【 凪玲 】【 死ネタ 】
老衰で亡くなる玲王と最期の時間を過ごす凪の話。
ピッ、ピッ、ピッ。
無機質に鳴る電子音は、終わりまでの僅かな時間を数えているように聞こえた。この家の中では比較的狭いこの部屋に、今は俺と玲王の二人きり。
「なぎ、起こして」
「ダメだよ、寝てなきゃ」
「ヤダ、起こして」
イングランドの四月は、まだまだ寒い。玲王を初めて見た日、玲王と初めて話した日、どちらも同じような時期だったけれど、日本の四月初旬といえば桜も散り始めて、上着も要らないくらいの気温だったというのに。相変わらずの曇天には、春の陽気を運んできてくれるつもりはまだ無いらしい。
「じゃあ俺のカーディガンだけ着といて」
「ん」
最近の玲王は甘えんぼだ。全部を一人で抱えてしまっていたかつての玲王も健気なのだけれど、こうして肩に寄りかかってくれる玲王はとても愛おしい。出会った時から変わらない玲王の匂いが漂ってきて、俺は静かに目を細める。
「なぎ」
「なぁに、レオ」
ポンポン話題を提供して、話を進めていく玲王の会話のテンポは昔から早かった。それを可能にする良い滑舌も手伝って、俺は玲王が話すのをただじっと見て聞くのが好きだった。
いつのことだったかは覚えていない。玲王に、返事をして欲しい、と言われたのだ。
別に返事やリアクションをしていなかったわけじゃないけれど、「うん」とか、「そうなんだ」とか、「さすがレオ」とか、それくらいの相槌程度だった。
だけど、玲王も俺の話を聞くのが好きだったらしい。玲王の話に、稀に俺の考えやちょっとした言葉を返したりするのが、玲王はとても好きで、楽しいと言ったのだ。
そう言われた日から、玲王の言葉には、ちゃんと言葉を返すようにしている。偶に面倒で相槌だけになっちゃう時もあったけど、そんな俺に、玲王は笑いながら怒ったフリをするだけだった。
だけど今は、もうゆっくりとしか話せなくなった玲王に、俺もたくさん言葉を返したい。言葉も、声も、匂いも、体温も、俺の全部を、一緒に連れて行って欲しいから。
「なぎって料理だけは下手だよな」
「え、なんで俺ダメ出しされてんの」
玲王の存在に浸るために細めた瞳を開く。悪戯っぽく笑う玲王の幼さは、出逢った時から変わることなく俺の隣にある。
「俺が風邪ひいたときにさ、よくお粥作ってくれたじゃん」
「うん、玉子粥ね」
「あれ毎回味違ってたの」
初めて聞いた。何十年も一緒にいて、そんなこと言う機会はいくらでもあったはずなののに、初めて聞かされた。
「玲王の味覚が風邪でおかしくなってたんじゃないの?」
「えー、絶対違えよ」
ぶすくれながらそう言う玲王は、重たそうに左手を持ち上げて、俺のおでこにデコピンを喰らわせた。
「いたっ、痛いよレオ」
「そんなに痛くないだろ?力も弱くなっちまったし」
「……」
なんでそんなこと言うの、と怒っても良かったのだろうか。
玲王の数少ない悪いところの一つがこれだ。あんなにたくさんの人と円滑なコミュニケーションを取るくせに、俺にだけはデリカシーが欠けてしまうところ。しかしそれも、俺にだけだから、俺が特別だからそうなってしまうのだろうと思うと、強く責められない。
「凪の玉子粥もう一回食べたいな。今度はどんな味だろ」
「いいよ、作ってくるからちょっと待ってて」
デリカシーのないパートナーに、それでも俺は甘かった。玲王が、俺に甘かったように。玲王からのリクエストならなんでも応えてやりたいし、応えるつもりだ。だって、玲王に言われたから人生の全部を賭けた人間だ。俺が、玉子粥くらい作れないわけ無い。
玲王の小さな頭を持ち上げて、ベットから出ようとしたその時、重ねられていた玲王の右手が、弱々しく俺の左手を握った。
