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結局、篠崎の帰ってこないマンションに帰る気になれず、由樹は展示場そばの漫画喫茶でシャワーを浴びて戻ってきた。
和室で軽く仮眠をとったが、眠れた気がしない。
やっとウトウトしかけたところで、朝が早い工事課のメンバーが集まり始め、意気揚々と展示場から各々の現場に出て行った。
少し気が早いと思ったが他に何もすることがなく、明日地盤調査に行く客の商談用プレゼンテーションを作ることにした。
床暖房と耐震性に興味がありそうだったので、その2つを中心に入れ込んだ。
厚いハードカバーに自分の名刺を挟める。
【SESON ESPACE 新谷 由樹】
チラリと隣のデスクを見下ろす。
そこには、会社用のアドレスを客に伝えるためだろう、篠崎の名刺が名刺がいつも挟んである。
【SESON ESPACE 店舗マネージャー 宅地建物取引士 インテリアコーディネーター ………】
(……すげえな)
名刺に並ぶ肩書と資格の数々に由樹は瞬きをした。
そしてその下に印字された名前を見つめる。
【篠崎 岬】
「……………」
つい2日前まで身近にあった名前が、今や遠くに行ってしまった気がする。
ピピピピピピピ
ギーガシャッ。
「うわっ!!」
音に驚いて振り返ると、ファックスが数枚流れてきた。
いつもは人がいて、雑音が常にあるため、何も感じないが、無人だとこんなに響くのか。
まだドクドクと暴れている心臓を手で抑えながら、それを取り出す。
「……紫雨さんからだ」
内容を読みながらコーヒーメーカーに自分のカップを突っ込む。
「………太陽光発電パネル、意見交換会?あ……」
上から手が出てきて、それを取り上げた。
振り返ると、
「あーきたきた」
無表情の篠崎が立っていた。
「あ、篠崎さん…」
「おはよう、新谷君!」
後ろで渡辺も手を振っている。
「新谷。お前、来週の金曜日、空いてるか?」
篠崎が自分のデスクに鞄を置きながら言う。
「あ、はい。来週は何も入ってないですけど」
「じゃあ、天賀谷に出張」
言いながら篠崎は自分の椅子に座った。
「開発部の奴らが来て、太陽光パネルの説明会があるんだと。お前が参加してくれ。詳しくは紫雨に聞け」
言いながら手帳を取りだし、デスクに置きながらパソコンを開いている。
「あ、はい。わかりま―――」
「あれー?」
渡辺がこちらを見下ろす。
「新谷君、もしかして昨日家に帰ってないの?」
「あ、え?」
「昨日と同じワイシャツだから―――」
一瞬、隣から鋭い視線を感じた気がしたが、由樹がちらりと見た時にはもう篠崎はディスプレイを見つめていた。
「………あ」
渡辺は瞬時に何かしらの空気を感じ取ったらしく、由樹に微笑んだ。
「あれ?やっぱり違うね。勘違いだったや。ふははは」
乾いた笑い声を出しながらパソコンを開く。
仕方がないので由樹も自分のパソコンを開いた。
【社外秘 太陽光発電パネル 意見交換会】
由樹はデスクの端に置いたファックス用紙を見つめた。
このミーティングへの参加が、自分と篠崎の運命を大きく変えることになるとは、この時はまだ知らなかった。
朝礼が終わり、それぞれ業務に散っていく。
今日一日特にアポもない由樹は現場周りをするためにデジカメを鞄に入れた。
「そのプレゼンファイル……」
と、隣にいた篠崎がこちらを見下ろした。
「あ、はい……!」
やっとまともに目があった上司を見上げる。
「明日のお客様のか?」
「……はい。ちょっと気が早いかなとは思ったんですけ―――」
「見せろ」
「……あ、はい!」
篠崎のいつになく厳しい口調に、何かを感じ取った営業のスタッフが視線だけ上げる。
由樹はファイルを両手で篠崎に渡した。
足を組みながら篠崎がページを捲っていく。
緊迫した空気が流れる。
由樹は膝に両手をつきながら、彼の顔を見つめた。
「床暖房と、耐震性か」
