帰り際、声を掛けたら思いだしてくれるだろうか?
そう思うものの、当時は偽名を使っていたし、あれからさらに身長が伸び、痩せていたのが嫌だったから、とにかく食べて筋トレをし、体を大きくした。
だから高校生当時の俺を知る人が見れば、『誰?』と言われるほど外見が変わっている。
おまけにあの時は前髪が伸びていて、顔立ちがハッキリ分からなかったと思う。
大学生時代に思い切って髪を短く切ると、幸治に『いいじゃん! イケメンだよ!』と褒められたのを励みにしていた。
それは嬉しかったが、付き合いの長い親友にそう言われるぐらいなら、いつもフードを被り、顔を隠すように接した芳乃は、今の俺を見ても絶対分からないだろうと思った。
その証拠に、彼女は俺の顔を見てもまったく思いだした様子を見せなかった。
だからいきなり副社長に『覚えていますか?』と言われても、警戒させ、怯えさせるに決まっていると思った。
――じゃあ、どうやってアプローチすればいい?
――けど、せっかく会えたんだから、少しでも話がしたい。
そう思って面接が終わったあとに追いかければ、彼女はエレベーター前に座り込んで苦しんでいた。
だからつい、助けたいのと、今の彼女の状況を知りたくてスイートルームに連れて行ったのだ。
事情を聞けば、随分と大変な目に遭ったらしく『彼女の力になりたい』と思った。
芳乃の実家が蕎麦屋を営んでいる事は、高校生時代に彼女の口から聞いていた。
高校卒業後に車の免許をとったあと、『もしかしたら会えるかも……』という下心を持って蕎麦屋に通い始めたが、思いの外本当に美味かったので本当の意味での常連になった。
だから店主――芳乃の父が亡くなったと知った時は、俺も落胆した。
二億円の負債があると知っても、俺なら助けられるし、店を買収する案もすぐに思いついた。
でも、ただ助けて終わり……、は嫌だ。
俺はもう子供じゃないし、ある程度汚い事を知った大人のつもりでいる。
一度は手放した彼女が〝エデンズ・ホテル東京〟の面接を受けた。
これは、運命と言っていい。
神様がいるなら、『今度こそ縁を結べ』と言っているに違いない。
そう思った俺は、彼女の弱みにつけ込む卑怯さを自覚しつつ、負債を肩代わりする代わりに、〝大人の恋人ごっこ〟を求めた。
すぐに〝仁科悠人〟だと名乗らなかったのは、多少の悔しさがあるからだ。
あれだけ真剣に告白したのに玉砕してしまった思い出は、少なからず小さな心の傷になった。
トラウマにならなかったのは、芳乃がしっかり想いを受け止めてくれ、男ではなく夢を選んだからだ。
今の俺は立派な〝大人の男〟になり、芳乃を金銭的に助け、庇護し、男として抱く事もできる。
彼女を前にすると、様々な欲がふつふつと湧いてきた。
――今なら本気で迫ってもいいでしょう?
――この八年、俺はずっと芳乃だけを想い続け、浮気をしなかった。
――その褒美にあなたを意のままにしたいという、欲を叶えたいと思っても罰は当たらないはずだ。
想いを暴走させては失敗すると、身をもって理解したはずだったのに、俺はまた大きすぎる感情に振り回され、回りくどいやり方で芳乃を囲おうとしていた。
――彼女と離れたくない。一分一秒でも長く側にいて、芳乃を感じていたい。
そう思った俺は、理由をこねくり回して同棲の同意を得た。
普段から家の中は業者さんに頼んで綺麗にしてもらっているが、芳乃が来る時はいつも以上に綺麗にしてもらった。
ワクワクして芳乃を家に迎えたその日、彼女が俺の贈ったネックレスを肌身離さず身につけていると知り、感動のあまり声を上げそうになった。
――こんなの、両想いに決まってるじゃないか!
俺はそう口走りかけたのをグッと堪え、同棲生活が上手くいく事を確信した。
――今の俺ならすべて上手くやれる。
――彼女を幸せにできる。
そう思うと同時に、あまりに彼女の前で情けない姿を晒した〝仁科悠人〟が恥ずかしくなってきた。
当時の俺なりに愛情表現をし、芳乃も嫌がってはいなかっただろうが、〝あれ〟は俺の理想ではない。恥ずべき思い出だ。
俺が〝仁科悠人〟である事は自然に思いだしてくれればいいし、肝心なのは〝今の〟俺と芳乃が愛し合う事だ。
そう思ったのだが――。
『結婚したい人がいる?』
眼鏡の奥で目を細めたのは、会長職に就いている祖父だ。
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