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第319話 消されたくない
【異世界/王都イルダ・軍医療区画/翌朝】
朝の光が、医療棟の窓から細く差し込んでいた。
エルン・ヴァイスは寝台の上で目を覚ましている。
両手首と足首には拘束具。その上からノノの観測線とイデールの〈縫光〉が重ねられ、胸元にも黒い反応を抑えるための術式が置かれていた。
昨日とは違い、暴れる様子はない。
目も普通だ。
少なくとも今は。
「気分はどう?」
イデールが椅子へ座りながら聞いた。
エルンは少し考えた。
「……重いです」
「どこが?」
「全部」
右手を動かそうとする。
拘束されているため持ち上がらないが、指先までは動く。
「自分の身体なのに、自分だけで動かしてる感じがしません」
ノノが端末を見る。
白い反応の中に、細い黒が混じっている。
「今も何かいる感じがする?」
「します」
「声は?」
「ずっと聞こえるわけじゃないです。でも……」
エルンは胸元を見る。
「考えようとすると、先に何かが答える時がある」
「先に?」
「例えば、ここから出たいと思う前に、足が出口を探してる。誰かが近づいてくると、俺が誰なのか確認するより先に、そいつが敵か味方か考えてる」
アデルが壁際から聞く。
「それはお前の判断じゃないのか」
「分かりません」
答えは早かった。
「そこが、一番怖いです」
部屋が静かになる。
エルンは自分の右手を見る。
「昨日までは、身体の中に別の奴がいると思ってました」
「今は?」
イデールが聞く。
「どこからがそいつなのか、分からない」
ノノの指が止まった。
昨日調べた結果と一致している。
片鱗は外から貼りついているわけではない。
神経。
記憶。
魔力経路。
身体の複数の領域へ入り込み、その一部はすでにエルン自身の反応と重なっている。
ノノは画面を閉じずに言った。
「昨日の数字、覚えてる?」
「……五十八」
「うん。片鱗側の情報が入り込んでると確認できた領域が、約五十八パーセント」
エルンはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「じゃあ」
声が少し掠れる。
「俺は今、四十二パーセントしか残ってないんですか」
イデールの表情が変わる。
「違うよ」
ノノもすぐに首を振った。
「その数字は人格の割合じゃない。身体や記憶の中で、片鱗の情報が確認された範囲。エルンが四十二パーセントしかいないって意味じゃない」
「でも」
エルンは自分の胸へ視線を落とした。
「半分以上なんですよね」
誰も答えない。
「俺が腕を動かしても、そいつが混じってる。何か思い出しても、その記憶をそいつも知ってる」
一度、息を吸う。
「だったら……俺の中で、俺だけのものって何ですか」
イデールが口を開こうとした。
その時。
エルンの口元が動いた。
本人は喋ろうとしていない。
それなのに。
『なら』
声がした。
ノノが顔を上げる。
エルンの首筋へ、細い黒い文字列が浮かぶ。
『残りの五十八は』
黒い線が頬へ昇る。
『誰のものだ』
アデルが壁から離れた。
「出てきたか」
エルンの右目だけが黒く染まる。
『エルンが四十二なら』
口元が僅かに笑う。
『五十八は、私だ』
「違う」
ノノがすぐに返した。
「そういう数字じゃない」
『なら、私とは何だ』
ノノが言葉を失う。
昨日までの片鱗とは違う。
兵士。
守る。
戦う。
役割を繰り返していた存在が
今。
自分自身について聞いている。
イデールも気づいた。
「……あなた、自分が消えるのが怖いの?」
黒い目がイデールを見る。
しばらく返事はない。
そして。
『消すのか』
イデールの表情が変わった。
『私を』
「まだ何も決めてないよ」
『剥がす』
『分ける』
『消す』
黒い線がエルンの胸元で脈打つ。
『昨日、そうした』
ノノが息を呑む。
ジャバの強い衝撃で片鱗が一時的にエルンの身体からずれた。
そこへ観測線を通し、二つを分けようとした。
片鱗は。
あの時のことを覚えている。
『私は消えたくない』
その言葉の直後。
エルンの左目にも黒が広がりかけた。
だが、エルン自身が強く目を閉じる。
「……黙れ」
黒い線が乱れた。
「勝手に……俺の口で喋るな」
呼吸が荒くなる。
イデールが立ち上がりかける。
「エルン、無理しなくていいよ」
「こいつも……怖がってる」
「分かるの?」
「分かります」
エルンは苦しそうに答えた。
「俺の中にいるから」
少し間を置く。
「俺も消されたくない」
「こいつも、消されたくない」
