テラーノベル
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レッスンルームを出ていった舞白の足音が、廊下の向こうへと消えていく。 美夏は、その場から動けなかった。鏡に映った自分の顔を見つめる。
回帰前の舞白のほうが、今の舞白よりも、ずっと冷静だった。
美夏は知っている。White Noiseがテレビを干され、グループ全体が地下アイドルのような活動に追い込まれたあとも、舞白だけはブロードバンドTVのVoid Channelでレギュラー番組を持っていた。広告を入れず、スポンサーへの忖度を必要としない配信会社。その経営者、鷺坂至(さぎざかいたる)には、舞白に救われた恩があると言われていた。舞白のアドバイス通りに投資して、経営難を逃れたという。
当時はただ、舞白の知性と人柄ゆえだと思っていた。
しかし、回帰前のあの世界の舞白こそ、別の世界の未来を知る回帰者だったのだとしたら、話は違ってくる。舞白は、別の世界の未来の記憶を利用して仕事を獲った。そして──
「気づいたかい?」
どこからともなく声がした。
美夏は振り向いた。そこには誰もいなかった。なのに鏡の中にだけ、男が立っている。長い黒髪に、人間離れした美貌。そして、こちらを見つめる赤い瞳。
「アザゼル……」
美夏は鏡に近づいた。
「どうしてここに?」
「君が私を呼んだからさ」
「呼んでない」
「そういう意味ではないよ」
アザゼルは微笑んだ。
「君が疑問を抱いた。だから私は現れた」
相変わらず、ふざけているのか本気なのか分からない男だった。
美夏は苛立ちを抑えながら尋ねた。
「舞白は……回帰者だったの?」
「そうだ」
あまりにも簡単な答えだった。
美夏の胸の奥がざわつく。
「でも、あの子は何も覚えてない」
「正確には、このワールドの彼女は、自身の回帰前の記憶を完全には覚えていない」
アザゼルは鏡の中で腕を組んだ。
「回帰者は、一つのワールドに一人しか存在できない。君が存在していたワールドを、別のワールドとして複製した場合、複製先には他のワールドの記憶を保持する回帰者は存在しない」
「どうして?」
「接続が切れるからだ」
アザゼルは淡々と説明する。
「回帰者の記憶は、通常の人間の脳に保存された経験とは少し違う。元のワールドとの接続によって維持されている」
美夏は眉を寄せた。
「だから、複製された世界の舞白は……」
「回帰前の世界との接続を失った。しかし、完全に、ではない」
アザゼルの声が静かに響く。
「接続が弱くなったことで、記憶は断片化する。言葉にならない感覚。説明できない既視感。そして──夢の中に繰り返し現れる」
美夏は、舞白の言葉を思い出した。
デビュー前。まだ会ったこともない美夏が、夢に出てきたと舞白は言った。
美夏は呟いた。
「……だから舞白は、知らないはずの私を夢で見ていたのね」
「そういうことだ」
「だったら……」
美夏の指先が震えた。
回帰前の自分に起きたことを思い出す。
仕事を奪われ、居場所を奪われ、最後には、殺された。そしてその破滅に至る道筋には、舞白がいた。彼女はいつも笑っていた。捏造記事で週刊誌に叩かれたときも、彼女は美夏に笑顔を向けていた。
美夏は、ゆっくりと顔を上げた。
「私を殺したのは……舞白なの?」
「直接、という意味ではないが」
「同じことでしょ!」
美夏の声がレッスンルームに響いた。
「私を破滅させたのは、舞白だったんでしょ?」
アザゼルは答えなかった。その沈黙が、肯定に思えた。
胸の奥が熱くなる。怒りだった。悔しさだった。そして、裏切られたような感覚だった。回帰前の世界で、舞白はいつも自分の隣で笑っていた。そしてこちらの世界では、自分のほうを見ていた。夢にまで見たと話していた。ドアノブに手をかけて、こちらを振り返り、「美夏、また話そうね」と言っていた。
なのに──あの日、廃遊園地で天導から見せられた写真を思い出す。夜景を背に笑っている舞白と律のツーショット。今なら分かる。舞白はあの写真を自分に見せたかったのだ。
「……許さない」
美夏はバッグを掴んだ。
「待て」
「嫌」
「どこへ行く?」
「舞白のところ。復讐してやる」
美夏はドアへと向かった。足が止まらない。
今ならまだ、舞白は何も知らない。彼女が思い出す前に、自分が受けたものを、同じように返してやる。
「美夏。それは、この世界の舞白への復讐だ」
「だから何?」
美夏は振り返り、鏡の中のアザゼルに抗議する。
「舞白は舞白でしょ?」
「違う」
「何が違うの? 同じ顔、同じ身体、同じ名前よ」
「だが、同じ人生を生きてはいない」
アザゼルは鏡の中から静かに美夏を見つめている。
「このワールドの朝霧舞白は、まだ何もしていない。回帰者として生きた記憶もないし、君を破滅させた経験もない。それでも彼女を裁くのなら、それは復讐ではない」
アザゼルの声は穏やかだった。
「無実の人間を、別の世界の罪で裁くことになる」
「……悪魔に説教されたくない」
美夏は吐き捨てるように言った。
「復讐の機会を与えると言ったのはあなたでしょ。やめさせようとするなんて、契約違反じゃない!」
「君らしいね」
アザゼルは微笑んだ。
美夏にはその態度が余計に腹立たしかった。
「笑わないで」
「笑っていないよ」
「……もういい」
美夏はドアを開け、廊下に出る。
背後の鏡には、まだアザゼルがいるのが分かる。
美夏は一度だけ振り返った。
「私は、舞白を許せるほど出来た人間じゃない」
「知っているよ」
アザゼルの声は、やはり穏やかなままだった。
