が少し熱くなる。
褒められたいわけではない。
でも、父のその一言はやはり嬉しかった。
ユイはミライを見つめていた。
その瞳には、他の誰とも違う感情があった。
「ミライ」
ユイの声が揺れる。
「あなた、本当に月蝕教団に?」
ミライはユイを見た。
無表情。
だがその奥に、ほんの一瞬だけ、人間らしい痛みが走った気がした。
「ユイ。あなたはまだ、返事の庭を守っているのね」
「ええ。あなたも守る側だったはず」
「守るだけでは、願いは救えない」
「だから奪うの?」
「奪うのではない。集めるの」
ミライは静かに言った。
「散らばった願い。届かなかった声。叶わなかった祈り。忘れられた約束。それらをもう一度、杯に戻す」
「それは救いじゃない」
「では、返事の庭は救いだった?」
ユイが言葉に詰まる。
その沈黙に、衛二は違和感を覚えた。
返事の庭。
神杯戦争の後、願いの畑が変わったもの。
資料にはそう記されていた。
けれど、その詳細は曖昧だった。
ユイとミライ。
二人はその核心を知っている。
そして今、その過去が月蝕教団の行動と繋がっている。
凛が宝石を構えた。
「感傷に付き合う気はないわ。ミライと言ったわね。投降しなさい。こちらには聞きたいことが山ほどある」
「遠坂凛。あなたは変わらない」
「昔の私を知った口ぶりね」
「記録で知っている。神杯戦争後の冬木に残った人々の一人として」
「なら知っておきなさい。私は家族に手を出されるのが一番嫌いなの」
凛の魔力が跳ね上がる。
宝石が輝く。
空気が震えた。
衛二は思わず息を呑む。
母は強い。
昔から知っていた。
だがこうして戦場で見ると、その強さは圧倒的だった。
魔術師としての完成度。
判断の速さ。
魔力の切れ味。
衛二が規格外の才能を持っているとしても、経験と覚悟の重みはまだ母に届かない。
士郎も静かに投影を始めていた。
両手に干将・莫耶。
父の投影は、衛二のものほど本物に近いわけではない。
だがそこには、数え切れない戦いを越えた者だけが持つ重みがある。
衛二の胸に、尊敬と悔しさが同時に湧いた。
その感情を見透かしたように、アストルフォがそっと衛二の手を握った。
「エイジ」
「……何だ?」
「比べなくていいよ」
「何も言ってない」
「言わなくても分かるってば」
アストルフォは小さく笑う。
「シロウもリンもすごい。でも、エイジもすごい。すごさの形が違うだけ」
「……そうかな」
「そうだよ」
アストルフォは真剣に頷いた。
「だってボクのマスターだもん」
その理屈は雑だ。
でも、衛二には不思議と効いた。
ミライは全員を見回した。
「戦力差、こちらが不利。観測目的は達成」
「逃げる気?」
凛が宝石を握り潰す。
火の魔術が展開される。
しかしミライの足元の影は、すでに転移術式として完成しつつあった。
「遠坂衛二」
ミライは衛二を見た。
「あなたは器ではないと言った。アストルフォは、あなたを人間だと言った」
「それがどうした」
「ならば、次は人間として選びなさい」
ミライの声が、少しだけ低くなる。
「あなたの力で救える願いと、救えない願い。その境界を」
「……」
「月蝕教団は、次の満月に動く。場所は冬木大橋地下霊脈。そこに、神杯の欠片が眠っている」
「なぜそれを教える」
士郎が問う。
ミライは答えなかった。
ただ、ユイを一度だけ見た。
「返事の庭は、まだ返事をしていない」
「ミライ!」
ユイが叫ぶ。
その声が届く前に、影がミライを包み込んだ。
黒い月輪が砕ける。
次の瞬間、ミライの姿は消えていた。
残されたのは、冷たい風と、わずかな黒い羽根のような魔力片だけ。
凛が舌打ちする。
「逃げ足だけは一級品ね」
士郎は周囲を確認し、剣を消した。
「追跡は?」
「無理ね。転移先を三重に偽装してる。しかも霊脈の乱れに紛れ込ませているわ」
ユイはミライが消えた場所を見つめたままだった。
「……ミライ」
その声は、さっきまでの教師のものではなかった。
友人を呼ぶ声。
あるいは、家族に近い誰かを呼ぶ声。
衛二は声をかけるべきか迷った。
だがその前に、凛がこちらへ歩いてきた。
「衛二」
「はい」
「状況説明」
「……長くなる」