そして
自嘲するように笑った。
「そこだけは、同じみたいです」
◆ ◆ ◆
診察は一度止めることになった。
イデールが水を飲ませ、ノノは先ほどの反応を保存する。
アデルは窓際へ移動した。
「以前より明らかに変わっているな」
ノノが頷く。
「うん。自分とエルンを分けて認識し始めてる」
「それは良いことなのか?」
「分からない」
ノノは正直に答えた。
「でも、前は役割しかなかった。今は『私』って言った」
イデールがエルンを見る。
「エルンと混ざったからかな」
「可能性はある」
エルンの記憶を使う。
エルンの感情を使う。
エルンの身体を使う。
その過程で
片鱗自身にも
恐怖。
怒り。
自己保存。
そんなものが生まれ始めている。
その時
扉が開いた。
「起きたって聞いたぞ」
ヴェルニだった。
片手に水筒。
もう片方には簡単な食事を入れた袋を持っている。
「食えるなら持ってこいって言われたから――」
そこまでだった。
寝台の上でエルンの身体が硬直した。
水筒がヴェルニの手から僅かに下がる。
「……何だ?」
ノノの端末が突然、警告音を鳴らした。
「待って」
黒い反応。
急上昇。
さっきとは比べものにならない。
「ヴェルニ、そこで止まって!」
「は?」
エルンはヴェルニを見ていた。
いや、エルンだけではない。
首筋から頬へ。
胸から腕へ。
黒い文字列が、一気に浮かび上がっていく。
「……来る」
エルンが震える声で言った。
イデールが近づく。
「エルン?」
「違う」
呼吸が急激に荒くなる。
「こいつ……ヴェルニを見て……」
その瞬間、顔が変わった。
瞳の奥が完全に黒く染まる。
『お前』
低い声。
ヴェルニが眉を寄せる。
「俺?」
『お前だ』
拘束具が軋む。
アデルがすぐに前へ出た。
「ヴェルニ、下がれ」
だが。
ヴェルニはエルンを見たまま動かなかった。
その声。
その敵意。
『お前が』
黒い文字列が身体中を走る。
『私を壊した』
ヴェルニの顔から軽さが消えた。
「……お前」
片鱗が笑う。
『覚えている』
断片。
戦い。
衝撃。
身体が砕ける感覚。
一つだったものが
壊れ。
散り。
完全には消えず。
残った。
ヴェルニが低く言った。
「お前……俺を恨んでるのかサロゲートの残り」
『残りではない』
拘束具がさらに軋む。
『私は』
黒い目が見開かれる。
『私だ』
ノノが端末を見る。
「片鱗側の反応、今までで一番強い!」
イデールがエルンの名前を呼ぶ。
「エルン!」
一瞬、左目だけが戻る。
「……ヴェルニ……さん……」
「聞こえてるぞ」
「逃げ……」
次の瞬間。
『殺す』
拘束具が一本。
弾けた。
◆ ◆ ◆
「ヴェルニ、出て!」
イデールが叫ぶ。
「俺が出たら追ってくるだろ!」
「ここよりまし!」
『逃がさない』
エルンの右腕が持ち上がる。
まだ残っている拘束線が食い込む。
皮膚が裂ける。
それでも片鱗は止まらない。
「エルン!」
アデルが呼ぶ。
「戻れ!」
左目が揺れる。
「……だめ……」
本人の声。
「俺……止められ――」
黒が覆う。
『お前のせいだ』
ヴェルニへ。
『お前が私を砕いた』
『お前が私をここまで小さくした』
『お前が』
ヴェルニが構える。
「だからって、その身体で来るなよ」
『殺す』
「それしか言えねえのか」
『殺す!』
その怒声と同時に最後の拘束線が切れた。
エルンの身体が寝台から跳ね起きる。
アデルが正面へ入る。
「させるか!」
腕を掴む。
だが、エルンはアデルを見なかった。
視線はヴェルニだけ。
強い殺意。
その時
右手の周囲で空気が歪んだ。
ノノの顔色が変わる。
「待って」
赤い光。
その外側に
黒。
ヴェルニも目を見開いた。
「……おい」
イデールが呟く。
「炎?」
エルンの掌に赤黒い炎が生まれていた。
アデルが一瞬、動きを止める。
「エルンは炎術を使えないはずだ」
「使えないよ!」
ノノが端末を見る。
「この魔力経路、エルン側じゃない!」
炎が大きくなる。
「片鱗が術式を通してる!」
ヴェルニが舌打ちした。
「俺の真似か?」
『違う』
黒い目が細くなる。
『これは私のものだ』
炎が弾けた。
◆ ◆ ◆
「伏せろ!」
ヴェルニが前へ出た。
両腕を振り抜く。
風圧が炎とぶつかり、医療室の中央で爆ぜた。
窓ガラス。
棚。
観測具。
一斉に吹き飛ぶ。
「っ……!」
ノノが床へ伏せる。
イデールは隣の寝台を庇う。
アデルも腕で顔を覆った。
炎は消えていない。
壁を這う。
天井へ広がる。
だが、狙いは部屋を焼くことではなかった。
目隠し。
アデルが気づいた。
「エルン!」
炎の向こう。
