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「無駄な時間だ。味が悪くなるばかりだぜ」と特に猫好きな漁師が吐き捨てるように呟いた。
「よせ。ミマモルモノは共にある、だ」と咎めたのは最も泳ぎの得意な漁師だ。
鼠を敷き詰めたような灰色の空の下、寒風吹き荒ぶ侘しい砂浜でのこと。揚がったばかりの鱗艶めく魚や貝を十数人の海の男たちが麻布に並べ、正確な漁獲量を数えている。
「ここに見守る者の取り巻きはいない。ツゲグチヤがどこからか見ていたとしても手さえ動かしてりゃばれないさ」愚痴は続く。「この時間に海に出ればもっと獲れるってのに馬鹿馬鹿しいぜ」
「そもそもキオイの千里眼のおかげでこれだけの魚が獲れてるんだ。こうして数えることも彼の魔術に必要なのさ」
「それは確かな話なのか」
「俺はそう思ってる」
「くだらねえ。だとしてもとんとんさ」
漁師の一人、良き隣人は会話を聞きながらも口を挟まず、黙々と魚を並べている。確かに北極星に光を賜って千里眼を得たと謳われるキオイだが全てを知るわけではない。とはいえ、恐ろしいものだ。島を支配する魔術師キオイが高台の屋敷から姿を現すことはないが、それでも島民が知っていてキオイの知らぬことはない。特に裏切りの罪をキオイが見逃すことはない、とされている。
漁師たちが全ての魚介を並べ終えると記録係が数えて書き留め、昼を過ぎるも黄昏るずっと前にその日の仕事を終える。
「あれ? 鉈がねえ」と浅黒い肌の漁師がぼやいた。
最後に番屋で仕事道具を点検していた時のことだ。どの鉈を誰が使っていたかは全て記録されているので誰が失くしたのか、隠し立てはできない。全島民の共有物である鉈を失くし、焦る男にトゥーマーは声をかける。
「落ち着け。キオイが見守ってくださっている。どうせ船の方だろう。今日は俺が最後の点検係だから見てこよう。お前は後の加工作業を続けてくれ」
「ああ、ありがてえ。頼むよ。後で一杯奢るぜ」
鉈はすぐに見つかった。船底に転がっていた。今日は少しばかり波が高かったので揺れた拍子に落としたのだろう。海に落とさなかっただけ良かった。
残りの点検を終え、しかしトゥーマーは皆のもとへ真っ直ぐに戻らず、砂浜の端の岩陰に隠れた。
誰の目もないことを確認すると懐の奥深くから不思議な艶めく紙を束ねて金属の環で綴じた本を取り出した。トゥーマーが幼い頃に海岸で拾ったものだ。支配者キオイと漂着物の取り扱いに関するオフレについて知るまでに何度も隠れて読んでいたが、一度として咎められなかった。結局のところ気を付けるべきはキオイではなくツゲグチヤたちなのだ。ミマモルモノは共にない。
本はその本体といえる部分にはほとんど何も書かれていなかった。代わりに一つの頁に一枚の羊皮紙が貼ってあり、そこには様々なことが書かれていた。
書かれた文字はよく知るものだ。使われている単語も馴染み深いものが多い。全てがよく知る言葉というわけではない。おそらく南にあるという大陸の言葉なのだろうとトゥーマーは想像していた。
表題は読めない文字で書いてあった。そして翻訳なのかは定かではないが表紙にも紙が貼ってあり、そこには『予め言明されし百の災い』と書かれていた。
様々な災いが毎年毎年百年間人々を苦しめるのだという。ただトゥーマーの知る暦とは違ったので、災いの内、どれが過ぎ去ったものでどれが待ち受けているものなのかは分からなかった。
災いの他には災いに基づく教訓話があり、トゥーマーに島の外の様々なことを教えてくれた。とりわけ、救いの乙女なる女神の如き存在は無骨な漁師の心の中心に鎮座し、変化のない人生に魅惑的な秘密を仄めかした。
何度も読んだ予言書だが今日もまた夢中で読み耽ってしまう。しかし、ふと、いつもと違って今日は真っ直ぐに帰らずに奢られる約束をしたことを思い出す。酒も大事だが、不自然で逸脱した行動はキオイの耳に届きかねない。
慌ててトゥーマーは立ち上がるが、岩礁の方に見慣れない物を見た。何か黒い塊だ。オフレによれば漂着物は全て届け出ねばならない。本当は予言書を届け出ねばならなかったのだと知って以来、トゥーマーは必ずオフレの通りにしていた。隠された罪を疑われないようにするためだ。