「遠坂家のリビングで聞くわ。けどその前に」
凛は衛二の左手を掴んだ。
包帯の下の令呪を確認し、それから腕、肩、顔、足と素早く見ていく。
「本当に怪我はない?」
「ああ」
「精神干渉は?」
「少し受けた。でもアストルフォが戻してくれた」
凛の視線がアストルフォへ移る。
アストルフォは少し胸を張った。
「ちゃんと守ったよ!」
凛はしばらく彼を見た。
そして、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
「でも、衛二を戦闘中に抱きしめてなかった?」
「必要な処置です!」
「必要な処置」
凛の眉がぴくりと動く。
衛二は慌てて割って入った。
「本当に必要だった。精神干渉を切るのに、アストルフォの声がなかったら危なかった」
「……そう」
凛は息を吐いた。
「なら今回は不問にするわ」
「今回は?」
「次回があると思ってるの?」
「いや、ないです」
アストルフォが衛二の後ろで小さく笑っている。
士郎が苦笑しながら近づいてきた。
「アストルフォ。俺からも礼を言う。衛二を支えてくれてありがとう」
「うん! でも、エイジもボクを守ってくれたよ。さっき、影の矢から前に出てくれた」
士郎の目が衛二へ向く。
「そうか」
「勝手に体が動いただけだよ」
「分かる」
士郎は静かに言った。
「そういう時は、考えるより先に動く」
衛二は父の顔を見た。
その言葉には、あまりにも実感がこもっていた。
きっと父も、何度もそうしてきたのだろう。
考えるより先に誰かを庇い、傷つき、悩み、それでも止まれなかった。
「父さん」
「ん?」
「それって、後悔したことある?」
士郎は少しだけ目を細めた。
すぐには答えなかった。
夕暮れの校門。
冷たい風。
壊れかけた結界の残滓。
その中で、父は穏やかに言った。
「あるよ」
衛二は驚いた。
「あるんだ」
「ああ。数え切れないくらいある。助けられなかったことも、選べなかったことも、自分の未熟さも」
「……」
「でも、手を伸ばしたこと自体を後悔したことはない」
士郎は衛二の肩に手を置いた。
「お前が今日、誰かの願いを壊さずに済む方法を選んだなら、それはお前の選択だ。苦しくても、その選択は大事にしていい」
衛二の胸が、静かに熱くなった。
「……うん」
凛が少し離れたところで腕を組む。
「士郎、いい話にしてるところ悪いけど、衛二は今日だけで旧校舎の小型杯を解体して、月蝕教団と戦って、精神干渉まで受けてるのよ。帰ったら説教も必要だから」
「だな」
「父さん、そこで同意するのか」
「心配してるんだ」
「知ってるけど」
衛二はため息をついた。
アストルフォが横から小声で囁く。
「エイジ、説教終わったらぎゅーしてあげるね」
「今言うな」
「頬じゃなくて、おでこのキスも勝ったらって約束だったよ?」
「覚えてたのか」
「ボク、嬉しい約束は絶対忘れない!」
アストルフォの笑顔に、衛二は言葉を失った。
本当に、心臓に悪い。
凛がじろっと二人を見る。
「何を約束したの?」
「何でもない」
「怪しい」
「本当に何でもない」
アストルフォはにこにこしている。
凛は頭を抱えた。
「士郎」
「何だ?」
「うちの息子、サーヴァントに懐かれすぎじゃない?」
「悪いことじゃないだろ」
「限度があるわよ」
そんなやり取りをしている間、ユイはずっと黙っていた。
衛二は彼女の方を向く。
「ユイ先生」
「……ごめんなさい」
ユイは小さく言った。
「私がもっと早く接触していれば、今日の戦闘は避けられたかもしれない」
「それは違います。俺が昼に小型杯を解体したから、向こうが動いたんだと思います」
「それでも、あなたは巻き込まれた」
「もう巻き込まれてます。昨日から」
衛二は左手を見た。
隠していても、そこには令呪がある。
「逃げられないなら、せめて知りたい。月蝕教団のこと。神杯戦争の残響のこと。ミライのことも」
ユイは衛二を見つめた。
「知れば、戻れなくなるかもしれない」
「知らないまま狙われるよりはいいです」
凛が小さく息を吐いた。
「そういうところ、本当に士郎に似たわね」
「母さんにも似てると思うけど」
「私はもう少し賢く立ち回るわよ」
