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マウリッツにクリニックまで送って貰ったウーヴェは、心配と信頼を顔に浮かべて行ってこいと背中を押してくれる友人に頷き、ステッキをついてクリニックへとゆっくりと向かう。
マウリッツが出勤する時間の関係もありいつもよりかなり早くクリニックへとやって来たウーヴェは、両開きのドアを開けて待合室のカウチソファに腰を下ろして溜息を一つ吐き、チェックするのを忘れていたスマホを取り出すがその時漸く眼鏡がないことに気付く。
眼鏡を何処に忘れてきたのかを思い出せずに眉を寄せているがよく考える間もなく思い浮かんだのはノアと過ごしたホテルの一室だった。
あのホテルに忘れてきたのかとマウリッツによって浮上した気持ちが沈みそうになるが、リアのデスクに畳まれたクリーナーとその横に眼鏡がある事に気付き、ステッキを頼りに立ち上がってデスクに尻を乗せる。
ホテルに忘れて帰った眼鏡がここにあると言うことは昨日自分たちが帰った後にノアが持ってきたということだろうが、顔を合わせなくて良かったと思いつつ対応してくれたであろうリアは何か聞いただろうかと不安になるが、彼女にも心配をかけてしまったのだ、事情の説明はするべきだろうと気付き微苦笑しつつ眼鏡をかける。
レンズを通して見える世界はいつもと変わらないものでそれに安堵しつつスマホを再度取り出して画面を見れば、メールと着信の合図がありメールを開けば毎週月曜日に届くリオンからの業務日報ばりのメールが届いているだけだった。
それにざっと目を通し今リオンが身を寄せている教会でもアドヴェントで忙しいんだなと苦笑したウーヴェだったが、着信は誰からだと画面を切り替え、着信履歴の上二段を見た瞬間、呼吸を忘れてしまう。
昨夜、マウリッツに感情をぶつけて疲労困憊の身体と脳味噌が睡眠を求めたために早々に眠ってしまったのだが、その深い眠りに就いていたときリオンから二度電話が掛かっていたのだ。
「……!!」
どうして気付かなかった、もしかすると大切な機会を逃したのではないかと言う後悔に青ざめつつ電話をかけようとするが、リオンがいない寂寥感からノアと寝てしまった己が電話をかけても良いのかと言う疑問が不意に芽生え、スマホを操作する手を止めてしまう。
電話をして声を、いつ帰ってくるのかを聞きたい思いとそれをする資格がお前にはあるのかという嘲笑が脳裏に響き渡るが、それでも構わないという欲求が強く、震える指でリオン名前をタップし耳に宛がう。
呼び出しのコールを待っている間、ああ、心臓が壊れてしまいそうだという思いを抱くが、中々出ないために諦めて通話を終える赤いボタンをタップしようとしたその時、ハロ、オーヴェという懐かしさすら覚えさせる呼びかけが聞こえてくる。
「……!!」
『……オーヴェ、切らないでくれ』
次いで聞こえてきた声に目を見張り掠れた声でああ、切らないと返事をしたウーヴェだったが、何を話せばいいのかが分からず、おはようと途切れながらも呼びかけ、うん、おはようと返されて僅かに緊張がほぐれたことに気付く。
「……朝食は、食べたのか?」
『うん。……白パンをさ、差し入れてくれる家があるから、それを食った』
「そう、か」
『……オーヴェ、今まだ家にいるのか?』
家とは何かが違う雰囲気を感じ取ったらしいリオンの問いにクリニックにいると答え、リアのデスクをつるりと撫でる。
「……リーオ」
『ん? 何だ、オーヴェ?』
