居留地潜入
居留地潜入
人集りのしている方へ近づくと、人の輪の中に黒い馬に乗った外国人の姿が見える。
取り巻いているのはどうやら役人のようだ。
「駄目だ!ここを通す訳にはいかぬ!」一人の役人が怒鳴った。
馬上の外国人が何か言ったが、興奮しているのか日本語では無い。
「アッ、グレートショウカイノ、トーマス・グレートデス!」ベアトが言った。「ココヲトオセ、トイッテイマス」
「あれがグレート商会の親玉か」赤ら顔で髭面の男の顔を。一刀斎が目に焼き付けるように見ている。
「相当怒っているようだぞ」慈心が囁いた。
「グレートハ、オシノツヨイショウニンデス。トキドキアアヤッテヤクニンタチニプレッシャヲカケテイルノデス」
「プレッシャ?」
「アツリョクノコトデス」
「そうかい・・・」一刀斎が思案顔で呟いた。
「銀次」
「なんだい、兄ぃ?」
「俺たちは役人の目が逸れている間に中に入る。いくら変装してたって、ベアトのガタイじゃ怪しまれかねねぇからな。お前ぇはここに残って奴を見張れ、奴は必ず松金屋と接触するはずだ、何かあったらすぐにベアト商会に連絡をするんだ」
「任せといてくれ!」
「良いか、絶対に目を離すんじゃねぇぞ!」
「分かってるよ、信用してくれよなぁ・・・まったく」
一行は銀次一人を残して日本人町を海岸通りに向かって歩く。一応黒船見物という態である。
途中、ベアトが一軒の商店を指差した。
「ココガ、マツガネヤノシテンデス」
横浜の外国人商人達は、基本関内の日本人町に住む商人としか取引が出来ない。松金屋もここを足掛かりにして外人達と取引をしているのだろう。
「ふむ、ここに逃げ込んでいる可能性があるのか・・・」
「一刀斎、ここは私が見張る」志麻が言った。
「大丈夫か?」
「うん、松金屋の顔を知っているのは三人だけだもの、それに女の方が警戒されずに済むわ」
「そうか、くれぐれも無理をするんじゃねぇぞ、あぶねぇと思ったらすぐに逃げろ。それから、店が閉まったら一度戻って来い、俺たちはベアトの事務所に居る」
「分かった」
「シマ、キヲツケテネ」ルナが心配そうに声をかけた。
「大丈夫よ、後で行くからそれまで待っててね」
「ウン・・・」
ここで志麻も一行を離れる。
一行は更に進んで海岸通りに出た。
「わぁ!すげぇ!」健太が海岸線から象の鼻のように海に突き出た埠頭に駆け寄った。「野毛の切り通しから見たんじゃよく分からなかったけど、黒船ってこんなに大きかったんだ!」
長屋の連中もポカンと口を開けて見ている。自分の想像を遥かに超える物を見た者の反応は、概してこういうものだろう。思考が完全に停止しているのだ。その点子供は順応が早い、健太がもっと近くで見ようと埠頭の先に向かって駆け出した。
「ケンタ、ソコカラサキハイッチャダメ!」
「なんでだよ!」ルナの声に健太が振り向いた途端、荷物を肩に担いで運んでいた男とぶつかって尻餅をついた。
「このガキ!仕事の邪魔だあっちいけ!」
素肌に褌、丸に波の文字の入った法被を着けた男が怒鳴った。法被から突き出た腕と両胸には刺青が見える、きっと背中まで続いているのだろうがその図柄は見えない。
「な、なんだよ、ちょっとぶつかっただけじゃないか!」健太も負けてはいない。
「なんだと、生意気なガキだぜ!」男が荷物を担いだまま足を上げて健太を蹴ろうとした。
「おい、まちゃがれ!」秀が駆け寄って来た。
「とうちゃん!」
「てめぇ、人の息子を足蹴にするつもりか!」
「お前のガキか!だったらちゃんと躾しとけ!」
「ふん、躾なんざぁすぐに用無しになるんだよ!」
