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読了しました。第22話、すごく良かったです。 特に、撮影合宿でカノンがキスシーンに苦しむ姿と、そこにゴイチの電話が割って入る流れが、リアルで切なくて心に残りました。ゴイチが「嫌いになりそう」と漏らす一言、あれは彼の本心がにじみ出ていて胸が熱くなりました。カノンの「それ、ずるい」という返しも、二人の関係性が変わっていく予感がしてドキドキしました。 合宿の空気、八崎さんの不意打ちの演技、「相棒」という言葉では済まなくなった感情——全部が丁寧に絡まっていて、一話としての密度が高いです。続きが気になります!
午後のスタジオは、ダンスリハの合間の空気だった。
音源が一度止まり、メンバーがそれぞれタオルや水を手にして散っている。
鏡の前で髪をかき上げるルイ。
床に座ってペットボトルを開けるタイキ。
アダムは壁際でスマホを見ていて、ゴイチはストレッチをしながらカノンの方をちらっと見ていた。
その時だった。
ヒールの音が、いつものようにテンポよく近づいてくる。
「カノン」
雛子だった。
ジャケットの袖を軽くまくり、片手にはファイル。
もう片方にはスマホ。
目が仕事のそれだ。
カノンはタオルを首にかけたまま振り返る。
「なに、その顔」
雛子が開口一番そう言う。
「普通に休憩してる顔じゃないのよ。あなた最近ずっと、何か考えてる顔してる」
「いきなり怖ぇよ」
「怖くて結構」
雛子はさらっと返して、そのままカノンの前に立つ。
「で、台本見た」
カノンの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
雛子はそこで、ふっと目を細める。
「キスシーンあるわね」
その一言に、近くの空気がほんの少し変わる。
カノンは一瞬だけ固まる。
タオルを握る手に、わずかに力が入った。
「……声、でか」
「でかくしてるの」
雛子は悪びれずに言う。
「切り抜き狙うわよ」
「は?」
あまりにも雛子らしい発言で、カノンは思わず素で聞き返した。
雛子はファイルを胸の前で軽く叩く。
「映画の本編だけじゃないの」
「予告、メイキング、インタビュー、現場コメント」
「全部含めて話題になる設計を考える」
「キスシーンがあるなら、当然そこはフックになる」
ビジネスの眼光だった。
本当に、そういう目をしている。
恋愛だの青春だのの甘さじゃない。
世に出る作品として、どう拡散し、どう認知を取るか、その算段を立てる目。
「グループの名前を世に広めるきっかけにもなるの」
雛子が言う。
「映画を観る層の中には、まだSTARGLOWを深く知らない人もいる」
「でも主演のあなたが話題を取れば、そこからグループへ興味が流れる」
「そういう入口になれる」
カノンは黙って聞いていた。
雛子はそこで少しだけ声のトーンを変える。
仕事の速さはそのまま。
でも、言葉の温度だけが少し柔らかくなった。
「その可能性を広げた貴方は凄いわ」
一拍。
「純粋に、そう思ってる」
その言葉だけは、ビジネスのためじゃなかった。
雛子はちゃんとカノンを見て言っていた。
話題性とか、切り抜きとか、数字とか、そういう全部の前に、ここまで来た本人の力をちゃんと見ている目だった。
カノンの喉が小さく動く。
「……雛子さん…」
「なに」
「そういうの、不意に言わないでよ」
#ご本人様とは一切関係ありません
686
#ご本人様とは一切関係ありません
あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
少しだけ困ったように笑う。
でも、その顔にはたしかに少し救われた色があった。
雛子はふっと口角を上げる。
「褒められるの苦手?そうは見えないけど」
「でも慣れて。これから増えるから」
そう言って、ファイルの端を軽く持ち上げる。
「難易度高…」
「できるから言ってる」
即答だった。
そのやり取りを少し離れたところで聞いていたゴイチが、そこで初めて口を開いた。
「相手役って、もう決まってんのか」
雛子がそちらを見る。
「決まってる」
カノンの肩が、また小さく揺れる。
雛子はファイルを一枚めくった。
「相手役、若手の女優さん」
「この前の配信ドラマで一気に伸びた子」
「透明感あるタイプだけど、ただ可愛いだけじゃなくて芝居もちゃんとしてる」
そう言って、写真付きの資料を軽く掲げる。
カノンは見ている。
見ているけど、どこか視線が定まっていない。
ゴイチは少しだけ前へ来て、その資料を横から覗き込む。
「へぇ」
それが第一声だった。
何でもない声。
でも、その“へぇ”の中には、ちゃんと相手を見た感じがある。
「有名なやつ?」
アダムが横から聞く。
雛子が頷く。
「今ちょうど上がってるところ」
「下手したら、この映画で一気に跳ねる」
「ふーん」
ゴイチはそれ以上大きく反応しない。
でも、資料を見たその数秒だけは、ちょっとだけ真面目な顔をしていた。
相手役。
女優。
恋愛あり。
そしてキスシーン。
そこまで情報が繋がるのに、時間はかからなかった。
ゴイチは資料から目を離して、カノンを見た。
カノンは相変わらずタオルを首にかけたまま、妙に真顔だ。
「なんだよ、その顔」
ゴイチが言う。
カノンは一瞬だけそっちを見て、すぐ視線を逸らした。
「……別に」
「別にの顔じゃねぇだろ」
「うるさい」
「主演の顔しろよ」
それはたぶん励ましのつもりで言った言葉だった。
でも、カノンにはその“主演”の四文字の後ろに、キスシーンまでセットで見えてしまって、胸の中が妙にざわつく。
雛子はそんな空気を気にも留めず、資料を閉じる。
「ま、詳細はまた詰めるわ」
「でも今のうちに慣れときなさい。相手役含め、作品ごと受け止めるの」
それだけ言って、また忙しなく別のスタッフの方へ去っていった。
残されたカノンは、少しだけ息を吐く。
ゴイチは横から軽く言う。
「かわいい系だな」
カノンの心臓が、変な方向に鳴る。
「……何が」
「相手役」
「見りゃわかるだろ」
「いや、普通に」
その“普通に”が、カノンにはやけに引っかかった。
普通に見てる。
普通に受け止めてる。
それが、逆に少し落ち着かない。
「お前、何か言いたいなら言えよ」
カノンが小さく棘を立てる。
ゴイチは一瞬だけ目を瞬かせた。
「いや?」
「別に仕事だろ」
さらっと返す。
その一言に、カノンはまた妙にざわつく。
仕事。
そうだ。
その通りだ。
でも、その通りすぎる言葉をゴイチの口から言われると、何か違うところが勝手に騒ぐ。
「……そうだけど」
ぼそっと返すと、ゴイチは少しだけ首を傾げた。
「何だよ」
「なんでもない」
「最近それ多いな」
その返しに、カノンはもう何も言えなくなった。
⸻
その日の夜寄りの時間。
リハがひと段落して、スタジオの空気も少しゆるんでいた。
他のメンバーは別ブースに行ったり、スタッフと話していたりで、メインフロアの一角が少しだけ空いている。
カノンは壁際に座っていた。
片膝を立てて、台本を開いている。
目の前にはペンと、書き込みだらけになり始めた資料。
周りの音は入っているはずなのに、今はほとんど入っていない。
集中していた。
セリフの温度。
相手との間。
視線の動き。
どこで感情を見せて、どこで飲み込むか。
そういうものを一つずつ、自分の中で試している顔だった。
ゴイチはたまたま、飲み物を取りにその横を通った。
最初は本当に、通り過ぎるだけのつもりだった。
でも、カノンの顔を見た瞬間に足が止まる。
いつものカノンじゃない。
ふざけた笑いもない。
人の反応を読む目でもない。
ただ、紙の上の言葉にまっすぐ向き合っている顔。
それが妙に綺麗で、ゴイチは思わずそのまま見てしまった。
カノンはまだ気づかない。
