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#ご本人様とは一切関係ありません
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#ご本人様とは一切関係ありません
あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
食堂の外の廊下で、しばらくスマホを握ったまま立ち尽くしていたカノンは、ようやく小さく息を吐いてから中へ戻った。
さっきまでより人は減っている。
食堂のざわめきも、もうだいぶやわらかい。
八崎は席を立たず、カノンが戻ってくるのを待っていた。
肘をテーブルにつきすぎないくらいの自然な姿勢で、でもちゃんとこっちを見ている。
「電話大丈夫だった?」
その声に、カノンは一瞬だけ顔を上げる。
「あ。うん、平気」
少しだけ早口で返して、椅子を引く。
「ごめんね、途中で」
「いいよ」
八崎は軽く笑って、それ以上深くは聞かない。
その距離感がありがたい。
カノンはできるだけ自然な手つきで台本を広げる。
ページをめくる指先だけが、少しだけ落ち着かない。
さっきの電話。
ゴイチの声。
“八崎ってやつ”
“お前に近づきすぎたら、
俺、嫌いになりそうだけどな”
まだ耳の奥に残っている。
だからこそ、言わなきゃと思った。
「あ、のさ……」
八崎が「ん?」と目を向ける。
カノンは台本の文字を見たまま、言葉を選ぶ。
「キスシーンの練習なんだけど……」
「やっぱ俺、練習でそこまで出来ないっていうか……」
そこでようやく顔を上げる。
八崎が目を丸くした。
一拍。
それから、ははっと声を出して笑った。
「え……」
カノンの顔が固まる。
八崎は肩を揺らして笑っている。
本気で、面白いものを見た時の笑い方だった。
「いや、カノン、マジで面白い。ピュア」
「は?」
「まさか実際にキスすると思ったん?」
カノンの脳が一瞬止まる。
「……え」
じわじわと、さっきまでの自分の焦りが逆方向に熱へ変わっていく。
八崎はまだ少し笑いを引きずったまま、手をひらひらさせた。
「流石にそこまでしねぇよ」
「ギリギリの雰囲気まで!」
「そうやってイメージ固めるんだよ。この角度、とか。アングルとか」
カノンの顔が少しずつ赤くなる。
「……っ」
「いやほんと、かわいいな」
八崎がまだ笑ってる。
「どうしよう、ちょっと癒されたわ」
「やめてくれない……?」
カノンは片手で顔を押さえたくなる。
でも台本持ってるからできない。
(終わった……)
さっきの廊下での葛藤も、ゴイチとの電話も、全部込みで、ひとりだけ盛大に勘違いしていた自分があまりにも恥ずかしい。
八崎はようやく笑いを収めて、少しだけ真面目なトーンに戻した。
「でも、そこ大事なんだよ」
「女優とも、撮影直前でそういう打ち合わせを間近でした方がいい」
「実際にキスはしないけど、どの位置どりが良いとか」
「ストーリーを制作するって、そういう緻密な積み重ねだから。感情論だけじゃ無理」
ひらりと手を上げる。
その言い方に、さっきまでの軽さはあっても、ちゃんと現場の人間の重みがあった。
カノンは少しだけ姿勢を正す。
「……なるほど」
「うん」
八崎は台本を指で叩く。
「感情はもちろん大事。でも、それを見える形にするには技術がいる」
「相手との距離、顎の角度、カメラの位置、どっちの頬が見えるか、目線がどこで落ちるか」
「そこが揃うと、キスしてなくても“しそう”が作れる」
カノンはその言葉をちゃんと飲み込む。
さっきまで、自分が苦しんでいた部分そのものだった。
雰囲気。
呼吸。
“そこへ行くまで”の絵。
それを、八崎はすごく分解してわかりやすくしてくれる。
「じゃあ、やる?」
八崎が立ち上がる。
「今度は勘違いすんなよ」
「うるさい」
そう返しながらも、カノンも立ち上がった。
⸻
食堂の隅。
人はもうほとんどいない。
遠くで片づけの音がするくらいだ。
八崎が椅子を少し横へずらして、スペースを作る。
「まず台詞から」
「キスの前までね」
カノンが頷く。
ふたりで台本を開く。
軽く読み合わせる。
最初はあくまで言葉の確認。
どこに感情の重心があるか。
どこで目を上げるか。
どこで言葉を飲み込むか。
八崎は途中で何度も止めてくる。
「そこ、先に目線上げない」
「今は相手見てるけど、ほんとは見れない瞬間だろ」
「で、一回逃がしてから戻す」
「そう、その戻し方」
細かい。
でも、嫌なくらい的確だった。
カノンも少しずつ集中していく。
やっていることは台詞合わせなのに、段々と頭の中のノイズが減っていく。
“うまくいかなかった”記憶より、“どうすれば形になるか”の方へ神経が向き始める。
「じゃ、次」
八崎が台本を少し下げる。
「ここから立ち位置ありで」
「キスはしない。ギリギリまで」