人影が窓へ向かって走っている。
「止まれ!」
追う。
だが人影は
窓の前で一瞬だけ止まった。
振り返る。
右目。
黒。
左目。
人間の色。
「……アデル……さん」
エルン本人だった。
アデルが足を止める。
「エルン」
「……来ないで……」
苦しそうな顔。
「俺……まだ……」
言葉が続かない。
黒い文字列が左目まで覆っていく。
『邪魔をするな』
アデルが走る。
「エルン!」
間に合わない。
エルンは肘で窓を突き破った。
ガラス片と朝の光が
一緒に室内へ飛び込む。
そのまま。
外へ。
◆ ◆ ◆
医療棟は二階だった。
エルンは一階の張り出した屋根へ落ちると、身体を転がして衝撃を逃がし、そのまま隣の建物へ跳んだ。
「いたぞ!」
下の兵士が叫ぶ。
「エルン・ヴァイスだ! 止まれ!」
エルンは止まらない。
屋根。
路地。
石壁。
人間の身体だけでは届かない距離を、黒い線の補助を受けながら飛び越えていく。
アデルが割れた窓から身を乗り出した。
「追跡班を出せ!」
『了解!』
「殺すな! 絶対に攻撃を先にするな!」
通信を切る。
その横へノノが来る。
「反応、追える?」
端末を見る。
黒い点。
一度。
二度。
表示。
そして、
消えた。
ノノの顔が強張る。
「消えた」
「何?」
「エルンの反応と片鱗の反応が重なってる。街の魔力反応の中に入ったら……判別できない」
アデルが外を見る。
王都は
もう朝を迎えていた。
市場へ向かう人。
荷車を引く商人。
交代を終えた兵士。
店を開け始める住民。
何百。
何千。
その中に
エルン・ヴァイスがいる。
◆ ◆ ◆
ヴェルニは
燃え残った医療室の中央に立っていた。
拳を握っている。
イデールが振り返る。
「怪我は?」
「ねえよ」
「本当に?」
「炎は止めた」
短く答えたあと割れた窓を見る。
「……覚えてやがった」
ノノが振り返る。
「何を?」
「あいつが片鱗になる前のことだよ」
ヴェルニの声から
いつもの軽さが消えている。
「俺と戦った時のこと」
アデルが見る。
「本体だった頃の記憶が残っているのか」
「たぶんな」
ヴェルニは自分の拳を見る。
「あの時、俺がぶっ飛ばした」
一度息を吐く。
「それで終わったと思ってた」
だが終わっていなかった。
砕けたものの一部が残り。
兵士の中へ入り。
役割を借り。
記憶を得て。
身体と混ざり。
今では、自分が消えることを恐れている。
ノノが小さく言った。
「片鱗じゃなくなり始めてるのかも」
アデルが振り返る。
「どういう意味だ」
「分からない」
ノノは首を振った。
「でも、最初は役割しかなかった」
兵士。
守る。
戦う。
「今は違う」
恨み。
恐怖。
自分。
そして。
生き残ろうとする意思。
「エルンからもらったのか、元から残ってたのか、それとも混ざった結果なのか……まだ分からない」
イデールは割れた窓の向こうを見る。
「でも一つだけ分かるよ」
アデルが見る。
「何が」
「エルンも、あの片鱗も」
朝の王都。
人の流れ。
そのどこかへ消えた一つの身体。
「どっちも、消されたくないって思ってる」
◆ ◆ ◆
王都中央通り。
朝の人混みの中を
一人の若い兵士が歩いていた。
顔を伏せ
右腕を押さえながら。
周囲の誰も異変には気づかない。
しばらく歩いたところで
エルンは建物の壁へ手をついた。
「……どこへ……」
本人の声。
『離れる』
「……どこに……」
『あいつから』
ヴェルニ。
その名前を思い浮かべただけで
黒い線が腕へ浮かぶ。
「……殺すな……」
『殺す』
「やめろ……」
『お前も怖い』
エルンの足が止まる。
『消されるのが』
返せない。
『私もだ』
人々がその横を通り過ぎていく。
誰も立ち止まらない。
エルンはまた歩き出した。
どちらの意思で
次の一歩を踏み出したのか。
もう。
本人にも分からなかった。
コメント
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え、まってまってまって…!?!? 319話ガチでやばかった…😭💦 エルンが「俺だけのものって何ですか」って言ったとこ、心臓ぎゅっとなった… しかも片鱗が「消されたくない」って自分の意志で話し始めてるの、もう単なる敵じゃなくなってるよね… ヴェルニに恨み持ってるのも納得だし、あの炎の攻撃も片鱗が自力で出してるってのがショックすぎる… でもラストの「どっちも消されたくない」ってとこで、もうエルンと片鱗の境界線がどんどん溶けてってる感じがして切ない… 次の話、エルンどうなっちゃうの!?もう待ちきれないよ〜!!🥺💕