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カウレンの町の一角で、ユカリは状況を整理する。馬泥棒である青銅鎧の武人を、謎の鳥の巣頭の戦士が連れ去った、ユビスに乗って。そして喪服の貴婦人アギノアはまたもや魔法で姿を消した。
申し訳ない思いはあるが命の心配のないユビスよりも、沢山の人を海から解放するために真珠を優先しなくてはならない。馬泥棒と馬泥棒泥棒の諍いは気にかかるが。とはいえアギノアがこのまま旅の連れである青銅鎧の武人を捨て置いて例の遺跡へ向かうだろうか。そもそも何の目的で遺跡へ行きたいのかすらユカリは知らない。アギノアは旅をただ純粋に楽しんでいる風でさえあった。観光、ということはないだろうけれど。
遺跡へ向かうにしても大隧道どころか、封鎖されたこの街を出ることすら難しい。ユカリ一人ならばともかく、だ。
「止まれ」埃っぽくて陽の光の少ない狭い路地を先に行くドボルグが後に続くユカリと手下たちを制止する。その先の角を覗き見ながらドボルグは言う。「時間の問題だな。隠れ家にたどりつくことすらできずに坊主どもに見つかっちまう」
「隠れ家じゃなくてアギノアさんを探すんですよ」とユカリは指摘する。
「今この街で坊主どもから逃げ隠れしながら姿を眩ませられる女を探す?」ドボルグは苛立たし気に振り返り、目を細める。「いや、その必要はなさそうだ」
視線を追ってユカリも振り返る。黒い衣に身を包み、面紗に顔を隠したアギノアが集団の最後尾にいた。ユカリが放った水に濡れてはいたらしく、水滴を滴らせている。
ユカリが口を開く前にアギノアが言う。「これをお探しなのですよね」
そう言って右手に持っていた大粒の真珠に飾られた冠を掲げる。冠自体は鏡のように磨き上げられた銀で僅かな光さえも反射し、煌めいている。
ユカリはもう一度腰に控える真珠剣リンガ・ミルを確認した。やはり七色の鼓動の如く点滅発光している。
「お願いします。譲ってください。それを手に入れないと助けられない人たちがいるんです」ユカリは出来る限り真摯な声色でアギノアに希う。
アギノアはかすかに首を横に振る。「あの人を助けてください。そして私と共にこの街から脱出させてください。そうすればこの冠を差し上げます」
その声の繊細な硝子細工を包み込むような響きからアギノアが青銅鎧の武人をとても大切に思っていることが伝わる。
ユカリは確認するように尋ねる。「彼らがどこにいるか分かるんですか?」
今度は首を縦に振ってアギノアは言う。「ええ。ですが私の力だけでは助け出すことはできません。どうかお願いします」
ユカリが承諾しようとしたその時、盗賊団の首領ドボルグが割って入る。「待て待て。勝手に話を進めるな。何もそんな取引に乗る必要はないだろう? お嬢ちゃん」
そう言う間に言われるまでもなく盗賊の頭の手下たちがアギノアを取り囲む。
「今、ここで最高傑作を受け取って、海はすぐそこだ。その後でこの女の手助けをしたけりゃすればいい」
アギノアはドボルグをじっと睨み据えて冠を庇うように胸元に寄せる。
ユカリが声を潜めつつも語気を強める。「待ってください、ドボルグさん。アギノアさんは姿を消せるんです。素直に取引に乗りましょう」
しかしドボルグは答えず、盗賊たちは各々得物を取り出した。
「もう! 分からず屋! グリュエー! 行くよ!」
ユカリはアギノアの手を取ってグリュエーの力と盗賊たちの罵声や怒声を背に路地を駆け去った。
昼と夜が交わり、あちらとこちらの境が曖昧になる。夕暮れの赤みに染め上げられたカウレンの城邑の貧民窟は、悪しき人々と良き魔性の気に入るような不吉に揺らめく色彩に染まる。
貧民窟は南の地域にあり、放っておいた黴のように城邑の壁外にまで広がっている。今では使われていない朽ちた木の門が久方ぶりに閉じ、僧兵の監視により行き来できなくなっている。
アギノアの案内により、空気の張りつめた通りを進む。時折何人か一組になった僧兵を見かけた。貧民窟をも隅から隅まで巡回しており、住人に話を聞いているようだった。
「あそこです」と言ってアギノアが指さした先は、貧民窟の中でも元は立派な屋敷だったらしいことが窺える廃墟だ。
屋根も元々は草原の如きだったようだが、今では森の一部を切り取って乗せたみたいに繁茂して、自重で潰れて軒が垂れ下がっている。扉も枠から歪んで外れてしまい虚ろな穴を開けているが、遠目に中の様子は窺えない。光も何もなく、ただ一足先に忍び込んだ夜のような暗闇だけが湛えられている。あそこに青銅鎧の馬泥棒と鳥の巣頭の戦士とユビスがいるのだと言われても、その気配は一切読み取れない。