「でも、なんでそこまで寄るのかはちゃんと持ってくる」
カノンが息を吸う。
八崎が一歩、近づく。
仕事の顔になる。
さっき食堂で笑っていた人間と、空気が変わる。
「今、俺を見てるんじゃなくて」
八崎が低く言う。
「その役にとって“どうしても視線を外せない相手”を見ろ」
「その方が自然にいける」
カノンの喉が小さく鳴る。
どうしても視線を外せない相手。
頭の中で、何かがひっかかった。
八崎が台詞を落とす。
カノンも返す。
一歩近づく。
また一歩。
目線が揺れる。
呼吸が少し浅くなる。
ここまでは何度もやった。
でも、今夜は少し違う。
八崎の顔を見ているはずなのに。
その奥に、別の誰かが浮かんでしまう。
“相棒だろ、俺ら”
低い声。
“酔っ払ってる時のことは、
あんまり気にすんな”
頭をぽん、とされた朝。
“お前に近づきすぎたら、
俺、嫌いになりそうだけどな”
電話越しに落ちた、静かな嫉妬。
「……っ」
カノンの呼吸がそこでほんの少し揺れる。
八崎はそれを見逃さない。
「そのまま」
小さく言う。
「今の、逃がすな」
カノンの目が、少しだけ変わる。
役の相手を見ている。
はずなのに、胸の奥を動かしているのは別の人間の気配だった。
見たくないのに、見てしまう。
触れたくないのに、触れたら終わると思ってしまう。
そんな矛盾ごと、そのまま目の奥へ乗る。
八崎がゆっくり近づく。
「ここで、もう一回だけ見て」
カノンは相手を見る。
見るしかない。
その瞬間、頭の中に浮かんだのは、ゴイチの何でもない顔だった。
いつも通りみたいに立ってるくせに、たまにだけ真面目な目をする、あの顔。
それだけで、カノンの心臓が静かに強く鳴る。
八崎が、そこで止めた。
「はい」
一拍。
「今の」
八崎が少しだけ笑う。
でも、今度はからかう笑いじゃない。
「めっちゃいい」
カノンがはっとして息をつく。
「……え」
「今のだよ、今の」
八崎が指で軽く空中を指す。
「急に“見れないのに見てる顔”になった」
「さっきまで頭で作ってたのが、やっと腹に落ちた感じ」
カノンは何も言えない。
自分でも、わかったからだ。
今の瞬間だけ、急に“作る”から離れた。
何かを思い出したわけでも、役の設定を再確認したわけでもない。
ただ、浮かんだ。
ゴイチが。
それだけで、目の置き方も、呼吸も、距離の感じ方も全部変わった。
「……マジで?」
やっとそれだけ言うと、八崎は笑う。
「マジ」
「さっきのやつ、もう一回やろ」
「今度は再現できるか試す」
カノンは小さく頷いた。
でも、胸の奥はさっきよりずっと厄介だった。
(なんでだよ……)
役の感情をつかむ瞬間に、
どうしてゴイチが浮かぶんだ。
しかも、そのせいでうまくいくなんて、余計に質が悪い。
八崎がもう一度立ち位置を整える。
台本を軽く持ち上げる。
「ほら、主演」
「今の忘れんなよ」
その声に、カノンは深く息を吸った。
「……はいはい」
返しながらも、頭の奥ではまだ、さっきのゴイチの声が残っている。
しんどかったら、またかけろ。
その一言が、演技のための感情にまで入り込んでくる。
もう、だいぶ終わってる。
でもそれを今さら否定する気にもなれなかった。
食堂の隅。
人がほとんどいなくなった静かな場所で。
カノンはもう一度、役として相手と向き合いながら、
その奥でどうしようもなく、ゴイチを思い浮かべていた。
食堂の隅での練習は、そのあと何テイクか続いた。
台詞を合わせて。
距離を測って。
目線を置く位置を変えて。
呼吸の入るタイミングを揃えて。
八崎は本当に容赦がなかった。
「今の、ちょい早い」
「そこ、感情が先に漏れてる」
「で、次は逆。先に我慢してから寄る」
「そうそう、その“言えない”感じ」
ひとつひとつは細かい。
でも、全部ちゃんと意味がある。
カノンも途中から、変な照れを捨てて食らいついていた。
本番で掴めなかったものを、ここで少しでも掴みたい。
その気持ちだけはずっと本物だったから。
何度目かのテイク。
台詞の最後で、八崎がゆっくり一歩近づく。
カノンも目線を上げる。
そこで、また浮かぶ。
ゴイチの顔が。
朝、何でもない顔でコーヒーを飲んでいた横顔。
「酔っ払ってる時のことは、あんまり気にすんな」って言った声。
撮影合宿の日、紙袋を差し出した手。
電話越しに落ちた、少し低い声。
『八崎ってやつ』
『お前に近づきすぎたら』
『俺、嫌いになりそうだけどな』
その一瞬で、胸の奥が静かにきゅっと鳴る。
目を逸らしたい。
でも、逸らせない。
見てしまう。
近づきたくなる。
でも近づいたら、もう何かが変わってしまう気がする。
その矛盾ごと、目の奥へ乗る。
「――はい、ストップ」
八崎の声で、空気がほどけた。
カノンは小さく息を吐く。
思っていたより、呼吸が浅くなっていた。
八崎が少しだけ目を見開いて、それからにやっと笑う。
