走り去るのぞみの可愛らしいピンクの車を見ながら、京平は思っていた。
今日の計画では、キスくらいするつもりだったんだが。
なんか……できなかったな。
車に乗る前にちょっと、とか。
のぞみが発進する前にドアを開けてちょっと、とか思っていたのに。
なんでだろう。
できなかったな、とまた思う。
『で、では、ご馳走様でした。
今度、お礼に奢らせてください』
と頭を下げたのぞみを思い出す。
それだと意味がわからないと断ろうと思ったのだが。
のぞみと出かけられるチャンスをふいにすることもあるまいとそのとき思った。
よし、珈琲でも奢ってもらって、次は俺がなにか美味いものでも奢ってやろう。
何処かいい店はないだろうかと思ったとき、のぞみの車が右折して行くのが見えた。
ピンクの車が視界から消える。
ちゃんと家まで着くだろうか。
それなり運転も上手いし、毎日、マイカー通勤していることもわかっているのに。
高校のときのイメージが抜けないのか。
のぞみが運転しているというだけで、ハラハラしてしまう。
家まで後ろを付いていきたいと思ってしまったが、それでは、ストーカーか心配性の親兄弟みたいだと気づき、京平は、ぐっと堪えた。
……うん。
まあ、とりあえず、今度また、なにか美味いものでも奢ってやろう。
美味しいですよねっ、と言いながら、笑うのぞみの顔を思い返しながら、つい、自分も笑っていた。
何処がいいかな。
こっち帰ってきてから忙しくて、仕事関係で使う店くらいしか知らないからな。
京平はスマホを手に取り、電話をかけた。
『はい、もしもし?』
とすぐに相手が出る。
自分からかかったことに、ちょっと訝しげだった。
「樫山、彼女を連れてくのに、何処かいい店はないか?」
唐突にそんなことを言い出した自分に、樫山が、はあっ? と声を上げる。
「早苗とか詳しいだろ? そういうの。
坂下が俺と結婚――」
したくなるような、はまずいな。
まだ、話が上手く進んでいないのがバレてしまう、と思い、京平は、
「坂下が俺と結婚して、幸せな一生を送りたいな、と思うような店を教えろ」
と言い換えた。
『そんな店あるのなら、こっちが知りたいわっ』
と怒鳴られてしまったが。
だが、樫山は、
『……ちょっと待ってろ。
今まで行って、早苗がいいって言った店のリストを送ってやる』
と言って電話を切った。
……同時期に結婚するような彼女が居る奴と思って、つい、樫山に、かけてしまったが。
意外にいい奴だったな、と思い、京平は、暗がりでそこだけ明るく光るスマホを眺めていた。
「専務、昨日はどうもありがとうございました。
ところで、寝不足そうですね」
翌朝、専務室に行ったのぞみは京平が眠そうなのに気づいて、そう訊いてみた。
「ああ、あのあと、樫山の話が長くて」
とあくびを噛み殺しながら、京平は言う。
「えっ? 樫山さんとお話しされてたんですか?」
と驚いて訊き返してしまった。
あんなに仲悪そうだったのに、と思ったのだ。
「いや、ちょっとな」
と言う京平に首を捻りながらも、整理した郵便物を置いて出ようとしたとき、京平が、
「坂下、ありがとうな」
と言ってきた。
「え、なにがですか?」
とのぞみは振り返る。
その口調に、仕事のことではないような気がしたからだ。
「樫山とは同じサークルだが、お世辞にも仲はよくなかったんだ」
まあ、見るからによくなさそうだったですよね~。
「共通の友人が多いから、なんとなく一緒に居たが、そんなに個人的に話したことはなかったんだが。
あいつ、物言いが鼻持ちならないしな」
そっくりですよね~。
「でも、二人だけで、ゆっくり話してみたら、なかなか面白い奴だった」
となにか思い出すように京平は笑った。
そりゃ、変わっている専務と共通のお友だちが何人もいらっしゃる方なら、やっぱり、変わっていて面白いんじゃないですかね~?
と思ってはいたのだが、口に出したら、無礼討ちにされそうなので、黙っていた。
「今までと違う人間と関わることで、見えてくるものもあるんだな。
ありがとう、坂下」
となんだかよくわからないが、また礼を言われてしまった。
のぞみは、
「はあ、では、失礼します……」
とよくわからないまま、よくわからない返事をして出て行こうとしたが、
「待て」
と京平に犬を止めるような勢いで言われてしまう。
思わず、扉を開けかけた手を止めると、
「今日は何時まで大丈夫だ?」
と言ってきた。
「え」
「お前、門限はあるのか?」
「い、いえ、高校生ではないので」
「そうか。
でも、実家だから、あんまり遅い時間は無理だろうな」
俺もお前の親御さんに、印象悪くしたくないし、と京平は言う。
「今日、なにも用がないようなら、家に帰って待ってろ。
終わったら、連絡する」
「で――」
でも、と言いかけたが、京平は仕事中と変わらぬ冷ややかな目線になり、
「珈琲奢ってくれるって言ったろう?」
と痛いところを突いてくる。
「わ、わかりました」
とのぞみは頭を下げた。
「で、では」
今度こそ――
「失礼しますっ」
と扉を開けると、外に祐人が居た。
「あ、おっ、お疲れ様でーすっ」
すすす、と行こうとすると、祐人が、いきなり、
「珈琲」
と呟いた。
今の話の流れで、どきりとしてしまう。
聞かれたのかと思ったのだ。
だが、祐人は、
「珈琲、一時半に五人分、食堂に頼んでおいて取りに行って」
と言ってきた。
あっ、はっ、はいっ、とのぞみは慌てて返事をし、また、失礼しま~す、と言って、その場を去った。
あまり人気のない役員室の廊下に出て、ホッとする。
重厚な古い絨毯の敷かれた此処に来ると、最初は緊張していたのだが。
今では、社内では数少ない、安らげる場所のひとつとなっていた。
あまり人が行き来していないからだ。
それにしても、と渋い金色の専務室のプレートを振り返りながら、のぞみは思う。
専務と樫山さんが和解したのなら、もう、私とは結婚しなくてもいいんじゃないだろうか?
それとも、それとこれとは別なのかな?
そう小首を傾げながら、のぞみは秘書室へと戻った。
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