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地下の訓練場は、ひんやりとした静寂に包まれていた。高い天井と厚い石造りの壁。床に刻まれた無数の傷跡は、これまでにこの場所で繰り広げられてきた「異質」たちの凄惨な記録そのものだ。空気には微かに古い鉄の匂いが混じっている。
クレアは動きやすい訓練着に身を包み、その場に立っていた。
長い白髪を後ろで一つに結び、無防備な掌を軽く握り込む。
「異質の暴走は、いつ、いかなる状況で起こるか予測できない。最低限の護身を身につけねば、君の命は瞬く間に塵となるだろう」
昨日、ジェイドから告げられた言葉が脳裏をかすめる。
そのクレアの正面に、一人の女性が立っていた。
アルトリウス。
銀色の儀礼用鎧を纏い、銀髪の毛先に鮮やかなロイヤルブルーが閃く短髪。その瞳は抜身の剣のように鋭く、一切の妥協を許さない光を宿している。
「初めまして、クレア」
アルトリウスは、指先まで神経の通った完璧な礼を示した。
「私はアルトリウス。これより、貴殿の訓練を担当させてもらう」
「よろしくお願いします」
クレアも、風景を眺めるような静かな瞳で一礼を返した。
アルトリウスは一歩踏み出し、クレアの体躯を射貫くように見据える。
「まず、構えだ。足を肩幅に開き、重心を前へ落とせ。……肩の力が入りすぎている、抜け。視線は常に前だ」
アルトリウスはクレアの周囲を歩きながら、その手つきで姿勢を正していく。指導は厳格だが、触れる手には確かな誠実さが宿っていた。
「……よし。では、回避の初歩を試す」
アルトリウスは一度距離を取ると、低く腰を落とした。
「私が仕掛ける. 君は、それを避けろ」
「は、はい」
刹那、銀色の残像が走った。
「っ!」
クレアは反射的に身を翻す。アルトリウスの拳が、鋭い風を切ってクレアの頬を掠めた。
「遅い。敵の呼吸を読め、もう一度だ」
冷徹な声が響く。再び放たれた鋭い踏み込みに、クレアは必死に食らいついた。だが、経験のなさが足元を狂わせ、バランスを崩して体が大きく傾ぐ。
「あ――」
地面が迫る。しかし、衝撃が来るより早く、強靭な腕がクレアの体を力強く横から支えた。
「……っ」
見上げれば、アルトリウスの凛々しい横顔がすぐそばにあった。
「足元を見るな。敵の動きを予測し、その先へ身を置くのだ」
その声は相変わらず硬いが、クレアを支える腕には、彼女が怪我をしないよう配慮する細やかな力加減があった。
「立て。もう一度だ」
そう言ってクレアを立ち上がらせるアルトリウス。その手つきは、荒事の中に宿る特有の優しさに満ちている。
「はは、アル教官。あんまり怖い顔をすると、クレアちゃんが泣いてしまうぞ」
訓練場の隅から、場にそぐわないほど明るい声が響いた。
ヘイストだった。羊の角のようなヘルメットを被り、未来的な軍服のスーツを纏った彼女が、壁に背を預けてこちらを見ている。
アルトリウスの眉が、不快そうに跳ね上がった。
「ふざけるな。……っ、変なことを言うなと言っているだろう!」
「いやいや、本当のことだろう? クレアちゃん、怖くないか?」
ヘイストはくすくすと笑う。その冗談はどこか、マニュアルから借りてきたような不自然な丁寧さを帯びていたが、場を和ませるには十分だった。
クレアは小さく首を振った。
「……大丈夫です。とても丁寧に、教えてくださっているので」
「ほら。生徒は理解してくれているぞ」
ヘイストが揶揄うように言うと、アルトリウスは気まずそうに顔を逸らした。
「……訓練を続ける。集中しろ」
その様子を、さらに離れた特等席から眺めている影があった。
トラカルだ。
丁寧に編み込まれた金髪を揺らし、豪華なマントの裾を椅子の横へ流して、優雅に脚を組んでいる。
「……やれやれ」
短く吐き出された溜息。トラカルは冷ややかな、しかしどこか慈しむような瞳で、心血を注いで訓練に励む「自分の騎士」を見守っていた。
訓練は数時間続いた。
汗が額を伝い、クレアの息は激しく上がる。だが、アルトリウスの「いいぞ、集中を切らすな」という短い激励に支えられ、彼女の動きは少しずつ、しかし確実に鋭さを増していった。
「……よし。今日はここまでとしよう」
アルトリウスが構えを解き、腰の水筒をクレアに差し出した。
「お疲れ様。君は飲み込みが早いな。次は、より実践的な制圧術を教えよう」
「はい……ありがとうございます」
冷たい水が、熱を持った喉を潤していく。
「お疲れ様、クレアちゃん」
ヘイストが近づき、その未来的なスーツの手袋を鳴らした。
「アルは厳しいけれど、悪い奴じゃない。君のこと、ちゃんと見てくれているよ」
「……当然だ。教官として、手を抜く選択肢などない」
アルトリウスの声が少しだけ裏返る。
「ほら、また照れてる」
「照れてなどいない!」
子供のような言い合いをする二人を見て、クレアの頬が自然と緩んだ。
厳格な騎士にも、揶揄われると年相応の少女のような隙が生まれる。そのちぐはぐな温度が、クレアには心地よかった。
訓練場の出口。
トラカルがゆっくりと立ち上がり、豪華なマントを翻して歩み寄ってきた。
「お疲れ様、クレア。アルは不器用なだけなんだ。騎士としての誇りが強すぎて、自分にも他人にも優しくする方法を忘れているのさ」
トラカルの言葉は、まるで何百年も生きているかのように達観している。
「だが……本当に大切に思っている相手には、それなりの誠実さを見せる、不器用な騎士だよ。期待していなさい」
「……はい。明日も頑張ります」
クレアが頷くと、トラカルは小さく微笑み、影の中へと消えていった。
夜。
自室に戻ったクレアは、ベッドに身を沈めていた。全身が筋肉痛で軋む。けれど、その痛みは自分がこの「異質」な場所に確かに存在しているという証拠のようにも思えた。
「……ピ」
扉の向こうから、聞き慣れた音が響く。
開けると、そこには茶色のケープを纏ったロビンが、琥珀色の瞳を潤ませて立っていた。
「ロビンちゃん。……心配してくれたの?」
ロビンはこくりと頷き、クレアの手をそっと握りしめる。
クレアは微笑んで、少女の頭を撫でた。
「ありがとう。大丈夫、明日もまた頑張れるよ」
一歩ずつ、この境界の向こう側へと馴染んでいく。
静かな夜の闇の中、クレアは心地よい疲労感に抱かれながら、ゆっくりと重い瞼を閉じた。