「今の、めちゃくちゃ感情乗ってた」
カノンが一瞬だけ固まる。
「……そう?」
「そう」
八崎は即答する。
「さっきまで“うまくやろう”がちょっと前にあったけど、今のは完全に違った」
「ちゃんと、止まれない感じあった」
その言い方があまりに的確で、カノンは思わず視線を逸らす。
自覚があるからだ。
今の自分は、“役として”だけじゃなかった。
八崎はそんなカノンを見て、悪気ゼロの顔で首を傾げた。
「もしかして、好きなやつの顔浮かんだ?」
時間が、止まった。
「…………は?」
本当に、間の抜けた声が出た。
八崎は何の含みもなく続ける。
「いや、たまにあるじゃん」
「芝居で感情の引き金探す時、実体験とか、好きな人とか、そういうの引っかかるやつ」
「今の、明らかに何か浮かんでた顔だったから」
カノンの耳まで一気に熱くなる。
「いや、ちょ、待って」
「ん?」
「なんでそんな、サラッとそういうこと聞くの」
「え、ダメだった?」
「ダメっていうか」
カノンは言葉に詰まる。
「普通もっとオブラートに包まない?」
八崎は少し考える顔をしてから、あっさり言う。
「現場だし、いらなくない?」
「いるよ!」
思わず強めに返してしまって、食堂の端にいたスタッフがちらっとこっちを見た。
カノンは慌てて声を落とす。
「……いるだろ、普通……」
八崎は小さく笑った。
「図星っぽい反応」
「違う!」
ほぼ反射で否定する。
でも、その否定が完全に早すぎて、自分でも“終わった”と思った。
八崎の目が、少しだけ面白がるように細まる。
「へぇ〜」
「へぇ〜じゃない!」
「いやいや」
八崎は肩を揺らして笑う。
「別に言わなくていいけどさ」
「でも、今の感情の乗り方は本物だったよ」
その一言に、カノンの反論が少し止まる。
本物。
それはきっと、俳優としては嬉しい評価だ。
実際、さっきまで詰まっていたものが、急に通った感覚が自分にもあった。
でも、その“本物”の源が何かを自分だけは知っている。
ゴイチだ。
その事実が、今さらどうしようもなく恥ずかしい。
カノンは台本を胸の前に持ち上げて、少しだけ顔を隠すようにした。
「……仮に、そうだとしても」
八崎が「うん?」と首を傾げる。
「言わないからな」
その返しに、八崎は声を出して笑った。
「かわいいな、お前」
「うるさい」
「でも、いいじゃん」
八崎は少し真面目なトーンに戻る。
「使える感情があるなら、役のために借りればいい」
「その人に失礼とか、そういうのとは別で」
「芝居にちゃんと変換できるなら、それは武器だよ」
カノンはその言葉を聞いて、少しだけ黙る。
武器。
そう言われると、少しだけ救われる気もする。
自分の中で勝手に暴れてる感情が、ただ厄介なだけじゃなくて、何かに変えられるなら。
それは少しだけ、意味があるのかもしれない。
「……難しいこと言うなぁ」
ぼそっと返すと、八崎は笑った。
「芸歴長いんで」
「自分で言うなよ」
「言うよ」
八崎は台本を軽く持ち上げる。
「で、どうする? もう一回やる?」
「今の感覚、残ってるうちに」
カノンは少しだけ目を伏せる。
残ってる。
いや、残りすぎてる。
さっきから胸の奥が変な意味で落ち着かない。
でも、それでも。
「……やる」
そう言うと、八崎は満足そうに頷いた。
「よし、主演」
その軽い呼び方に、カノンは小さく息を吐く。
台本を開き直す。
深呼吸をひとつ。
八崎が立ち位置につく。
カノンも顔を上げる。
好きなやつの顔が浮かんだのか――なんて、無邪気に核心を刺された直後なのに。
それでも、もうさっきほどは逃げたい気持ちだけじゃなかった。
浮かんでしまうなら、もう仕方ない。
その顔ごと、感情ごと。
今は芝居に使ってやる。
そう思った時、カノンの中で少しだけ覚悟が決まる。
そして次のテイクでも、やっぱり一瞬だけ。
どうしようもなく、ゴイチが浮かんだ。
数日後。
映画撮影は、思っていたよりずっと順調に進んでいた。
もちろん、毎日が楽なわけじゃない。
朝は早いし、海風は冷たいし、現場に立てば常に見られている。
でも、それでもカノンは少しずつ、この作品の中で自分の立ち方を掴み始めていた。
笑うところ。
黙るところ。
目を逸らすところ。
飲み込むところ。
そのひとつひとつが、もう“やらされている芝居”じゃなくなってきている。
そして今日は、例のキスシーンの撮り直しだった。
朝から少しだけ空気が違う。
スタッフの段取りも丁寧だし、監督も何度かモニターを確認している。
現場にいる全員が、このシーンが大事だとわかっている感じだった。
カノンは、ロケセットの少し外れた場所で、深く息を吸った。
(よし)
心の中で、小さく言う。
前みたいな、焦りだけじゃない。
今日は、ちゃんと腹が括れていた。
八崎のアドバイスのおかげもある。
“感情論だけじゃ無理”
“角度、位置、呼吸、そういう積み重ねで絵になる”
