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『ぎゃあああああ!』 凛の叫び声で、体が跳ねるようにして目が覚めた。瞼を押し開けたままの脳が、まだ夢の続きと現実を区別できずにいる。
カーテンの隙間から漏れる月明かりは頼りなく、スマホの画面には「2:10」の文字。
まただ。
火がついたみたいに泣き喚くこの発作は、最近、毎晩のように起きる。
ついさっき眠りについたばかりなのに。
『夜驚症ですね』
よほど私の顔が酷かったのか、「お母さん眠れていますか?」と大学病院の先生に問われ、最近夜中に叫ぶようになったと話した。
睡眠障害に加えて、夜驚症。
次から次へと、問題が増えていく。
普通の子育てなら成長と共に別の課題は増えるけど、同時に減っていくこともあるだろう。
しかし凛は、違う。成長するにつれ問題が増えていく。
夜驚症は六歳ぐらいで落ち着くことが多いと説明を受けたけど、睡眠障害についてはまだ分からないらしい。このまま改善しない子の話も、聞いたことがある。
『以前からお話させてもらっていた、眠剤を試してみましょう』
先生の声は穏やかだった。体重に合わせた少量の薬で、負担の少ないもの。経験上、多くの子に効果があったと言っていた。
でも、私は返事をためらった。何故なら──。
『いつでも声をかけてくださいね。すぐに処方出来ますから』
『……ありがとうございます』
深く頭を下げて、診察室を後にする。
薬を飲ませないのは私の詰まらない意地でも、プライドでもない。ただ、怖いからだ。
もし、凛に合わなくて脳に影響あったら。やっと理解した生活習慣が分からなくなるかもしれない。せっかく出た言葉が消えてしまうかもしれない。私を母親だと分からなくなってしまうかもしれない。
先生を信じていないわけではない。薬に抵抗があるわけではない。
それでも私は、心のどこかで怯えてしまう。
だって、こんなに確率の低い特別なことが、我が身に降りかかってきた。
だからまた、何か起きるかもしれないと思ってしまう。
名前のつけようのない、不安。
黒い雲のように形を変えながら、私の中に居座り続けるものが。
『……代わるよ』
午前二時半。別室で眠っていた夫が、寝室のドアを静かに開けてそう呟いた。
今日は土曜日で夫は休み。凛は、昼に夫の姿を見ると癇癪を起こようになっていて、休日はほとんど自室で過ごしてもらっている。
逆を言えば、夜間に夫が側に居てもパニックは起こさない。私が居ないことは許せないだろうけど、今こうやって側に居ても変わらないのだから、夜中の対応は私じゃなければならない理由なんて、本当はない。
だから。
それなのに。
『……いいから』
私はそう言って、夫の申し出を拒んだ。
睡眠不足の目は鋭く、苛立ちから吐き捨てるような言い方をしてしまった。
夫は少し黙って、それから静かにドアを閉めた。
どうせあなたは、まだ「普通の子」だって思ってるんでしょう。
言葉が出たから大丈夫、だって。
確かに話せるようになったけど、それは自分を落ち着かせる為の独り言だけ。
三歳の子が、自分の気持ちを伝えるために言葉を選ぶ。その当たり前の姿とは、まるで違う。
……いいの、私が。私さえ、凛を分かっていたら。
カーテンの隙間より覗く満月の光に照らされた小さな体を、ただ見つめていた。
空の色が濃い青を映し出す夏。冷房が効いた、六畳ほどの面談室に通されると、真っ白は壁がぼんやりと霞んで見えた。
『凛ちゃん、年中から幼稚園に通いませんか? 加配の先生も頼めますし、現在他害も見られなくなったので集団生活も可能だと思いますよ』
年二回の支援計画を立てる為に、療育園より事前に渡されていた希望調査表。
「来年度の進路希望」の欄に、私は療育園のみと記入した。それに対しての提案だった。
以前にも凛と同じぐらいの発達段階の子が、年中から幼稚園に行ったことがあるらしい。その子は良い刺激を受けたことにより、言葉が増え、人の感情を気にかけるようになった。
健常児との共同生活は、療育園だけでは学べないことを教えてくれる。先生の話はそう締め括られていた。
勿論、私もその可能性は知っていて、併用を考えたこともある。だけど、私は。
『結構です』
懇談室のテーブル下、膝下に置いてあった手を強く握り締め、そう告げる。
気付けば表情は険しくなっており、語気が強くなっていた。
……あ。
『療育園だけで充分なので……』
眉を下げ、口角は上げ、努めて穏やかな表情を作り上げて笑って見せる。
いつもの、笑顔の仮面を私は被れているのだろうか?
『……そうですか。あ、あと付き添いの件ですが、お母さんも大変でしょうし、そろそろこちらで対応させてもらいますね。病院とかも頻回に通われていますし、大変ですよね?』
同じくにこやかに話してくれる担当の佐伯先生と、静かに頷く主任の斉藤先生。
佐伯先生は、いくつぐらいなのだろう? 薄化粧でも、若々しくて綺麗。いつも凛に対してにこやかで、優しい。
子供、まだ居ないよね? 人生、これからなんだろうな。
私は、鏡に映る自分の顔を最近見ていない。
怖いから。凛に対して、どんな顔を向けているかが。
『大丈夫です。凛が心配なので』
心とは裏腹に、口だけが勝手に動いていた。
だって、私が居なかったら凛はどうなるか分からないから。ずっと泣き喚き、活動なんて参加出来ないだろう。
そしたら他の子達に迷惑だから。その子達の親御さんに迷惑だから。対応する先生方の迷惑だから。佐伯先生の迷惑だから。
それを避けるためには、私が頑張らないと。私が。