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書庫の窓から差し込む朝の光が、埃の粒子を白く浮かび上がらせながら、静かに床を這っている。
古びた木の匂いと、蓄積された紙の匂い。そこへわずかに混じるインクの香りを吸い込みながら、クレアは手元の書類に視線を落としていた。
「異質の人形たちの行動記録」。
それが今日、クレアに任された仕事だ。
隣の机では、アンティが別の書類を整理している。腰まである黒髪が肩から滑り落ちるたび、彼はそれを無造作に払い、ペンを走らせる。その所作は流れるように美しく、淀みがない。
「難しくはないさ。ただ、異質に関する文書は繊細だから慎重に」
最初にそう言われたとき、クレアは背筋を伸ばした。実際に始めてみると作業そのものは単純だったが、一文字一文字が誰かの人生や、あるいは「世界のバグ」を記録しているのだと思うと、ペン先に確かな重みを感じる。
部屋の隅の椅子には、ロビンが座っていた。
焦げ茶色のショートケープを纏った小さな体。口元の白い布が、朝の光を反射して白く光る。ロビンは好奇心の混じった琥珀色の瞳を揺らし、じっとクレアの作業を見つめていた。
クレアがふと視線を向ければ、ロビンは「ん!」と喉を鳴らし、尻尾を振る犬のように嬉しそうに体を揺らす。
思わず頬が緩んだ。
「……かわいい」
声に出したクレアに、アンティが口角をわずかに上げる。
「ロビンは君のことが気に入ってるみたいだな。あれだけ長い時間、飽きずに観察しているのは珍しい」
アンティはそう言って、再び淡々と書類に向き合った。ペンの走る乾いた音だけが、静かな書庫に響いている。
そのとき――重い木扉が、控えめに開いた。
「……失礼します」
柔らかい声が響く。扉の向こうに立っていたのは、アスモデウスだった。
緩くウェーブのかかった黒髪。手には数枚の書類を抱えている。
「ああ、アス。それ、預かるよ」
アンティが手を伸ばそうとする。だが、アスモデウスはクレアの姿を視界に入れた瞬間、彫刻のように動きを止めてしまった。
「……っ」
アスモデウスは書類を無理やり机に置くと、脱兎のごとく踵を返す。逃げるような足音が、廊下の先へ遠ざかっていった。
「あっ……」
かける言葉も見つからないまま、クレアは呆然と開いた扉を見つめる。
「まーたやってら」
部屋の隅、いつの間にかロビンの隣に立っていたスタシスが、黄色いおさげを指で弄りながら溜息をついた。
「少し話してきたらどうだ、クレア。あいつ、このままだと一生挙動不審だぞ」
アンティが書類から顔を上げずに促す。
「面倒な仕事は僕らがやっておくから」
「うえー、私はロビンと遊び隊だから無理~」
スタシスがおどけて両手を上げたが、アンティの視線が低くなると「……はーい」としぶしぶ頷いた。
クレアは深呼吸をし、椅子を引く。
理由もわからないまま避け続けられるのは、どうしても悲しい。何より、あの怯えるような瞳の理由を知りたかった。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
遠くにアスモデウスの背中が見える。小走りに遠ざかっていく彼女を追い、クレアも靴音を響かせて走った。
「あ、あの! アスモデウスさん!」
声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねる。だが、彼女は振り返らずにさらに足を速めた。
「待ってください!」
廊下の角を曲がったところで、ようやく追いつく。
「ひゃっ……?! え、ち、近っ……! 」
アスモデウスは、弾かれたように後ずさった。だが、数歩も退かないうちに背中が冷たい壁を捉え、彼女の逃げ場を完全に塞いでしまう。
クレアは逃がさないように一歩踏み出し、真剣な目で見つめた。
「その……私、何か嫌われるようなこと、しましたか?」
「ち、違っ……! 違うのよ……っ」
アスモデウスは顔をそらし、震える指先で自分の喉元をなぞっている。
「逃げないでください。ちゃんと、お話したいんです」
クレアはもう一歩、距離を詰めた。アスモデウスの甘い、花の蜜のような香りが届く。
「私のせいなら、直したいです。でも……理由もわからないまま避けられるのは、ちょっと……寂しいです」
その言葉に、アスモデウスの肩が激しく震えた。
「……寂しい、か」
か細い声が漏れる。彼女は腕で顔を覆い、深い溜息をついた。
「あなたが悪いわけじゃないの。私が……勝手に気まずくなってるだけだから」
「……理由を、聞かせてもらえませんか?」
アスモデウスはゆっくりと腕を下ろした。その瞳には、目の前のクレアではなく、もっと遠くの……時の彼方を見つめるような色が宿っている。
「……ただの昔話よ。聞く価値もない、ね」
彼女は自嘲気味に微笑んだ。だが、その笑みはひどく儚く、誰かの面影を必死に手繰り寄せているようにも見える。
「嫌いじゃないの。ただ……あまりにも眩しいから」
「……眩しい?」
「ええ。だから、少しずつ慣れさせて。逃げないように、頑張るから」
その返事に、クレアの胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございます。……諦めずに、また声かけますね」
「……善処するわよ」
アスモデウスも、さっきよりずっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……ピ」
不意に後ろから袖を引かれる。いつの間にか追いかけてきたロビンが、琥珀色の瞳でクレアを見上げていた。
「あ、戻らなきゃ。アスモデウスさん、また絶対お話しましょうね!」
「……わかったわよ」
今度は逃げずに、アスはちゃんと返事をした。
書庫へ戻るクレアの背中を、アスモデウスは壁に背を預けたまま見送る。
「……寂しい、か」
もう一度、その言葉を噛み締める。
サラも、同じことを言った。火刑の煙の中で、最後まで自分を案じていた白い髪の少女。
「……ずるいわよ、クレア」
彼女は顔を覆い、小さく笑った。嫌ではなかった。むしろ、その直球な言葉が、凍りついたアスの時間を少しだけ溶かしたような気がした。
夕暮れ時。
オレンジ色の光に染まった廊下を、クレアはスタシスとロビンに連れられて歩いていた。
「クレア〜! お腹空いた、ご飯にしよ〜!」
スタシスの賑やかな声に、ロビンが嬉しそうに「ピ」と喉を鳴らす。
その三人の影を、アスモデウスは遠くから静かに見つめていた。
また、あの子と話せるように。
そう思いながら、彼女は自分の部屋へと続く暗がりに、ゆっくりと足を踏み出した。