台本の一節を、口の中だけで何度か反芻している。
声には出さない。
でも、目線と呼吸だけで試しているのがわかる。
ゴイチはそこで、ふっと台本のページを横から見てしまう。
視線が止まったのは、書き込みのある一行だった。
「……好きだよ」
その少し下。
“ヒロインを引き寄せ、キス”
「……おい」
思わず低く声が出る。
カノンがびくっと肩を揺らした。
「うわっ、何だよ!」
慌てて台本を閉じかける。
でも遅い。
ゴイチはすでに見ていた。
カノンの顔が、一瞬で少し赤くなる。
「……覗くなよ」
「いや、見えた」
「見えた、じゃねぇよ」
ゴイチは少しだけ気まずそうに頭を掻いた。
でもその視線は、まだカノンと台本の間を行き来している。
「……もう、そこまで入ってんのか」
その言い方は、本当にただの確認に聞こえた。
でも、カノンにはその一言の重さが変に刺さる。
「入ってるよ」
少しだけぶっきらぼうに返す。
ゴイチは「そっか」とだけ言った。
それだけ。
それだけなのに、カノンは妙に落ち着かない。
見られた。
台本を。
しかも、よりによってそこを。
ゴイチはしばらく黙って、それからカノンの手元を見る。
「書き込み、すげぇな」
話題をずらしたのがわかった。
カノンは少しだけ息を吐く。
「……そりゃ、やるからにはちゃんとやるし」
「うん」
ゴイチは頷く。
「お前、そういうとこすげぇよな」
カノンが顔を上げる。
ゴイチの目は、台本じゃなくカノンを見ていた。
「ふざけてるようで、やる時ちゃんとやる」
静かな声だった。
「だから来たんだろ、こういうの」
その言葉に、カノンの喉が小さく動く。
さっき雛子にも、似たようなことを言われた。
でも、ゴイチからそれを言われるとまた違う。
台本の“キス”の文字でざわついていた胸が、一瞬だけ別の方向に揺れる。
「……何だよ、急に」
カノンは視線を逸らして言う。
「思っただけ」
「そういうの、今言うな」
「何で」
「こっちは忙しいの」
台本を軽く持ち上げて見せると、ゴイチは少しだけ笑った。
「はいはい」
そう言って離れようとする。
でも、一歩分だけ動いたところで、また振り返った。
「カノン」
「ん?」
「ちゃんと観に行くから」
その一言が、やけに静かに落ちる。
カノンは数秒、何も返せなかった。
それから、少しだけ口元をゆるめる。
「……そりゃどうも」
軽く返したつもりだった。
でも声は、思っていたより少しだけやわらかかった。
ゴイチはそれを聞いて、小さく頷いてから今度こそ離れていく。
カノンは閉じかけた台本を、もう一度ゆっくり開く。
ヒロインを引き寄せ、キス。
その文字はまだ少しざわつく。
でも、その少し上に、さっきのゴイチの声が重なる。
ちゃんと観に行くから。
「……ほんと、何なんだよ」
小さく呟きながら、カノンはもう一度台本へ目を落とした。
夢だった仕事が動き始める。
その真ん中で、自分の感情まで動き始めていた。
ある日のスタジオ。
午後の空気は少しだけ緩んでいた。
リハとリハの間。
メンバーはそれぞれ水を飲んだり、ストレッチをしたり、スタッフと軽く話したりしている。
カノンは壁際に座って、映画の資料を軽くめくっていた。
台本の書き込みも少しずつ増えていて、もう“夢みたい”だけじゃ済まない現実の重さがちゃんとそこにある。
そこへ。
コツ、コツ、とヒールの音。
「カノン」
雛子だった。
相変わらず速い。
歩くのも、喋るのも、仕事の進め方も全部速い。
片手に資料、片手にスマホ。
もう次の段取りまで見えてる顔で、スタスタと入ってくる。
カノンは嫌な予感しかしない顔で振り返る。
「なに」
「追撃」
「やめろその言い方」
雛子はそんな抗議を無視して、ファイルを開く。
「冗談。大事な話」
一拍。
「撮影合宿がある」
カノンの動きが止まる。
「……え?」
雛子は淡々と続ける。
「海の近く」
「一週間」
スタジオの空気が、そこでほんの少しだけ変わる。
カノンは本気で真顔になった。
「え?」
今度はさっきより、もっとちゃんとした“え?”だった。
「いや、待って」
「一週間?」
「そう」
雛子はさらりと頷く。
「作品の空気作りも兼ねてる」
「メインキャストで現地入り」
「読み合わせ、テスト、リハ、撮影準備、一気にやる」
カノンは資料を持ったまま固まる。
海の近く。
一週間。
撮影合宿。
主演映画の現実が、また一段階重さを増して落ちてくる。
「……マジか」
小さく漏れる。
そのすぐ近くで、別の低い声が落ちた。
「……は?」
ゴイチだった。
ほんの一言。
でも、その声は明らかに一瞬遅れて出たやつだった。
カノンがそっちを見る。
ゴイチはすぐに自分の顔を戻そうとしている。
でも間に合ってない。
その一瞬の顔を、アダムだけは見逃さなかった。
アダムは少し離れた場所でペットボトルの蓋を閉めながら、ゴイチの横顔を見る。
(あー、これは……)
そう思う。
声を荒げたわけじゃない。
表情が派手に崩れたわけでもない。
でも、今の「……は?」には、ただの驚き以上のものが混じっていた。
雛子は仕事の話を止めない。
「スケジュールは事務所側で詰める」
「もちろんグループの動きとぶつからないように調整はする」
「でも、まとまった拘束が入るのは確実」
「覚悟しときなさい」
カノンはまだ微妙に追いついていない顔で頷いた。
「……うん」
雛子はそこでようやく少しだけ満足そうに息を吐く。
「よし」
「じゃ、また細かいの送る」
そう言って、また次のスタッフの方へ流れていく。
本当に嵐みたいだな、とカノンは思う。
嵐が去ったあと、少しだけ妙な沈黙が落ちる。
カノンはまた渡された資料に視線を落としていた。
少し離れたところでそのやりとりを見ていたゴイチとアダム。
その空気を最初に崩したのはアダムだった。
「一週間、海の近く」
わざとらしく確認みたいに言ってから、ゴイチを見る。
「ゴイチ、なんか言いたげ」
ゴイチはすぐにそっちを向いた。
「は?」
「今の“は?”」
アダムは静かに続ける。
「だいぶ感情あったけど」
ゴイチは一瞬だけ黙る。
でも、その黙り方がすでに図星に近い。
アダムは少しだけ口元を上げた。
でもその目は、ちゃんとゴイチを見ている。
ゴイチは何でもない顔を作って言った。
「せっかくいい話が来てるのに」
「グループとの両立で悩むんじゃないかって、心配なだけ」
それは理屈としては正しい。
正しすぎるくらい正しい。
映画主演。
一週間の撮影合宿。
グループ仕事との調整。
カノンがそこを気にするのは、確かにあり得る。
でも、アダムはその言葉を聞いてもすぐには頷かなかった。
しばらくゴイチを見る。
そのあとで、少しだけ笑う。
「まあ、俺は応援してるよ」
ゴイチが眉を上げる。
「何を」
アダムはそこで、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「両方」
曖昧な返しだった。
でも、その曖昧さの中に何が含まれてるかを、ゴイチは一瞬で理解した。
アダムはそのまま、その場を去ろうとする。
でも。
「アダム」
ゴイチが呼び止めた。
低い声だった。
でも、今までの軽さが消えている。
アダムが振り返る。
ゴイチはそこで、ちゃんとアダムを見る。
「そのジョーク、
カノンの前ではやめてくれよ」
その目が、真剣だった。
本当に真面目な目だった。
茶化しじゃなく。
照れ隠しでもなく。
ただ本気で、それだけはやめてくれと言っている顔。
流石のアダムも、一瞬だけ目を瞬かせる。
(……マジなやつじゃん…)
心の中でそう思う。
ここまで真正面に釘を刺されると思っていなかった。
もっと曖昧に流すと思っていた。
でも今のゴイチは、あまりにもはっきりしている。
アダムは数秒だけ黙ったあと、わずかに頷いた。
「わかった」
その返事は、ちゃんとしたものだった。
