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その一
週明け、梢はいつも通りに『ひかり書房』に出社した。が、スケジュール帳を見るなり、げんなりした顔になった。今日は、梢が担当をしている小説家、西園寺久子との打ち合わせ日である。
元々はミステリーを中心に執筆していた久子だが、ここ数年はティーンズ向けの青春小説や官能小説とまでは言わないがやや過激描写の多い恋愛小説まで、ジャンルは幅広くなっている。それだけではなく、近頃は情報番組のコメンテーターとしてメディア出演も顕著になっており、歯に衣着せぬ発言が視聴者の注目の的となっていた。
同じ時間帯、笑理は朝食を食べていた。一昨日は梢も一緒だったが、一人になった今朝の笑理の朝食は、トーストにインスタントのコーンスープというシンプルなものである。
リモコンでテレビをつけると、朝の情報番組が放送されている。そこには、デシベルの高いキーキーした声で、何やら政治家の批判をしている和服美人が映っている。
「こういう不祥事をする政治家が後を絶たないから、税金泥棒なんて言われてるんじゃないですか。みんな、先生とか呼ばれて天狗になって。バカバカしい話ですよ。こんな人たちに、日本の政治を任せて良いものなんですかね」
トーストをかじりながら、笑理はテレビに映る久子の辛口コメントを聞いていた。
「小説家が、こんなにもメディアに出ちゃダメでしょ。しかも政治家批判なんて」
笑理は、母親に近い年齢の久子を見ながら、ブツブツと呟いた。
笑理にとって久子は同業者であったが、当然接点はなく、久子の作品を読んだことは一度もなかった。また、メディアに映る久子のキャラがどうも生理的に合わず、笑理はそのままチャンネルを変えてしまった。
情報番組の生放送を終えた久子が『ひかり書房』を訪れたのは、午前十時を回ってすぐだった。こちらに向かってくる着物姿の女性が久子であることは、遠目から見ても梢には分かった。
梢はデスクから立ち上がり、そのまま久子を迎えた。
「西園寺先生、おはようございます」
「おはよう、山辺さん。あら、今日は随分顔色が良いけど、何か良いことでもあった?」
梢は一瞬ドキッとしたが、
「普段は、顔色悪いですか?」
「仕事に追われて、余裕がない感じがするから」
あながち間違いではなかった。実際、今朝はいつもよりメイクに時間をかけていた。これも笑理との出会いがあったからである。
「さあ、こちらへどうぞ」
梢はそのまま、久子をミーティングルームへ案内した。
その二
梢と久子は、新作小説についての意見交換をしていた。久子が用意した企画書と手書きプロットを見ながら、梢は感心するように、
「西園寺先生の頭の中って、どうなってるんですか? こんな濃密な恋愛関係描いたら、先生のファンが増えるのは間違いないですよ」
久子のプロットを見て、梢は生々しい展開が妙にリアリティがあり、ディスカッションを重ねていけば、久子の筆力ならば壮大な恋愛模様が描けると感じていた。
「頭の中は大したことないわよ。これは、私の体験がモデルになってるの」
「え……?」
中年女性が社交ダンスの相手となった年下男性と禁断の恋に落ちるという内容のプロットを見た梢だったが、頭の中が混乱していた。
「体験って言うのは……?」
「この歳になって独身で良かったって思えたわ。読者が私の作品を読んで疑似体験をしてもらうためには、ちゃんと実体験を書かないと、リアリティがないからね」
「あの……まさか西園寺先生って、作品のために……?」
梢は恐る恐る問いかけた。
「若い男に抱かれるのって、ドーパミンがドバドバ出て良いものよ。これで作品が書けるんだもの、一石二鳥じゃない」
久子の爆弾発言に、梢はポカンと口を開けたままだった。
「どうしたの?」
「いえ……ちょっと、情報の整理がつかなかったので」
「作品のために、恋愛経験しようとする小説家なんて、公表しないだけでいくらでもいるんじゃないかしら」
「そうですかね……」
梢の中で、ふと笑理の顔が思い浮かんだ。久子と同じように恋愛小説を執筆する笑理も、もしかしたら作品のために自分に告白をして、付き合い始めたのだろうかと考えてしまった。