しかしそれが人間だとすればまた別のオフレを参照しなくてはならない。
漂着者はショケイせよ。
海賊にせよ、罪なき漁民にせよ、例外はなく、遺体を漂着物として届け出るのだ。
この孤島が秩序で保たれているのはキオイのおかげだとトゥーマーもまた信じていた。なぜなら予言されたような災いがこの島を襲ったことは一度もないからだ。罪深いトゥーマーはだからこそ献身的であり、だからこそ罪悪感に苛まされている。
「ミマモルモノは共にある。悪く思うな」
トゥーマーは鉈を構え、黒衣の漂着者に忍び寄る。ひと思いに首を掻っ切ってやろうとうつ伏せになった漂着者を仰向けにする。女だった。まるで救いの乙女のようだと思った。だが慈悲心を握りつぶしてトゥーマーは鉈を振り上げる。
その時、女の胸元からはみ出した羊皮紙に気づく。トゥーマーは慌てて濡れた本をつまみ上げる。
『予め言明されし百の災い』だった。
トゥーマーは囲炉裏の僅かな明かりで濡れた本を乾かしながら慎重に頁を捲る。いくつか災いに違いがあるがほとんど同じ内容だ。トゥーマーの持つ奇妙な構造の本と違い、直接書き込まれた写本のようだった。
乾いた服に着替えさせられた女は囲炉裏を挟んで反対側で寝息を立てている。トゥーマーは一心に本を読み、気づかないふりをするように心を背け、罪深さに怯え、未だ下されていない罰に身を震わせる。
どうしても島の外について、大陸について、救済の乙女の教えについて知りたかったのだ。
何度も読み返した内容を最後まで読み終えた時、女が意識を取り戻した。ゆっくりと身じろぎし、次いで飛び跳ねるように起き上がる。女はトゥーマーに気づくと腰のあたりを探るが、そこに剣のようなものはない。初めから無かった。
「騒ぐな。お互いのためにな」トゥーマーは予言書を脇に置き、静かに命じる。誰に聞き咎められることもない村外れの小屋だが、独り言はあらぬことを疑われる。「あんたのことを知られれば、俺もあんたもショケイされる」
女は周囲を見渡し、今いる場所を把握すると囁くように話す。
「貴方が助けてくださったのですか?」
「まあ、そうだ。岩礁に流れ着いていたところを見つけた」
女は居住まいを正す。「そうとも知らず失礼しました。私は救いの娘よと申します。助けていただき感謝いたします」
「俺はトゥーマーだ。漁師だ」
「トゥーマーさん。他に生き残りはいませんでしたか?」
トゥーマーは残念そうに首を振る。
「少し探したがあんたの他には誰も。難破でもしたのか?」
「仰る通りです。嵐に遭い、あえなく。冬の帰らぬ者海を甘く見ていました」ミュデラは悲しみを湛えた瞳を囲炉裏の火に煌めかせる。「それで、私のことを知られれば云々というのは如何なる理由でしょうか?」
少し震えているミュデラに気づき、トゥーマーは新たな薪を加える。
「オフレだよ。漂着者はショケイする決まりなんだ。そうしなければ俺もショケイされる」
ミュデラは不快そうに顔を歪めてなじる。「酷い。なぜそのような規則があるのです?」
「キオイが、我々と共にあるこの島の支配者がそう決めたからだ」
「理由を、何のためにそのような法を制定したのかを知りたいのですが」
「法ってのは平和と安寧を保つために定められるものじゃないか? あんたの郷では違ったのか?」
「それはそうですが、私が言いたいのは……。いいえ、よしましょう。未だ救いの乙女の教えの届かない土地、本土から遠く離れた孤島ですものね。無理からぬことでしょう」
トゥーマーは耳聡く反応し、顔を上げる。ミュデラは『予め言明されし百の災い』を見つめている。
「この本の内容についてよく知っているのか?」
「ええ、それはもちろん。それは我らが救済機構の聖典。『予め言明されし百の災い』。そして私は救済機構、共同宣教部の尼僧ですから」
トゥーマーは身を乗り出して乞う。「宣教か。俺にも教えてくれないか? 島の外について、救いの乙女について」
ミュデラは少し驚いた様子で目を開くが少しばかり嬉しそうに頷く。
