冠をかぶった途端、やはりユカリの視界は傾きかけ、何とか踏ん張る。そして一歩一歩不確実に歩を進める。下手すれば自身の足を踏んでも気づかないだろうことに、いまさらユカリは気づいた。今もし冠を外したならば、そこにはがに股ですり足のユカリが現れる。慎重に慎重に馬泥棒の連れ去られた廃墟へと進んで、玄関の歪んだ扉枠から中を覗きこむ。
扉をくぐって入ってみれば、わずかな夕陽のおかげで廃墟の中の様子は今の自身の体よりもよく分かった。薄汚れて傾いた廊下が伸びており、金属が激しく擦れるような音と誰かの話し声が一番近くの部屋から聞こえる。
ユカリはゆっくりと近づいて中の様子を見る。
「そう暴れないでくださいよ。危害、はもう加えましたけど悪いようにはしませんから」とぼさぼさ頭の戦士が言った。
部屋の真ん中、腐った床の上に青銅鎧の武人が仰向けに転がり、足と後ろ手を鎖で縛られている。そして壁際に乱れ髪の戦士がもたれかかり、武人を見下ろしている。その這いつくばった有様を憐れむように榛色の瞳で見つめている。ユビスはいない。
「まさか私の方を狙っていたとはね。私をどうするつもりだ?」と武人は鎖を引き千切ろうと藻掻きながら言う。
その声は宵の口に一日の終わりを称え、美しく響き渡る青銅の鐘の音のようだ。
「心配せずとも、ただ貴方の本国に連れ帰るだけですよ。悪いようにはしませんから大人しくしてください」
「本国? 私の故郷を知っているのか? 君は私のことを知っているのか?」武人は暴れるのをやめて答えを待つ。
「ああ、やっぱり記憶は引き継がれてないんですね。じゃなきゃこんなことする訳ないか。ご自身の御名前もお忘れですか?」
「万雷、と呼ばれていた気がしている」とただ一言、青銅の鎧の武人は呟いた。
しかしめちゃくちゃに髪の跳ねた戦士はじっと見下ろすばかりで返事をしない。
「どうなんだ? 私の記憶違いなのか?」と武人は不安を募らせる。
「いえ」鳥の巣頭の戦士は首を横に振る。「ただ、貴く、そして力のある名です。徒に口にするべきではないでしょう」その答えを聞いて口を塞ぐヒューグに代わって、鳥の巣頭の戦士は言葉を続ける。「ヘルヌスという名は覚えておいでで?」
「いや。知らないな」
「俺の名です」と言うヘルヌスは悲しげに眉を寄せる。「ともかく、不滅公がお待ちです。俺の任務は貴方を本国へと連れ帰ること。折を見てこの街を脱出しますよ」
再びヒューグは拘束から逃れようと暴れ出すが、ヘルヌスはじっと見ているだけで何もしない。破壊されない絶対の自信があるらしい。
「分かりました」と言ってヘルヌスは壁を離れる。「あの女も連れて行きましょう。俺が妥協できるのはそこまでです。そしたら大人しくしてください」
「やめろ! 連れてこなくていい!」
「彼女はそう思ってないかもしれませんよ。大人しくお待ちを」
そう言ってヘルヌスは部屋を出て行く。慌てて、ただし頭の上の水を零さないように慎重にユカリは脇に避ける。ヘルヌスが廃屋を出たのを確認してヒューグの元へ駆け寄り、杖を出す。紫の仄かな光が部屋を僅かに灯す。つまり真珠の銀冠の力では魔導書の魔法は隠し切れないということだ。魔法少女に変身すれば全身が露わになるだろう。
「アギノアさんのお願いで助けに来ました」と誰にも聞こえないだろうが囁き、魔法少女の魔法でヒューグの鎖を【噛み砕く】。
不意に渦巻くような風が吹きつける。
「グリュエー?」とユカリは不審げに声を震わせる。
「ユカリ! 何か来るよ!」
ユカリは急いで冠を、今立ち上がろうとしているヒューグの頭に乗せて、今度は誰にも聞こえる声で言う。「先に逃げてください!」
ヘルヌスが渦巻く風を衣のように身に纏って部屋の前へと舞い戻ってきた。爛々と輝く戦士の瞳はユカリを見据え、既に剣が抜き放たれている。とてもユカリの目には追えない速度でヘルヌスの剣が二度三度翻り、眼前に迫る。次の瞬間、ヘルヌスが仰け反る。
ユカリは真珠の剣リンガ・ミルを抜き放ち、応戦していた。しかしそれはユカリの意思によるものではない。リンガ・ミルに込められた魔法の力が持ち主に代わって刃を振るったのだ。このような魔法があることを真珠の王は説明してくれていなかった。ユカリは混乱を脇において、勝機を手繰り寄せることに頭を使う。どのような剣も必ず弾くのだろうか、とよく知らない魔法に期待するほどユカリは能天気ではない。
同時に真珠の剣が光っていないことに気づく。すでにヒューグはこの場から逃げ果せたということだ。
ヘルヌスは問答無しに更なる剣を見知ったばかりの少女に浴びせて来る。一つ一つが致命的な鋭い刃の猛攻をリンガ・ミルの剣は短い刀身で華麗にさばく。ヘルヌスの動きは人間離れしているどころか、重力から解き放たれているかのようだ。泳ぐように身を翻し、跳びもしないのにリンガ・ミルの死角へと回り込もうとする。耳鳴りのような風の音が部屋の中を渦巻く。
自分以上に風の力を使いこなしていることに気づき、ユカリは少し妬ましい気持ちになった。ベルニージュとレモニカに贈られた身体制御の魔法をもってしても、これほど軽やかに身をこなすことはできないだろう。そしてヘルヌスの頭がどうしてああも自由に跳ねているのか、ようやく理由が分かった。