その言葉が、ちゃんと自分の中に残っていた。
だから今日は、ふわっと現場の流れに任せない。
このシーンを進めるために必要なことは、自分から言う。
(段取り含め、女優の子とも軽く打ち合わせしたい)
(今日は俺から提案して、このシーンを進める)
カノンはもう一度深呼吸して、羽織っていたロングジャケットを脱いだ。
衣装スタッフがすぐにそれを受け取る。
風が少しだけシャツを揺らす。
相手役の澪は、少し先で立ち位置の確認をしていた。
カノンは真っ直ぐそこへ向かう。
「澪ちゃん」
呼びかけると、澪が振り返る。
「ん?」
「本番入る前に、ちょっとだけ確認していい?」
その言い方が、前よりずっと自然だった。
“相談”じゃなくて、“一緒に作るための確認”として言えている。
澪もすぐに頷く。
「もちろん」
カノンは台本の該当ページを軽く見せながら言う。
「この流れ、たぶん俺、前回ちょっと気持ち先行してた」
「だから、最後の一歩手前で一回止めたい」
「その時、澪ちゃんの目線が俺の口元に落ちる方が、カメラ的にも感情的にもきれいかなって」
澪は一瞬だけ考えて、それから頷いた。
「うん、わかる」
「その方が“迷ってるのに引かれちゃう”感じ出るかも」
「で、俺がそこで一回呼吸を止めるから」
「澪ちゃんは逃げないで、ちょっとだけ待っててほしい」
「わかった」
返事が早い。
しかも、ちゃんと同じ方向を見てくれる返しだ。
カノンはその時点で、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
前回は、自分の中だけでシーンを抱えすぎていたのかもしれない。
でも今日は違う。
相手役も、現場も、味方につけて進められる。
それがわかっただけで、視界が少しだけ開けた。
「よーし、カノンくん行ってみよう」
監督の優しい声が飛んできた。
「はい!」
今度の返事は、ちゃんと前を向いた声だった。
少し離れた場所で、八崎が腕を組みながらそのやり取りを見ていた。
カノンが自分から澪に話しかけているのを見て、ふっと目を細める。
(よし)
たぶん、同じことを思ったんだろう。
現場が整う。
カメラ。
照明。
立ち位置。
風の音。
モニター前の監督。
静かに集中していくスタッフたち。
「じゃ、いきます!」
助監督の声。
カノンは立ち位置につく。
目の前に澪。
その向こうに海。
少しだけ曇った光。
冷たい風。
全部、もう一度だ。
でも今回は、怖さより先にやることが見えている。
シーンが始まる。
最初の台詞。
澪の返し。
自分の沈黙。
一歩。
目線。
前回詰まった場所まで、今度は驚くほど自然に辿り着く。
澪が、打ち合わせ通りほんの少しだけ口元へ視線を落とす。
その一瞬で、空気が変わる。
カノンは息を止めた。
その“止め方”が、今日は作りものじゃない。
ちゃんと、今ここで触れたら戻れないと思ってる人間の呼吸になっていた。
そして。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、また浮かぶ。
ゴイチ。
何でもない顔で、でもちゃんと見てる目。
“しんどくなったら連絡しろ”って言った声。
“相棒だろ”って平然と言うくせに、時々だけ本気の顔をする男。
その顔が胸の奥に引っかかったまま、カノンの目が少しだけ揺れる。
揺れる。
でも、逸らさない。
その迷いごと、役の感情へ変わる。
「……遅いんだよ」
カノンが言う。
前回よりずっと、低く。
でも無理に重くしない。
声じゃなくて、目と呼吸の方が先に届く。
澪の息が、そこで小さく乱れる。
そして、距離が詰まる。
キス。
今度は迷わなかった。
もちろん、段取りはある。
カメラの位置も、角度も、照明の入りも全部ある。
でも、その技術の上にちゃんと感情が乗った瞬間だけが持つ“ほんとうらしさ”が、そこに生まれていた。
短くていい。
でも、目が離せない。
そんな絵だった。
「……はい、カット!」
監督の声が入る。
一拍遅れて、現場の空気がほどける。
でも、その場にいた何人かはすぐには動かなかった。
モニター前の監督が、しばらく無言で映像を見ている。
脚本家も、隣でじっと画面を見つめている。
助監督も、何も言わない。
カノンは少しだけ呼吸を整えながら、その空気を待った。
前みたいな焦りじゃない。
ちゃんとやった、という手応えだけが、静かに胸の中にある。
数秒後。
監督が、ふっと顔を上げた。
「……うん」
その“うん”が、まず深かった。
それから、はっきりと言う。
「いい」
現場に、少しだけ安堵の空気が流れる。
監督はモニターを指しながら、続けた。
「今の、ちゃんと“この二人だからここで触れる”になってた」
「前回より全然いい」
「目も、呼吸も、最後の一歩も」
「全部繋がってた」
脚本家も頷く。
「絵が一気に生きた」
澪が小さく笑って、カノンを見る。
「やったね」