「行かないで、なぎ。ここに居て」
「なんで?食べたいんでしょ、玉子粥」
「食べたいけど、凪と話してたいから」
「すぐ終わるよ」
「俺もたぶん、もうすぐだよ」
玲王はとても優しくて、あたたかくて、でもそれ以上に残酷な人だと思う。いや、優しいからこそ、と言うべきなのかもしれない。
もうすぐなんて、言われなくても分かってる。覚悟だってとっくにできていた。だけどやっぱり、まだ逝かないでほしい。最期の瞬間まで、一緒にいたい。一人で先になんて、逝ってほしくなかった。なのに、それを態々言葉にするのだから酷い人だと思う。けれど、その表情があまりに穏やかだから、俺は結局何も言えない。
「俺、世の中の全部に感謝してる」
「……なんかレオらしいね」
「何もかも、この時のためにあったって感じがするんだ」
「え?」
「凪と出逢って、一緒にW杯取って、結婚して、死ぬ瞬間も隣にいてくれる。今まで経験してきた全部が、凪との人生のためにあったんじゃないかって、そう思うんだ」
同じだよ、レオ。
俺の人生は、玲王で出来ている。それ以外の要素がないとは言いきれないけれど、玲王がなくなってしまったら、空っぽになってしまう。
「だからさ、なぎ」
玲王の優しい声が恐ろしい。大好きな声を聞けば聞くほど、これがもうすぐ聞けなくなるのだと、嫌な考えが頭を過ぎる。結局、玲王の死への覚悟なんて、風に吹かれたら飛んでいってしまう程度にしかできていなかったのだ。
「俺もお前が死ぬその瞬間までずっと一緒にいるよ」
うそつき。
喉元まで出かかったその言葉を咄嗟に飲み込めた自分に、歳を重ねただけのことはあるなと感じる。最後の最後に、玲王に冷たい言葉なんてぶつけたくない。
だけど、俺が死ぬ瞬間に玲王はいない。玲王は俺のことを置いて、今にもあっちに逝こうとしている。
「おばけになって出てやるから」
皺が増えた顔を、一段と皺くちゃにして玲王が笑った。かつての、若き日の玲王が重なる。どれだけ姿形が変わっても、俺の中で玲王は玲王だった。
「おばけになって、ずっと凪の隣にいる。凪が死んで、二人でおばけになったら、一緒に天国にいこう」
天国なんて、そんなもの本当にあるかは分からない。昔、玲王も同じようなことを言っていた。俺も玲王も無神論者ではないけれど、特別神やら天国やらをじているわけでもない。
けれど、ここで言う天国は、天国という名の二人の居場所のことだろう。
玲王と居られるなら、どこでも良い。地獄の果てだろうが、はたまた人類が誰一人として思い描いたことのない死後の世界か。どこだって、二人一緒なら幸せだから。
「約束だよ」
「ああ、約束な。俺がお前との約束破ったことがあったか?」
「……ううん、無いよ」
最後まで一緒にいてよ。
深く考えず、あのときただ思ったままに口にした言葉は、俺の深層心理にも近かった。そして玲王は、今にもその約束を果たそうとしている。
「ちょっと疲れたから、そろそろ寝るよ」
か細いその声に、もう怯えることはなかった。確信めいたものがあった。玲王はきっと、この眠りから目覚めることは無いと。だけど、次の日の朝も、その次の日の朝も、俺が目覚める隣に玲王はいてくれるはずだ。
「うん、ゆっくり休んで」
「なぎ」
「なぁに、レオ」
「愛してるぞ」
「知ってる。でも、俺の方が愛してるよ」
「ふふ、嬉しいよ、ありがとう」
口角を僅かに上げたまま、玲王の瞼は閉じられた。それは、おとぎ話の眠り姫よりも穏やかで美しい姿で、俺はそれをただ見つめていた。
「俺ももうすぐおばけになるから、その時まで待っててね」
死がふたりを分かつまで、なんて使い古された言葉は、きっと俺達には似合わない。