それ以上いじらない。
少なくとも今この場では。
ゴイチも、それ以上は何も言わない。
ただ一度だけ目を逸らして、それからいつもの顔に戻る。
カノンはそんな二人のやりとりもつゆ知らず、資料を抱えたままふと、ゴイチに視線を移した。
胸の奥が、妙にざわつく。
一週間の撮影合宿。
海の近く。
主演映画。
グループとの両立。
頭の中にはそれだけでも十分すぎるくらい情報がある。
なのに、今のゴイチの目が、その全部の隙間にやけに残る。
「……何」
ゴイチが気づいて言う。
カノンは一瞬だけ言葉に詰まって、それから首を振った。
「別に」
「最近それ多いな」
「うるさい」
そう返す声は、少しだけいつもの調子に近い。
でも、内側は全然いつも通りじゃなかった。
アダムはその空気を見て、小さく息を吐く。
やっぱりうるさい。
でも、前みたいなうるささじゃない。
ちゃんと何かが動いたあとの空気だ。
それなら、悪くない。
そんなことを思う午後だった。
台本読み合わせ当日。
会議室として使われる大きめのスタジオブースは、いつもの練習場とは空気が違っていた。
長机。
台本。
ペットボトルの水。
監督、助監督、脚本、プロデューサー。
そして、主役と相手役の席。
カノンは、やたら静かな顔でそこに座っていた。
台本はもう何度も読んだ。
書き込みもしてある。
セリフの温度も、間も、自分なりにかなり整理した。
なのに、現場に来るとまた別だった。
“主演です”という空気。
“ここでお前を見ます”という視線。
その全部が、静かに重い。
「顔、死んでるぞ」
後ろから落ちた声に、カノンが少しだけ振り返る。
ゴイチだった。
壁際の見学席。
スタッフに混ざるでもなく、でも完全に部外者でもない顔で立っている。
今日の見学は、たまたまグループの別打ち合わせと時間がかぶったことと、雛子が「ついでに空気だけ見といて」と許可したことで実現していた。
カノンは眉を寄せる。
「うるさいな」
「俳優様なんだろ」
「その言い方やめろ」
「緊張してんのバレバレ」
カノンはそこで少しだけ口を尖らせて、でもそれ以上返せなかった。
図星だったからだ。
その時、会議室の扉が開く。
空気が一段、整う。
「おはようございます」
相手役の女優が入ってきた。
朝倉 澪。
雛子が言っていた通り、透明感のあるタイプだった。
ただ可愛いだけじゃない。
すっと立つだけで目に残る。
でも、現場に入る時の挨拶や資料の持ち方に、変な軽さがない。
カノンは立ち上がる。
「おはようございます。よろしくお願いします」
澪も軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
近くで見ると、画面の中よりずっと落ち着いた目をしていた。
柔らかいのに、役に入る時の芯がありそうな顔。
ゴイチは少し離れた位置からそのやり取りを見る。
相手役。
ちゃんと現実なんだな、と思う。
台本の上の文字じゃなくて。
写真の中の顔でもなくて。
この人と、カノンはこれから物語を作る。
そういう現実が、目の前に立っていた。
「じゃ、始めます」
監督の声で、全員が席につく。
カノンは一度だけ息を吸って、台本を開いた。
読み合わせが始まる。
最初の数ページは、静かな導入だった。
学校。
友人との会話。
笑いの間。
家族との食卓。
カノンの声が、だんだん役の温度になっていく。
最初は少し硬かった。
でも、数シーン進んだところで、その硬さがふっと消える。
軽い台詞は、普段のカノンが持っている間の取り方がそのまま使える。
でも重くなるところで、ちゃんと目の奥に別の色が乗る。
ふざけて見せて、飲み込む。
笑って、誤魔化して、でも本当はちゃんと揺れてる。
そういう役の気配が、読みながら少しずつ立ち上がっていく。
澪もまた、受け方がうまかった。
押しすぎない。
でも引きもしない。
カノンのセリフをちゃんと受けて、返す。
その呼吸が合い始めたところで、室内の空気が変わる。
「……いいね」
脚本家が小さく漏らす。
監督も無言のまま、少しだけ前のめりになる。
ゴイチはそれを見て、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。
カノンが、ちゃんと“主演”の顔になっていく。
あいつ、やっぱりこういう時強ぇな、と思う。
⸻
中盤を越えたあたりで、監督が一度台本を下ろした。
「次のシーン」
少しだけ視線を上げる。
「ここ、座ったままでもいいけど、一回立ってやってみようか」
カノンの指先が、台本の角を少しだけ強く握る。
該当ページは、もうわかっていた。
雨の帰り道。
ずっとすれ違っていた二人の感情がようやく重なる場面。
その流れで入る、キスシーン前の会話。
読み合わせ段階だから、当然まだ本番じゃない。
でも、立って距離を取るだけでも、空気は変わる。
カノンと澪が立ち位置につく。
机の前。
向かい合う。
台本は手に持ったまま。
監督が軽く言う。
「キスそのものまでやらなくていい」
「でも、そこに行くまでの呼吸は見たい」
「“なんでここでこの二人が触れるのか”が大事だから」
カノンは小さく頷く。
「はい」
澪も頷いた。
そこからは、静かだった。
セリフが始まる。
カノンの声が、一段低くなる。
それまでの軽さがすっと落ちて、代わりに飲み込んできたものが表に出る。
澪の返しも、柔らかいのに逃げない。
二人の言葉の間に、ちゃんと雨の匂いみたいなものが生まれていく。
会議室なのに。
ただの読み合わせなのに。
そこだけ、別の空気になる。
カノンは途中で、一度だけ台本から目を上げた。
澪を見る。
その目に、室内の何人かが小さく反応した。
ただセリフを言っている目じゃない。
ちゃんと、役として相手を見ている目だった。
「……もう、遅いんだよ」
カノンが読む。
その台詞は、本来なら大きく言っても成立する。
でもカノンはそうしなかった。
ほとんど落とすみたいに言う。
だから逆に、痛い。
澪の呼吸が少しだけ揺れる。
それも役として、ちゃんと成立して見える。
監督が、無意識みたいに小さく頷く。
最後の数行。
キスへ入る直前の場面。
監督は何も止めない。
脚本も何も言わない。
カノンと澪の距離が、台本一冊分くらいまで近づく。
それだけで、空気がぴんと張る。
キスはしない。
でも、そこへ至る呼吸だけは、はっきり見える。
カノンはその瞬間、余計な動きをしなかった。
格好つけない。
盛りすぎない。
ただ、本当にその距離で止まれなくなった人間みたいに、静かにそこへ立つ。
それが逆に、めちゃくちゃ強かった。
「はい、ストップ」
監督の声が入る。
空気がほどける。
でも、その数秒誰もすぐには喋らなかった。
最初に口を開いたのは脚本家だった。
「……今の、いい」
短い。
でも、かなり本気の声。
監督もすぐに続く。
「カノンくん」
「目がいいね」
カノンが少しだけ瞬きをする。
監督は台本を指で軽く叩きながら言った。
「キスシーンって、触れること自体より、触れる前にもう決まってるんだよ」
「今の、そこが見えた」
澪もそこで小さく笑った。
「やりやすいです」
「ちゃんと来るから、こっちも返しやすい」
その言葉に、カノンはようやく少しだけ息を吐く。
室内の空気が、明らかに変わっていた。
“主演でいいのか様子を見る”から、
“この人で見てみたい”に。
ゴイチは壁際で、その一部始終を見ていた。
すごい、と思う。
本気で。
でも同時に、見ていてしんどいとも思う。
あの距離。
あの目。
あの呼吸。
全部、仕事だ。
わかってる。
わかってるけど、楽ではない。
それでも、最後に残るのはやっぱり誇らしさの方だった。
カノン、ちゃんと持っていったな、と思う。
⸻
現場からの帰り道
読み合わせが終わった時には、カノンは見えるくらいに消耗していた。