その一言で、ようやくカノンの肩から力が抜けた。
「……っは」
笑うというより、息が漏れた感じだった。
少し離れた場所で見ていた八崎が、そこでようやく両手を小さく叩いた。
声は出さない。
でも、目だけで“取ったじゃん”と言っている。
カノンはそれに、少しだけ照れたみたいに口元を動かした。
風が吹く。
さっきまで冷たくて仕方なかった海風が、今は少しだけ気持ちいい。
胸の奥に残る熱はまだ消えない。
でも、それはもう焦りじゃなくて、ちゃんとやり切ったあとの熱だった。
そして、このシーンは後に――
雛子の予想通り、ファンが跳ね上がるほど、カノンの魅力と新しい姿を世の中に発信することになる。
ただ綺麗なだけじゃない。
ただ刺激的なだけでもない。
“あのカノンが、こんな目をするんだ”
“こんな空気を纏えるんだ”
そう思わせるだけの、静かで強いシーンとして残ることになる。
ある日のスタジオ。
リハ終わりの少し緩んだ時間。
雛子がタブレットを片手に、いつもより少しだけ満足そうな顔で入ってきた。
「ちょっと、全員」
「プレイバック来た」
その一言で、空気が少しだけそっちに寄る。
「お、ついに?」
タイキが床に座ったまま顔を上げる。
「一応ね。編集入る前にこっちでも確認するの。問題ないかどうか」
雛子はそう言いながら、タブレットを中央の机に置いた。
「…でも十分使える」
「……というか、かなり良い」
その“かなり良い”に、ゴイチの胸が小さく鳴る。
ルイ、タイキ、アダム、ゴイチ。
自然とタブレットの周りへ集まる。
雛子が再生を押す。
暗転。
映画タイトルのロゴ。
波の音。
学生服姿のカノン。
走る後ろ姿。
友人との笑い合い。
家族との沈黙。
雨。
海。
そして、目。
カノンの目が、画面いっぱいに映る。
一瞬でわかる。
ただの“アイドルの演技仕事”じゃない。
ちゃんと、作品の顔として立っている。
タイキが思わず小さく言う。
「うわ……」
「普通に映画じゃん」
「映画よ」
雛子が即答する。
ルイは何も言わないまま、少し前のめりで画面を見ていた。
アダムも静かに目を細めている。
予告はテンポよく進む。
青春。
すれ違い。
笑顔。
衝突。
海辺のシーン。
親友とのやりとり。
その流れの中で、ほんの数秒だけ。
キスシーンが入る。
真正面じゃない。
でも、充分だった。
雨上がりみたいな湿度。
近づく呼吸。
触れる直前の目。
そして、唇。
短いのに、妙に残る。
タイキが一瞬だけ「おぉ……」と小さく漏らす。
でもそれ以上は誰も騒がない。
ルイが、予告が終わったあとで何気なく溢した。
「キスシーン、あいつには向いてるかもな」
その一言が、静かに落ちる。
仕事として見た感想だった。
芝居の質感として。
目線と呼吸で魅せるタイプのカノンには、ああいうシーンが映える、という意味での。
でも、その時は誰も突っ込まなかった。
タイキも。
アダムも。
雛子でさえ。
ただ、ゴイチだけが何も言わなかった。
予告の最後の余韻がまだ残るタブレットを見たまま、ほんの少しだけ目を伏せる。
画面の中のカノンは、いつものカノンじゃなかった。
知ってる顔なのに、知らない熱を持っていた。
それが、思っていたよりずっと効いた。
「でしょ?」
雛子が満足げに言う。
「跳ねるわよ、これ」
「カノンの新しい見せ方として、かなり強い」
「雰囲気、めっちゃいい」
タイキが素直に言う。
アダムも静かに頷いた。
「ちゃんと残る」
「数秒なのに」
ルイはそこで小さく息を吐いて、タブレットから目を離す。
「本人、死にそうなくらい悩んでたくせにな」
その言い方には少しだけ笑いが混じっていた。
ゴイチはようやく口を開く。
「……でも、よかったな」
短い。
でも、ちゃんと本音だった。
アダムはその声を聞いて、ゴイチをちらっと見る。
一瞬だけ。
でも、何も言わない。
ただ心の中で、少しだけ思う。
(…マジなやつ…)
でも今は、それを口にする場でもない。
スタジオの空気は、“カノンすごいな”という方向へ素直に流れていった。
それでよかった。
その中で、ゴイチだけが少し静かだった。
その夜。
合宿先の部屋に戻ったカノンは、ベッドの端に腰を下ろしていた。
撮影終わり。
シャワーも浴びた。
髪も乾かした。
でも、神経だけがまだ仕事場に置いてきぼりみたいに熱を持っている。
テーブルの上に置いていたスマホが震える。
画面を見る。
ゴイチ
カノンの指が、一瞬だけ止まる。
それから開く。
おつかれ
練習の甲斐あったんじゃねぇか
メンバーも雰囲気良かったって
カノンの喉が小さく鳴る。
短い。
でも、ちゃんと見たあとに送ってきたのがわかる文面だった。
予告を。
あのキスシーンを。
見たうえで。
「……うわ」
小さく漏れる。
練習の甲斐。
その一言で、カノンの頭の中にあの日の電話が一気に戻ってくる。
食堂。
八崎。
“キスシーンの練習、俺が付き合おうか?”