美夏は不意に、回帰前のあの日の月城律を思い出した。USBメモリを手渡して、信じていると言った律。この世界の舞白が別の人間だというのなら、この世界の律だって別の人間だ。自分を信じてくれた律は、この世界にはまだいない。そして未来にも、いるかどうか定かではない。でも──そんなこと、回帰後の自分と二年前の自分が別人だと思った時点で、分かり切っていたはずのことだった。
レッスンルームの扉が閉じる。
鏡の中に残されたアザゼルは、ただ静かに美夏の背中を見送っていた。
◇
美夏は、繁華街の一角にあるアミューズメント施設の扉を開けた。
そこは、ストレス発散を目的にした体験型アクティビティの店だった。
派手なネオン。壁に描かれたポップなグラフィティ。やってはいけないとされている破壊行為を楽しむ場所。受付の向こうには、透明な防護壁で区切られたスペースがいくつも並んでおり、その中では人々が思い思いに物を壊していた。
古い家電。食器。家具。叩けば割れるものなら、何を壊してもいいらしい。
受付で説明を受けた美夏は、防護服とフェイスシールドを身につける。最後に手渡されたのは、一本の斧だった。ずしりと重い。美夏は柄を握り直した。
頭の中には、先ほどのアザゼルの言葉が残っている。
──『このワールドの朝霧舞白は、まだ何もしていない』
頭では、分かっている。しかし、だからといって、怒りが消えるわけではない。回帰前の舞白が、故意に自分を破滅させた。その事実を知ってしまった以上、胸の中に生まれた感情を、簡単に消せるはずがない。
美夏は斧を振り上げた。そして、叩きつけた。けたたましい音を立て、電子レンジが大きくへこむ。もう一度。さらに一度。斧を叩きつけるたびに、破片が辺りに飛び散った。電子レンジの次は古いプリンター。その次は壊れたテレビ。美夏は無言で斧を振り下ろし続けた。寿志。天導。舞白。脳裏に浮かぶ彼らに向かって、斧を叩き込む。
何度も何度も何度も何度も、息が上がっても止めなかった。腕が重くなっても止めなかった。壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して、やがて目の前にあったものはほとんど原形を留めなくなっていた。
美夏は荒い呼吸を繰り返しながら、斧を下ろした。
──違う。
ふと、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
寿志を壊したい。天導を壊したい。舞白を壊したい。
それは本当だ。だが、それだけではない。
回帰前の世界で、美夏を殺したのは天導だった。けれど、天導一人がいなくなったところで何が変わる? 寿志を失脚させたところで? 別の誰かが、その席に座るだけではないのか。自分を商品として扱う人間。才能を消費する人間。誰かの作品を奪い、名前だけを売る人間。弱い立場の人間を使い潰し、それを「業界では普通」と笑う人間。そういう人間が生まれ続ける場所そのものが残っている限り、また誰かが同じ目に遭う。
美夏は気づいた。寿志も、天導も、そして舞白も、復讐の終着点ではない。手段だ。自分を殺した人間に一人ずつ報復することだけが目的ではない。もっと大きなもの。自分を殺した仕組み。人間を商品にして、才能を食い潰し、嘘を本物として売り出す構造。それを壊さなければならない。
美夏は、斧を握る手に力を込めた。
その瞬間、脳裏に、柊木の姿が浮かんだ。
殺陣の稽古の最中に感じた、何度打ち込んでも越えられなかった壁。
力ではない。速さでもない。技術でもない。何かが足りないことは分かっているのに、それが何なのか、まったく分からなかった。しかし、今は違う。
美夏は目の前に散らばる破片を見つめた。
これまでの自分は、目の前の敵しか見ていなかった。そこに感情を叩き込めば殺せると思っていた。それですべてが解決すると思っていた。けれど今は、壊すべきものが見えている。
──特定の誰かじゃない。全部、ぶち壊す。
そう意識した瞬間、何かがすっと抜け落ちた。肩の力が抜け、視界が広がる。柊木との稽古で、何度も感じていた違和感の正体が見えた。敵を倒すことだけを考えていたから、動きが小さかった。一人の敵だけを見ていたから、その先が見えなかった。でも今は違う。相手の向こう側まで見える。その一歩先、さらにその先が見える。
美夏は斧を構え直した。そして、最後に残っていた古い家具へと踏み込み、斧を振り下ろす。その一撃は、今までとは違った。力任せではない。身体全体が一つに繋がっていた。
斧が、吸い込まれるように入る。
轟音が響き、木材が大きく裂けた。
美夏は、その感触を確かめるように息を吐いた。
できる。昨日まで、どうしても届かなかった場所に、今、初めて手が届いた。
殺陣が上手くなったわけではない。身体能力が突然変わったわけでもない。ただ、戦う理由が変わっただけ。美夏は斧を下ろし、フェイスシールドの内側で静かに笑う。
自分が目指すべき『頂点』は、誰かの作った椅子に座ることではない。椅子そのものを作り替えることだ。
美夏は、散乱した破片を見渡した。
もう、母の言いなりになる必要はない。
専業プウタ
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コメント
1件
いやもう、美夏の気持ちが痛いほどわかるよ……!!💦 「この世界の舞白はまだ何もしてない」って言われても、記憶が戻ったら関係ないって思っちゃう気持ち、すごくわかる。 でも最後の粉砕シーン、ただの怒りじゃなくて、仕組みそのものを壊そうとする覚悟に変わった瞬間が超カッコよかった…!😭✨ 美夏、もう戻れないけど前に進むしかないね…次が気になりすぎるよ!!