アラインが孤児院を出たのは
12歳頃になった年の冬だった。
肌を切るような風が
石畳の路地に吹き込む中
彼の足取りは
迷いもなければ不安もなかった。
寧ろ
解き放たれた猛獣のような
確信とともに歩いていた。
背には、消えぬ鉤爪のような傷跡。
誰もが忌避し
目を逸らしたその痕を晒しながら
アラインは静かに
〝人〟の間に紛れ込んでいく。
それからの彼は
どこにも属さず
どこにも留まらなかった。
けれど、どこに行っても歓迎された。
まるで
そこに彼の居場所が
初めからあったかのように。
⸻
アライン・ゼーリヒカイト。
名前すら、後から付けた物だった。
ーアラインー
孤児院で名付けられた
孤高を意味するその名に
彼は自ら付け足した。
ーゼーリヒカイトー
己こそが〝至福〟の定義
神をも欺き
救済を己の手で下す孤高の支配者。
⸻
古い大聖堂が街の中心に鎮座する
ある文化と香りに満ちた石造りの都市。
アラインが初めて足を踏み入れたのは
灯りの少ない裏通りに面した宿だった。
金はなかった。
けれど
受付の中年女性は彼を見るなり
ボロボロの彼を見て哀れんだ。
哀れな子供⋯⋯
そう認識された瞬間。
「⋯⋯やっと戻ってきたのね。
部屋、用意してあるわ」
その言葉に
アラインは微笑みを浮かべた。
――また、うまくいった。
人と関係を築けば築くほど
その関係の〝深度〟に応じて
記憶を改竄できる。
彼にとって
信頼とは支配であり
親しみとは歪みであり
愛とは恐怖の隠喩だった。
金がないなら
宿の主人に
「かつて借りがある」と記憶させればいい。
食事がないなら
「もう代金を支払った」と
信じ込ませればいい。
立ち入り禁止の場所も
「従業員だ」と誰かに信じさせれば
誰も疑わない。
ただ、それだけでは不十分だった。
その記憶の改竄が効果を持つには
〝接触〟と〝信頼〟が必要だった。
暴力で捻じ伏せるだけでは
心は開かない。
そう、彼は知っていた。
だからこそ、アラインは〝言葉〟を学んだ。
どのような声色で
どのような間で
どのような仕草を交えれば
人は自分を「受け入れた」と錯覚するか。
それを
彼は自分の心を使わずに
外側から分析し
練習し
身につけていった。
笑顔の形
手の置き方
視線の送り方
距離の詰め方。
例えば
憂いを帯びた青年として登場すれば
年上の女主人は心を開く。
無邪気な少年の仮面を被れば
教師のような者達は語りかけてくる。
紳士的な言葉と静かな佇まいを纏えば
男達は警戒を解き、同類だと受け入れる。
そのどれもが
〝本当のアライン〟ではなかった。
けれど
アラインにとって
己の〝素〟など必要ではなかった。
必要なのは
相手の中に〝居場所〟を創ること。
そして、記憶を書き換えること。
路地裏のパン屋で
最後の一切れを譲ってもらったこともある。
パン職人の男は
ふとした顔で
「いつも良くしてくれる近隣のよしみだ」と
温かいパンを紙袋に包んでくれた。
教会の神父は「十年来の恩人だ」と
泣いて抱きしめてきた。
その全てが、捏造された記憶だった。
だが、アラインにとってそれは
〝捏造〟ですらなかった。
世界を自分の都合で書き換えることは
彼にとって生きる為の当然の行為だった。
記憶が繋がった瞬間
相手の人生が、自分の掌に転がる。
アラインはその日も
誰かの世界を
穏やかに書き換えていった。
本当の名も
過去も
その姿すらも
誰にも知られないままに。
⸻
世界を幾度も彷徨い歩いたアラインの足は
その日
ようやく春の香りが漂いはじめた
石畳の小さな街へと辿り着いていた。
青と灰の混じる石造りの家々が並ぶ
静かな通り。
風に乗ってパンと果実の香りが
かすかに鼻をくすぐる。
人々の表情は穏やかで
どこか緩やかな時間が流れていた。
けれど──
その街の空気の底には
妙に張り詰めた〝何か〟が
確かに流れている。
それに気付いたのは
広場から北へ向かって延びる坂道の先
小高い丘の頂上に立つ――
一本の桜の大樹を見上げた時だった。
芽吹きの音が聴こえてきそうなほどの
生命の奔流。
柔らかな陽光を受けて
淡く光る無数の花弁は
風もないのにふわりと舞い
まるで丘全体が夢の中に在るように見えた。
その光景に
アラインの目は引き寄せられ
足が止まった。
「⋯⋯あれは、桜⋯⋯?」
口の中で呟いたその名は
彼の中の何かを微かに揺らした。
視界に広がる美しさとは裏腹に
背筋をなぞるような
ひやりとした感覚があった。
まるで
無意識が警鐘を鳴らしているように。
そんな彼の視線に気付いたのか
近くの市場から買い物を終えて戻ってきた
一人の老婆が
ひときわ静かな足音で近付いてきた。
彼女はアラインのことを
遠い親戚の子だと思っている。
その記憶は、もちろん
アラインが数日前に植え付けたものだった。
老婆は肩に掛けた籠を下ろし
皺だらけの手で額を押さえながら
桜のある丘を見上げる。
「⋯⋯あの桜には
近づいちゃあいけないよ?」
その声は冗談めいたものではなく
明確な〝恐れ〟を含んでいた。
アラインは瞼を伏せ、小さく首を傾げる。
「何故⋯⋯近付いてはいけないんだい?」
人の心に触れる術を持つ彼でさえ
老婆の中に潜む感情の正体は
すぐには読めなかった。
それほどに、彼女の声は真に迫っていた。
「⋯⋯あんなにも
美しい花が咲いているなら
誰だって近づきたくなるものじゃないか。
ねぇ?」
その言葉には、作為も偽りもなかった。
あの光景は
誰の目にも〝魅力〟として映るはずだった。
けれど老婆は
桜を見上げたまま
目を伏せるように唇を引き結び
ふるふると首を横に振った。
「⋯⋯あの桜はね
〝春を呼ぶ者〟の桜なのさ。
丘には絶対に行ってはいけないんだよ」
その言葉が
桜の丘に漂っていた薄い違和感の正体に
ゆっくりと形を与えていく。
アラインは静かに老婆の横顔を見つめた。
老いによって刻まれた皺のひとつひとつが
過去に触れてはいけない記憶を
語っているようだった。
胸元で揺れる木彫りのペンダントが
春の光に照らされて鈍く煌めく。
アラインは黙っていた。
何も問わず、ただ、耳を傾けていた。
老婆がその口から語る〝何か〟が
彼の中にあるものを――
言葉にならない断片を――
繋げてくれるような
そんな気がしたのだ。
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麗しき春の幻に隠された、決して侵してはならぬ禁忌。 静かに咲き誇る桜は、祈りと絶望の証。 ひとたび怒りが解き放たれれば、優しき光景は炎に呑まれ、狂気と恐怖だけが大地に刻まれる。