緊張の糸が切れたのか、スタジオへ戻ってきた頃には肩が少し落ちている。
でも顔はどこか妙に冴えていて、体力じゃなく神経が削れたんだなと見ればわかる感じだった。
「おかえり」
アダムが言う。
カノンは手をひらひらさせるだけで返す。
「ただいま〜……無理〜……」
そのまま壁に寄りかかる。
雛子は少し離れたところでスタッフと電話していて、カノンを見るなり親指だけ立てた。
どうやら評価は悪くなかったらしい。
でも今のカノンには、それを噛みしめる余裕がない。
しばらくして、グループの練習も終わり、帰り道。
夜の街を、ゴイチとカノンが並んで歩いていた。
カノンは完全に項垂れている。
背中が少し丸い。
歩幅も遅い。
しかも目が死んでる。
「もう……俺、向かい酒してぇ……」
ぼそっと、本気でそう漏らす。
ゴイチは横を見て、即座に言った。
「今日はやめとけ、死ぬぞ」
カノンが少しだけ顔を上げる。
「いや、でもさ……」
「でもも何もねぇよ」
ゴイチは淡々と言う。
「今のお前、酒で整う顔してない」
「整う顔って何」
「屍一歩手前の顔」
「アダムといい、お前といい、最近屍判定厳しくない?」
「事実だからだろ」
カノンはそこで小さく息を吐いた。
夜風が少しだけ気持ちいい。
でも、頭の中はまだ読み合わせの空気を引きずっている。
相手役との距離。
監督の視線。
“目がいい”。
“そこが見えた”。
ちゃんと評価された。
それは嬉しい。
嬉しいはずなのに、神経がずっと張ったままで落ち着かない。
ゴイチが少しだけトーンを落とした。
「撮影入って、合宿中」
「しんどくなったら連絡しろ」
カノンが横目で見る。
ゴイチは前を向いたまま続けた。
「そういう時の相棒だろ」
その言い方が、あまりにも普通で、でもちゃんと効く。
カノンは少しだけ目を細める。
「……便利だな、その言葉」
「でも、便利なんだろ」
「出たよ」
少しだけ笑いが混ざる。
でも、その笑いのあとに残るものは軽くなかった。
ゴイチは本当に、そこで立ってくれるんだなと思う。
読み合わせがしんどかったことも、これから合宿があることも、全部ひっくるめて“しんどくなったら連絡しろ”と言う。
簡単そうで、実はかなり深い。
カノンは少し黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……キスシーンの読み合わせ、どう思った?」
その一言に、ゴイチの足がほんの少しだけ止まりかける。
「……」
返事がない。
夜道に、短い沈黙が落ちる。
ゴイチは前を見たまま思う。
(俺に聞くんじゃねぇ……)
本気で、それだった。
相棒として励ますのはいい。
主演として応援するのもいい。
しんどかったら連絡しろ、も言える。
でも。
キスシーンの読み合わせどう思った、は、今このタイミングで自分に聞く質問じゃないだろと思う。
しかもカノンの声が、ただの確認じゃない。
少しだけ気にしてる。
少しだけ、こっちの反応を見たい声だ。
だから余計に質が悪い。
ゴイチは小さく息を吐いた。
「……まだ読み合わせだろ」
ようやく今出た言葉は、それだった。
カノンが少しだけ顔を上げる。
ゴイチはそこで少し間を置いて、続ける。
「でも」
また間。
「ちゃんと、よかったよ」
その言い方は、軽くもなく、重くしすぎもしない。
ちょうど、今のふたりの距離に合う言い方だった。
カノンはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく「そっか」とだけ返す。
また夜道を歩き出す。
並んだまま。
でも、さっきまでと少しだけ違う沈黙で。
ゴイチは内心でもう一度だけ思う。
(ほんと、俺に聞くなって……)
でも、その“聞くな”の中に、嫌さはあまりなかった。
困る。
面倒だ。
しんどい。
でも、突き放したいわけじゃない。
そういうやつだと、自分でももうわかっていた。
夜の帰り道。
映画の現場も、合宿も、キスシーンも、まだこれからだ。
その全部の手前で、相棒ふたりはまだ、少し不器用に同じ歩幅で歩いていた。
撮影合宿当日。
朝の空気は、少しだけ湿っていた。
快晴ではない。
でも曇りきりでもない。
海の近くで一週間の撮影合宿へ向かう日としては、妙にちょうどいい空だった。
事務所前には、送迎用の車がもう来ている。
大きすぎない黒のワゴン。
荷物が後ろへ積み込まれていて、スタッフがスケジュールを確認している声が小さく飛んでいた。
カノンはスポーツバッグと小さめのキャリーケースを足元に置いて立っていた。
服は動きやすいラフな格好。
でも、今日は少しだけ髪を整えている。
顔も、ちゃんと仕事へ向かう顔だ。
それなのに、胸の奥だけが妙に落ち着かない。
主演映画。
読み合わせは終わった。
相手役とも顔を合わせた。
キスシーンも、現実として台本にある。
ここから先はもう、本当に進むだけだ。
「忘れ物ない?」
雛子がタブレットを見ながら聞く。
「多分ない」
「多分じゃ困る」
「じゃあ、ない」
「最初からそう言いなさい」
雛子はいつも通りの速さでそう言って、次の確認へ視線を移す。
でも、その声色にはちゃんと、送り出す時の少しだけ柔らかいものが混ざっていた。
「現地着いたら連絡」
「夜の読み合わせ前に一回オンラインで表情見せて」
「あと無理はしない。初日から飛ばしすぎないように」
「はいはい」
「返事が軽い」
「緊張してるから」
その返しに、雛子は一瞬だけカノンを見た。
それから、ふっと少しだけ口元を上げる。
「それでいいのよ」
「緊張しない方が怖いわ」
その言葉が、少しだけ胸を楽にした。
その時だった。
後ろから足音がして、カノンが振り返る。
ゴイチが来た。
いつものキャップ。
いつもの、あまり気負ってない顔。
でも、来るだろうなと思っていた自分も、ちゃんといた。
「おう」
低く、短い声。
カノンは少しだけ目を細める。
「来たんだ」
「見送りくらい来るだろ」
その言い方が何でもなさすぎて、カノンは少しだけ笑う。
「相棒だから?」
「便利な言葉だろ」
即答だった。
それがあまりにもいつも通りで、逆に少しだけ助かる。
ゴイチは片手に持っていた小さな紙袋を、カノンに差し出した。
「これ」
「何?」
受け取ると、中には個包装ののど飴と、ゼリー飲料、それから小さい酔い止めみたいなものが入っていた。
カノンが一瞬だけ固まる。
「……なにこれ」
「移動長いって聞いたから」
「あと、お前たぶん現地入ってから食うの雑になるだろ」
「母親?」
「違う」
「過保護」
「それも違う」
カノンは紙袋の中を見たまま、少しだけ口元を緩める。
こういうのだ。
大げさな励ましじゃなくて。
ちゃんと見てる感じだけ置いていくやつ。
「ありがと」
今度はちゃんと言えた。
ゴイチは「おう」とだけ返して、それ以上は何も言わない。
雛子が少し離れたところで「乗るわよー」と声をかける。
スタッフも動き始める。
もう行く時間だった。
カノンは荷物の持ち手を引いた。
でも、その前に一度だけゴイチを見る。
言いたいことは、少しある。
不安とか。
緊張とか。
キスシーンとか。
相手役とか。
一週間いなくなることとか。
でも全部をそのまま言葉にするほど、まだ自分は素直じゃない。
だから少しだけ遠回しに言った。
「……しんどくなったら、連絡していい?」
ゴイチは一瞬も迷わなかった。
「しろよ」
短く、低く。
「そういう時の相棒だろ」
その一言が、ちゃんと落ちる。
カノンの喉が少しだけ動く。
「……うん」
本当はもっと何か言いたかった。
でも、今はそれで充分な気もした。
雛子がもう一度「カノン!」と呼ぶ。
「はいはい、行きますよー」
わざと少し軽いトーンで返して、カノンは荷物を引いた。
車のドアの前で、最後にもう一度だけ振り返る。
ゴイチはその場に立ったまま、何でもない顔で片手を上げた。