それを、ゴイチへそのまま伝えてしまった自分。
しかもあの時の自分は、完全に勘違いしていた。
八崎が“実際にキスする練習”を言ってると思い込んで、そこからゴイチにも曖昧なまま伝えてしまった。
でも実際は違った。
やったのは、ギリギリの距離感。
角度。
視線。
カメラ前の位置取り。
キスそのものじゃなくて、そこへ至る絵作りだった。
つまり。
(俺……)
(誤解したまま伝えてたんだよな……)
カノンはスマホを見つめたまま、片手で顔を覆いたくなる。
いや、今さらそこを説明するのもおかしい。
“あ、そういえばあの時、俺勘違いしてて。実際にはキスの練習じゃなくて距離感の練習だったわ”
なんて。
(いや、でも言い訳みたいでおかしいだろ)
本気でそう思う。
しかも、何でそこまで説明しなきゃならないんだって話でもある。
仕事の話だ。
現場でどう詰めたかなんて、本来いちいち報告する義務はない。
なのに。
そこが引っかかるのは、ゴイチ相手だからだ。
カノンは小さく息を吐いた。
(……めんどくせぇ)
でも、その“めんどくせぇ”の正体は、わかっている。
気にしてほしいわけじゃない。
でも、変に誤解されたままなのも嫌。
ただ、その“嫌”を今どう言葉にするかがわからない。
結局、カノンはその誤解を今解くことはしなかった。
まだ、すれ違ったまま。
画面の上ではゴイチのメッセージが静かに光っている。
おつかれ
練習の甲斐あったんじゃねぇか
メンバーも雰囲気良かったって
カノンはしばらくその文字を見つめてから、短く打つ。
ありがと
今日の撮り直し、なんとかなった
そっちが見たの、だいぶ一瞬だろ
送る。
少し迷って、もう一文。
お前らに見られると、変な感じするな
送信。
それ以上は打たない。
打てない、が正しい。
説明すればするほど、余計に意識してるみたいになる。
それが嫌で、結局言葉は減っていく。
カノンはスマホを伏せて、ベッドにゆっくり倒れ込んだ。
天井を見ながら思う。
(……まだ、すれ違ってんだよな)
でも、それを今すぐどうにかする勇気もなかった。
⸻
その少し前。
スタジオを出たあと、ゴイチは一人で帰り道を歩いていた。
ポケットの中のスマホには、さっき送ったLINEの送信履歴が残っている。
“おつかれ
練習の甲斐あったんじゃねぇか
メンバーも雰囲気良かったって”
我ながら、普通の文面だと思う。
相棒として。
グループのメンバーとして。
仕事を見た感想として。
それ以上でも以下でもない、ように見える。
でも、画面を閉じたあとも胸の奥だけが全然普通じゃなかった。
予告の数秒。
たったそれだけだった。
なのに、あのカットがずっと頭に残っている。
カノンの目。
近づく呼吸。
知らない顔。
知らない熱。
“キスシーン、あいつには向いてるかもな”
ルイのあの一言が、妙に正しかったのも悔しかった。
向いていた。
悔しいくらいに。
だからこそ、跳ねるのもわかる。
ゴイチは歩きながら、小さく息を吐いた。
その時、スマホが震える。
カノンからだ。
開く。
ありがと
今日の撮り直し、なんとかなった
そっちが見たの、だいぶ一瞬だろ
お前らに見られると、変な感じするな
最後の一文を見た瞬間、ゴイチの足が一瞬だけ止まる。
変な感じ。
その言葉の意味を、勝手に探しそうになる。
自分たちに見られるのが変なのか。
ゴイチに見られるのが変なのか。
キスシーン自体がまだ照れくさいのか。
どれだ。
いや、そんなの考え始めたらきりがない。
そうわかってるのに、止まらない。
その上で、もう一つの事実が静かに効いてくる。
練習の甲斐。
あの時の電話。
八崎のこと。
“キスシーンの練習、付き合おうか”
あの台詞が、今さら生々しく戻ってくる。
本当に練習したのか。
どこまでやったのか。
予告のあの空気の裏に、その時間がちゃんとあったのか。
そこまで考えた瞬間、ゴイチの中で何かが本気でざわついた。
「あー……」
思わず声が漏れる。
だめだ、と思う。
今までのは、まだ“相棒として心配”で押し通せる範囲だった。
映画主演。
合宿。
キスシーン。
全部仕事だ、と言い聞かせられた。
でも今は違う。
違うと、はっきり自分でわかってしまった。
練習でも。
本番でも。
予告でも。
カノンが誰かとそこまで近づくこと自体が、嫌だ。
その感情が、理屈を飛ばして先に来る。
そこで初めて、ゴイチは本気で焦った。
これ、まずいな、と思う。
相棒とか。
仕事とか。
応援してるとか。
