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𝕣𝕖𝕒𝕣
395
#ご本人様には関係ありません
あか
261
#からぴち
琉愛˚𓆩✞𓆪˙
191
第1部 買収
第5章 独占
アトリエは、ビルの二階の奥にあった。
窓のない部屋に、作業台が四つ。糸鋸の音と、研磨機の低い唸りが、途切れることなく続いている。柔太朗は一番奥の台で、新作の輪郭を削っていた。銀の粉が、ライトの下で細かく光る。
「柔太朗さん、これ、見ました?」
隣の台の職人が、スマートフォンを差し出してきた。
「パリの店で、うちの指輪、売り切れたらしいですよ。バイヤーさんが、写真を送ってくれたって」
画面には、空になったガラスケースの一段が映っていた。値札だけが、ぽつんと残っている。
「そうなんだ」
柔太朗はそれだけ言って、手元に視線を戻した。
嬉しくないわけではなかった。ただ、その空のガラスケースと、自分の指先の作業が、うまく繋がらなかった。作るのは、机の上の小さな輪郭だ。それが遠い街の店で、誰かの手に渡る。その距離を、彼はまだ実感として持てなかった。
「そうなんだ、って。もっと喜んでくださいよ」
「喜んでるよ」
「顔に出ないんですよ、柔太朗さんは」
職人は笑って言い、少し声を落とした。
「でも、みんな知ってますよ。柔太朗さんの図面が上がってくる日は、アトリエの空気が変わるって。俺ら、あれが見たくて働いてるようなもんなんで」
柔太朗は返す言葉が見つからず、研磨した指輪の内側を、指の腹でなぞった。褒められることには、まだ慣れなかった。慣れないまま、三年目に入っている。
職人が自分の台に戻ったとき、アトリエの扉が開いた。
「柔、ちょっとええ?」
舜太だった。手に、厚めの書類を持っている。笑顔は、いつもと同じだった。同じすぎる、と柔太朗は思った。
会議室には、仁人が先に座っていた。
机の上に、書類が三部。表紙には「意向表明書」とあった。
「ヴェルディエから」と、舜太が言った。「正式なのが、来た」
「意向表明書」
柔太朗は、その字面を口の中で転がした。
「何、それ」
「買う側が、『この条件で買いたい』と伝える書類だ」仁人が答えた。「ただし、法的な拘束力はない。まだ約束じゃなくて、申し出。ここで条件が折り合えば、次の段階の調査に進む」
「調査って、この前、舜が言ってた、デューデリジェンス?」
「そう。会社の中身を細かく調べる、あれだ」
仁人は、書類の一箇所を指で押さえた。
「ここを見ろ。独占交渉権」
「独占」という字が、目に入った。
「調査と交渉をしている六十日間、うちは、他の買い手とは話せない。向こうが、その期間を独り占めする約束だ」
「独り占め」
「そういう意味だ。買う側からすれば、当然の要求ではある。途中で他に持っていかれたら、調査にかけた費用が無駄になる」
柔太朗は、「独占」という言葉を、少しだけ長く見ていた。
「ただ、降りるのは自由だ」と、仁人は続けた。「独占されて困るのは、他に買い手がいる会社だけだ。うちには、いない。実害はない」
「調査に進まんと、正式な値段が出ん」と、舜太が言った。「値段が分かれば、断る理由も、受ける理由も、数字で言える。それまで、決めへん」
「それに」と、仁人は少し間を置いた。「パリの追加発注が、実際に動く。材料と在庫は、先に払う必要がある。売れるほど、現金は薄くなる。安全網は、あって困らない」
舜太は、何も言わなかった。頷きもしなかった。
「金額は」と、仁人が続けた。「想定していたより、桁がひとつ違う」
それ以上は言わなかった。舜太も、無言で頷いた。
柔太朗には、お金のことはよく分からなかった。ただ、二人の顔を見れば、それが大きな数字だということは分かった。
売れば、三人とも、しばらく困らないだけの額になる。舜太は、その額について、最後まで何も言わなかった。
「あと、もうひとつある」
舜太が、書類の最後のページを開いた。別紙だった。
「柔個人への提案が、付いとる」
舜太は、それを読み上げた。買収が成立したら、柔太朗は、ヴェルディエ傘下のメゾンのクリエイティブ・ディレクターを兼任する。パリのアトリエの提供つき。別紙の冒頭には、面談での役員の言葉が、そのまま引かれていた。デザイナーの線の引き方は、他にない、と。
兼任。二つの役割を、同時に持つこと。柔太朗は、書面の文字を目で追った。
「断る」
