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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
ようやく穏やかな日常が戻ってきた。だけど、人生の試練というのは、いつも前触れもなくやってくるものだと思う。
「は、転勤ですか?」
朝一番、会議室の冷え切った空気の中で告げられたのは、念願だった昇進の打診と、それに伴う地方支社への異動命令だった。
昇進をかけた最終試験のようなステップがあることは覚悟していた。この業界で、女性の私が推薦される事がどれほど名誉で、険しい道のりであるかも、痛いほど理解していたはずだった。
「社長から、どうか聞いてみてくれって」
相変わらず不愛想で、視線の読めない上司の佐野さんが、淡々とこちらの反応を待つ。その沈黙が、決断を急かすように私の肌を刺した。
一年前の私なら、食い気味に「行きます」と即答していたと思う。仕事こそが私の生きがいであり、この瞬間のために身を削って働いてきたのもある。けれど今、思考を真っ先に掠めたのは、雅だった。
言葉が喉の奥にへばりついて、剥がれてくれない。
「……これは、強制ですか?」
「朝比奈さん次第。昇進にこだわらないなら無理に行かなくてもいいと思う」
断れば、期待を裏切るだけでなく、キャリアに泥を塗ることになるかもしれない。だけど、受けてしまえば、あの雅と二度目の遠距離恋愛。
五年前、私達はそれで別れた。一度失敗したものが、二度目でうまくいくなんて、今の私には到底思えなかった。
前はたった一年で限界がきた。今回は、最低でも一年から二年。へたをすれば、それ以上の月日がかかる。
過去のその経験がトラウマになり、今回もまた、乗り越えられないのではないかと思えてならなかった。
「……申し訳ございません。少しお時間いただいてもよろしいでしょうか」
「うん、決まったら声かけて」
短い許可を背に、会議室を後にした。
雅と再び歩み始めたばかりの頃、仕事が一番だと言い切っていた自分を思い出す。あの時の私にとって、仕事は裏切らない唯一のもので、それを超えるほど大切なものが自分の人生に現れるなんて、微塵も思っていなかった。
だけど、いざその仕事を優先すべき時が来たら、すぐに決断することが出来なかった。
状況が違うと言い訳をすることを自分でも情けないと思う。
かつての私達の関係性は、もしかしたら義務感や寂しさを埋めるためのものだったのかもしれない。だけど今は、心の底からまた、雅を好きになってしまった。本気で誰かを想うことが、これほどまでに決断を鈍らせてしまうだなんて知らなかった。
かといって、積み上げてきたキャリアを、あっさりと手放せるほど仕事に対して諦められてもいない。恋か、仕事か、どちらも選ぶには、どうしても時間がかかる。
もし、雅に遠距離になっても関係を続けたいと打ち明ければ、あいつはどんな言葉を零すのか。また、あの時と同じように、仕方ないと終わりを選んでしまうのか。それとも、今の彼なら、諦めず私を繋ぎ止めてくれるのか。
⏲
帰宅して、いつも通りに夕飯を済ませ、風呂に浸かる。
すべてをこなした後、ソファーに座って考え事をしていたはずだった。だけど、いつの間にか意識を手放し、その内、体が宙に浮くような感覚に包まれる。
微かに瞼を開くと、すぐ近くに雅の顔があった。
眠ってしまっていたのだと気づくのに、数秒を要した。
「起こした?」
「……うん、おかえり」
「ソファーで寝落ちとか珍しい事してんな。風邪引くぞ」
呆れたような響きで言うと、雅はそのまま私を腕の中に収めたまま、寝室まで運んでベッドへと下ろした。
彼はベッドサイドに腰を下ろすと、右手で自分の左肩を掴み、ぐるりと首を回した。
「あー、重かった」
「悪かったわね」
冗談めかして言った後に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。
そんな些細な表情にさえ、心臓が跳ねてしまう。
やっぱり、離れたくない。今、キャリアを優先して雅を失うなんて耐えられない。
昇進を諦めても、好きな仕事は続けられる。仕事を選んだら、この男を失うかもしれない、なんて考えたくも無かった。
雅の顔をじっと見つめていると、彼は不思議そうに首を傾げた。それから、大きな手が私の頬に添えられる。彼の細い指先が、私の肌を優しく撫でた。
いつの間にか触れられるこの時間も嫌ではなくなっていた。以前なら反射的に手を払っていただろうに、今は拒絶をする気にはならない。
雅は、何を考えているのか読めない瞳で私を見つめ、やがて撫でていた手をぴたりと止めた。
「何かあったろ」
悩んでいる態度を見せたつもりはないのに、見透かしたように雅が問いかけてくる。彼はそのまま、私の隣へと寝転がった。
予期せぬ指摘に、鼓動が急激に速さを増す。
「な、何で?」
「夏帆が悩んでる時わかりやすいんだよ。話してみ」
話してみという響きがあまりに優しくて、不覚にも胸が締め付けられた。