篠崎がファイルを由樹のデスクに返しながら言った。
「わかりやすいが、もう一声だな。光熱費と太陽光も入れろ。床暖房と光熱費はセットだし、光熱費と太陽光もセットだ」
光熱費……太陽光発電……。
そうだった。
「はい、すみません」
「あとは自家発電の去年の数値も。この間システム回覧で、秋田の数値あっただろ。それを載せろ」
「秋田の?ですか?」
思わず聞き返すと、篠崎は切れ長の目でこちらを見つめた。
「こんなに雪深いところで、関東の積雪がほぼない地域のモノを載せても参考にならない。もっと積雪量が多いところのデータで見れば、“この地域でさえ、こんなに発電するんだから…”って思うだろ」
その唇にわずかながらいつもの優しい微笑みを見つけ、由樹は胸が熱くなった。
「はいっ!」
「それともう一つ」
篠崎は机の中からマネージャー保管である書類の束を出した。
「これも持っていけ」
「え。契約書……ですか?」
由樹はそれを受け取ると、篠崎を見つめた。
「場合によってはその場でサインをもらう」
「……………」
「明日は次のアポに繋げるんじゃない。セゾンで決めてもらう日だ。そう心得て行け」
「おお……!熱い!!」
向かい側の渡辺が話に乗ってくる。
「もうそんな段階なんですね」
篠崎が視線を渡辺に移す。
「この客には、セゾンの家作りがもう刺さっている。それなのに現場見学会や完成見学会に興味がないのは、そう言うことだ」
「すごい!新谷君、もしこれで決めたら、最短記録かもね!」
「いや……」
篠崎は視線を由樹に戻した。
「こいつの最短記録は、一番はじめに店頭一発で決めた、向井田さんだ」
由樹は口を開けた。
そうだ。
アプローチがうまくいかなくて悩んでいた時、篠崎から「お客様の話を聞き切る」というアドバイスをもらい、展示場の和室でずっと話を聞いただけのお客様。
その場でセゾンと契約を結び帰っていったのだった。
「……懐かしいなぁ」
渡辺が腕を組みながら天井を見上げる。
「あんときは初受注のお祝いに飲みに行きましたねー」
そうだ。飲みに連れて行ってもらった。
そしてその席で―――。
篠崎と初めてキスをしたのだった。
横目で篠崎を見つめる。
彼も覚えていてくれているだろうか。
「じゃあ今回も、もし決まったら、飲みに行きますか!」
渡辺が丸い手を叩く。
「あ、そうです。ね、篠崎さん。俺たちも昨日、地盤調査終わったらみんなで飲みに行こうって話をしてて」
金子が笑顔で賛同する。
「……え?」
由樹は篠崎を見上げた。
今こんな状況なのに、飲みに連れて行ってくれるのだろうか。
「え、それって俺もですよね?連れて行ってくれるんですよね?」
明日展示場に日直として残る予定になっている細越が、眼鏡の奥から不安そうにこちらを見上げる。
「いいけど、お前、会計・幹事な。俺たちきっと雪かきで半分死んでるから」
篠崎が笑う。
「酒回るでしょうね……」
渡辺も遠い目をしている。
「そんな大変な日に、悪いですよ」
由樹が慌てて見回すと、篠崎の大きな手が背中を叩いた。
「いいんだよ。お前のペナルティ回避祝いつーことで。その変わり決めろよ!」
その以前と変わらない熱い眼差しに、胸が熱くなる。
「………はい……っ!」
頷いた由樹に、渡辺がうんうんと頷きながら立ち上がる。
「じゃあ、今日も一日頑張りますかー」
長靴を履き、ドアを開ける。
「………ありゃ、また降ってきたな」
由樹もそのわずかに開いたドアから外を見つめた。
今日で今月は終わる。
11月としては異例のこの積雪は、勢いを増しながら八尾首市を白く覆いつくしていった。
◇◇◇◇◇
現場周りをして由樹が展示場に戻ってくると、篠崎は一人、自席で電話を掛けていた。
「それはよかった」
にこやかに話している。
通話の邪魔をしないようにそっと鞄を置き、コーヒーメーカーにカップだけ突っ込んでボタンは終わってから押すことにする。