廃墟が逃亡することを恐れるかのようにじっと見張ってユカリは言う。「とりあえず、いってきます。アギノアさんはここで待っててください」
「いえ、お待ちに」そう言ってアギノアは真珠の宝冠を取り出す。「これをお持ちになってください。姿を消す魔法の秘密がこれです」
ユカリは押し付けられるようにその魔法の物品を受け取る。
アギノアがユカリの困惑を払うように続ける。「この頭頂部、羹皿のように少し深みがありますね。ここに水を湛えておきながら頭に被ると周りからその存在を認識されなくなるのです。侵入するのに使えます」
「アギノアさんはこれで……。それはもちろん、これなら楽に侵入できそうですけど」ユカリは冠と冠に移り込む自分の姿を眺めながら言う。「私がこれをかぶって、逃げてしまうとは思わないんですか?」
「正直に言えば、ちょっと懸念しました」とアギノアは恥ずかしそうに言う。「でも貴方、貴方たちは二度私を助けてくれました。それに、事情は知りませんが、ユカリさんが助けたい人たちというのはベルニージュさんとレモニカさん、ですよね? であれば私も助けたいです。仮に、仮にそのようなことになっても、私はお恨みしません」
ユカリもまた照れ臭そうに礼を言う。「ありがとうございます。これって塩水でも大丈夫ですか?」
アギノアの保証を得てユカリは魔法少女の杖を掲げ、冠に海水を注ぐ。それだけでは特に変化はない。
「私にお任せを」と言ってアギノアは戴冠式のようにゆっくりと冠を捧げ持ち、「慣れるまではとっても難しいですからね」と脅しつつ背伸びをしてユカリの頭の上に冠を乗せる。
ユカリの姿が消える。ユカリ自身の視界からも消え、その声も匂いも感触さえも消え失せ、平衡感覚を失う。倒れそうなところを勘で踏ん張る。そして目を瞑り、意識を集中した。自身の姿、出す音、匂い、空気や地面などの外界の感触、五感で認識できるはずの自分が失われている。
それでいて身体の存在は確かに感じ取れた。脈や肺のふくらみ、筋肉の収縮、骨の軋み。体の内部は確かに存在し、その気配を感じ取れる。それらの存在感を頼りにユカリは自分の体を操作する。目の前のアギノアはユカリが倒れるだろう、と思っているのか地面を見守っているが、そのおかげで奮起できた。ベルニージュほどではないが、ユカリにも負けず嫌いの気がある。
両腕の存在感を見失わないようにゆっくりと持ち上げ、頭の上の冠をつかみ、その感触に救われるような気持になる。ユカリは崖っぷちに捕まっているような気分になっていた。そうして冠を持ち上げると、見えない膜を通り抜けるような感覚と共にユカリは再び顕現する。
アギノアが少しばかり驚いた様子で仰け反って、ユカリはほんの少し小気味よく感じた。
アギノアは面紗の向こうでほうとため息をつく。「私が初めてこの冠を使った時はそのまま倒れてしまったものですが、ユカリさんは何ともなかったのですか?」
ユカリは謙遜するように首を横に振る。「いえ、何ともないことはなかったです。ただ、何もかもの感覚が失われてもなお、自分の存在だけは感じ取れて、何とか体を動かしてみました」
「自分の存在というと?」アギノアは面紗を傾けて問うが、その向こうは見えない。
「体の内部です。筋肉とか骨。脈は一番分かりやすかったですね」
「ああ、なるほどなるほど」アギノアは感心した様子で小刻みに何度も頷くが、妙に歯切れの悪い相槌をつく。「確かに、それなら、そうですね。それでどうですか? もう行けそうですか?」
「はい。大丈夫だと思います。急いだ方が良いでしょうし」
ユカリはもう一度冠を覗き込む。水鏡に映っているのは旅立った頃より少しだけ精悍になった自身の顔だ。
「お願いします。ユカリさん。あと、水が零れると効果が失せるので気を付けてくださいね」
そうだろうとは思っていたが、ユカリは念のために確認しておく。「濡れていれば良いんですか?」
「いいえ。水鏡のように湛えていなくてはいけません。最低限、水面が必要だということです」
魔法道具の制約の厳しさは力の証なのだろう、とユカリは納得することにした。
「分かりました」ユカリはしっかりと頷く。「分かった? グリュエー」
「分かったけど?」とグリュエーは控えめに吹き寄せる。
「飛んだり跳ねたりできないんだよ?」とユカリは念を押す。
「ああ、そっか。分かってなかった。ユカリが消えてる時は手出し無用だね」
「いざという時以外はね」とユカリは念を押す。
アギノアが首を傾げていることに気づいてユカリは謝罪する。「すみません。えっと、どういうことかは後で話します」
グリュエーのことをまだ伝えていないのに独り言をしてしまった。
恥ずかしさで消えてなくなりたくなる気持ちに応えてくれる魔法がユカリの手の中にあることに気づき、すぐさま真珠飾りの銀冠をかぶる。