大げさに振らない。
引き留めもしない。
でも、ちゃんと見送る手。
カノンはそれを見て、少しだけ笑った。
「じゃ、行ってくる」
「おう」
「ちゃんとスタジオ回しとけよ」
「お前いない方が静かでやりやすいかもな」
「感じ悪っ」
そう言いながらも、最後のやり取りがそれでよかったと思う。
湿っぽくない。
でも、ちゃんと残る。
カノンは車に乗り込む。
ドアが閉まる。
窓越しに、ゴイチの顔が見える。
少し遠くなったその顔を見ながら、カノンは小さく息を吐いた。
一週間。
長いようで、たぶんあっという間だ。
でも、その“あっという間”の中に、自分の夢が本格的に動き出す。
車がゆっくり発進する。
ゴイチの姿が少しずつ離れていく。
カノンは窓の外を見たまま、心の中で小さく呟いた。
(……ちゃんと、行ってくる)
車が見えなくなっても、ゴイチはしばらくその場を動かなかった。
雛子はすでに次の電話に入っていて、スタッフも散っていく。
朝の事務所前は、あっという間にいつもの忙しさへ戻っていく。
でもゴイチだけ、少しだけそこに取り残されたみたいだった。
一週間。
たった一週間。
されど、一週間。
しかも、海の近く。
相手役と。
撮影合宿。
そこまで考えて、ゴイチは小さく息を吐く。
「……長ぇな」
誰にも聞こえない声でそう言ってから、ようやく踵を返した。
その日のスタジオは、入った瞬間から少し違った。
音はある。
スタッフの声もある。
ルイもタイキもアダムもいる。
ゴイチも、もちろんいる。
なのに。
「……静か」
最初に言ったのはタイキだった。
鏡の前で軽く肩を回しながら、スタジオを見渡してぽつりと溢す。
ルイがペットボトルの蓋を開けながら返す。
「うるさいやついねぇからな」
その返しはいつも通り少しぶっきらぼうだった。
でも、少しだけ物足りなさも混ざっている。
アダムは壁際でそれを聞いて、小さく頷く。
「カノンの声、意外と空間埋めてるから」
「意外とって何だよ」
タイキが言う。
「だいぶだろ」
「ツッコミも笑いも、あいつ一人で二割くらい回してる」
「二割で済む?」
アダムが静かに返す。
「三割はある」
そこで、ゴイチが少しだけ口元を動かした。
「盛りすぎだろ」
でも、その声にも少しだけ空白があった。
ルイはその横顔をちらっと見てから、水を一口飲む。
「お前がいちばん静かじゃねぇ?」
その一言に、ゴイチが目を向ける。
「は?」
「朝から」
ルイは淡々と言う。
「お前もいつもより喋ってねぇ」
タイキがそれに乗る。
「あー、わかる」
「さっきからリアクション薄い」
ゴイチは少しだけ眉を寄せた。
「普通だろ」
「普通を装ってる感がある」
アダムが静かに落とす。
ゴイチがそっちを見る。
「お前らさ」
「何」
タイキが笑う。
「図星?」
「うるせぇよ」
そう返すけど、完全に否定しきれていない。
カノンがいないスタジオは、たしかに静かだった。
でも単純に音量の問題だけじゃない。
誰かがボケた時、すぐに拾うやつがいない。
空気が少し変わった時、先に笑いへ持っていくやつがいない。
メンバーのちょっとした顔色を見て、軽口ひとつで温度を整えるやつがいない。
それが、想像していたより大きい。
リハが始まっても、その不在はじわじわ出た。
立ち位置の確認。
フォーメーション。
合間の待ち時間。
誰かが少しミスをしても、いつもならカノンが何かしらひと言入れて場を柔らかくする。
でも今日は、その一拍が空く。
タイキが何か言おうとして、少し遅れる。
ルイが口を開いて、いつもよりちょっと真面目な空気のまま終わる。
アダムはそれを見ながら、静かに修正を入れる。
ゴイチは何度か無意識に、カノンがいつも立ってる辺りへ目をやってしまう。
誰もいない。
そこに空白があるだけなのに、やけにはっきり見える。
休憩に入った時、タイキが床に座り込んで言う。
「なんかさ」
「ん」
アダムが顔を上げる。
「いないだけで、こんな違うんだな」
ルイがタオルで首元を拭きながら言う。
「いる時はうるせぇのにな」
「でもいないとうるさくない」
タイキが言う。
「うるさくないのに、なんか足りない」
アダムはその言葉に少しだけ目を細めた。
「まあ」
小さく言う。
「そういう人間が一人いると、グループって強いから」
それは、かなり正確な言葉だった。
ゴイチは壁にもたれたまま、スマホを一回だけ見る。
新しい通知はない。
まだ合宿に着いたばかりの時間だろうし、連絡がないのは普通だ。
わかってる。
でも、見てしまう。
その動きを、アダムだけは見ていた。
何も言わず、少しだけ口元を上げる。
(やっぱり、長いんだろうな)
たった一週間。
でも、今のゴイチにとっては意外と長い。
その日のスタジオは、最後まで少しだけ静かだった。
悪いわけじゃない。
空気が重いわけでもない。
でも、いつもの賑やかな引っかかりが一つ抜けている感じ。
タイキが最後のストレッチをしながらぽつりと言う。
「帰ってきたら、たぶんめちゃくちゃうるさいんだろうな」
ルイが小さく笑う。
「合宿の話、延々するだろうな」
「絶対する」
アダムが言う。
「しかも細かい」
ゴイチはその会話を聞きながら、ほんの少しだけ目を伏せた。
帰ってきたら。
その言葉が、妙にしっくりくる。
一週間後。
またこのスタジオにカノンが戻ってくる。
映画の空気を少しまとって。
でもたぶん、いつもの軽口も持ったまま。
その時、自分がどんな顔をするのかはまだわからない。
でもひとつだけ確かなのは。
今日のこの静かなスタジオは、
カノンがちゃんとそこにいた人間だったことを、思っていたよりずっとはっきり教えてくる、ということだった。
海沿いのロケ地は、思っていたよりずっと風が強かった。
潮の匂いを含んだ冷たい風が、衣装の裾を揺らす。
空は明るいのに、体感だけが妙に低い。
そのせいなのか、さっきから肩に入った力が全然抜けない。
「……どーしよ……」
小さく落とした声は、海風にさらわれるみたいに薄く消えた。
カノンはその場で少しだけ肩を落とし、項垂れる。
手にはもう何度も開いた台本。
指先が端を撫でるたび、紙が少しだけよれているのがわかった。
(これ、何テイク目……)
数えていない。
いや、数えたくなくなった、が正しい。
読み合わせの時は、うまくいっていたはずだった。
相手役との距離感も、台詞の温度も、監督の求める空気も、ちゃんと手の届くところにあった。
イメトレだってした。
海辺の風も、目線の流れも、キスへ至る呼吸も、自分の中ではかなり整理できていた。
なのに。
実際にカメラが回って、スタッフの視線が集まって、光が当たって、相手の顔が目の前まで来た瞬間。
どうしても、何かが微妙に噛み合わない。
動きはできる。
セリフも出る。
距離も詰められる。
でも、監督が欲しがっている“その瞬間しか出ない絵”に、どうしても届かない。
「カノンくん! 無理しないで! 撮影本番はこんなもんだから!」
少し離れた場所から監督の声が飛ぶ。
振り返ると、モニター前で監督が大きく手を上げていた。
表情は明るい。
責める感じは全然ない。
むしろ、こっちが落ち込むのを先回りして止めるみたいな笑い方だった。
「とりあえず、ここのカットは別日に調整しよう!」
監督が親指を立てて、グッドポーズを見せる。
周りのスタッフも、それに合わせるように空気を柔らかくする。
相手役の女優も「大丈夫だよ」と目で言うように少し笑ってくれた。
ヘアメイクも、助監督も、誰もピリつかない。
むしろ現場は、びっくりするくらい優しい。
それが余計に、カノンには痛かった。
(俺は一体、何をやってるんだ……)
下手なわけじゃない。
そう言われた。
監督も、脚本も、共演者も、そこは否定しない。
でも、だからこそ苦しい。
“できてない”んじゃなくて、
“もっといいはずなのに、届いてない”