「眉間に皺寄ってるわよ」
久子に言われ、梢は慌てて額をこすった。
「プロットありがとうございました。まずは出版会議に向けて、進めていきましょう」
「よろしくね」
呑気そうに帰っていく久子を梢は頭を下げて見送ったが、胸中は穏やかではなかった。
新聞小説の連載も受け持っている笑理は、書斎兼作業部屋でひたすらパソコン画面に向き合っていた。通常の小説と違い、文字数がある程度限られ、読者が離れないような構成が問われるため、笑理の集中力は既存作品とは比べ物にならないほどだった。
『借りてた本、いつ返しに行けば良いですか?』
と、梢からのLINEが届いたのは、そんな時だった。
『明後日なら大丈夫だよ』
梢の心境を知らない笑理は、一言返信をすると再び作業に取り掛かった。
その三
二日後、梢は単行本の返却を口実に笑理のマンションを訪れた。
この二日間、梢は久子に言われたことが頭から離れず、笑理の真意を確認したかったのだ。
「読み終わるの早かったね。さすが編集者だわ」
「いえ……」
「何かあった?」
突然笑理に尋ねられたので、梢は重い口を開き始めた。
「私、ある作家さんの担当もしてるんですけど、その方、作品のためだったら平気でいろんな人と付き合って、体の関係にもなるんですって。恋愛経験のない私には、その気持ちが理解できなくて。他の作家にも、作品のために恋愛する人もいるって言われて……笑理先輩は、どういう気持ちで私に告白したのかなと思って……」
梢はそう言うと、寂しそうにうつむいた。
笑理はしばらく梢を見つめると、突然ケラケラと笑い出した。
「梢ちゃん、そんなこと気にしてたの?」
「だって……」
「誰が言ったか知らないけど、少なくとも私は、作品のために梢ちゃんと付き合ってるわけじゃないってことは、はっきり言っとく」
梢は笑理を見つめ、嘘をついている目ではないと思った。すると笑理は、梢の隣に来てそのまま肩を抱き寄せると、諭すように、
「私は、むしろ逆。梢ちゃんがいてくれるから、作品が書けるんだよ」
「笑理先輩……」
「梢ちゃんがそばにいてくれると、頑張って作品を書こうって思えるんだもん。この間言ったでしょ、梢ちゃんのこと愛してるって。あの言葉に嘘はないよ」
梢は少しでも自分への愛を疑ったことを情けなく思った。久子に言われたことを気にして、笑理に不信感を募らせたことを心底申し訳なく感じていた。
「ごめんなさい……、私……」
「『ひかり書房』から本を出してる作家で、そんなデリカシーのないこと言う人なんて、どうせ西園寺久子でしょ」
図星を指され、梢は黙り込んでしまった。
「やっぱりね。朝の情報番組の発言と言い、あの人はどうも好きになれない」
「西園寺先生に言わないでくださいね」
「言うわけないでしょ。それに向こうは、私の顔知らないんだから」
「あ、そうですよね……」
「ねえ、梢ちゃん。何も考えずに、感情を無にして、目を閉じてごらん」
梢は言われるがまま、瞼を閉じる。すると、唇に柔らかい感触が当たった。もう一度瞼を開くと、笑理の顔が目の前にあった。
「笑理先輩……」
「これでも、私の愛が嘘だと思う?」
梢は勢いよく首を横に振ると、笑理から強く抱きしめられた。笑理の愛が本物であることを、梢はひしひしと感じていた。
その四
「今日も泊まっていきなよ」
笑理にそう言われ、梢は断る理由がなかった。が、少しでも疑いの目で笑理を見てしまった後ろめたさもあってか、
「良いんですか?」
と、不安そうに尋ねた。それでも笑理は、気にも留めない様子だった。
「恋人のマンションにお泊まりするのに、良いも悪いもないでしょ」
「笑理先輩……」
「ご飯食べた?」
「いえ、まだです」
「じゃ、デリバリー頼もうか。ピザで良い?」
「はい」
笑理はスマホのアプリで、ピザを注文した。
「お風呂もう沸いてるから、先入っといでよ。パジャマ、また用意しとくから」
笑理に促され、梢はそのまま脱衣所へ向かい、衣服を脱ぐと、湯舟につかった。
