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横浜道中
日本橋から東海道へ出ると、伊勢講の団体や四国を目指すお遍路の集団が居て、蛇骨長屋の一行は余り目立たなくなった。男の足なら急げば今日中に横浜に着いた筈だが、女子供に年寄りまで一緒だ。結局、神奈川の宿に着いた頃には暮れ六つを回っていた。仕方なく、今日は神奈川泊まりとなった。
途中、休憩と称して幾度となく茶店に立ち寄り、女子供は名物の団子や串焼きに舌鼓を打ち、男連中は酒を飲んだ。達治などは持参の酒を道中で飲んでしまい、足元もおぼつかないまま歩いているくせに、茶店に入ると酒を注文するものだから女房の加代にどやされていた。
ベアトは、仕事で日本の商人と会う事はあっても、庶民と親しく付き合った事は無い。長屋の者たちのあけっぴろげな大らかさにすっかり打ち解けてしまったようで、江戸見物をしていた時よりも楽しそうだ。
ローラは歩いている間も女将さん達の質問攻めに会い、片言の日本語で一所懸命答えていたが、分からない事が多く、時々志麻に助け舟を求めている。
ルナは、楊枝売りの息子健太と意気投合してはしゃぎ回り、一行の前になったり後ろになったりして逸れそうになるので、お梅婆に度々叱られていた。
幕府は横浜を神奈川の一部だと強弁して開港したが、その為横浜までの道を整備しなければならなくなり、東海道筋の芝生しぼう村から関内へと至る道に五つの橋を架け、野毛の切り通しを開いた。この工事に三ヶ月を要し、ようやく開港前日に横浜道が開通したのである。
明日はその道を通って、ベアト一家を居留地まで送り届けなければならない。その後、松金屋を見つけ出して残りの金を・・・いや、真相を確かめねばならない。松金屋はきっとグレイト商会に居る、と目星をつけているのだが・・・
「一刀斎、この宿屋にしよう」お梅婆が一軒の立派な宿屋を指差した。傍目にも高そうな宿屋だと分かる。
「おいおい、こんな高そうなとこ勘弁しろや、せっかく貰った前金が無くなっちまうだろうが!」
「ケチなこと言うんじゃないよ!一体誰の為に長屋のみんながこんな所まで出張って来てるって言うんだい?」
「そりゃそうだがよぅ・・・」
「こんな立派な宿屋なら、大広間の一つや二つあろうってなもんじゃないか。みんなで雑魚寝すりゃ返って安上がりだよ。わたしゃあんたの為を思って言ってんだ、それが分からないのかねぇ、この唐変木が!」
「なんだと、このくそババア!」お梅婆と一刀斎が睨み合う。
「一刀斎お主の負けじゃ、それにお梅婆の言い分にも一理ある。ここは大人しくお梅婆の言うことに従おう」慈心が間に入った。
「そうよ一刀斎、私の前金も使って良いからさ」
「志麻、お前ぇまで・・・」
「決まったね、みんな今夜はこの宿屋で宴会だよ!」
オオー!っと言う歓声が上がった。
「チェッ、勝手にしろ!」
*******
宿屋にはお梅婆が交渉した。二間続きの広間の襖を取っ払って二十畳の一間とし、全員でそこに寝る。飯の配膳や酒の支度、布団の上げ下ろしなどは宿の仲居の手を煩わせる事なく、長屋のみんなでやる事になり、結局普通の宿屋に泊まるより一人当たりの宿賃は安くなった。
「どうだ一刀斎、私の言った通りだろう?」
「ふん、婆さんには敵わねぇや」
一刀斎が素直に白旗を上げた。
「ところで、居留地に入ったらどうするんだい?」
お梅婆が訊いたのは、まだ長屋の連中が宴会で盛り上がっている最中だった。一刀斎の隣にはベアトも居る。
「トリアエズ、ワタシノオフィスニイキマショウ。ソレカラミナサンノトマルヤドヲテハイシマス、モチロンヤドダイハ、ワタシモチデ」
「おっ、そりゃありがてぇな、出来れば今日の宿賃も・・・」
「モチロンソノツモリデス、カエリノブンモ、チャントオシハライシマス」
「えっ、いいのかい?」
「ワタシタチノタメニ、ミナサンニゴソクロウヲオカケシテイルノデスカラ」
「さすが異人の旦那は太っ腹だねぇ!どっかの誰かさんとは大違いだよ」お梅婆が膝を打った。
「誰でぇ、その誰かさんてのは?」
「さあね、風呂に行ったら湯船に顔を映してみるんだねぇ」
「なにをっ!」
「ハハハ、サスガノイットサイモ、オウメサンニハカナワナイネ」
「ちえっ・・・」