その感じだけがずっと喉の奥に引っかかる。
例のキスシーン。
まさに、そこだった。
台本上でも大事な場面。
予告に使われてもおかしくない、感情のピークの一つ。
だからこそ、カノン自身もただ流れで済ませたくなかった。
ちゃんと、息を止めたくなる絵にしたかった。
ちゃんと、“この二人だからここで触れる”って伝わる瞬間にしたかった。
なのに、自分の中で何かがうまく繋がらない。
(読み合わせとイメトレは完璧だったんだけどな……)
小さく息を吐く。
海風がやけに冷たい。
首元に入り込む風が、さっきまで熱くなっていた頭を冷やすようで、でもそれすら気休めにしかならない。
次の撮影準備が始まっている。
スタッフが位置を直し、照明が動き、別カットの段取りが進む。
カノンは少し離れた場所に立って、その様子をぼんやり眺めた。
今は自分の出番じゃない。
でも、現場から気持ちだけ切り離すこともできない。
他キャストが笑いながら立ち位置を合わせている。
監督がまた明るい声で「いいね」と言っている。
その全部が視界に入るのに、自分の中だけが少し置いていかれているみたいだった。
「カノン」
横から声をかけられる。
振り向くと、八崎がいた。
八崎 尚(やざき なお)
主要キャストの一人。
カノン演じる主人公の親友役で、作中ではいわゆる“親友ポジション”。
現場でも距離の詰め方が上手くて、気遣いも軽すぎず重すぎず、ちょうどいいやつだった。
「八崎君、おつかれさまです」
カノンが軽く会釈する。
八崎は片手を上げて応えながら、少しだけ笑った。
「カノンこそ、おつかれ」
「悩んでるなー、例のシーン」
ククッと笑う声音は、からかっているというより、図星を柔らかく言い当てる感じだった。
カノンは少し困ったように頬をかく。
「いやぁ……」
「考えすぎなのかなぁ」
自分でもわかってる。
考えすぎてる。
考えなくていいところまで考えてる。
でも、その“考えすぎ”を一言で片付けられるほど、自分の中では軽くない。
「なんかイメージが形にならなくて……」
「いい絵を高望みしすぎなのかも」
そう言ってから、自分で少しだけ苦く笑う。
高望み。
でも、それくらいの欲がなければ主演なんてやれないことも、もうわかっていた。
八崎は顎を少しだけ上げて、ふっと笑う。
「まぁ、大事なの、そのシーンだけじゃないし」
海の向こうを一瞬だけ見てから、またカノンへ視線を戻す。
「他カットもやってりゃ、ちょっとは気分転換になるんじゃないの」
その言い方は軽い。
でも、軽いだけじゃない。
“今その一場面に潰されなくていい”と、ちゃんと引っ張ってくれる言い方だった。
カノンは小さく息を吐いた。
「……そうかも」
「そうだよ」
八崎は即答する。
「明日の撮影、俺らのシーンだし」
「飯の後にでも読み合わせしようぜ」
その言葉に、カノンが少しだけ顔を上げる。
「いいの?」
「いいも何も、こっちも助かるし」
八崎は肩をすくめる。
「お前、相手役とのシーンはちょっと気負いすぎてる感じあるから」
「別のテンポで一回流した方が、逆にほどけるかもしれないし」
あまりにも的確で、カノンは少し笑ってしまう。
「言うね」
「親友役なんで」
さらっと言って、八崎は手に持っていた紙コップを差し出した。
温かいお茶だった。
湯気が細く立っている。
「ほら」
「せめてあったまれ」
カノンはそれを受け取る。
紙コップ越しの熱が、冷えた指先にじんわり広がる。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
八崎はそう言って、また現場の方へ顎をしゃくった。
「主演、顔戻してこい」
「次のカットでまた監督に“目がいい”って言わせろ」
その言い方に、カノンは少しだけ目を細める。
さっきまで重く沈んでいたものが、ほんの少しだけ持ち上がるのを感じた。
「……プレッシャーかけるなぁ」
「かけてない」
「期待してるだけ」
そう言って八崎は笑う。
カノンは温かいお茶を胸元で持ったまま、海の方へ一度だけ視線を向けた。
風はまだ冷たい。
でも、さっきよりは少しだけましだった。
大丈夫じゃない。
でも、終わってもいない。
まだこれから、作れる。
その感じが、ようやく少しだけ自分の中に戻ってきていた。
夕食を食べ終えた食堂には、少しだけ気の抜けた空気が流れていた。
撮影を終えたキャスト。
スタッフ。
マネージャー。
それぞれがトレーを下げて、食後のお茶を飲んだり、明日の段取りを軽く話したりしている。
にぎやかではある。
でも、昼間の撮影現場みたいな張り詰め方じゃない。
どこか「今日も一日終わったな」という、ゆるい疲労感が全体を包んでいた。
カノンは食堂の隅の席で、湯呑みに入ったお茶を持ちながら小さく息を吐く。
ゴイチには、どこかのタイミングで連絡しようと思っていた。
思っていた、けど。
環境がなかなかそうはさせてくれない。
この合宿に入ってからずっとそうだ。
キャストもスタッフも、今のうちにコミュニケーションを取ろうという空気があって、食事の場でスマホを見る人がほとんどいない。
見ようと思えば見れる。
でも、なんとなくそれをする空気じゃない。
現場の空気を良くするための、大事な時間なのもわかる。
わかるけど。
(……寝る前か)
それがいちばん現実的だろうな、とカノンは思った。
部屋に戻って、ようやく一息ついて。
その時にでも、ゴイチへ短く送るか。
今日、キスシーンうまくいかなかった。
だるい。
向かい酒したい。
そんな、いつもの軽口みたいな文面で。
そこまで考えた時。
「よっ、カノン」
肩をぽん、と叩かれて、カノンは顔を上げた。
八崎だった。
「あ、おつかれさま」
もう彼には、ほとんど敬語を使っていない。
最初こそ距離があったけど、数日一緒に撮影しているうちに、自然とそれくらいの距離になっていた。
八崎はそのまま、食堂の椅子を引いた。
「このまま、ここで明日の話すっか」
カノンの隣へ、何でもない顔で座る。
笑顔は相変わらず爽やかだ。
八崎の年齢は自分より少し上。
でも、顔立ちが幼く見えるから、劇中で学生服を着ていても全然違和感がない。
それどころか、自然すぎて腹が立つくらいだった。
「うん、そうだね」
カノンが頷くと、八崎はトレーに残っていた紙コップを少し脇へ寄せて、気楽な調子で言った。
「カノンってさ、マジで初めてなの? 芝居」
「初めてってほどじゃないよ」
カノンは湯呑みを持ったまま言う。
「昔、少しだけやってたんだ。舞台系とか」
「へぇ〜!」
八崎が目を丸くする。
「だからか」
「いや、新人にしては芝居っぽさが無いよなって思ってたからさ」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
軽く笑いながら返してくる。
他愛もない会話が、ふたりの間にぽんぽんと続く。
現場での小ネタ。
監督の口癖。
今日の撮影で誰がいちばん噛んだか。
そういう、食後のゆるい話。
八崎は子役時代から芸能界にいる。
だからか、場慣れがすごい。
落ち着いているし、何より焦らない。
(見習わないとな〜……)
カノンはそんなことをぼんやり思う。
今日、自分がキスシーンで詰まったのも、結局その“焦り”が邪魔してる気がしていたからだ。
そうして少しだけ肩の力が抜けかけた頃。
「読み合わせするか」
ぽつりと、八崎の声が落ちてきた。
カノンは顔を上げる。
「あ、うん。そうだね」
このまま食堂で軽く台詞合わせをするのは、別に不自然な流れじゃない。
実際、他のテーブルでも似たようなことは行われている。
だからカノンも、何の疑いもなく台本を開きかけた。
その流れのまま、八崎が言う。
「ついでにキスシーンの練習、
俺が付き合おうか?」
「え……」
カノンの手が止まる。
八崎を見る。
一拍。
二拍。
(えぇーーー!?)