以前ならば当たり前のその言葉に咄嗟に返事が出来ず何でもないと癖のように返してしまったウーヴェの耳に少しの沈黙の後、何でも無い事はないのにそう言えばキス一つだったなと流れ込み、その言葉がウーヴェの感情の堤防をいとも容易く決壊させたようで視界が滲んだことに気付くが、三日続けて子どものように泣くことを良しとしないことから必死に抵抗した結果、一粒だけ涙が零れ落ちる。
「……そう、言うのなら、早く帰って……こい……!」
どこにいるかも分からない上に手紙やメールでしか連絡が取れないのにキスなど出来ないだろうとウーヴェにしては珍しく激昂したように本音を伝えたが、聞こえてきたのはごめんという一言だけだった。
「背中も痛い……お前が、支えてくれな……から……っ!」
何をするのも大変だ、一人で出来ると思っていたのにお前がいないと何も出来ないことに気付いた、だから早く帰ってこいと半年近くの間静かに沈殿していった感情がまるで海底火山が噴火した時のように爆発し、悲鳴じみた声でリオンを非難したウーヴェだったが、さっきよりは長い沈黙の後に同じごめんという言葉を聞いて目を見張ってしまうものの次のアドヴェントまでには帰ると教えられて目を見張る。
「リ、オン……?」
『うん……─次の日曜までには帰る』
本当は今すぐ帰りたいが世話になった教会でやり残したことがあるからもう少しだけ待っていてくれと真摯な声で頼まれて激しく目を瞬かせたウーヴェは、次のアドヴェントまでに帰るのかと壊れたレコードのように呟くと、うん、帰るとしっかりした声で返事を聞かされて震えながら深呼吸をする。
「……うん」
『だからもうちょっとだけ待っててくれ、オーヴェ』
お前に約束した、もうその約束は破らない、絶対に日曜までには帰ると断言するリオンに見えないが何度も頷いたウーヴェは、眼鏡をデスクに置いてさっきとは違う理由の涙が滲んだ目尻を袖で涙を拭うと、ああ、愛していると見えないことをリオンが心底悔やみそうな笑顔で囁くと俺も愛しているという言葉が返ってくる。
「……リーオ、待っている」
『うん。帰ったら一緒にマザーのシュトレンを食おう』
だからもう泣くなとまるで一粒だけ零れ落ちた涙を見ていたかのように囁かれてグッと息を飲んだウーヴェだったが、お前が泣かせた、責任を取れと感情に震える声で言い放つと、許してください陛下という以前は当たり前に聞いていた悪ふざけの声が返ってくる。
「……許して欲しければ早く帰ってこい」
『……もう少し』
本当は今週末まで待つことすら嫌だったが必ず帰ってくるという言葉を信じると頷き、そろそろ仕事の準備にかからないといけないんじゃないかと問われるが、通話を終えたくない気持ちが強くて沈黙すると、今日仕事が終わったら電話をくれないかと妥協案的なものを提案されて軽く目を見張る。
『俺も……まだまだオーヴェの声を聞いていたい』
でもお前はこれからお前を頼ってやってくる患者のために働かなければならない、その邪魔はしたくないと、自身も堪えているのだと教えられて素直に頷いたウーヴェは、仕事が終わればすぐに電話をすると告げて久しぶりにスマホにキスをすると同じ音が聞こえてくる。
「じゃあ、また後で」
『ん。仕事頑張れよ、オーヴェ』
「ああ」
己の言葉で終わった通話の余韻にスマホを片手にぼんやりしていたウーヴェだったが、リアが朝一番の笑顔を浮かべておはようと声をかけてくれた事に気付き、顔を上げて小さく頷く。
「ウーヴェ、何があったの!?」
「え?」
リアが驚きながら己のデスクに駆け寄りウーヴェの腕を掴んで不安そうに見上げてきた為、どうしたと逆に問い返すと目が真っ赤になっていると答えられて目尻まで赤く染めてしまう。
「あ、ああ、……今、リオンと話をしていた、から」
だからちょっと感情的になったんだと微苦笑すると、リアの目と口が真ん丸になり両手で口元を覆い隠す。