そういうちゃんとした言葉の奥で、自分の中にあるものが思っていたよりずっと露骨だ。
「……マジかよ」
小さく呟く。
嫌いになりそう、なんて前に言った。
あれも半分本音だった。
でも今は、それよりもっと具体的で、もっと子どもっぽい感情がある。
見たくない。
近づいてほしくない。
その顔を、他の誰かに向けるな。
そんなの、まともじゃない。
ゴイチは片手で頭の後ろを乱暴に掻いた。
夜風が少し冷たい。
でも胸の中だけ妙に熱い。
返信を打とうとして、指が止まる。
何て返す。
“よかったな”か。
“変な感じって何だよ”か。
“あんまり無理すんな”か。
どれも嘘ではない。
でも、どれも全部ではない。
結局、短く打つ。
そりゃ変だろ
でも、ちゃんとよかった
今日は寝ろ
送信して、すぐにスマホをしまう。
それ以上打ったら、たぶん余計なものが漏れる。
ゴイチはまた歩き出す。
でも、さっきまでの歩幅には戻らなかった。
初めて本気で焦った。
カノンのいない一週間の長さとか。
映画の現実とか。
キスシーンとか。
そういう外側の話じゃなくて。
自分が、どれだけカノンを欲しがり始めてるのか。
そこに、初めてちゃんと気づいてしまったからだ。
夜道を歩きながら、ゴイチは小さく息を吐く。
「……遅ぇよ」
誰に言うでもなく、そう落とす。
でもその声は、自分自身に向いていた。
⸻
部屋の灯りは、もう落としていた。
合宿先のホテルの一室。
窓の外では、海の近く特有の風の音が遠くで鳴っている。
撮影の疲れで身体は重いはずなのに、頭の中だけがやけに冴えていた。
カノンはベッドに仰向けのまま、両腕で顔を覆った。
「……っはぁ……」
小さく息を吐く。
今日のことが、ずっと頭から離れない。
キスシーン。
撮り直し。
監督の「いい」。
現場の空気。
予告の話題。
八崎の“好きなやつの顔浮かんだ?”という無邪気すぎる一言。
好きなやつの顔。
その言葉が、今もまだ頭の中に残っている。
「……言うなよ、そういうの……」
誰もいない部屋に、小さく漏らす。
でも、否定できない。
図星だったからだ。
カノンは腕を顔から下ろして、天井を見た。
俺は今回、
ファーストキスを仕事で終えた。
その事実が、妙に自分らしくて少し笑える。
夢だった仕事。
主演。
キスシーン。
そういう“人生の節目”みたいなものを、結局ちゃんと仕事で持っていく感じ。
あぁ、俺らしいな、と少しだけ思う。
でも。
その“でも”が、今夜はどうしても消えない。
カノンはそっと目を閉じる。
思い出すのは、合宿より前のあの夜だ。
酒が回って。
ソファに倒れ込んで。
ゴイチの服を掴んで。
顔を近づけて。
“確認したいことがある……”
あの時の自分は、酔っていた。
でも、全部が嘘だったわけじゃない。
あと少しだった。
本当に、あと少し。
もし、ゴイチが止めなかったら。
あの低い声で
“……それは違うだろ”
と止めなかったら。
俺のはじめては、アイツだったかもな。
その考えが、胸の奥にゆっくり沈む。
“……惜しかった……”
その言葉は、誰にも聞こえない声でベッドの中に消えていく。
冗談みたいな響きなのに、本音だった。
惜しかった。
仕事のキスが嫌だったわけじゃない。
ちゃんと意味のあるシーンだったし、俳優として必要な一歩だった。
やり切れたことも、自分の中では誇らしい。
でも、そういうことじゃなくて。
“最初”がもしゴイチだったら、と思ってしまう自分がいる。
それが、もうだいぶ終わってる。
カノンはそっと自分の唇に触れた。
今日、カメラの前で触れた熱。
役としてのキス。
相手役との呼吸。
その感触を思い出すより先に、頭の中に浮かぶのはやっぱりゴイチだった。
ソファの上で、顔を寄せたあの距離。
止めた手。
胸の上で眠った夜。
何でもない顔で嘘をついてくれた朝。
(……なんで、アイツなんだよ……)
指先が唇から離れる。
そのままカノンは、枕に顔を埋めた。
シーツの匂い。
少しひんやりした布の感触。
そこへ押しつけた頬が、やけに熱い。
「無理……」
小さく呟く。
失恋したはずだった。
ちゃんと終わったはずだった。
だから次に何か動くとしても、もっとゆっくりだと思っていた。
なのに今、自分の中で一番うるさいのはゴイチだ。
優しくて。
何でもない顔で。
相棒の距離に隠れて。
でも時々だけ、本気の目をする男。
その顔が、仕事のキスのあとに浮かぶなんて、だいぶどうかしてる。
でも。
それでも、もしもう一回あの夜みたいな瞬間が来たら。
