アラインの瞳は
遠く霞む桜の丘を捉えたまま
僅かに見開かれていた。
夜の帳が満ちる中
その口元には、笑みと呼ぶには
あまりに無機質な
弧のような歪みが浮かぶ。
愉悦とも
皮肉ともつかぬその歪な笑みに
風がそっと頬を撫でる。
「⋯⋯あの丘を見ていると⋯⋯
昔を思い出すね。
ねぇ⋯⋯アリア」
その声は
誰に届くこともなく
風の中に溶けていった。
⸻
アラインの背には
生まれつき深々と
裂けた傷跡が刻まれていた。
背骨に沿うように、三条の鉤爪の痕。
まるで
巨大な猛禽が爪を立てたかのような
生々しい跡だった。
血肉を裂かれたその跡は
誰の手によるものでもなく
何かの
〝呪い〟のように彼の皮膚を貫いていた。
ー神の怒りを受けた子ー
誰かが、そう言った。
それが両親の言葉だったか
助産師の嘆きだったか
当たり前に記憶は無い。
だが確かに
それがこの世界における
最初の〝烙印〟だった。
赤ん坊だったアラインは
名も与えられぬまま
寒空の下に佇む
孤児院の前に置き去りにされた。
泣き声は風に紛れ、誰にも届かず。
だが皮肉にも
その背の傷だけは
誰よりも強烈に
他者の記憶に焼き付けられた。
その日からアラインの世界に
優しさというものは一度も現れなかった。
服は、破れた他の孤児達の寄せ集め
冷たい寝床には、薄いボロ布が一枚
配給は当たり前のように後回しにされた。
職員達は
忌々しいものを見るような目で
彼を見下ろし
他の孤児達は
彼の存在を遠巻きに避けていく。
いや⋯⋯恐れていたのだ。
あの瞳を、背中の傷痕を。
擦れ違う度に浴びせられる冷笑
ささやかれる呪詛
押し殺した恐怖。
それらが
アラインにとって
〝人との関わり〟というものの
原型になった。
彼にとって
人は敵意を向けてくる存在であり
痛みを与える事で距離を図るものだった。
だからこそ、彼は学んだ。
暴力こそが
唯一他者と関係を結べる言語であると。
そしてそれは
成長と共に〝再現〟される。
床に押し倒された孤児の頬を
無表情のまま拳で殴りつける。
その瞳に映るのは
恐怖に震える歪んだ瞳と
嗚咽混じりの謝罪だけ。
しかし
どれだけ泣こうが
許す気は起きなかった。
許し方を⋯⋯知らなかった。
ある日
アラインは不思議な感覚に気付く。
目の前の孤児が
自分を〝恐怖の存在〟として
強く意識すればするほど
その者の過去や秘密が
まるで開かれた本のように
頭に流れ込んでくるのだ。
幼少期の失禁、盗み見た日記、家族の死。
誰にも言えずに隠していた記憶を
アラインは読み取っては
静かに笑った。
そして
その記憶の本文に
新たな「頁」を差し込むように──
自在に書き込める事を知った。
「昨日、ボクに逆らえば
君のペットが死ぬって言ったよね?
⋯⋯忘れたの?あぁ、可哀そうに。
やっぱり言葉じゃ⋯⋯足りなかったんだね」
次第に孤児達は
アラインの言葉に逆らわなくなっていく。
昨日までの現実が書き換わっていく中で
彼を恐れ、崇め、従い始めた。
やがて
職員までもが
アラインの指示に従うようになっていった。
献立が変わり
寝室が変わり
礼儀が変わり
制度が変わっていく。
少しずつ、音もなく、静かに。
まるで
柔らかな絹で首を絞められるように。
孤児院は変わっていった。
アラインを中心とした
ー秩序と支配の館へとー
微笑めば、皆が跪き。
唇を歪めれば、誰かが泣きながら懺悔する。
彼の言葉ひとつで、世界が曲がる。
それは
アラインにとって〝愛〟などとは無縁の
歪んだ快楽だった。
服従の記憶を植え込む。
恐怖を記憶に刻み込む。
敬愛を、作り物の神話のように与える。
「ほら、ボクは優しいだろう?」
微笑みながら、またひとつ
誰かの現実が塗り潰されていくー⋯。
コメント
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孤独と欺瞞に生きる少年の足が辿り着いた、春の香り漂う小さな街。 柔らかな光に満ちた桜の丘の下で、封じられた記憶の欠片が静かに揺れ、遠い呼び声が、彼の心の奥底をそっと叩いた。