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コンテストの締め切りまであと三日と迫った。
カステラの試作も佳境に入り、近頃は失敗作の処理が追い付かなくなっている。家に持ち帰ったりしているが、八割がた処理しているのは陸太朗だ。あたしは味見に専念するよう口酸っぱく言われていて、処理班に参加できないのがそれに拍車をかけていた。
体重を気にするのはもう諦めた。お菓子作りに意外と体力を使うせいか、はたまた陸太朗とのけんかでカロリーを消費しているのか、思ったほどの変化がないのが唯一の救いだ。
正直、心配なのは陸太朗の方だった。味がわからないのに食べ続けるのは苦痛ではないだろうか。味覚障害が悪化していたりしないだろうか。
本人に聞いても「大丈夫だ」の一点張りである。味覚障害は少しずつよくなってきているとのことだが、最近、顔色が優れないのが気になって仕方がない。
一方、レシピはもうすぐ完成しそうなところにまで近づいていた。
ただし、大きな問題が一つ。
カステラの生地を白にするか、黄色にするか。未だにどうにも決め手がなく、毎日思い悩んでいた。
そんな状態なのに、陸太朗がなかなか家庭科室に現れない。スマホに送ったメッセージの返信もない。仕方なく、一人でカステラ生地の改良に取り掛かる。
なんとか形になってきたものの、気泡が荒い。舌触りがよくない。素人っぽさがぬぐえない。和菓子としての美しさも足りない気がする。
分量を大きく変えずに、生地をきめ細やかにできないか。毛羽立たせずに切るにはどうしたらいいか。まっすぐ平らになるように切るコツは……。
一人で格闘し、一時間ほど経ったころだろうか、ドアの開く音に顔を上げた。ようやくご登場か、と、目を吊り上げて戸口に向ける。
「陸太朗! おっそーい! もう時間もないってのに、何やってたの!?」
口をとがらせて文句を言うと、陸太朗は一瞬視線を合わせたものの、すぐにそらしてしまった。いつもならすぐに言い返してくるのに。なんだか肩透かしを食らった気分だ。
「? ……まあ、用事があったんなら仕方ないけどさ。でも、メッセージ送ったの気づかなかった? さっき、カステラのきれいな切り方の動画見つけたんだ。そろそろ焼きあがるころだし、やってみようと思うんだけど――」
「…………」
「――陸太朗……?」
スマホの画面を見せようと、操作しながら陸太朗に近づく。そこでようやく、彼の様子がおかしいことに気が付いた。
まだ一言もしゃべっていない。何より、なぜ、苦しそうな表情をしているのだろう。
「ねえ、何かあったの?」
一番に思い浮かんだのは味覚障害のことだ。昨日は火曜日だった。まさか、病院で悪い知らせを受けたのか。
だが、それなら彼は何でもないふりをしそうだった。ここまで赤裸々に感情を表すとは思えない。
「――あ、もしかして、おなか痛いとか? ……ああ、やっぱり、最近食べ過ぎだと思ってたんだよね。陸太朗、無理しすぎなんだよ。とりあえずそこ座って。苦しかったら今日は家に帰っても――」
「――悪い、櫻庭」
「ああ、うん、全然気にしないで! 締切までまだ時間あるし、今日は一人で頑張ってみるよ。でも、できれば明日までに治してもらって、ラストスパートかけたいんだけど……」
「櫻庭、そうじゃないんだ」
「……え?」
思いがけず固い声音が、ざらりと胸の辺りをなでた。
嫌な予感がした。とっさに笑って雰囲気を和ませようとしたが、その前に陸太朗が一息に言った。
「コンテストの出場をやめようと思う」
「――え?」
「いや、コンテストだけじゃなく――、和菓子を作るのを、もうやめる」
「――……」
聞き間違いかと思った。それか、陸太朗の言い間違いか。
彼は時々、言葉が足りない。言わなくてもいいことを言って、肝心なことを言わなかったりする。
だが。
頭の中で、先ほどの言葉が再生された。
――コンテストの出場をやめる。
――コンテストだけじゃなく、和菓子を作るのをもうやめる。
「……なに、言ってるの? 陸太朗……」
陸太朗の言葉が理解できない。反応を決めかねて戸惑っているうちに、彼が続けた。
「……おまえのことは、振り回して悪かったと思っている。とりあえず、今日はもう片付けて帰ってくれ」
「……え? なに、それ」
陸太朗はそれだけ言うと、背を向けて家庭科室を出ようとする。その姿が逃げているように見えて、あたしはカッとして彼の腕をつかんだ。
「陸太朗! どこ行くのよ、ちゃんと説明してよ!」
廊下に声が響く。陸太朗が、顔をしかめてのろのろと振り向いた。
「……声が大きい。周りに迷惑だろう」
「誰もいないじゃない! それより、ごまかさないで説明して。コンテストに出ないってどういうこと!?」
「だから――、そういうことだ。コンテストには出ない。出る必要がなくなった」
「だから、なんで!」
「和菓子屋に俺は関わらない。そう決まったんだ」
「――はあ?」
陸太朗の言い方にひっかかりを覚えた。
「……決まったって……。何よ、それ……」
まるで他人事みたいに。
呆然として陸太朗を見返す。本当に彼は、自分の知っている立花陸太朗だろうか?