今の自分は、前よりちゃんと止まれるのかどうか、正直あまり自信がなかった。
枕に顔を埋めたまま、カノンは小さく息を吐いた。
海の近くの夜は静かだった。
でも、胸の中だけは全然静かじゃなかった。
⸻
同じ夜。
ゴイチは自分の部屋のソファに、だらりと横になっていた。
電気はつけっぱなし。
テレビは消えている。
部屋の中は静かで、冷蔵庫の低い音だけが小さく響いていた。
片腕を目元に乗せる。
でも、眠くはない。
というより、頭の中がうるさすぎて寝られない。
ルイの声が、ふとまた蘇る。
“キスシーン、あいつには向いてるかもな”
「……っ」
思わず、小さく舌打ちが漏れた。
別にルイが悪いわけじゃない。
言ってることは正しい。
予告だって良かった。
実際、カノンはあの手の空気を纏うのが上手かった。
だからこそ、余計に腹が立つ。
腹が立つ相手がルイじゃないことも、ゴイチにはわかっている。
わかっているのに、心の中では完全にルイに八つ当たりしていた。
(お前ん時とは
止めた理由が違うんだよ……)
心の中でそう吐き捨てる。
でもきっとルイが言った“向いてる”は 、
芝居の話だ。
作品の空気の話だ。
俳優としてのカノンの魅力の話。
そんなの、わかってる。
何、イラついてんだ。
でも、ゴイチの中に引っかかってるのはそこじゃない。
頭に浮かぶのは、あの夜だ。
酔ったカノン。
ぐらついた身体。
胸元を掴んできた手。
あと少しで触れそうだった距離。
“確認したいことがある……”
あの時、止めた。
止めたのは正しかった。
たぶん。
いや、絶対そうだ。
酔ってるやつ相手に、そのまま行くのは違う。
カノンが後からどう思うかもわからない。
こっちの欲だけで持っていくには、あまりにも曖昧すぎた。
だから止めた。
相棒として。
まともな大人として。
たぶん、正解だった。
でも。
ゴイチは腕を目元から少しずらして、天井を見た。
(あん時、止めなきゃよかったかな……)
危ない考えが、ふっと浮かぶ。
あのまま、もし。
もし止めなかったら。
その想像が、自分でも驚くくらい生々しく胸に落ちる。
「……っ」
すぐに頭を振る。
「いや、ないだろ……」
声に出して否定する。
そんなの、だめだ。
あとから後悔するやり方だ。
それくらいわかっている。
わかっているのに。
予告で見たカノンのキスシーン。
役の相手に向けたあの目。
画面越しでも残る熱。
それを見たあとだから余計に、あの夜の“あと少し”が頭から離れない。
ゴイチはソファの上で少しだけ身じろぎする。
落ち着かない。
相棒の顔でいれば済むと思ってた。
仕事だと割り切れば済むと思ってた。
でも、済まない。
カノンが誰かと近づくこと。
誰かにあの顔を見せること。
それを“仕事だから”だけで処理できなくなってる自分が、もういる。
「……遅ぇんだよ」
小さく呟く。
何が。
誰に。
たぶん、自分にだ。
気づくのが遅い。
欲しくなるのが遅い。
相棒なんて便利な言葉のまま、ここまで来てしまったのが遅い。
ゴイチは片手で頭の後ろをぐしゃっと掻いて、また深くソファに沈んだ。
この先、撮影はまだ続く。
合宿も続く。
キスシーンだって、もう一度二度じゃ済まないかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥が少しざわつく。
でも、それでも。
あの日止めたことを、今の自分が簡単に間違いだったとは言えない。
だから余計に、しんどい。
ゴイチは目を閉じる。
暗くなった視界の中で、浮かぶのはやっぱりカノンの顔だ。
酔って赤くなった顔。
朝、死にそうになってた顔。
そして予告の中で、知らない熱を持っていた顔。
「……ほんと、勘弁しろよ」
誰にも聞こえない声でそう言って、ゴイチは片腕をもう一度目元に乗せた。
眠れない夜だった。
コメント
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え〜、もう、めっちゃ良かったです……! 今回の第23話、心臓がぎゅうぎゅうなりました。カノンがゴイチの顔を思い浮かべながら演技する、あの“見れないのに見てしまう”感じ、凄くリアルで滾りました。八崎さんに「好きなやつの顔浮かんだ?」って核心突かれたときのカノンの動揺、可愛くて切ない……。そして最後の、お互いに本音を隠したままの夜のLINEと独白がもう、たまりません。お互い“遅ぇ”って思ってるのが胸に刺さります。次が待ち遠しいです!