「……本当に?」
「何よ、その間は」
士郎が横で苦笑する。
ユイは少しだけ笑った。
その笑みは寂しげだったが、先ほどよりは人間らしかった。
「分かったわ。遠坂邸で話しましょう。今夜、あなたたちが知るべきことを」
◇
遠坂邸へ戻る道中、アストルフォは霊体化せずに歩きたがった。
もちろんそのままでは一般人に見えてしまう。
凛が認識阻害の魔術をかけ、周囲からは「遠坂家の親戚の子」くらいに見えるようにした。
問題は、アストルフォが遠慮なく衛二の隣にくっつくことだった。
「エイジ、寒くない?」
「大丈夫」
「手、冷たくない?」
「大丈夫」
「じゃあ繋いでいい?」
「どういう流れだ」
「寒いかもしれないから!」
「今、大丈夫って言った」
「でもボクが繋ぎたい!」
結局、本音が出る。
衛二は周囲を見た。
人通りは少ない。
凛と士郎は少し前を歩いている。
ユイは後ろで静かに街を眺めている。
衛二は小さく手を出した。
「少しだけな」
「やった」
アストルフォが嬉しそうに手を握る。
戦闘の後だからか、いつもより少しだけ強く。
「エイジの手、やっぱり落ち着く」
「それはこっちの台詞だ」
「え?」
「……何でもない」
「今の聞き逃さないよ?」
「聞き逃してくれ」
「やだ」
アストルフォは笑いながら、衛二の手を両手で包んだ。
「エイジも、ボクの手で落ち着く?」
「……落ち着く」
小さく答える。
アストルフォの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「ほんと」
「うれしい」
その一言が、妙に胸に響いた。
アストルフォは感情を隠さない。
嬉しい時は嬉しいと言う。
好きな時は好きと言う。
抱きしめたい時は抱きしめたいと言う。
衛二には、それが眩しかった。
自分はいつも少し考えてしまう。
遠坂家次期当主として。
魔術師として。
父と母の息子として。
言葉を選ぶ。
感情を抑える。
大丈夫なふりをする。
でもアストルフォの前では、それが少しずつほどけていく。
「アストルフォ」
「なあに?」
「さっきの……ありがとう」
「どれ?」
「精神干渉の時。戻してくれたこと」
「それは当然だよ。ボクのマスターだもん」
「あと、好きって言ってくれたこと」
アストルフォがぴたりと止まった。
衛二もつられて止まる。
アストルフォは目を丸くして、それから少しずつ頬を染めた。
「エイジ、そういうこと急に言うの、ずるい」
「いつもやってるのはそっちだろ」
「ボクはいいの!」
「理不尽だな」
「だってエイジに言われると、胸がぎゅーってなる」
アストルフォは自分の胸元を押さえる。
「変なの。サーヴァントなのに、心臓がばくばくするみたい」
「……俺も似たようなものだよ」
「ほんと?」
「ああ」
アストルフォはしばらく衛二を見つめていた。
そして、ふわりと笑った。
「じゃあ、おそろいだね」
「何でもおそろいにするな」
「いいじゃん。おそろい、嬉しいもん」
前方から凛の声が飛んできた。
「衛二、アストルフォ。遅れてるわよ」
「今行く!」
衛二は返事をして歩き出す。
アストルフォは手を離さなかった。
衛二も、離せとは言わなかった。
◇
遠坂邸のリビングには、重い空気が満ちていた。
テーブルには凛が用意した簡易結界用の宝石。
士郎が淹れた温かいお茶。
ユイが持参した古い資料。
そして、衛二の左手に刻まれた令呪。
アストルフォは衛二の隣に座っている。
最初は普通に座っていた。
だが五分もしないうちに、少しずつ距離が近づき、今では肩が触れている。
凛は何か言いたそうだったが、戦闘後の衛二の精神状態を考えてか、今回は見逃している。
士郎は静かに口を開いた。
「まず確認したい。月蝕教団について、俺たちが知っている情報は少ない。凛?」
「ええ」
凛は資料を広げた。
「神杯戦争の後、魔術協会は関連資料をほとんど封印した。けれど当然、封印されたものを欲しがる連中はいる。神杯は聖杯より危険なシステムよ。願いを叶えるんじゃない。願いを集積し、世界の側へ押し付ける」
「世界の側へ?」
衛二が聞く。
凛は頷いた。
