身体は日を追うごとに回復傾向にあり、相変わらず医者を困惑させていた。身体を激しく動かす事は禁止とされたが、ある程度の街中の散策は許され外出許可が下りた。
小さな丘を登りエマに逢いに行く。これが生き残った俺の僅かばかりの日課と成っていた。
語り掛ける事も有れば、涕する事も有った。片時も離れず、ただ傍に居たかった。心の鬼が身を責めると、懊悩は心を蝕み幾度も刃を首筋に当てさせたが、抱きしめた温もりが、繋いだ手が、忘却を拒み胸を離れず自剄は叶わなかった。
諦めきれない愛惜が瞼に纏わりつき、瞳の裏にだけ存在する彼女の愛しい姿に想い募らせ、大きな暗涙の影を落とす。エマを失い生きてゆくと云う覚悟に、何の価値も見出せず、未だ決着が付けられないでいた。
膝を落とし両手を地に着き、過去を振り返る。後悔は彼女以外なしと心を決め、土を力いっぱい握りしめると簡単に爪は剥がれ、幽天を仰ぐと、空一面にひらひらと美しい雪が舞い降り、女神が微笑み両手を広げた。
―――今いくぞ
一気に短剣を抜き涙と倶に声を引き絞る―――
エマ――――
首筋目掛けて短剣を躊躇うことなく突き立てる―――
一瞬の出来事だった。首筋を刃の先端が掠めると同時に、身体は衝撃と倶に投げ出された……
「ばっ!! ばっかやろぉ!! てめぇ、ふざけんじゃねぇぞゴラァ!! 」
胸倉を摑まれ、ここに来て漸く息を荒らげる屈強な男の顔が理解出来た。
「ヴェインか…… 邪魔しないで…… くれ、やっとエマが迎えに来たんだ」
焦燥しきった光の無い瞳が揺れる雪の行方だけを追い掛ける。
「ちくしょう、てめぇ…… もうぶっ壊れちまってんじゃねぇかよクソッ」
ヴェインは短剣を取り上げるとギリッと歯を鳴らし、墓守の管理小屋に向う。ドアをけ破り、出て来た墓守の顔面をドゴンと殴りつけ、腹を蹴り上げる。片手で造作無く男を高々と持ち上げると、鬼神の如く壁へと投げつけた。
「ひぃ~、止めてください」
管理小屋で待機していた墓守四人を完膚なきまで叩きのめす。悲鳴が響き渡り、全員が動けなくなる程になると、大剣を抜き、全ての感情を込めて小屋の壁にその鋼を轟音と倶に突き刺し貫通させた。
「クソがあぁ―――― 」
怒り、悲しみ、憎しみ、苦しみ、痛み全てを一撃に込めた。小屋は狂気に包まれ一人の男によって崩壊を招く。
「ああぁ、命ばかりは…… どうかお願いします」
ヴェインは墓守の耳元で恐ろしく囁く。
「おい⁉ 助けてくれだと? 今俺のダチが死のうとしてたんだぞ? お前らにはちゃんと見てろって金払ってあるよな? なぁ⁉ あ⁉ 」
「はっ、はひぃ~」
「いつまで寝てやがんだ起きろ、このやろぅ起きろ!! おらぁ」
横たわる墓守一人をドガンと更に蹴り上げる―――
「うげぇっ」
墓守の口を塞ぐようにその大きな掌で掴み上げるとミシミシと骨が鳴る。
「俺ぁよぉ、今まで何百人も殺ってきてんだ。お前ら四人なんて一瞬だぞ? わかってんのか? 」
「ごめんなさい、ごめんなさい、どうかお許し下さい」
「今度手ぇ抜きやがったら、てめぇらだけじゃ無く、家族全員消すからな? いいか、次はねぇぞ? 」
大剣を壁から引き抜き踵を返すと、ヴェインは振り返り捨て台詞を吐いた。
「逃げようったって無駄だからな。何処までも追い掛けて必ず後悔させてやる。もう一度言う、二度目はねぇからな」
ヴェインは小屋を後にすると力無く墓の前に座り込み噎び泣く男に目を背けた。
「クソッ!! クソッ――――― 」
悲しみの感情で握りしめた拳が舞い散る雪で震えていた。
「おいっ! おっさんエールがこねぇぞ? まだ待てってか? 」
テーブルを賑やかに叩くと酒場が静まり返る。
「すっすいません、今すぐにお持ちしますんで」
「てめぇら何見てんだよ、あぁ⁉ 異国人だからって暴れねぇとでも思ってんのか⁉ やっちまうぞゴラァ」