心の声が、頭の中で思いきりこだました。
八崎は頬を軽く掻きながら、さらっと続ける。
「こういうシーンって、練習して慣れた方が芝居を自分でコントロールできるし」
「まあ、自論だけど」
食堂の人が、気づけばだいぶ少なくなっていた。
食事を終えたスタッフたちは先に席を立っていて、今残っているのは数人だけ。
しかも、その視線もそれぞれの会話に向いていて、こっちをそこまで気にしている感じはない。
なのにカノンの中だけ、急に空気が濃くなる。
「え、あ……うーん、そうだな……」
スッと、カノンは八崎から目を逸らした。
(やばい、何て答えたら良いんだ……)
断るのも変かもしれない。
でも、今の自分にこれを受ける余裕があるとも思えない。
それに、何より。
今日の本番でうまくいかなかったばかりのそのシーンを、食後のこの流れで急に練習と言われても、心の準備ができていない。
「キス、もしかしてはじめて?」
八崎の声のトーンが変わる。
カノンの背筋が、ぴく、と揺れた。
その声音は、さっきまでの八崎本人のものじゃなかった。
芝居の時の声だ。
空気の含み方。
言葉の落とし方。
距離の詰め方。
一瞬で、役に切り替わっている。
(まさか、この人……)
(芝居で俺のこと試してる……)
そう気づいた瞬間、逆に身体が固まる。
「えっと……」
咄嗟の台詞が、出ない。
不意打ちで役に入られると、まだ自分は遅れる。
「あんまり、そういう 反応はよろしくないな」
八崎が、スッとカノンの顔を覗き込む。
距離が近い。
思わずカノンの目が見開く。
「キス、したくなる顔」
完全に、八崎は芝居に入っていた。
しかも、本気だ。
遊びじゃない。
ふざけ半分でもない。
“この距離まで来た時、お前はどうする?”をその場で突きつけてきている。
(ぎゃーーー!! どうすんだこれーー!!)
カノンの脳内で、盛大に警報が鳴る。
逃げたら芝居にならない。
でも、受けたら今度はこっちの心臓が死ぬ。
八崎がさらに、ほんの少しだけ顔を寄せようとした、その瞬間。
ブーブーブー
カノンの膝の上に置いていたスマホが、強めのバイブ音を鳴らして震えた。
食堂の静けさの中で、その振動音だけが妙にはっきり響く。
カノンは反射みたいに画面を見る。
着信――ゴイチ。
見た瞬間、迷いもなく手が伸びた。
まるで、助け舟みたいに。
「ご、ごめん」
そう言いながら、もう出ている。
スマホを耳に当てた、その瞬間。
八崎が、役の空気を引きずったまま言う。
「カノン。まだ途中だろ……」
その言い方が、芝居の余韻のせいでやけに甘い。
電話越しに、その声ははっきりゴイチの耳にも届いた。
ゴイチの眉がぴくっと動く。
カノンは一気に現実へ引き戻された。
「あっ、八崎君ごめん、大事な電話で」
そう言って、椅子を引いて立ち上がる。
「ちょっと外、出る」
八崎は数秒だけカノンを見たあと、ふっと芝居の顔を解いた。
「ん、了解」
さっきまでの役の空気がすっと消えて、またいつもの爽やかな八崎に戻る。何でもない顔でお茶を飲んでいた。
それが逆に怖いな、とカノンは一瞬思った。
でも今はそれどころじゃない。
カノンはスマホを耳に当てたまま、食堂の外へ出る。
夜の廊下はひんやりしていた。
食堂の熱気が背後に遠ざかる。
ドアが閉まった瞬間、ようやくカノンは小さく息を吐いた。
けど。
電話の向こうの沈黙が、妙に怖かった。
食堂の扉が閉まる。
中のざわめきが一枚向こうに遠ざかって、廊下の空気だけがひんやりと肌に触れた。
カノンはスマホを耳に当てたまま、小さく息を吐く。
さっきまでの芝居の空気が、まだ身体に残っている。
八崎の声。
近づいてきた顔。
役の温度のまま落ちた、あの言い方。
“カノン。まだ途中だろ……”
電話の向こうで、数秒だけ沈黙が落ちた。
その沈黙が妙に長くて、カノンは思わず廊下の壁に背中を預ける。
「……もしもし?」
ようやく小さく言う。
それでもすぐには返事がない。
少し遅れて、低い声が落ちた。
「さっきの、男か?」
カノンの喉が小さく鳴る。
その一言が、思っていたより真っ直ぐだったからだ。
「……うん」
少しだけ間。
「八崎君」
ゴイチの側で、また短い沈黙が入る。
「八崎ってやつ」
確認するみたいな言い方だった。
「そう」
カノンは頷いてから、電話だと思い出してすぐに言い直す。
「俺の親友役の人」
「ふーん」
短い返事。
でも、その“ふーん”には、情報を受け取って終わった感じがなかった。
カノンは自分の前髪をかき上げる。
ここで誤魔化すのも違う気がした。
というか、今のゴイチの声を聞いた瞬間に、なんとなくちゃんと話した方がいいと思ってしまった。
「……今日さ」
カノンが少しだけ声を落とす。
「例のシーン、また上手くいかなくて」
ゴイチは何も言わない。
でも、ちゃんと聞いている沈黙だった。
カノンはそのまま続ける。
「読み合わせの時は、いけると思ってたんだけど」
「実際カメラ回ると、なんか……思ってる絵にならなくて」
「監督も責めてるわけじゃないし、むしろ優しいんだけど」
「それが逆に、ちょっとキツくて」
自分でも、思っていたより素直に話しているとわかる。
でも今は、そういうふうにしか言えなかった。
「で、さっき八崎君と明日の読み合わせの話してて」
カノンは廊下の先をぼんやり見たまま言う。
「ついでに、キスシーンの練習、俺が付き合おうかって言われた」
言った瞬間、電話の向こうの空気がほんの少しだけ変わった気がした。
本当に小さく。
でも、確かに。
ゴイチはすぐには返さない。
その間が、逆にじわじわ来る。
「……理にはかなってるんだよ」
カノンが先に言い足した。
「こういうシーンって、慣れた方が芝居を自分でコントロールできるって」
「まあ、自論とは言ってたけど」
「実際、俺が今日うまくいかなかったのって、そこの呼吸で詰まってる感じあるし」
口に出しながら、自分でもわかる。
八崎が言ってることは、たしかに間違ってない。
現場慣れしている人間の考えとして、すごく自然だ。
だから余計に、困る。
「……で?」
やっとゴイチが言った。
低い声。
「で、って?」
「お前、どうしたいんだよ」
その聞き方に、カノンは一瞬言葉を失う。
どうしたい。