彼の言っていることが何一つ理解できない。別人に触れているようで、無意識につかんでいた手を放す。
陸太朗は一度、ため息をついた。
「――最近、俺によく電話がかかってきていただろう。あれの相手は、父親だったんだ。祖母が倒れてから、母親がちょくちょく世話をしに来るようになって、一応、隠していたんだが――料理部のことが、ばれた」
(ばれた?)
あたしは眉根を寄せ、陸太朗の言葉の続きを待った。
「もともと、大学に進学するという理由で祖母のもとにいさせてもらったんだ。受験勉強に専念したいと言ってな。それなのに、和菓子なんかに興味を持って、不要な部活に精を出していたから……、だいぶ怒られた。そんなことをしているならこっちに来いと、ずっと説得されていた。……もう、潮時なんだ。実際やってみたら俺には向いていなかったし。だから、料理部も、もうやめる」
「…………」
話についていけない。
――和菓子なんか、なんて。
――実際やってみたら向いていなかったなんて。
そんなのわかっていたはずだ。それでもやり続けようと決めたのではなかったのか。
何をいまさら。
「――あんた、それで納得したの……? 向いてないけど、迷ってるけど、それでもやりたいって言うから、あたしは――!」
「だからだよ……。――迷ってたからだ!」
突然、陸太朗が声を荒げた。息をのんだあたしを見て、「しまった」という表情をする。それから、一段トーンを落として吐き捨てるように言った。
「おまえの言う通りだ。ずっと、迷ってたんだ。進学するか、和菓子屋を継ぐか、どうしても決められなかった。――俺にとっては、進学をする方が楽なんだ。不器用だし、和菓子作りには向いていない。そう思うと、進学して経営学部に入って、そっち方面で役に立つのも悪くないんじゃないかとか、そういうことも考えてしまう。……父さんに指摘されたよ。本当にやりたいことだったら、迷うこと自体がおかしいんだって。そんなの、わかっている。ずっと前からわかっていた。見ないふりをしていただけだ。反論なんかできるわけがない。誰より俺が、そう思っているんだから」
「……陸太朗。でも――」
でも、なんだろう。
陸太朗の言いたいことはわかった。でも、納得できない。してはいけない。
そう思うのに言葉が出てこないあたしに、陸太朗は目を細めた。
「……俺の中途半端に巻き込んで、櫻庭には本当に悪いと思っている。家庭科室は、そのままでいいから。今度、俺一人で片づける」
陸太朗はうつむき、もう一言、何か言おうとした。だが結局何も言わず、踵を返して家庭科室を後にした。後ろは一切振り向かなかった。
「――……」
あたしはどうしたらいいかわからなくて、家庭科室へ戻った。さっきまでと人数は変わらないはずなのに、室内がやけにがらんとして感じる。
投げ出されたままのボウルや泡だて器が所在投げに台の上に転がっている。いつの間にか焼きあがっていたカステラは、オーブンの中に放っておかれたまま、冷え切ってしまっていた。
「……どういうこと……。どうすればいいの? これから――」
ぺたんと椅子に腰を下ろして、目の前の調理器具をぼうっと眺めた。
(……陸太朗。教えてよ。さっきの話じゃ、わからないよ……)
窓から差し込む光が薄くなる。夕闇が光を押さえつけ、物の形をあいまいにしていく。陸太朗が書き留めていたレシピも。ボウルも、小麦粉も、すべてが闇色に沈んでいく。
最初から何もなかったように。何も、始まっていなかったかのように。
――頭が全然働いていなかった。
陸太朗が考え直して戻ってくるんじゃないか、さっきのは何かの間違いじゃないかという妄想じみた考えに惑わされ、そのまま何もせず夕日が沈み切るまでそこにいた。