普段は自分勝手で傲慢な態度を見せるくせに、私の微かな変化には誰よりも敏感で、こうして隙間に滑り込んでくる。大学時代から変わらない彼のこういう部分が、私を甘やかし、嫌いになりきらせてくれない。
一人で答えを出す気だったけれど、もしかしたら、一緒に悩んで、一緒に道を探してくれるのではないかと期待をした。もし私が「仕事も、恋も、両方欲しい」と欲張ったら、今度こそ二人で遠距離を乗り越えようと言ってくれるのではないかと淡い期待を抱いて、私は意を決して転勤のことを打ち明けた。
「……遠方の支社に転勤になりそうなの、一年か二年、へたしたらそれ以上」
私の言葉が落ちた瞬間、雅はほんの一瞬、弾かれたように目を見開いた。でもその後、すぐに何を考えているのか読めない、いつもの無表情に変わる。
頬を撫でていた手が、ゆっくりと離れていき「……そっか」とそれだけ呟くと雅は、無理に張り付けた様な緩い笑みを見せた。
「行くんだろ? 仕事、頑張ってたもんな」
そんな決めつけに、私は急いで体を起こし、必死に首を横に振った。雅の横顔は、私達の関係をすでに諦めてしまったようだった。
私が当たり前に仕事を選び、彼を捨てると思い込んでいる事が、何よりも私を傷つけた。
交際を申し込まれた時、私は恋人よりも仕事が優先と宣言していた。だから、雅がこうして突き放すような態度を取るのも、自業自得なのかもしれない。
だけど、今の私は、もうとっくに雅を選びたいと思っている。
だから、そんな諦めたような顔で、勝手に完結しないでほしかった。
「違う、雅にそんな事言ってほしくて話したんじゃない」
「大学の時、遠距離は無理って言ってたもんな。どうする?別れる?」
一切の迷いもなく放たれた「別れる?」という言葉に、息が出来なくなった。私が頷けば、このまま呆気なく私を切り捨てるつもりなのかと。
そもそも、あの頃とは状況が違う。雅自身も遠距離は乗り越えられないと悟っていて、もう私と向き合う気がないのだとしたら、私のこの身勝手な想いを押し付けることさえ、許されないのかもしれない。
わかっている。遅すぎる事も、自分勝手な事も。それでも、私は仕事を捨ててでも、雅と離れたくない。
「……別れない。別れるくらいなら転勤なんてしない」
「あんだけ仕事が好きで、恋人よりも仕事優先したいって言ってたのに?」
「言ってることが全然違うのは自覚してる。でも……、嫌なの。別れたくない」
雅の腕を、縋るように強く掴んだ。気付けば、涙が溢れ出していた。
情けなくて、惨めで、こんな顔を見られたくなくて、私は俯いて顔を隠す。
仕事より大事な人ができて、こんな風に泣きながら縋る日が来るなんて、想像もしなかった。
今、この手を離してしまったら、二度と会えなくなる。
その事実に、到底耐えられそうになかった。
次の瞬間、強い力が私を引き寄せた。雅は私を優しく抱きしめると、宥めるようにゆっくりと頭を撫でる。
突然の行動に彼の腕の中で目を見開いた。
「別れねぇよ。俺は遠距離なんかじゃ」
「……え?」
「夏帆からその言葉が聞きたかっただけ。正直、仕事理解してもらえないなら別れるしかないって言われるかなって思ってたけど、別れたくないって言葉で安心したわ」
確信犯だった。そうだ、この男はそういう男だった。
私の必死な思いを試していたのだと気付き、頭に血が上る。私は握りしめた拳で、彼の胸元をドンッと叩いた。「痛って」と零しながらも、雅はまだ楽しそうに笑っている。
本当に腹が立つのに、彼も同じ気持ちだったという安堵感で、全身の力が抜けていく。
「あの時は社会人なり立てで金に余裕があったわけじゃないし、働き始めで気持ち的にも余裕なかったけど、今はあの時と状況違うし、簡単に会いに行けるじゃん」
「……やっぱり嫌い。別れる。あんたみたいな男。私がどれだけ傷付いたと思って……」
「あの日の仕返しだよ。五年前別れるって言って乗り越えてくれなかったことへの仕返し。もうこれですっきりしたし、俺は何年でも待ってるよ。だから、仕事頑張れ」
そう言って、雅は私の頬を両手で包み込み、ぼろぼろになった私の顔を持ち上げ、愛おしいとでも言いたげな表情で見つめてきている。
本当に、こういうところが卑怯で、ずるい。最低なことをされたはずなのに、その笑顔ひとつで、私はすべてを許してしまう。
「会いに来てくんなかったら殴りに行く」
「お前に会えんならそれでも良いなあ」
幸せそうな顔で彼は笑う。
今度こそ、私たちは大丈夫かもしれない、なんて根拠のない、自信だけがあった。
─────────今のこの時間が続くのも後もう少し。
コメント
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いやあ、もうね、雅の「別れる?」の一言で心臓が止まるかと思いましたよ…。でもそれ、過去の仕返しだったっていうオチ、ずるすぎる(笑)。でもそれ以上に、「別れたくない」って泣きながら縋る夏帆さんの姿が本当に切なくて、でもそこから雅が「遠距離なんかじゃねぇよ」って抱きしめる流れ、最高でした。仕事と恋、どっちも選べる強さを与えてくれる関係って素敵だなあ。