テラーノベル
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見覚えのない顔だった。
薄っぺらいコートに膝に穴の開いたジーンズ。ショルダーバッグを左の肩にかけ直しながら誰かを探す様子もなく、真っすぐ暖人に向かって進んでいく。その様子に胸騒ぎを覚えた結は足を速めた。
「フリーライターの北見といいます」
声が聞こえるところまで来たとき、男が暖人に名刺を差し出しているところだった。名刺を受け取ろうとしない暖人に男は言う。
「これは名刺です。僕の名前が書かれています。読めませんか? わかりませんか?」
暖人に向ける男の眼差しも薄ら笑いも、どれも背筋が凍るほど不気味なものだった。
「ちょっとお話聞かせてくれませんか」
男は暖人の顔を覗き込むように見て、わざとらしく口を大きく動かして大きな声を出す。その声に暖人は身体を強張らせ、その場で足踏みを繰り返す。すぐさま翠が暖人の前へ進み出た。
「やめてくださいよ」
「ちょっとお話を聞きたいだけですよ。大きなコンクールでグランプリに選ばれたのが自閉症の青年だと世間が知ったら、きっと世間は彼に興味を持つでしょう。世間にもてはやされて画家になれますよ。絵をたくさん描きたいんですよね?」
翠の背に隠れている暖人に向かって男は言う。
そんな持ち上げられ方は、飽きられて忘れ去られるのも速い。暖人の才能を人生を、そんなふうに扱われては困る。暖人の人生はこれから咲くのだから。
「あんた、いい加減にして」
翠の声には怒りに満ちていた。肩を震わせて怯えきっている暖人の手を夏夫が掴んだ。
「帰ろう。こんな人を相手にしなくていい。翠さんも嫌な思いをするだけだ」
「おや?」
男は翠の顏からつま先まで見た。二人の身長はあまり変わらない。翠の顔を真正面から見据えると、この会場にいるすべての人に聞こえるくらいの大きな笑い声をあげた。
「あんた男かよ」
さっきまで和やかな雰囲気に包まれていた会場のあちこちで、さざ波みたいな囁き声が広がり笑い声も聞こえた。無数の視線を感じても翠は表情を変えることなかった。けれど、右手を強く握り締めるのを結は見ていた。
「女みたいに化粧をしてそんな恰好して。いい歳の男のくせに恥ずかしいと思わないのか。気色悪いな」
せせら笑いを浮かべて男は周囲を見回した。
「おかしな連中が集まるところだな。ろくに話もできない、頭のネジが外れた野郎が、いい賞をもらって金もらって。ちやほやされて。そのお友達はオカマちゃんときた。こっちもいいネタになりそうだ、あんた名前は?」
男は翠に向かって、顎をしゃくった。
「何事ですか」
結が男の前に進み出た。
「あんた誰?」
「当ホテル代表の小塚です」
「へえ、こんなお嬢ちゃんが代表とはねえ」
薄気味悪い笑いを浮べて、男は舐めるように結の頭から足先までを見た。男の眼球にはセンサーがついていて、この方法で相手を見ると相手の思考、動向、素性がわかるというのだろうか。ならばきっと男のセンサーはとっくにいかれている。男の顔をじっと見ながら、結は心の中で毒づいてやった。
「そんな怖い顔しないでくださいよ。代表。グランプリを取られた日下部さんの喜びの声を聞きたくて、取材を申し込みに来ただけです。きっといい記事になりますよ。彼はときの人になれる。私がしてみせますよ」
「申し訳ありませんが」
背筋を伸ばして、真っすぐ前を向いて結は言った。
ただ守りたかった。
今の後ろにいるこの人を。
この会場にいる人たちにさせてしまった不快な思いを早く取り除きたかった。
「当ホテルでは、こちらが依頼した方以外の取材はすべてお断りしています」
「なんだと!」
「大きな声を出されては他のお客さまにも迷惑ですので。警備員を呼びますよ」
結は静かに毅然とした態度で言い、入って来たホテルマンに頷き合図を送った。
「こちらの方がお帰りです。お送りして」
「かしこまりました」
扉を開き、ホテルマンが出るように促しても男はしばらく翠を睨み、最後に舌打ちをして出て行った。
扉が閉まると、再び会場に和やかな雰囲気が戻った。
すぐ後ろに翠がいることはわかっていた。
だが、結は振り返り翠の顏を見ることができなかった。
こっちを見ないで。あたしを見ないで。
そんな気配を感じた。だがそれだけではない。あんな場面に遭遇して心無い言葉を浴び、翠は心を深くえぐられ傷ついたはずだ。
ああ可哀想な翠…。
振り向いて翠を見たら、結の顔にそんな表情が浮んでしまいそうで、そんな顔を見せられたら翠はすごく嫌がる。もっと苦しめてしまう。だから結は翠の顏を見ずに、その場から離れた。
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コメント
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うわあ、胸が痛む回だった……。あのライター、ホントにタチ悪すぎるし、翠さんへのあの言葉はマジで許せなかった。でも結さんの「警備員呼びますよ」の毅然とした対応、かっこよかった! 最後に振り返れなかった心情もすごくリアルで、切なくてじんときた。優しさって時々こういう形なんだな。続きが気になる……!🔥