「リオンと……?」
「ああ。今週中に帰ってくるらしい」
約束すると言っていたから流石にその約束を破ったりはしないだろうと己に言い聞かせるように頷くウーヴェにリアも自然と目を潤ませながら頷く。
「良かったわね、ウーヴェ」
「ああ……リア、今日の診察が終わってからで良いから話を聞いてくれないか?」
昨日の醜態についても良ければ聞いてほしいと告げたウーヴェはデスクから降り立ってリアに照れたような笑みを見せながらも今日の診察は昨日のようなことがないようにするので今日もよろしく頼むと咳払いの後に己の醜態を詫びる言葉を告げると、リアも目尻をそっと拭った後、こちらこそよろしくお願いしますと笑顔で頷き、互いに何と無く羞恥を感じて目を逸らしてしまうのだった。
昨日よりは遥かにマシな顔と態度で診察を終えたウーヴェはジンジャービスケットと紅茶で労ってくれるリアに感謝の言葉を伝えつつ、さて、どのように伝えるべきかと少しだけ考え込んでいた。
「ウーヴェ、昨日のあなたの様子、本当に心配だったわ」
今日は昨日とは随分変わっていたからきっとルッツに連絡を取った事は間違いではなかったのねと己の行動に自信を持てない顔で苦笑するリアに軽く目を見張り、いや、本当に助かった、ルッツがいなければ今日もまた昨日のような顔をしていただろうと同じく苦笑で返したウーヴェは一つ深呼吸をした後、一昨日の日曜日はノアとホテルで酒を飲んでいたと意を決した顔で伝えるが、それはノアから聞いたと教えられて目を瞬かせる。
「昨日眼鏡を持ってきてくれたのか?」
「ええ。あなたたちが出てすぐだったけど入れ違いになったのね」
ノアがあなたの眼鏡を持ってきたことに驚いたけれどホテルで一緒に飲んでいたと教えられて納得したと頷くが、一瞬だけリアの目が左右に泳いだ事に気づいたウーヴェは、昨日ノアから話を聞いたかもしくは彼女が想像した事は間違っていないと小さく告げて軽く目を見張らせる。
「ノアから何か聞いたか?」
「え? いいえ?」
何も聞いていないわと返す口調もわずかに上ずっていたことから余計な心配を掛けさせてしまったと先に頭を下げた後、まっすぐに彼女の顔を見るのが流石に難しく、コーヒーテーブルの上で笑顔を浮かべるジンジャービスケットに目を向けながら日曜日の出来事を掻い摘んで説明をする。
その時彼女が見せた反応は昨日マウリッツが見せたものと同様で、信じられないものを見聞きした時の人が見せる顔になっていた。
「ウソ……!」
「ウソじゃない……足が急に痛くなった事、いつもリオンがいるのにいない不安、声も聞けないことへの不満、色々積み重なった結果だが……どれも全て言い訳に過ぎないな」
最大の理由はリオンの不在への寂寥感だと自嘲するウーヴェにリアが驚きのまま言葉を失うが、ウーヴェが呆れただろうと自嘲交じりに問いかけた事で呪縛が解けたように頭を左右にゆっくりと振る。
「……どんな人でも、言い訳が必要な時もあるわ」
「リア……」
「……お酒を飲んで鬱憤を晴らすこともできるのにあなたは飲まなくなったからそれが出来なかった。そこにリオンに良く似たノアがいたんですもの」
あなたが耐えられないと言うのなら他の誰も耐えられなかったんじゃないかしらとウーヴェの日頃の人付き合いの真剣さを良く知るリアが肩を竦め、私なんてひと月も持たないものと自嘲の笑みを浮かべるが、ただ一つだけ教えて欲しいとまっすぐに見つめられてウーヴェも彼女と正対する。
「うん。何だ?」
「……ノアとの事は……一度限り、よね?」