「ええ、もちろん」ミュデラは爽やかで細やかな笑みを浮かべる。「代わりにこの島のことや、魔術師キオイのことについて教えていただけますか?」
トゥーマーは無愛想なまま頷く。
「構わんが何故そんなことを知りたがる?」
「脱出するためですよ。黙って殺されるわけにはいきません」
トゥーマーは多くのことを教わった。
遍く人々が救われるよう奔走する救済機構のこと。いずれ浄化の炎を携えて大地に降臨する救いの乙女のこと。六本指の女神の化身とさえ称えられる美貌の聖女隻手の祈りのこと。
汚穢に塗れた白昼大陸のこと。清浄なる大地に最も近い勝利する者たち統一国のこと。もしこの島が発見されたならば喉を潤す者たち行政区の管轄になるだろうこと。
概ねオフレに従って生きてきたトゥーマーだが今や島を出ていくことばかりを考える日々だ。沖に出ると南の水平線を眺め、その向こうに確かにある祝福された大地を想う。いつも荒れ狂っているフォーリオンの海だが春から夏にかけては多少落ち着く。その季節までの辛抱だ。
代わりにミュデラに島のことを教える。
いつの頃からか孤島を支配するキオイについて。支配者の取り巻き、ツゲグチヤたちについて。
今宵も二人はハイキュウを分け合い、囲炉裏にあたって冷え込みを堪えながら夜遅くまで話し込んでいた。
「では島民の方々はそのツゲグチヤたちの目と耳に怯えて暮らしているのですね。そして、言い当てて見せましょうか? 彼らツゲグチヤは横暴な連中でしょう?」
ミュデラの手を付けない酒をトゥーマーが呷る。
「いや、そうでもない。ツゲグチヤの行動を見守る者もいる」
「なるほど。いくつかの階層があるのですね」
よく知っている、とでもいう風にミュデラは頷いている。
「救済機構もそうなんだろう?」
「ええ、その通り。大きな国を管理していますし、ゆくゆくは大陸全土で救いの乙女を迎える準備をしなくてはなりませんから。千人程度の人口の島とは比べるべくもありません。まあ、千人を一人で支配できるだけでもすごいことですが」
トゥーマーは安酒を置き、蕩けた眼でミュデラを見つめる。
「人口の話はした覚えがないな。どうして知ってる?」
ミュデラは気まずそうに視線を逸らす。
「トゥーマーさんに心配をかけたくなくて黙っていたのですが」そう前置きして居候の娘はトゥーマーの方を窺うが、見つめるばかりで返事はない。「数日前に波打ち際さんがいらっしゃって、鉈の件でトゥーマーさんに奢るのをすっかり忘れていた、と」
「なるほど。それで人口の話ってわけか」と、トゥーマーは皮肉る。
「いえ、その後も何度かいらっしゃって様々なお話を……」
「軽薄な男だ。もしもツゲグチヤの耳に入ったなら――」
「殺されていましたか?」ミュデラは語気を強める。「だけど私たちは殺されていない。彼がきちんと秘密を守ってくださったからです。違いますか?」
トゥーマーは観念したようにため息をつく。
「まあ、そうだな。ばれたのが奴だけでよかった」
「おかえりなさい」と呼びかけられた声が愛想よく聞こえ、トゥーマーは訝しむ。
ミュデラは囲炉裏の火に当たり、薪を足していた。
「何かいいことでもあったのか?」とトゥーマーは尋ねる。
このような粗末な家で一日を過ごして、そんなものがあるはずがないと分かっていながら。
「そうですねえ。特にこれといったことは。変わらない日々、平穏な日々ですよ。春が恋しいです」
いつもならば漂ってくるはずの夕食の香りもない。
トゥーマーは台所に行き、朝と変わりないことを確認する。いや、ただ一点だけ違いがあった。
そこに一枚の羊皮紙があった。
『お手紙にてお別れを告げることをお許しください。
ケグスさんがいらっしゃらなくなって実は私は何度か島中を探していました。もちろんその間、誰にも見られることなく、です。
そうして知ったのはケグスさんがキオイの屋敷へ連れていかれたこと。鉈を遺失したことによる再教育のためだということ。
ですがとてもそれだけとは思えません。彼は私のことを喋ってしまうでしょうか? いずれにせよ、もうあなたの元にはいられません。
あなたもまたツゲグチヤだったのでしょう?