ヘルヌスもリンガ・ミルもユカリの気持ちなどお構いなしに剣劇を演じる。二本の剣の華麗な舞いには目を惹かれるものがあったが、命がけの場から逃れたいという気持ちとぶつかり合う。はたから見れば、ユカリの方は逃げ腰で弱腰な戦い方に見えるだろう。ユカリの腕は引き千切られそうなほどに振り回されている。それでいて真珠の刀剣は戦士を圧倒している。
ヘルヌスもそのことに気づいているのか、その表情から気合の声からユカリにもその苛立ちが感じられた。
そしてとうとうヘルヌスの剣が弾き飛ばされ、腐った床に深々と突き刺さる。
しばし呆然として「剣で負けるのはお前で三人目だ」とヘルヌスは苦笑して呟く。
「三回も負けて生きてるならいいじゃないですか」とユカリは勝手に動き回るリンガ・ミルを手放さないように注意しながら言う。
リンガ・ミルの方はユカリが歩を進めない限り追撃を行うことはできないらしい。
「年下に負けるのはお前が初めてだ」
「私のことは数に入れなくていいですよ。これは……」
そういう魔法なのだと教えても得にはならないだろう。
「だがそれは剣に限った話だ」
「グリュエー!」
二つの空気の流れがぶつかり合い、ない交ぜになって狂ったように唸って巻き上がる。床板が剥がれて舞い上がり、朽ちた柱が、壁が、天井が悲鳴を上げて揺さぶられる。狭い部屋に空気が溢れ、膨れ、扉の一つでは逃しきれない空気が限界を越え、弾け飛ぶ。雷の轟くような音とともに無数の廃材が矢のように周囲に、廃屋に隣接する家屋や通りに飛散する。
隔てる物の失われた周囲など気にせず、ヘルヌスはユカリを凝視する。
「驚いたな。そして偶然だな。お前も風を使う魔術師の剣士なのか。一体何者なんだ?」
「風を使ってるわけでも剣士でもないです」とユカリは答えるがヘルヌスは聞いていない。
「それに」と言ってヘルヌスは今気づいたかのように周囲を見渡す。「また負けた。負け続きだ。自信無くすぜ」
ユカリもちらりと周囲を見るが、何がどのように差がついたのかよく分からなった。グリュエーの力もヘルヌスの魔法も大きな爪痕を残している。魔術師ならば分かる確かな違いがあるのだろうか。
「大体お前と戦ってどうするんだよ、俺。っていうかお前誰だよ」とヘルヌスが呟いて、ユカリもアギノアとヒューグのことを思い出す。
二人は逃げきれたのだろうか、と危ぶむ。まさかこの崩壊に巻き込まれてはいないだろうか。どちらにしても、ユカリ自身も逃げきれなくては最高傑作の真珠を受け取ることもできない。
「ユカリさん!」と呼ばれ、振り向くと通りの向こうにユビスに跨ったアギノアとヒューグを見つけた。
ヘルヌスを牽制しつつ逃げなければ、と思ったがヘルヌスはユカリを追い払うような仕草をし、不貞腐れた様子で言う
「いいよいいよ。さっさと逃げてくれ。しっかり準備を整えてから追うさ。覚悟しとけよ」
ユカリは何とも言えず、その場を立ち去った。
ヒューグ、アギノア、ユカリの並びでユビスに跨り、夕暮れの街を疾走する。僧兵に見つかっては逃げ、逃げては見つかるの繰り返しで、延々と走り続けている。この三人と一頭では目立たないことなど不可能だ。今では盗賊たちにも探されている。
カウレンの城邑からの脱出もまた、アギノアから真珠の銀冠を受け取るための条件だ。
ユカリはユビスの手綱を握るヒューグの背中に声をかける。
「近くの門に向かってください。この街の門は長らく使われてないのか整備されていないらしく、木の門が朽ちかけていました。ユビスなら蹴破れると思います」
「申し訳ございません。ユカリさん」とアギノアが後ろのユカリに謝る。「大隧道の巨大門を通り抜けたいです」
ユカリはすかさず抗弁する。「街を脱出したいとは言ってましたけど、そういう約束ではなかったですよね?」
「お願いします。知恵をお貸しください」とアギノアとヒューグに頼まれる。
ユカリは訝し気に尋ねる。「そもそもどういう計画だったんですか?」
まさか何も考えていなかったということもないだろう。
「この、ユビスならばトルム・コルールの山地を越えた時のように北高地を踏破できるのではないかと思っていたのですが」とアギノアは自信なさげに言う。「思いのほか北高地が急勾配、いえ、壁のようにそそり立っていたもので。昔はもっと低くてなだらかだったような気がしたのですが」
「そう簡単に山は成長したりしないと思いますけど」ユカリは小さなため息をつく。「どうなの? ユビス。壁は走れないの?」
ユカリはからかい半分でユビスに尋ねる。
銀の鬣を棚引かせ、鼻を鳴らしてユビスは答える。「我が堅き蹄は真に平らかなるものだ。如何なる柔土も我が尾の後ろに固く踏み締められん。精々突き立て、卑小なる引っ掛かりに頼む鉤爪などと比ぶこと、愚の極まりと知れ」
「壁を上るなんて無理だよ、って言ってますね」とユカリは通訳する。反応のないアギノアとヒューグのために付け加える。「ああ、私、馬とか風とかと話せるんです。そういう魔法です」
「それは、とてつもない魔法だね」とヒューグは関心を持ってるんだか持っていないんだか分からない単調な相槌を打つ。
「ともかく分かりました。あの巨大門をくぐる方法を考えてみます」とユカリが言うと、打って変わって二人は大きく喜んで感謝の言葉を紡ぐ。
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