「普通の願望器なら、願いを叶えるために魔力を消費する。でも神杯は違う。願いそのものを理に変換しようとする。つまり、世界に『こうあるべきだ』と強制する」
「……世界の上書き」
「そう。だから危険なの」
衛二は昼の小型杯を思い出した。
生徒たちの小さな願い。
それらが吸い上げられ、器に詰め込まれていた。
あれが大規模になれば。
街一つ。
国一つ。
あるいは世界そのものを巻き込むかもしれない。
「月蝕教団は、それを再現しようとしてるんですね」
ユイが静かに頷く。
「彼らは、神杯戦争で救われなかった願いを集めている。叶わなかった祈り、失われた声、誰にも届かなかった返事。それを『欠けた月』と呼んでいるわ」
「欠けた月……」
「そして満月の夜、欠けた月を満たす。つまり、新しい神杯を完成させるつもり」
アストルフォが眉をひそめる。
「でも本物の神杯は砕けたんでしょ? どうやって作るの?」
「器が必要なの」
ユイの視線が衛二へ向く。
「神杯の残響に耐えられる器。膨大な願いを受け止め、世界へ接続できる存在」
凛の表情が険しくなる。
「衛二は条件を満たしすぎている。遠坂の霊脈管理権。衛宮士郎由来の投影。五大元素。異常な魔力量。おまけに令呪を持ち、サーヴァントまで召喚している」
「だから狙われる」
「ええ」
凛はきっぱりと言った。
「でも、狙われるからって引き渡す選択肢はない。遠坂家としても、親としてもね」
その声に、衛二は胸が温かくなった。
凛は厳しい。
説教もする。
すぐ怒る。
でも、守ると言う時は絶対に揺らがない。
士郎も同じだった。
「衛二」
「何?」
「お前が戦う必要はない、と言いたいところだけど」
士郎は少し苦笑した。
「言っても聞かないだろうな」
「……ごめん」
「謝ることじゃない。だけど、一人では行くな」
「分かってる」
「本当に?」
凛とアストルフォが同時に言った。
衛二は二人を見る。
「……信用ないな」
「あるわよ。だからこそ心配なの」
「エイジは信用できるけど、エイジの無茶は信用できない!」
「ひどい」
アストルフォは真剣な顔で衛二の手を握った。
「約束したよね。一人で背負わないって」
「ああ」
「怖い時は怖いって言う」
「ああ」
「甘えたい時は甘える」
「それも入ってたか?」
「入ってた!」
「入ってたわね」
なぜか凛が同意した。
衛二は顔を覆いたくなった。
士郎が穏やかに笑う。
「いい約束だと思うぞ」
「父さんまで」
「俺は昔、それが下手だったからな」
士郎の言葉に、凛が少しだけ視線を落とした。
衛二は両親の間に流れる空気を感じた。
かつての戦い。
聖杯戦争。
神杯戦争。
それ以外にも、二人が越えてきた多くの出来事。
自分はまだ、そのすべてを知らない。
でも、少しずつ分かってきた。
強い人たちも、最初から強かったわけではない。
迷って、傷ついて、選んで、それでも立ち続けたから強くなったのだ。
ユイが資料の一枚を取り出した。
「次の満月は三日後。ミライが言った冬木大橋地下霊脈には、神杯戦争時代の封印区画がある」
「三日後……」
「月蝕教団が本当に動くなら、そこが第一の山場になるわ」
凛が腕を組む。
「三日で準備するわよ。衛二の護衛体制を強化する。遠坂邸の結界も組み直す。学校にはユイがいるとはいえ、油断はできない」
「俺も準備する」
衛二が言う。
凛は一瞬、反射的に止めようとした顔をした。
だが、すぐに息を吐く。
「分かった。ただし私か士郎の監督下で。勝手に危険な投影実験をしないこと」
「分かってる」
「ブロークン・ファンタズムの連発も禁止」
「必要なら」
「禁止」
「……はい」
アストルフォが横でくすくす笑う。
「エイジ、リンには勝てないね」
「母さんに勝てる人間の方が少ない」
「何か言った?」
「何も」
凛の視線が鋭くなる。
士郎がお茶を置きながら笑った。
重い話の中に、少しだけ日常が混じる。
その温度に、衛二は救われた。
◇
話し合いが終わる頃には、夜になっていた。
ユイは遠坂邸の客間に泊まることになった。
月蝕教団の動きがある以上、移動を減らした方がいいという凛の判断だった。
士郎は台所へ向かい、夜食を作っている。
凛は地下室で結界の調整。
