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四月から通い始めた療育園。 同じマンションの子供達は紺やグレーなどの園指定の制服を身にまとっているけど、うちは普段着。
向かう先は同じ。だけど途中に立地されてある幼稚園に親子は入って行き、私達だけがその道の先にある療育園に向かって歩いて行く。
月・水・金と週三日、朝九時から昼三時まで。
八時半から九時までは慣らしの時間で、自由遊びをして教室に慣れさせる。
九時から始まる朝の会に順応出来るようにと、私は八時半に教室に入るように心掛けた。
だけどそれが凛の「決まりごと」になってしまうなんて。
『きゃあああー!』
いつものうさぎのぬいぐるみが、今日はおもちゃ箱の中にいなかった。
たったそれだけで、凛は床にひっくり返って泣き叫ぶ。
「こだわり」
凛の中のルールが一つでも崩れると、世界そのものが壊れてしまう。
家でも同じ。おもちゃの配置が違う。赤やピンクの服以外を着せようとする。休日に夫がリビングに居る。私の姿が見えなくなる。
そんな些細な「ずれ」が、彼女にとっては耐えがたい混乱になる。
『凛! だから叩いちゃダメだってば!』
小さな手で、凛は自分の頭を何度も何度も叩く。
月に一度ほどだったその行為が、ついに外でも始まってしまった。
『ぎゃああああああ!』
私が手を取るとさらに声を張り上げ、大人の体を突き飛ばして、自分の頭の中を床に打ち付けようとする。
手を伸ばした私に、先生がそっと口にした。
『お母さん、お辛いでしょうが止めないであげてください。凛ちゃんは今、恐怖と戦っています。痛みで恐怖を和らげているので、止めたら余計に苦しくなるので』
倒れた私を気にしつつ、気を使うように告げられた一言。
ああ。やっぱりそうなんだ。
自閉症児の対応を勉強して分かっていたつもりだったけど。でも実際に、目の前で自分の娘が自傷する姿を見て、止めずにいられる母親がどこにいるのだろう?
『こっちで対応しますから、パニックの時はお母さんは席を外してください』
『……いえ、私も居ます』
凛は、私が居ないとより混乱を起こす。
だから、離れない。離れられない。側に居てあげないと。私が。
顔を上げると、視線を逸らす他の保護者達。
当初より凛が大声で泣いても目を逸らしてくれていたけど、さすがに自分の頭を叩いていたら……ね。
結局、今日も何一つ活動には参加出来なかった。
分かっていたけど、やはりうちが一番。座れず、叫び、お昼ご飯すら食べられない。
分かっていたけど、やはり胸が痛い。
そんなことが、五月の連休が明けた後でも続いている。
親子教室に通っていた二歳の頃よりも、今のほうが慣れない。
『凛ちゃんが家と外の違いを、認識出来るようになったからですよ』
先生はそう言ってくれたけど、つまりそれって知能が付いた分、こだわりが強くなっていくということなのだろうか。
その危惧は当たっていて、凛のこだわりが日に日に強くなっていく。
いつものぬいぐるみ、決まった先生、想定通りのスケジュール。
一つでも欠けるとパニックを起こし、自分の頭を叩く。
「知る」ことで、世界は広がるはずだったのに、生きにくさに拍車をかけるものとなってしまった。
こんなことなら、知識なんて与えなければ良かった。
不意に過ぎる、自分本位過ぎる発想。
ああ……最低だ。
娘の成長を、後悔するなんて。
でも、本音だった。
知恵がつけば癇癪が減ると信じていた。
けれど実際は、「分からない混乱」が、「分かるがゆえの絶望」に変わっただけだった。
対応としては落ち着くまで待ち、今の気持ちを言葉で伝えて凛に教える。
本人はその感情が何かが分からないから、癇癪を起こしてしまう。だからこそ、言葉を覚えて相手に伝えられるようにとパニックは減ると言われている。
親子教室に通い始めた一年前より、継続してきたこと。
やはり療育は、確実に凛を変えていた。
感情を伝える言葉が、少しずつ出てきた。
おうむ返しでも、声を発するようになった。
癇癪も、少しずつ収まりが早くなった。
だけど成長していくのは、当然ながら凛だけではなかった。
『凛ちゃん、来てない』
『おい、忘れてんじゃねーのか?』
凛が癇癪を起こし朝の会に参加出来ないと、周りの子達が気にかけてくれる。
「凛ちゃん待とうよ」と、提案してくれる子もいる。
他の子達の申し出で、朝の会を五分待ってくれるようになった。
なんて優しい子達なのだろう。凛を仲間として認めてくれている。それが嬉しくて、だからこそ、申し訳なくて。
……どうして、こんなに気遣い出来る子が療育園に来ているの?
また出てきた、真っ黒な感情。
他の子と比べてしまう自分。
そのたびに、嫌悪する自分。
その呪いから、私はいつ離脱出来るのだろうか?