人付き合いに真摯なあなただから一度関係を持ったからといって今後もそれを続けなければいけないという奇妙な責任感はないわよねと問われて流石にマグカップを持つ手を揺らしたウーヴェは、それはないと穏やかな顔で断言しルッツにも昨日それを聞かれたと肩を竦めつつあいつ以上に愛せる人などいないと若干の照れを浮かべつつ再び断言するとリアが満面の笑みで頷き、それならば問題はないと胸をなで下ろす。
「ただ……ノアに対しては誠実じゃないとも言われた」
「そうね……それはあなたがちゃんと謝らないといけないことね」
リオンの代用品としてノアを利用したのだ、ちゃんと謝ると伏し目がちに呟くとリアも同意するように頷くが、それにしても意外だったと大きく息を吐きながら背凭れにもたれかかる。
「そうか?」
「そうよ! 私やリオンならともかく、まさかあなたがパートナー以外と寝るなんて想像出来なかった」
「……それだけ俺も弱っていたってことかな」
「あなたも過ちを犯す人間だったって分かってホッとしたわ」
「……リアは俺を何だと思っていたんだ」
彼女が茶目っ気たっぷりに目を細めて笑う顔に憮然としたウーヴェも背凭れに寄りかかると昨日の苦悩が随分と軽くなった気持ちで自然と目に入る天井に向けて息を吹きかける。
「……あいつが許してくれると良いんだけどな」
昨日の不調は己がしでかした罪の重さと後悔とそして許してくれるかどうかという不安に苛まれていた結果だと友人の力を借りて立ち直ったウーヴェが目を細めると、さっきも言ったけどリオンや私などはパートナーがいても当たり前に思うことだから許すも許さないもないんじゃないかしらと自嘲混じりの声が聞こえてきて視線を戻すと、ジンジャービスケットを摘みながらリアが意味ありげに目を細めていた。
「リア?」
「……リオンと付き合いだした頃、確か常に付き合っている人が二人か三人いたって言ってたわね」
「ああ」
随分と遠い昔の出来事のように感じるそれに苦笑し何人かの名前を吐かせた事があったが数が多すぎて途中で投げ出したことも思い出したウーヴェは、そんな万人が認めてくれるはずのない付き合い方をしていたリオンがたった一度のあなたの過ちを責めるかしらと小首を傾げられて眼鏡の下で目を見張る。
「もしもよ、私があなただとしてリオンに責められたらどの口がそれを言うのよと言っちゃうわ」
ただあなたは優しいから責められたとしても素直にそれを受け入れるでしょうし、リオンの過去を知っている為に過去の悪行を今責める為に利用したりしないでしょうと信頼の顔で頷かれて少し考え込むが、確かに自分にその言葉は言えないものだと苦笑する。
「それは多分リオンが一番分かっている事だと思うわ」
だから今一人で悩むのではなくてリオンが戻ってきてから一緒に悩めば良いんじゃないかしらと、これもまたマウリッツと同じことを言われて胸がまた一つ軽くなったウーヴェは、うんと素直に頷いて眼鏡の下で照れたように目を細める。
「ダンケ、リア」
「……あなたに礼を言われるのって本当、危ないわ」
これがクセになったら大変と頬を赤くしながらぶつぶつと呟くリアに首を傾げてどうしたと問いかけるウーヴェだったが、己の言葉と表情がどれほどの思いを抱かせるのかにまで気付けずに呆気に取られてしまう。
「……ね、リオンは今週中に帰ってくるって言ってたの?」
「あ、ああ、シュトレンを一緒に食べようって言っていたな」
だから遅くても土曜日には帰って来るんじゃないかと話題を変えてくれたリアに感謝しつつ肩を竦めるが、からかいの色など一切ない顔でリアが良かったわねと喜んでくれた為、ウーヴェがグッと拳を握って感情を堪えなければならなくなる。
「……ああ」
「……帰ってきたらあの子のためのケーキを焼かなきゃいけないのね」