酒場に居る全員が慌てて目を反らす。この場に居る誰よりも屈強な男が暴れると宣言したのだ、たまったもんじゃない、直ぐに肩をすくめて身を縮める。
「ちっ! 腰抜けばっかじゃねぇか、情けねぇ。だから戦争にも勝てねぇんだよ」
「なにぃ!! 」
その場に居合わせた数人の兵士と思われる男達が一斉に立ち上がる。
「本当の事言って何が悪ぃんだ? おう⁉ 」
巨漢が立ち上がり兵士達を見下ろすと、圧倒的な威圧感が一気に伸し掛かる。
「ぐっ、きっ貴様…… 」
「全員で掛かってこい、一瞬で後悔させてやる。俺ぁ今、機嫌が頗《すこぶ》る悪ぃんだ手加減出来ねぇからな」
「ヴェインすまない、もうやめてくれ…… 」
「やっと落ち着いたか? まぁちょっと待ってろ、これはあんたの為じゃねぇからよ。隊長《グランド》に暴れてこいって言われてっからよぉ」
誰も見た事の無いような極大大剣を背中から降ろすと、酒場の扉を蹴り破り外に出て大声で吼えた。
「俺とやりてぇ奴は出てこい!! 何人だろうが誰だろうが叩き潰してやる。腕に覚えのある奴ぁ掛かってこい」
ヴェインの獅子の咆哮に感化され、大通りには人が殺到し大勢の観衆が所狭しと溢れた。
「どらあぁ――――― 」
ヴェインの剛拳に兜が悲鳴を上げ拉げると、兵士が事も無げに空に打ち上る。
「―――――ぐっはぁ」
「まだまだぁ――― おららぁ」
友の為、心、憂患し、傷を背負った手負いの獅子の無双は止む事を知らず、幾人もの兵士が一撃で沈んでゆく。その巨体からは想像も出来ない俊敏な踏み込み速度は、間合いに入り込む事も許さず、次々と兵士をなぎ倒して行く。
「貧弱 貧弱 貧弱ぅ――― 」
その圧倒的な強さに子供達は目を輝かせ、希望の光とその姿を重ねる。何時しか観衆全体が、たった一人で勇敢に立ち向かうヴェインに心奪われて行く。
「イスラールの戦士は最強じゃねぇのかよ? ああん⁉ 」
ヴェインが吼えると大観衆が歓喜に湧き地響きが巻き起こる。丁度、時を同じくしてイスラール軍の上級士官がその異様な騒ぎを目撃し、部下に問いただした。
「中尉、あれは何の騒ぎだ」
「はっ!! ど、どうやらその…… 保護した避難民が憲兵隊と…… その、揉めているようでして」
「避難民? ムルニのか? 」
冷や汗を掻いた部下を鋭い眼光で訝しめる。その直後、憲兵隊の兵士の一人がドゴンとまた打ち上った―――
「ぎゃあ――――― 」
民衆達は「あはは」と大喜びで飛んできた情けない兵士を皆で受け止める。何人も飛んで行くその人影を、口をぽかんと見送ると上官が呟いた。
「おいっ」
「はっ!! 」
上官に敬意を払うとまた汗が噴き出した。
「うちの兵が飛んでるぞ? 」
「ははっ…… 」
もう苦笑いするしかない……
「相手は何人だ? 」
「はっ! 一人であると聞いております」
もう、既に汗でダラダラである。最強と謳われたイスラール兵が、たった一人の酔っ払いに翻弄されているのである。これ以上名誉を傷付けられる訳には行かない。失態何如では罷免も在り得る。
「此処では良く見えん、そうだな…… その店の二階を急いで貸し切れ」
「えっ⁉ 」
「おい、早くしろ終わってしまうだろ」
「はっ、はいっ」
大きな壺を抱えた老婆が、此処では商売ならんと立ち上がると、混乱の最中、大きな剣を抱えフラフラと歩く一人の男とドンとぶつかり尻餅を搗《つ》いた。
「あいたた、なんだいあんた…… ちゃんと前を見ておく―――⁉ 」
「あぁ、すまない。考え事をしてしまっていた、申し訳ない」
腰を落とした老婆がその男の顔を見上げると、途端に何かに気付き、突然涙を流し乍ら頬にゆっくりと手を伸ばした……
「あぁ何て事だい…… そうかい、あんた…… 」
「…… 」
失ひ給ひける心の燈火、復たひなり新たなりと芽吹き給ふ。何たび諦め給ひし思ひが、また次を継き給へむとて侍りける。