ユイは資料の整理。
衛二は自室に戻った。
そして当然のように、アストルフォもついてきた。
「エイジ」
「何だ?」
「約束」
アストルフォは扉を閉めるなり、両手を広げた。
「勝ったら、ぎゅーとおでこキス」
「……覚えてるよ」
「やった」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
衛二は少し照れながら、鞄を机に置く。
「先に言っておくけど、長いやつってどれくらいだ」
「エイジが安心するまで」
「曖昧だな」
「じゃあ、ボクが満足するまで」
「もっと危険だ」
「ふふっ」
アストルフォは笑いながら近づいてくる。
衛二はベッドの端に座った。
アストルフォはその前に立ち、少しだけ首を傾げる。
「エイジ、今日も頑張ったね」
「……またそれか」
「何回でも言うよ。頑張ったもん」
アストルフォは衛二を抱きしめた。
昼の旧音楽室。
夕方の校門。
戦闘中の背中。
今日だけで、何度アストルフォに抱きしめられただろう。
それなのに、慣れない。
胸が温かくなる。
呼吸がゆっくりになる。
強張っていた肩の力が抜ける。
「エイジはすごいよ」
「すごくない」
「すごい」
「俺だけじゃ勝てなかった」
「だからすごいんだよ。一人じゃ無理って分かって、ちゃんと一緒に戦った」
アストルフォの手が、衛二の背中を優しく撫でる。
「今日のエイジ、ちゃんとボクを頼ってくれた」
「……そうか?」
「そうだよ。名前呼んでくれた。合わせられるかって聞いてくれた。守ってくれた。ありがとうって言ってくれた」
アストルフォの声が少し柔らかくなる。
「ボク、すごく嬉しかった」
衛二はアストルフォの服を軽く掴んだ。
「俺も」
「うん?」
「アストルフォがいてくれて、よかった」
腕の中で、アストルフォが息を呑んだ。
それから、抱きしめる力が少し強くなる。
「もう一回言って」
「言わない」
「えー」
「さっき言った」
「ボクの宝物にするから、もう一回」
「……アストルフォがいてくれて、よかった」
アストルフォは幸せそうに笑った。
「うん。ボクも、エイジに召喚されてよかった」
衛二は目を閉じた。
戦いは始まったばかりだ。
三日後には、冬木大橋地下霊脈で月蝕教団が動く。
ミライの真意も分からない。
月蝕の巫主という存在も不気味だ。
怖くないと言えば嘘になる。
でも今は、少しだけ甘えていい。
アストルフォがそう言ってくれたから。
「エイジ」
「ん?」
「おでこ、いい?」
衛二は目を開けた。
アストルフォが少し照れた顔で見つめている。
昨日の頬へのキスとは違う。
今度は約束として。
戦いの後のご褒美として。
そして、二人の絆の確認として。
衛二は小さく頷いた。
「……いいよ」
アストルフォは嬉しそうに微笑み、衛二の額にそっと唇を触れさせた。
柔らかい。
温かい。
それは恋人のようで、騎士の誓いのようで、家族の祈りのようでもあった。
衛二の胸の奥に、静かな光が灯る。
「契約、再確認」
アストルフォが囁く。
「ボクはエイジを守る。エイジが怖い時はそばにいる。エイジが無茶する時は一緒に行く。エイジが甘えたい時は、何回でもぎゅーする」
「最後だけ軽いな」
「大事だよ?」
「……大事かもな」
衛二がそう言うと、アストルフォはぱっと笑った。
「でしょ!」
そして今度は、アストルフォが少しだけもじもじした。
「エイジ」
「何?」
「ボクも、甘えていい?」
衛二は目を瞬かせた。
アストルフォはいつも明るい。
甘やかす側で、守る側で、衛二を安心させる側。
でも、彼もサーヴァントである前に、一人の存在なのだ。
嬉しいこともあれば、不安もある。
守りたいと思う分、怖くなることだってあるのかもしれない。
衛二は少しだけ笑った。
「もちろん」
「ほんと?」
「ああ。こっち来て」
衛二が腕を広げると、アストルフォの顔が一気に明るくなった。
彼は飛び込むように衛二へ抱きつく。
「エイジ!」
「うわっ……勢い」
「えへへ」
アストルフォは衛二の胸元に頬を寄せる。
「ボクね、今日ちょっと怖かった」
「……うん」
「エイジが精神干渉された時、遠くに行っちゃいそうで。ボクの声が届かなかったらどうしようって」