出て行った後は自分とウーヴェの分だけで済んだのにと片目を閉じつつ明るい声で告げるリアにただ無言で頷いたウーヴェは、良く食べるからなぁと返してマグカップの紅茶に口をつける。
少し温くなった紅茶が食道を通って胃に流れ落ちるのを実感し、スパイスの効いたジンジャービスケットの味にホッと胸を撫で下すのだった。
土曜日の午後、いつものように神父とリオンの食事を持ってきたクリスとアンナゾフィーは、いつもなら笑顔で出迎えてくれるリオンが少しだけ寂しそうな顔で出迎えてくれたことに顔を見合わせてしまう。
「リオン? 今日のランチ持ってきたよ?」
「リオンのしゅきなチーズだよ?」
クリスとアンナゾフィーの声に満面の笑みを浮かべたリオンは最後の晩餐だなと笑って神父を見、神父も寂しそうな顔で頷く。
「そうですね……寂しくなりますね」
「ああ……クリス、リトル・ゾフィー、今までありがとうな」
運んできた料理をテーブルに置きクリスとアンナゾフィーの双方の顔をしっかり見る為に床に座り込んだリオンは、不思議そうに見下ろして来る二人の子供の頭を一つ撫でて小さな小さな手を両手でそれぞれ握ると今日帰ると笑顔で告げる。
「どこ、帰る、の?」
「ああ。オーヴェの所に帰る」
アンナゾフィーの問いに愛する人の元に帰るとやっと取り戻す事のできた誇りを顔に浮かべたリオンは、クリスの顔が喜びと悲しみに彩られたことに気付き、腕を引いて足の上に座らせるとアンナゾフィーも自らリオンの足の上にちょこんと座る。
「帰るのか?」
「ああ。……月曜日にオーヴェと電話で話をした」
俺の母が作ってくれるシュトレンを明日一緒に食べようと約束をしたと頷いたリオンの言葉を飲み込み自分なりに消化したのか、クリスが泣き笑いの顔で大きく頷く。
「オーヴェに逢えるんだな、リオン!」
「ああ。やっと逢える……ユリアのおかげだ」
ユリアやリッケルト、そしてお前達には本当に世話になったとクリスとアンナゾフィーの頭を撫でたリオンだったが、不意にアンナゾフィーの口角が下がり、何かを堪えるようにスカートを握りしめたことに気付くと彼女の小さな背中を片手で抱きしめる。
「……いっちゃ、ヤダ、リオン……っ!」
「泣くなよ、リトル・ゾフィー。お前に泣かれると辛い」
何も永遠の別れになるわけじゃない、会おうと思えばいつでも逢えるのだから泣かないで笑顔で見送ってくれと笑って涙が流れ落ちる頬にキスをしたリオンは、しゃくり上げるように泣くアンナゾフィーの背中を撫でて慰めるが、逆の足の上からも嗚咽を堪えるような声が聞こえてきて苦笑を深める。
「クリス、男だろ、泣くな」
「泣いてないっ!」
「そうかそうか。……神父様、二人のことを……」
頼むと今まで黙って見守ってくれていた神父を振り仰いだリオンだったが、二人を頼もうと思っていた神父の頬にも涙が流れ落ちていることに気付いて何とも言えない顔になる。
「神父様も泣くなよ」
「……人との別れは幾つになっても慣れないし悲しいものです」
だからこれは仕方がないのですと理路整然と意味の通じないことを告げられて呆気に取られたリオンだったが、足の上で泣く子供二人を慰める為にどちらの頬や髪にもキスをし、何度も背中を撫でて落ち着かせようとする。
「神父様、ユリアとリックの家で飯を食おうぜ」
持ってきてもらった料理を持って行って皆で最後の晩餐を楽しもうと笑うとようやくアンナゾフィーの顔が明るくなる。
「おうちで食べゆの?」
「ああ、そうしようかな。クリス、先に帰ってユリアに聞いてきてくれ」
「うん!」
涙を袖で拭って笑顔で駆け出すクリスの背中に苦笑し、そういうことだから神父様も出かける準備をしろ、それを持ってユリアの家に行くぞと笑うとアンナゾフィーがリオンの首に両腕を回してしがみつく。