「この野郎、ふざけた事を抜かしやがる!」男が荷物を置いて両手を組み合わせ、指をポキポキと鳴らし、首も回すように動かして骨を鳴らす。
「な、なんだ、やる気か!」
「波は組の弥五郎たぁ俺の事だ、後悔すんな!」
「波が怖くて秋刀魚が喰えるかってんだ!」
秀と弥五郎が睨み合った。
「一刀斎、ここで騒ぎを起こしちゃまずいんじゃないのかい?」この様子を笑って見ていたお梅婆が言った。
「ちえっ、しょうがねぇなぁ・・・」
一刀斎が歩み寄って二人の間に割って入った。
「まちな、二人とも」
「い、一刀斎の旦那、止めねぇでくれ!」
「秀、よさねぇか。健太がよそ見して走ってったのも悪いんだ」
「けどよぅ・・・」
「誰だ手前ぇは?」弥五郎が一刀斎を睨みつけた。
「俺か?俺はしがねぇ薬売りよ。どうだ、この場は俺に免じて丸く納めちゃくれねぇか?」
「ならねぇ!たかが薬売り風情がこの弥五郎様の喧嘩の仲裁しようなんざ十年早ぇんだよ!」
「そいつぁ残念だな、今日はとっておきの薬を持ってるんだがなぁ・・・」
「薬だと?」思わせぶりな一刀斎の呟きに、弥五郎が興味を示した。
「ああ、かの唐国の皇帝も愛用したってぇ媚薬だ、これを持ってりゃどんな女もイチコロでお前さんに惚れっちまうんだがなぁ・・・」
「なに、そりゃ本当か?」弥五郎がズイと身を乗り出して来る。
(かかったな・・・)「おおよ、その薬をあんたにゃ特別に分けてやっても良いんだが・・・」
「い、一体いくらだ?」
「う〜ん、本当なら一両は下らねぇ代物だが、あんたにゃ迷惑かけたからよ、特別に一朱でどうだい?」
「えっ、一朱?そりゃ一両が一朱ならどうでも欲しいところだが、生憎持ち合わせがねぇ」
「なら、いくら持ってる?」
「そ、そうさなぁ・・・ひゃ、百文ならなんとか・・・」
「しけてやがんなぁ」
「し、仕方ねぇだろ、それでも沖仲仕にとっちゃ大金だ」
「しょうがねぇ、百文で譲ってやるよ」
「本当か?」
「その代わり、この場は納めてくれるかえ?」
弥五郎は暫し逡巡していたが、思い切った様に声を上げた。
「わ、分かった!」
「それじゃ、これ・・・」
一刀斎は背中に負った薬箱を下ろし、中から袋に入った丸薬を取り出して弥五郎に渡した。弥五郎は首から紐で下げた巾着を逆さにして振ると、掌に百文を乗せて一刀斎に差し出した。
「こ、これで俺は女にモテるのか?」
「そうだ。事に及ぶ前にこの丸薬をニ粒女に飲ませるんだ。そうすりゃ四半刻もたたねぇうちに女はお前ぇにメロメロになっちまうだろうよ」
「ほ、本当だろうな?」
「武士・・・じゃなかった薬屋に二言はねぇ!」
弥五郎は薬の袋を大事そうに巾着に入れると、目尻を下げたまま荷物を担いで埠頭の端に舫ってある艀の方に歩いて行った。
一刀斎は不満げに弥五郎の背中を見送る秀に歩み寄る。
「秀、お前ぇはこれで怒りを納めろ」弥五郎から巻き上げた百文を秀の掌に乗せた。
「だ、旦那・・・良いんですかい?」秀がびっくりした顔で一刀斎を見た。
「ああ、これで健太に菓子でも買ってやんな」
「・・・すまねぇ、旦那」
秀が健太を連れてみんなの所へ戻ると、お梅婆がニヤニヤしながら近付いて来た。
「やるもんだねぇ、一刀斎」
「奴の面つら見ただろう?とても女にもてる面には見えねぇよ。惚れ薬なら喉から手が出る程欲しい筈だ」
「まったく、そこらの商売人も足袋裸足さね」お梅婆が呆れた顔をした。
「さ、いらぬ時を喰っちまった、先を急ごう」
「あいよ」
二人は一行のいる場所に戻ると、ベアトを促して歩き出した。