「それでは明日、工事担当と設備屋とメーカーのスタッフと伺いますので。ええ、大変ご迷惑をおかけしました」
言いながら篠崎がチラリとこちらを見上げる。
「あ、それとこの間連れて行った新谷も連れて行きます。……はい。あ、そうです」
こちらを見たまま手を伸ばし、コーヒーメーカーのボタンを押してくれる。
「こちらこそ。よろしくお願い致します」
言うと篠崎は電話を切った。
ジョボジョボと派手な音を立てて淹れ終わったコーヒーをメーカーから取り出し、由樹のデスクに置いてくれる。
「あ、すみません……!」
言うと、
「明日、地盤調査のあと、鈴原さんの床暖房の室外機、新しいのが来たから同行してくれるか?」
鈴原の室外機……鈴原夏希の……。
「あ、はい!もちろんです」
由樹は大きく頷いた。
「じゃあ、よろしく」
篠崎は微笑み、鞄を持って立ち上がった。
その表情が、数日前とあまりに違和感がなくて、由樹はすがりそうになる。
このまま許してくれるのではないかという可能性に。
また前のように幸せな日々に戻れるのかもしれないという期待に。
「………篠崎さん!」
事務所から出ようとしている彼の背中に、叫ぶように呼び止めた。
「……どうした」
篠崎が振り返る。
その視線にも怒りや冷たさは感じられない。
「……今日は……帰ってきますか?」
言うと篠崎はすうっと息を吸い込んだまま静止した。
「………俺、話がしたくて」
唇を結び、すがるように篠崎を見つめた。
「…………」
篠崎は一瞬視線を落とした後、また由樹にそれを戻した。
「……馬鹿。そんなこと考える暇があったら、仕事しろって。営業マンだろ?」
笑いながらドアを開ける。
開けたドアから木枯らしが舞い込んできて、ホワイトボードに貼ってある工程表を揺らした。
「余計な事考えてないで、明日は決めろ。いいな」
彼は笑顔のまま、事務所を後にした。
「…………」
由樹は空気が抜けるようにフーッと長い息をついた。
◇◇◇◇◇
金子の打ち合わせに同行していた渡辺が戻ってきたのは、17時を回ったころだった。
「いや、ひどかったね、吹雪」
その言葉に促されるように、由樹は窓の外を見つめた。
日中に降った積雪のせいで融雪装置のついているハウジングプラザの駐車場も真っ白に埋もれている。
「これ、明日の地盤調査、ヤバいですね」
由樹は顔をしかめた。
「まあ、やるっきゃないでしょう!」
渡辺は今度は自分の打ち合わせがあるらしく、バタバタと準備を始めた。
「今日は篠崎さん、客宅で打ち合わせでNRだから。細越も遠方のお客様に図面届けて直帰だし。新谷君も金子も終わったら適当に帰っていいよ」
「……渡辺さん」
由樹は立ち上がった。
「俺、明日の地盤調査の土地、軽く雪かきしてきます」
「は?なんで?いいよ。明日やろうよ」
渡辺が目を丸くする。
「通路だけでも作っておいた方が明日スムーズだと思いますし、お母様が同席なさるので、あんまり雪かきに時間をかけるわけにもいかないですし」
「でもどうせまた今夜も積もるよ?」
「やらないよりはいいかと思うので」
渡辺が外を見つめる。
「まあ、吹雪は収まったけどさー」
心配そうに由樹を見下ろす。
「大丈夫です!無理しないで帰ってくるんで!」
由樹は笑顔でそう言うと、コートを羽織った。
「そう?わかった。終わったら1回事務所に帰ってくる?」
「はい。少ししかやらないので、渡辺さんが打ち合わせ終わるころには戻ってきてると思います」
言いながら携帯電話と財布をポケットにしまう。
「そっか。いってらっしゃい。あ、あとさ―――」
「はい?」
由樹は手袋を掛けながら渡辺を見上げた。
「…………やっぱり、いいや。うん。いい、いい」
渡辺は不自然に何度も頷きながら打ち合わせノートを手にした。
「じゃあ、気を付けて」
「はい。行ってきます」
由樹は事務所のドアを開け放って出て行った。
時庭時代に購入したお気に入りの鞄は、デスク脇に置きっぱなしだった。