それがいちばんわからないから、こうして電話してるんじゃないかと思った。
「……まだ、わかんない」
素直にそう出る。
「断るのも変かなって思うし」
「でも、そのまま流れで乗るのも、なんか違う気もするし」
そこまで言ってから、カノンは少しだけ目を伏せた。
「……で」
小さく続ける。
「お前に、聞こうと思った」
ゴイチの呼吸が、電話越しにほんの少しだけ揺れた気がした。
でも返ってきた声は、すぐには熱を見せなかった。
「仕事なら、理屈は合ってるんだろ」
カノンの胸が少しだけきゅっとする。
たぶん、そう返されると思っていた。
ゴイチはそういうところで妙にまともだ。
感情でだけ物を言わない。
でも、今ちょっとだけ欲しかったのは、その“まとも”以外だったのかもしれない。
「……うん」
カノンは小さく返す。
「俺も、そう思う」
「ただ」
ゴイチの声が少しだけ低くなる。
カノンが黙る。
「お前がしんどいなら、無理してまで付き合う必要はねぇだろ」
その一言に、カノンの目が少しだけ揺れる。
「……ゴイチ」
「何」
「それ、断れってこと?」
聞いた瞬間、自分で少しだけ後悔する。
その聞き方は、たぶんずるい。
でも、聞かずにいられなかった。
ゴイチはすぐには答えない。
数秒、沈黙。
それから、小さく息を吐く音がした。
「はっきりは言えねぇよ」
まっすぐな返事だった。
「お前の仕事だし」
「俺が口出すことじゃねぇ」
その通りだ。
その通りすぎて、カノンは逆に少しだけ苦しくなる。
「でも」
ゴイチが続ける。
「八崎ってやつ」
カノンの呼吸が止まりかける。
「お前に近づきすぎたら」
一拍。
「俺、嫌いになりそうだけどな」
その言葉が、静かに落ちた。
カノンは壁に背中をつけたまま、完全に固まる。
耳元のスマホが急に熱く感じた。
「……え」
やっと出たのは、それだけだった。
嫌いになる。
何を。
誰を。
どういう意味で。
頭の中で一気にいくつもの解釈が走る。
ゴイチの声は静かだった。
怒ってるわけじゃない。
責めてるわけでもない。
むしろ、できるだけ平らな顔で言った言葉みたいに聞こえる。
それが余計に、変に刺さる。
「……それ」
カノンの声が少し掠れる。
「八崎君のこと?」
「他に誰がいんだよ」
そう返してから、ゴイチは一拍置いた。
「お前が今ぐちゃぐちゃな時に」
「理屈だけで、その距離まで来るやつならって意味」
その補足があることで、余計にわからなくなる。
嫉妬なのか。
保護なのか。
相棒としての心配なのか。
それとも、その全部が少しずつ混ざってるのか。
カノンは下唇を軽く噛む。
「……でも、八崎君悪い人じゃない」
思わず、そう言ってしまう。
ゴイチの眉が、電話の向こうでたぶん少しだけ動いた。
「肩持つんだな」
その一言に、カノンははっとする。
違う。
肩を持ちたいわけじゃない。
ただ、理にかなってると思ったから。
この世界のやり方として、間違ってないと思ったから。
そう言いたいだけだったのに。
「いや、そうじゃなくて」
「わかってる」
ゴイチがすぐに言う。
でもその“わかってる”の声は、少しだけ乾いていた。
カノンはその音を聞いて、余計に焦る。
「俺、まだ答えてないし」
「乗るとも断るとも言ってない」
「だから別に、その……」
自分でも何を弁解してるのかわからなくなる。
八崎を庇いたいわけじゃない。
でも、ゴイチに変に誤解されたくもない。
その両方を一気にやろうとして、余計に言葉が散らかる。
ゴイチは少し黙ってから、低く言った。
「……なら、まだ決めんな」
カノンが息を止める。
「今日のうちに無理して答えるな」
「しんどい時の判断、ろくなことになんねぇから」
その言い方は、かなりゴイチだった。
感情を全部見せない。
でも、ちゃんと止めるところでは止める。
それでもカノンの胸の中には、さっきの一言がまだ強く残っている。
俺、嫌いになりそうだけどな。
それが、どうしても消えない。
「……お前さ」
カノンが小さく言う。
「ん?」
「それ、ずるい」
電話の向こうで、ゴイチが少しだけ息を止めた気配がした。
「何が」
「今の言い方」
カノンは目を閉じる。
廊下は静かだ。
食堂の気配も、もうだいぶ遠くなっている。
「断れとは言わないくせに」
「そういうこと言うの」
少し間。
「……困る」
その“困る”は、本音だった。
ゴイチはそれにすぐ返せない。
本当は自分でもわかってる。
今のは、相棒の範囲ぎりぎりだった。
いや、たぶん少しだけ越えていた。
でも、断れとも言えない。
仕事だから。
カノンの夢の方にある話だから。
自分の感情だけで、そこに手を出したくない。
だから中途半端になる。
「悪い」
ぽつりと落ちる。
カノンはその謝り方に、余計に胸がざわつく。
「……別に」
小さく返す。
「謝れって意味じゃない」
「じゃあ何だよ」
「知らねぇよ」
カノンは半分投げるみたいに言う。
「こっちもわかんねぇんだから」
電話の向こうで、ゴイチが小さく息を吐く。
どっちも、ちゃんとすれ違っていた。
カノンは“断っていい”が欲しかったのかもしれない。
ゴイチは“断れ”とは言えなかった。
でも、“行ってこい”とも言いたくなかった。
その隙間に、感情だけが残る。
「……とりあえず」
ゴイチが言う。
「今日はもう戻れ」
「返事すんな」
カノンは少しだけ俯く。
「……うん」
「で、寝る前にまた考えろ」
「うん」
「しんどかったら、またかけろ」
その一言に、カノンの喉がまた小さく鳴る。
「……わかった」
短い返事。
それ以上は何も続かなかった。
少しの沈黙のあと、カノンが先に言う。
「戻るわ」
「おう」
「……おやすみ、はまだ早いな」
その半端な冗談に、ゴイチは少しだけ口元を動かした。
「終わったらでいい」
「うん」
そこで通話が切れる。
画面が暗くなって、廊下の静けさだけが戻る。
カノンはスマホを見つめたまま、小さく息を吐いた。
全然、整理できてない。
八崎のことも。
キスシーンのことも。
ゴイチのあの一言も。
でも、ひとつだけはっきりしてることがある。
相棒の電話ひとつで、こんなに心臓がうるさくなるのは、もうただの相棒じゃない。
その事実だけが、やけに静かに残っていた。