「リオン、行っちゃ、ヤ」
「……寂しい思いさせちまうな、リトル・ゾフィー。今度オーヴェと一緒に遊びに来る」
だから俺が本来いるべき場所に帰ることを認めてくれと涙でぐしゃぐしゃの顔の幼女と真正面から向き合ってしっかりと思いを伝えたリオンは、しゃくりあげながらも頷くアンナゾフィーの頬を掌で拭いた後、小さな音を立ててキスをする。
「……うんっ」
「良い子だ。オーヴェに会ったらいっぱい甘えろよ。オーヴェは優しいからな」
「うんっ」
リオンの腕の中で素直に返事をする彼女と同じ笑顔を浮かべたリオンは、神父が用意ができましたとたった今届けられた料理をバスケットに詰めて両手でしっかりと持った姿で頷いた為、さあ、今からの食事を楽しもうと再度アンナゾフィーの頬にキスをしクリスが一足先に帰り着いた家に向かうのだった。
父の腕の中で泣きじゃくって顔中涙や鼻水まみれにしたアンナゾフィーの頬を撫でてキスをし、次に来るときはオーヴェと一緒に来ると笑ったリオンは涙を堪えて見上げてくるクリスの頭にぽんと手を載せ、暗くなる前に家に帰りたいからとクリスの後ろで悲しさと嬉しさを混ぜ合わせた顔で腕を組んでいるユリアに頷き、寂しそうな顔のリッケルトにも笑顔で頷くと、この町にふらりとやって来た時に乗って来た自転車のサドルを撫でてオーヴェの元に帰ろうかと目を細める。
「じゃあな、みんな。……次に来る時はオーヴェと一緒にくる。チャオ」
自転車のサドルに跨り今から一時間程−道が悪ければもっと時間がかかるが自宅へと帰る一歩を漕ぎ出したリオンは、背中に投げかけられるまたねの言葉に頷き、聞いているかゾフィーと呼びかける。
『何よ』
「……何でもねぇよ。さー、オーヴェに会いに行くかー」
明日はマザーのシュトレンをオーヴェと一緒に食えるなぁと笑うリオンにゾフィーが心の底から良かったわねと声をかける。
「おー。ユリアとお前には感謝だな」
お前の一言で俺の親はマザーだってこれからはいつ誰に聞かれてもそう答えられると口の端を持ち上げたリオンにゾフィーが嬉しそうに笑みを浮かべて頷く。
『そうね。あんたの親はマザーだけよ』
「ああ」
ゾフィーと軽い気持ちで言葉を交わせたことにリオンの顔に笑みが浮かび、これから一時間程走るがケツが痛くなると笑うと、そもそもここまで逃げて来たあんたが悪いと言われて言葉を飲み込んでしまう。
「うるせぇ」
『私は一足先に帰ってようっと』
その言葉を残して呼びかけに答えなくなったゾフィーに思わず中指を立てたリオンだったが、その心は沈みゆく太陽とは真逆の明るさを持っていて、幼い頃にありったけの想いを込めてホームと呼んだ児童福祉施設とそこで自分の帰りをいついかなる時でも待っていて笑顔で出迎えてくれる母がいる場所へと帰る為に自転車を漕ぎ続けるのだった。
土曜の晩御飯をゲートルートで今夜は一人で食べていたたウーヴェは、マザー・カタリーナからの着信で食事の後ホームに寄って欲しいと頼まれた為、ホームに持って行く手土産のアイスをベルトランに頼んで持ち帰り用の箱に詰めてもらい、急いでいるようなので今日は帰ると手をあげて勝手口から出て行く。
車を運転しつつ何かあったのかと思案しながら粉雪が降り始めた空の下をホームに向かうと、定位置の破れているフェンスの前に車を止めてステッキをつきながら降り立つ。
敷地内の礼拝堂のドアが僅かに開いている気がしたが明日の日曜ミサの準備をしているのだろうとしか思わず、溶けた雪が泥濘ませた道を歩き小さな家の小さな玄関のドアをノックする。
「いらっしゃい、ウーヴェ」
「マザー、何かあったのか?」
