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――こんな夢を見た。
そんな言葉で始まる小説があったような気がする。
夢はいつも傍にあり、しかしそれは溶け落ちる夜のように脆い。
男は夜道を歩いていた。
どこかへ向かう道だったか、はたまたどこかへ帰る道だったか。なんにしろ、綺麗な銀色の髪をした男は歩いていた。今日はやけに綺麗な輪郭を持つ満月の下を、一人。
**パリン。**
それは頭上の満月が壊れたかのように思える音だった。それほどに繊細で、美しい音だった。
しかし、割れたのは月ではないとすぐに気が付く。
都合よく月明りに照らされた道の真ん中に、ナニかが落ちていた。割れたのはこれだ、と直感的に感じる。しかしそれが何なのか、遠目には分からなかった。
男は気になってナニかに近づく。
それは、ティーカップだった。
ただのティーカップじゃない。半分に欠けたティーカップだ。
持ち手側の部分を残して、その先のもう半分はどこを見渡しても落ちてはいない。
また、カップには蔦や花の装飾が繊細な技巧で描かれている。特に目を惹くのは、バラのような、しかしどこかバラとは違う金色の花の絵だ。
ただ、それだけの物なのに、どこか強く惹かれる感覚がした。
「……誰のものだ?」
男は誰にともなく呟いた。
よく見てみると断面が随分と綺麗だ。落として割れた、というわけではなさそうだ。
しかし、どうやったらこうも綺麗に割れるのだろう。
あまりに綺麗に半分だけ残っているものだから、ともすればこれはこういう物なのだと言われてもおかしくない。しかしそれにしては、先のない半分が空虚に思える。
そんなことを考えていたときだった。
**ごぽり。**
煮立つ泥のような音がした。
音は――男の足元から鳴っている。
足元に目を落とす。
**――いつのまに、そうなっていたのか。**
男の足元にあったはずの影が広く伸びて、まるで水槽をひっくり返したみたいに足元を浸食していた。そうして、その広がった黒い泥が泡と音を立てているのだ。
**ごぽり、ごぽり、ずぶり、ずぶり。**
少しずつ、男は沈んでいく。
底があるはずの地面に、足からゆっくりと沈み込んでいく。生ぬるい温度が足首を撫でた。
「――ッ」
呆気に取られようと、もがこうと、落ちる速度は変わらない。
足から腰、腰から胸、そうして胸から鼻。
とうとう息ができなくなって、しかしすぐに視界をも影が呑む。
最後に見たのは、男を見下ろす丸い月だった。
—
纏わりつくような暗闇だった。
心臓の少し上、たとえば魂と呼ばれるようなものをぬるま湯につけられたような、そんな心地だった。
その深淵から、なにかが、男を見ていた。
それがなんであるのか、この暗闇では理解することができなかった。
しかし確かに視線が、男に向けられている。この暗闇の中、ほんの数センチの距離に、なにかがいる。
いつか忘れてしまった暗澹が、男に手を伸ばしていた。
ふと、思う。
その“なにか”は一つだけではないのではないか、と。
男を囲むこの暗闇に、今はまだ見えていないだけで、いくつもの目が泳いでいるのではないか。
それらは男を見定めるように、手招くように、その黒い視線を何百何千と男に向けているのだ。
「……気味が悪いな」
そんな想像は氷水でもかけたかのように、男の心臓を冷やした。
**「ああ、いたいた」**
突然、降りかかったのは、知らない男の声だった。
**「やっぱり捕まっていたね。まあ、こうなっては仕方のないことだろう」**
まるで、ほんの数分はぐれた友人を呼び止めるみたいな声で、口ずさむ。
「……誰だ?」
男は暗闇の中で、かすれた声を出した。
**「アモル・マギステル・エスト・オプティムス」**
それが合図だった。
耳慣れない音だと理解するよりも前に、脳髄ごと持ち上げられる感覚。
壊れたエレベーターのように意識が飛ぶ。
視界の端に、虹色が見えた。