「ホントハ、ワタシノハウスニ、ミナサンヲゴショウタイシタイノデスガ、コノニンズウデハチョット・・・」
「だよなぁ・・・」
「で、それからどうすんだい?」
お梅婆が一刀斎を促す。
「俺たちは松金屋を探す、婆さんは長屋のみんなを連れて黒船でも見に行って来な」
「俺は兄ぃを手伝う」いつの間にか銀次が傍に来ていた。「仕立ての仕事で関内には何度か足を運んでいるんだ、きっと役に立つぜ!」
「だけど、そんなに簡単に見つかるかねぇ?」お梅婆が首を捻る。
「何日かかっても探し出すさ、そこで黒船見物が終わったら、婆さんには長屋のみんなを連れて先に帰ぇってて欲しいんだ」
「あぁ、私らがいたって足手纏いだろうからね。それは任しときな」
「頼んだぜ婆さん」
「けど、無理はするんじゃないよ」
「心配してくれるのか?」
「違うよ、お前さんみたいな奴でも、いなくなっちゃお紺ちゃんが寂しがるからね」
「ふん、お紺が淋しがるわきゃねぇだろう」
「まったく、鈍い男だねぇ・・・」
「なんだとっ!」
「それに、志麻ちゃんにはくれぐれも危ない真似させるんじゃないよ」
「わ、わかってるよ、そんなこたぁ・・・」
「もし怪我でもさせたら、ただじゃ置かないからね!」
「あ、あぁ・・・」思いがけぬお梅婆の剣幕に、一刀斎はタジタジとなる。
「イットサイ、アナタタチハ、ワタシノハウスニトマリナサイ。グレイトショウカイヲシラベルノニハ、ソノホウガベンリデス」
「いいのかい?」
「ワタシモ、マツガネヤト、グレイトショウカイノカンケイガシリタイデス」
「そうかい、ならそうさせて貰おうか」
「志麻ちゃんと爺さんには俺から話しておくよ」そう言って銀次はその場を離れて行った。
その晩は遅くまで飲んだ後、広間いっぱいに布団を敷いて重なり合うようにして寝た。
ベアトもローラもルナも、初めて触れる日本の庶民の遊びに驚きながらも、十分楽しんでいるようだった。
*******
翌朝、一行は居留地に向けて出発した。
途中、海岸線沿いに三つの橋を渡り、戸部村から野毛山を越える。『野毛の切り通し』を過ぎた頃、遠景に居留地の全貌が見えた。遠目にもきちんと整備された関内が見える。海岸線に向かって左側が日本人町で、右側が外国人居住地だ。その海岸線のずっと沖の方に黒い煙を吐きながら十隻以上の黒船が停泊していた。
「こ、これが本当に横浜村なのかい・・・?」お梅婆がため息混じりに呟いた。「私ゃ若い頃に一度来た事があるけど、そんときゃ半農・半漁のどこにでもあるような寒村だったんだけどねぇ・・・」
お梅婆が驚くのも無理は無い。
「婆さん、若い頃は一体何をやってたんだい?」大工の正吉が訊いた。
「私かい?私ゃ越後の毒消し売りだったんだよ」
「えっ、婆さん越後の出身かい?」
「あぁ、越後から毒消し担いでやって来て、そのまま江戸に住み着いちまったのさ」
「その割にゃ、訛りがないな」
「ふん、人にゃ言われぬ苦労をしたんだよ・・・」お梅婆が遠い目をした。
「あれが外国の建物なのね・・・綺麗」志麻がため息を吐く。
ベアトの話では、ここには元々幕府が日本の建物を建てて、そこに外国人たちを住まわせていたのだが、数年前に起きた火事をきっかけに外国人達が自分達で建物を建てるようになったのだそうだ。
「こりゃ、一種の出島だな」一刀斎が言った。
居留地の周りには人工の堀が巡らされており、居留地に入るには堀に架かった橋を渡らなければならない。そこに関所が設けられているのだ。
「マエハ、トオクヘイカナケレバ、ワタシタチノデイリハ、ジユウダッタノデス・・・」ベアトが言った。「ソレガ、ナマムギムラデオコッタジケンノアト、キュウニキビシクナッテ、ワタシタチハ、ソトニデラレナクナッタノデス」。去年の八月に島津久光の行列の前を横切った外国人を、薩摩藩の武士が斬り殺した、俗に言う生麦事件の事である。
それまでは、関所は日本人の出入りを主に監視していたのである。それが、攘夷派浪士に外国人が狙われるようになって立場が逆転した。今では武士以外の日本人なら気軽に入る事が出来る。
野毛の切り通しから更に二つの橋を越えると関所が見えてきた。
「やっと着いたぜ」銀次がつぶやいた時、風に乗って喧騒が聞こえて来た。
複数の声が入り混じって怒鳴りあっているようだ。