だとすれば私の存在をお目こぼしされていたのか、はたまたあなたとて私の存在は秘匿しなくてはならなかったのか。
責めるつもりはありません。秘密というのはいずれ暴かれるものです。私のことも、あなたのことも、この島のことも。
もちろん私が捕まったとしてもあなたのことを喋ったりはしないつもりです。命を助けてくださったことは感謝していますから』
ならばなぜ今そこで囲炉裏の火にあたっているのか。トゥーマーが振り返ると、相変わらずミュデラは火にあたって、薪で灰をかき混ぜている。
その時飛び込んできた光景にトゥーマーは海に飛び込んだかのように冷や汗が溢れ出す。
「そんな! そんな! そんな!」
ミュデラの隣にトゥーマーが幼い頃から大事にしてきた不思議な本が開かれていた。慌てて飛びつき、それをひったくるように奪い返す。本そのものは無傷だ。しかし各頁に貼られていた羊皮紙が根こそぎ毟り取られていた。『予め言明されし百の災い』が失われていた。力の抜けた指が大事な宝だったものを取り落とす。
「一体なんで、どうしてこんなことをしたんだ!」
目玉が零れ落ちそうなほどに見開き、あらん限りに喉を振り絞って恫喝するがミュデラはびくともしなかった。ただ火にあたり、その揺らめきを眠たげな目で見つめている。そしてようやく口を開く。
「たまに君のような存在が現れる。外からも内からも現れる。つまり異質な存在だ。従順ではない、意に沿わない、そういう人物だ。ある者は反旗を翻し、ある者は脱出を試みる。まあ、大別すればこの二つだ。戦うか、逃げるか。だが私からすれば同じだな。つまり従わない者、ということだ。聞いているか? 君たちのことだよ」
ミュデラは顔を上げ、絶望的な表情で見下ろすトゥーマーに微笑みかける。そうして再び囲炉裏の灰を薪でかき混ぜる。
「私の知る限り、根本的に出現を止めることは不可能なようだ。そういう者たちは必ず、いつかは現れる。ならばできる限り早く存在を察知し、把握し、対処することが求められる。幸いなことに、それは私の得意とするところだ。ああ、ツゲグチヤどものことではないぞ。あんなものははったりだ。私はね、文字通り皆を見守っているんだ。決して見逃すことはない。だが、見過ごすことはままある。余裕をもって対処しなければきりがないからな。それに多少の愚痴は捌け口になるし、多少の失敗なら許して寛大さを示すことも肝心だ」
ミュデラは百枚の紙が完全に灰になったことを確認すると満足した様子で薪を炎に焚べる。そして白紙になってしまったトゥーマーの宝を拾い上げ、まるで老人のように関節を支えるようにして立ち上がる。
「だがこの女は駄目だ。この組織は駄目だ。いずれ大きな脅威になるだろうな。私は備えなくてはならない。一方でこの女からは多くの知見を得た。まだ得られるはずだ。殺すのは惜しい。際どいが、利用しなくてはな。まあ、こんなところか」
ミュデラは戸口に立ち、トゥーマーが口を開こうとしたその時、振り返る。
「忘れてくれるなよ、トゥーマー君。ミマモルモノは共にある」
そうしてトゥーマーは一人残された。囲炉裏の炎の明かりと温もりと冬の夜の暗がりと冷たさの間に一人立ち竦んでいる。