衛二はアストルフォの髪にそっと触れた。
桃色の髪は柔らかく、指の間を滑る。
「届いたよ」
「うん」
「ちゃんと戻ってこられた」
「うん」
「アストルフォのおかげだ」
アストルフォは顔を隠すように、衛二の胸に額を押しつけた。
「エイジ、優しい」
「撫でてもいいか?」
「うん」
衛二はアストルフォの髪をゆっくり撫でた。
ぎこちない手つきだった。
誰かを甘やかすことに慣れていない。
自分がされることにも慣れていないのだから当然だ。
でも、アストルフォは幸せそうに目を細めた。
「エイジのなでなで、好き」
「上手くないだろ」
「ううん。あったかい」
「……ならよかった」
しばらく二人はそうしていた。
窓の外では、冬木の夜が静かに広がっている。
遠くの霊脈は不穏に揺れている。
月蝕教団は動いている。
神杯の残響は眠っていない。
それでも、この部屋だけは穏やかだった。
桃色の騎士が、マスターの腕の中で安心したように息をついている。
遠坂衛二は、その温もりを守りたいと思った。
世界のためとか。
遠坂家のためとか。
冬木のためとか。
そういう大きな理由も、きっと必要になる。
でも今、衛二の胸にある一番単純な願いはこれだった。
アストルフォを泣かせたくない。
この笑顔を、消したくない。
「アストルフォ」
「んー?」
「三日後、危険になると思う」
「うん」
「俺はたぶん、また無茶をする」
「そこは否定してほしかったなあ」
「でも、一人では行かない」
衛二はアストルフォの手を握った。
「一緒に来てくれ」
アストルフォは顔を上げた。
その瞳が、夜の部屋の中で星みたいに輝いている。
「もちろん」
アストルフォは笑った。
「ボクはエイジのサーヴァントだから」
そして、少しだけ照れたように付け加える。
「それに……エイジのこと、好きだから」
衛二はその言葉を受け止めた。
逃げずに。
目を逸らさずに。
「俺も好きだよ、アストルフォ」
今度は、ちゃんと言えた。
アストルフォの顔が真っ赤になる。
彼は何かを言おうとして、言えなくて、最後には衛二をぎゅっと抱きしめた。
「エイジ、ずるい!」
「何でだよ」
「そんなの、もっと好きになっちゃう!」
「……なら、いいだろ」
「いい!」
アストルフォは笑った。
衛二も笑った。
甘くて、少し照れくさくて、でも確かな夜。
その頃。
遠坂邸の地下で、凛が結界を組み直していた。
士郎は投影した剣を点検していた。
ユイは古い資料の一文を見つめていた。
――返事の庭は、未だ最後の問いに答えていない。
そして冬木大橋の地下深く。
古い霊脈の底で、砕けた神杯の欠片が微かに脈打った。
黒い月の下、誰かが囁く。
「器は見つかった」
声は闇に溶ける。
「だが器は、まだ自分を人間だと思っている」
別の声が答えた。
「ならば壊せ。人間としての輪郭を。愛も、恐れも、絆も、すべて願いへ変えればいい」
黒い祭壇の上に、欠けた杯が浮かんでいる。
その周囲には、無数の願いの光。
叶わなかった祈り。
届かなかった声。
戻らなかった人。
言えなかった言葉。
それらが蠢き、満月を待っている。
月蝕の巫主は、顔の見えないまま笑った。
「遠坂衛二。君は必ず来る」
黒い杯が震える。
「君は、願いを見捨てられない」
冬木の夜に、鐘の音が鳴った。
それは開戦の予告。
月蝕まで、あと三日。
遠坂衛二とアストルフォの甘い契約は、今、神杯の残響と真正面からぶつかろうとしていた。
コメント
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第三話読んだよ〜!!😭💕 まずアストルフォの「戦闘中だから言うんだよ」からの告白、エモすぎて心臓ぎゅーってなった……!! 衛二も「俺も好きだ」って返してて、あの場面だけでノーベルキュン賞あげたい🎀✨ 両親が来た後の家族感も良かったな。凛ママの説教混じりの心配と、士郎パパの「後悔はあるけど手を伸ばしたこと自体は後悔してない」がじんわり沁みた……。 戦闘描写も熱かったし、衛二が「絆だ」って言い返したシーン、最高でした。続きが待ちきれないよ!! 聖杯さん毎日楽しみにしてます🌸