舜太の声は、早かった。
「柔のキャリアのためにならん。今、他社の看板を背負ったら、Lueurで築いた名前が薄まる。柔の才能は、うちで囲うべきや」
「兼任やと、柔の制作時間は四割は減る。新作の点数も落ちる。うちの売上にも、柔の名前にも、マイナスや」
数字まで並べた。理由は、筋が通っていた。柔太朗は、それを聞きながら、舜太の目を見ていた。舜太は、書類を見ていた。自分のほうは、見ていなかった。
「決めるのは、柔太朗だろ」
仁人が言った。
「本人に、全部話せ。隠すな」
「隠しとらんやん。今こうして」
「断る前提で話すのは、話したとは言わん」
短い沈黙があった。仁人の声は静かだったが、硬かった。
「隠すな」という言葉が仁人の口から出たことを、柔太朗は少し意外に思った。仁人は、いつも余計なことを言わない側の人間だった。
「作るものは、自由に決められるの?」
柔太朗は、仁人に聞いた。
「書面上は、向こうの了承が要る」仁人が答えた。「つまり、完全な自由じゃない」
「そっか」
柔太朗は、少し考えた。
「行くつもりは、ないけど。断るなら、自分で断りたい」
「俺が断る」
舜太が、すぐに言った。
「そのほうが、角が立たん。柔が断ったら、才能のあるデザイナーが個人で拒んだ、って話になる。窓口が俺やったら、会社の判断で済む」
これも、理屈は通っていた。
「……まぁ、確かに」
柔太朗は、引いた。
その瞬間、仁人が、舜太を見た。ほんの一瞬だった。何か言いかけたように口が動いて、そのまま閉じた。それから、机の上の書類の端を揃えた。
その夜、舜太が車で送ってくれた。
助手席の窓から、夜の街が流れていく。会議室を出てから、二人とも、あまり喋らなかった。
舜太は、運転が丁寧だ。ブレーキを踏む前に、必ず一度ミラーを見る。その癖を、柔太朗は三年近く、助手席から眺めてきた。
信号で車が止まる。
「行きたいわけじゃないよ」
柔太朗が言った。
「せやな」
「でも」
ハンドルを握る舜太の手が、わずかに動いた。
「書いてあった、あの言葉。僕の線を、他にないって言ってくれたの。ちょっと、嬉しかった」
舜太は、すぐには返さなかった。信号が青に変わる前に、指先がハンドルを握り直した。関節が、白くなった。
「そっか」
やっと、舜太は言った。
「それは、めっちゃすごいことや」
声は、明るかった。明るすぎた。
次の赤信号で、舜太の左手が、ハンドルから離れた。
何も言わずに、柔太朗の右手の上に置かれる。指輪の上から、親指がゆっくりと、輪郭をなぞった。強くは握らない。ただ、そこにあることを確かめるような、触れ方だった。
柔太朗は、その手を振りほどかなかった。振りほどく理由が、なかった。
「パリのアトリエ、見てみたい気は、する」
「行ったらええやん、そのうち」
舜太は、前を向いたまま笑った。
「うちの仕事として。うちが段取りして、うちの名前で行く。それが一番ええ」
「うち」という言葉が、二度続いた。柔太朗は、それに気づいたけれど、何も言わなかった。
「まぁ、確かに」
窓の外に、街の灯りが流れていく。舜太の横顔は、いつもの優しい顔をしていた。ただ、その横顔が、こちらを見ていないことだけが、少し引っかかった。
自宅の作業机に、スタンドライトを点ける。
右手の中指には、細い銀の指輪がある。二年半前の夜に、舜太がはめてくれたものだった。
図面を引こうと鉛筆を持ったまま、手が止まった。線が、出てこなかった。
「他にない」と、書面にはあった。それを読んだとき、柔太朗は、胸の奥が小さく温かくなるのを感じた。誰かに、自分の線を、初めて外側から言い当てられたような気がした。
嬉しい、と思った。車の中で、そう口に出しもした。けれど、口に出したあとの舜の沈黙のほうが、どういうわけか、あとに残っている。
そして、その隣で、舜太は書類を見ていた。
世界に見せたい、と最初に言ったのは、舜のほうだった。
コメント
1件
「独占」っていうタイトル、すごく刺さりました…。買収とか権利の話だけじゃなくて、舜太の“独占欲”みたいなものも透けて見えた気がして。 車の中で柔太朗が「嬉しかった」って言ったときの、舜太の手が止まるシーン、胸が詰まりました。本人は気づいてないんだろうけど、その一瞬に全部出てる感じがして。 「世界に見せたい」って言った側が、一番近くで彼を見られなくなるかもしれない。その予感がもうじわじわ来てて、続きが怖いけど、もっと読みたいです…🖤