いつもと変わらない笑顔で出迎えてくれるマザー・カタリーナにウーヴェがアイスを差し出しながら以前に比べれば丁寧さよりも家族に接している顔で問いかければ、自宅のツリーかクランツに飾るオーナメントを持って帰って欲しかったのですと笑顔で頷かれて些か拍子抜けしてしまう。
「何だ、何かあったのかと思った」
「ふふ。今年はツリーもクランツも作らないと聞きましたよ」
リオンが不在の今年、クリスマスや己の誕生日を祝うつもりなど全くなかったウーヴェだったが家族の猛反対を食らってしまい、可能な限りの長い休暇を取ったミカとアリーセ・エリザベスがウーヴェの自宅に突撃し、ギュンター・ノルベルトが去年同様送りつけたモミの木に様々な飾り付けをしていたのだ。
己の精神状態がどん底だった為にその飾り付けに参加しなかったウーヴェだったが、母から連絡があったのかと問いかけてはいと満面の笑みで頷かれては何も言い返せず、小さく吐息を零した後、ありがとうと礼を言ってマザー・カタリーナの頬にキスをする。
「ああ、これ、子供達に」
「いつもありがとうございます、ウーヴェ」
マザー・カタリーナの丁寧な礼に頬を少しだけ赤くしたウーヴェがアイスだからと告げて箱を差し、オーナメントはどこにあるんだと問いかけながらキッチンへと肩を並べて歩いて行く。
「こちらに用意しています」
キッチンの床に持って帰って欲しいものと書かれた袋がありそれを受け取ったウーヴェにブラザー・アーベルが思い出したと声をかける。
「ウーヴェ、礼拝堂に大切なものがあるのでそれも持って帰ってもらえないかな?」
「大切なもの?」
「ああ。礼拝堂に行けば分かる」
笑顔で告げられたそれにくっきりと眉を寄せたウーヴェだったがどうしても己が礼拝堂に行かなければならない雰囲気になっていて、仕方がないと溜息を吐きつつ袋をマザー・カタリーナに預けてキッチンを出て行く。
「ウーヴェ、明日もシュトレンを食べに来て下さいね」
「ああ、うん。ダンケ、マザー」
廊下を歩く背中に投げかけられた声に半ばぞんざいな態度で返事をしたウーヴェは、雪が降っている中を礼拝堂に向けてゆっくりと歩いて行き薄く開いているドアに手を掛ける。
照明が落とされてロウソクの灯りだけが仄かに浮かび上がる薄闇の中、小さな聖母像が見下ろす先に人影が見えて一瞬びくりと身体を竦めたウーヴェだったが、その背中に見覚えがあり、まさかと眼鏡の下で目を見張る。
薄闇の中でも分かるブロンドは見慣れた長さではなく首筋の上あたりで切られていたが、手触りが良いのは一目で分かるほどだった。
ロウソクのかすかな光を反射する両耳のピアスは覚えているものから比べればはるかに数が増えていて咄嗟には数えられないほどだったが、ただ見慣れた青い石のピアスはそのままの場所で控えめに煌めいているようだった。
まさかと呟きながらステッキの握りをしっかりと握り締めたウーヴェは一歩ずつ背中に向けて歩いて行くが、三列後方に辿り着いた時、疑問を確信へと変化させる。
「……!!」
どう声を掛ければいいのか分からなかった為に口を開いても言葉は出て来ず、そんな己にもどかしい思いをしながらも感情に震えそうになり、それを堪えるように口元に手を充てがう。
一瞬、目の前にある背中が日曜日に酒に溺れた中で抱いた背中ではないかと冷静な声が聞こえるが、そんな訳はない、実はあの時もはっきりと分かっていた背中を見間違えるはずがないと否定したウーヴェは、その真後ろの席に腰を下ろしながらブラザー・アーベルの言った大切なものが目の前にある現実が俄かには信じられないのだった。
ウーヴェの大切な物が帰って来たその夜、礼拝堂の外では冬の女王の子供たちが楽しげに夜空をステージに舞い踊っているのだった。