立ち込める湯気の中で、梢はもっと恋人として笑理のことを信じてあげなければと自分に言い聞かせていた。もう疑うことなんて絶対にしないと、湯を顔にかけながら梢は誓った。
梢が風呂に入っている間、笑理は眉間に皺を寄せて、ソファーに深く腰掛けた。
梢に変な考えを持たせた、デリカシーのない久子のことが苛立って仕方がなかったのだ。
「あのババア、一体何考えてるんだか……」
朝の情報番組に映っていた久子と言い、打ち合わせで梢に向けて発した発言と言い、笑理にとって久子は同業のライバルというよりも、完全なる敵となっていた。
大きな溜息をついて腕を組みながら、笑理はゆっくりと瞼を閉じた。
パジャマに着替えた梢がダイニングへ戻ってくると、笑理はソファーに座り込んだまま、うたた寝をしていた。
ふと梢は、自分が笑理の寝顔を見ることが初めてであることに気が付いた。ただでさえ、普段は妖艶でキリッとした顔立ちの笑理だが、やはり寝顔までもが美しく見えている。
「笑理先輩の寝顔、綺麗……」
梢は鞄からスマホを取り出すと座り込み、笑理の寝顔の写真を撮影した。そしてもう一度、笑理の寝顔を見つめた。
「たまには、私から行かないと……」
梢は自分に言い聞かせるように呟くと、深く深呼吸をし、笑理を起こさないようにゆっくりと顔を近づける。これまでは笑理からキスをされているばかりだが、今初めて、自分から笑理にキスをしたのだ。顔を近づけてキスをする間、梢の心臓はバクバクだった。キスという一瞬の出来事が、梢には長い時間がかかったような気がした。
梢が笑理から顔を離すと、突然笑理の目が開いた。
「今、キスした?」
「……」
梢は返事を返す間もなく、笑理に勢いよく床ドンをされてしまった。
その五
床に横たわった状態になっている梢の顔は笑理の両腕に挟まれており、笑理の顔が至近距離にあった。
漫画でしか見たことのない床ドンをされて、梢の心拍は急上昇している。
「今、私にキスしたよね?」
首を傾げた笑理に尋ねられた梢は、恐る恐る返答をした。
「だって、好きな人にキスするのに、理由なんていりますか?」
すると笑理はフッと微笑んだ。
「確かに、梢ちゃんの言う通りだね。じゃあお返しに」
と、笑理の顔がまた近づいた途端、インターホンが鳴った。
「もう、タイミング悪いんだから」
笑理がインターホンに出ると、相手は一時間前に笑理が注文をしたデリバリーピザ屋の店員だった。
テーブルに置かれたシーフードピザを食べている時間も、梢にとっては楽しいものだった。されど自分からのキスかもしれないが、自分の中では大きな一歩であり、より笑理を近い存在に感じたのだ。
自信がついたのか、梢はふと笑理に対して、
「あの……先輩にこんなこと言うのは何なんですけど」
「どうしたの?」
「恋人なので、そろそろ敬語を辞めたいんですけど」
「ああ、確かにそうだね」
笑理は納得するように頷いた。
「私は梢って呼ぶから、梢も私のこと笑理って呼んでよ」
「うん……笑理」
慣れない口調で、梢は初めて笑理を呼び捨てで読んだ。
「何、梢?」
こちらを見つめる笑理の微笑みに耐え抜けず、梢は顔と耳を真っ赤にしてうつむいた。
「いい加減慣れてよ」
「ごめん」
「ほら、よく私の顔見てごらん」
前のめりになった笑理に顎クイをされた梢は、まじまじと笑理の顔を見つめた。
ナチュラルな化粧、大きく澄んだ瞳、きりっとした鼻立ち、程よくグロスが輝く桃色の唇……笑理の完璧とも言える顔立ちは、やはり梢を照れさせる要因となっている。
「ダメ……やっぱり、恥ずかしい」
笑理に見つめられ、梢はまたしても目を背けてしまった。
「テニス部の時、散々私の顔見てたでしょ」
「でもあの時以上に綺麗になってるから」
「梢も綺麗になったよ。メイクもちゃんとノリが良いし」
意図的な人たらしなのか、天然な人たらしなのか、笑理がどっちのタイプなのか分からないが、梢にとってはこの笑理のちょっとした仕草や言動に、心がくすぐられていた。
「化粧品変えたもん。笑理の恋人として、もっとふさわしくなれるように」
「そこまで考えてくれたんだ。ありがとう、梢」
顎に手を当ててささやく笑理に、梢はまたしてもハートを撃ち抜かれたような気がしていた。