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 夜も更け、街の明かりが消える頃になっても、マリアンヌの兄ウィレイムは、王宮内の一室にいた。


「ああ、今日もマリーの出迎えは望めないか……」


 世界中の人間に見捨てられような情けない声を上げる彼の手には、国の重要な案件を扱う書類がある。


 それにざっと目を通して、雑にサインを入れる。


「おい、ぼやくな。私だって同じだ。もう5日も可愛い娘の顔を見ていない。死にそうだ」


 厳しい声でそう言った男の名は、シドレイ・デュアール。この国の宰相だ。


 シドレイは40代半ばの貫禄ある身体つきに加え、若い頃はさぞや女性にモテたであろうと思わせる端正な顔をしていた。


 彼の手にもまた書類がある。うっかり廊下に落としてしまったら、首を刎ねられること間違いない大切なもので、補佐役ですら目を通すことは許されない内容だった。


 そんな超が付くほど最重要事項が書かれた書類を、シドレイはパタパタと扇代わりにして仰ぐ。他の人が見たら、卒倒してしまうだろう。


 しかし、ここは宰相の執務室。おいそれと立ち入ることはできないし、触れるもの皆、機密情報だらけのこの部屋に、足を踏み入れたいと思う者はそうそういないだろう。


 そんな鉄の扉で守られている室内では、緊張感のない会話が繰り広げられていた。


「どうしてこう書類が多いのですかね、宰相殿」

「私に聞くな。無能な奴がいる限り、書類は減らん」

「じゃあ、その無能な奴と思われる存在を消しても良いですか?妹の顔を見たいので」

「ああ、そうしてくれ。私だってせめて毎日、10分……いや、5分で良い。愛しい娘アンジェラと茶の一杯を飲む時間が欲しい」

「同感です。妹が淹れてくれるお茶は、世界中で一番価値があります。あー……マリー……」


 この国で最も高い地位の官職はバカ親で、次期候補は救いようのないシスコンだ。


 そんな二人は、恋しい娘と妹に想いを馳せるのに忙しく、扉が開いたことに気付かなかった。


「お邪魔するよ」


 砕けた口調とは裏腹に、人を従わせる独特な響きをもった青年の声に、ウィレイムとシドレイは弾かれたように立ち上がった。


 次いで、二人はノックもせずに入室した青年に、頭を下げた。


「気にせず、続けてくれ」


 頭を下げられることに慣れてはいるが、あまり好んではいないといった感じで、青年はすぐに顔を上げることを命じた。


 着席したウィレイムとシドレイが書類を手に取るのを見て、青年はくすりと笑う。


「そうじゃない。先ほどの会話の続きを、だ」

「っ……!」 

「っ……!」


 どうやらこの青年、かなり前から様子を窺っていたらしい。


 意地が悪いと思うが、不満を口にすることなどできない相手でもある。


 部屋に乱入してきたこの青年は、漆黒の髪にアイスブルーの瞳を持つ、セレーヌディア国第二王子クリストファーなのだ。


 クリストファーは、無言で仕事に逃げるウィレイムとシドレイを眺めて、再びくすりと笑い、歩を進める。


「ウィレイム、ちょっといいかな」


 王宮の外では、護衛騎士に扮してしているが、今の彼は王族らしい光沢のある長い上着に、銀の刺繍が美しいタイをしている。


 隙のない王子然している彼に向かって、王宮外の時のように軽口は叩けない。まかり間違っても”お前”や”コイツ”などという物言いはご法度だ。


 ウィレイムは次期宰相と呼ばれるだけあって、切り替えもちゃんとできる男だ。


「なんでしょう、殿下」


 言葉遣いも丁寧に、浮かべる笑みも尊敬の念を込めて、ウィレイムは書類を机の端に寄せ起立する。


 視線は、クリストファーの懐に集中している。


「はい、これ。妹さんからの贈りものだよ。仕事を頑張りすぎる兄上を心配して、こっそり街まで買いに行ったそうなんだ」


 そう言いながらクリストファーは、高貴な存在らしい優美な笑みを浮かべて、執務机に綺麗にラッピングされた小さな箱を置く。


 それを見たウィレイムの顔は一瞬、嬉しそうに輝いた。


 けれど、すぐに厳しいものに変わった。

親友に裏切られた侯爵令嬢は、兄の護衛騎士から熱烈な愛を押し付けられる

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