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目が覚めるような青いシャツとプライベートでも使えるニットタイ、伸びているブロンドを首筋の後ろで一つに纏めたいつもよりは少しだけ気合いの入った姿-もちろん総てウーヴェのコーディネート-で己の職場を見上げたのは、出勤直前に愛するウーヴェから今日もいつものように格好いいお前になった、だから前のように街で暮らす人たちの大切なものを護る為に働いてこいとキスで背中を押されたリオンだった。
前までならば感じる事は無かった威圧感を覚えつつもネクタイのノットを軽く掴んだリオンは、ドアが開いた為に一歩を踏み出そうとするが、背後から呼び止められて肩透かしを食らったように身体を揺らす。
「リオン?」
「……マザー?どうしたんだ?」
呼び止められて振り返り、マザー・カタリーナが笑顔で立っているのを発見するとそちらに足を踏み出そうとするが、今度は背中を向けた建物から暢気な声で呼びかけられる。
「おーい。来たのなら早く来い」
「コニー? ちょっと待ってくれよ」
いつものマグカップ片手に暢気な声で呼びかけてきたのはコニーで、少し待ってくれと片手を挙げてマザー・カタリーナの傍に駆け寄ったリオンは、いつだったか似たような場面を経験したと脳味噌がシグナルを送ったために顎に手を宛がって動きを止める。
「何か……こんなこと無かったか?」
「どうかしたのですか?」
リオンの呟きにコニーがまず反応を示し、マザー・カタリーナとリオンの傍に歩み寄ってくるが、マザー・カタリーナが小首を傾げた後にコニーに目礼をしたのを見た瞬間、リオンの目が見開かれてその口からは素っ頓狂な声が発せられる。
「あー!」
「何だ何だ!?」
リオンの絶叫の意味が理解出来ずにコニーがマグカップを取り落としそうになるが、目を瞠りながらぽつりと呟いた言葉にさすがに鋭く反応をする。
「ジルとゾフィーだ……!」
「!?」
コニーの驚きがマザー・カタリーナに伝播し、彼女の顔から血の気が失せそうになる寸前、いつだったかここでアーベルとゾフィーに呼び止められたこと、その時ジルベルトが署内から出てきたのだが、リオンが知る限りでは初対面の二人がまるで以前から面識があるようだったと、あの日感じた不思議な感覚を思い出しながら口にしたリオンは、あの時の直感を信じて誰かに話をしていればこんな結末を迎える事はなかったのかも知れないと拳を握る。
だが、そんなリオンの呟きから心の動きを読んだマザー・カタリーナがリオンの握りしめられた拳を手に取り、胸の前に宛がって短く祈りを捧げる。
「あなたのせいではありませんよ」
だからあなたが必要以上に思い悩むことはないのですと笑みを浮かべ、事情を察したコニーにも笑みを見せる。
「リオン、あなたは何も悪くありません」
だからこれからも同僚の方と一緒に仕事に励んで下さいと二人に笑いかけた彼女は、リオンが頷いたのを見届けると手を離し、ブラザー・アーベルが待っていることを告げて一礼し、二人の前から立ち去るのだった。
その背中を見送ったリオンは咳払いの音に気付いて顔を上げ、総てを理解した上で笑顔で腕を組むコニーに無言で肩を竦めると、腕を解いたコニーが竦められた肩に腕を回して顔を耳元に寄せる。
「出勤してるのに顔を出さないって警部がクランプスに変身してるぞー」
その一言はコニーなりにリオンを気遣ってのものだと分かった為、リオンもこの世の終わりのような顔をして刑事部屋がある辺りを見上げる。
「げー、ジルがいなけりゃクランプスの鉄拳が全部こっちに降ってくるのかー」
「そういうことだな」
その言葉や口振りが以前と変わっていなかった為にコニーも胸を撫で下ろし、だから早く上に行けと顎で背後を指し示すとリオンがコニーの背中を押しながら建物の中に入っていく。
「おいおい」
「良いから良いから」
俺を弾除けにするなと焦るコニーの背中をどんどん押しながら階段を上がり、すれ違う同期の警官や仲の良い制服警官に笑顔で合図を送ったリオンは、刑事部屋に入るなり弾が飛んでこないことに安堵し、己のデスクの前に立つとさすがにコニーの背中から手を離す。
このデスクにいつも当たり前のように腰を下ろし、振り返った先で笑う自他共に認める男前と面白おかしく仕事をし、仕事を離れたプライベートではその時々に悩んでいたことや飲みに行った先で知り合った女性の外見の善し悪し、付き合っていた彼女とのことを他愛もなく話していたが、そんな日々が最早遠い出来事になってしまった事実をデスクを撫でる掌に握り込んだリオンは、椅子を引いて腰を下ろしつい癖のように背もたれを限界まで軋ませて上体を背後に反らす。
そうして暫く同じ姿勢でいると、上下逆さまになった世界に突如クランプスが現れ、腰を抜かしそうなほど驚いて不自然な姿勢で椅子から転げ落ち、強かに打ち付けた尻を押さえて飛び上がる。
「いてぇ!」
「朝っぱらからうるさいぞ、リオン!」
うるさいのはどう考えてもリオンではなくヒンケルだとその時その場にいた全員が密かに同じことを思うが、それを口に出して睨みやげんこつを貰う事を避ける為に口を閉ざし、ただ一人だけがいつものように-全く懲りることを知らない-けろりとした顔で言い放つ。
「一番うるせぇのは自分じゃねぇか」
それなのに何故怒鳴られた挙げ句椅子から転がり落ちなければならないんだと、転けた椅子を起こしつつぶつぶつ呟くと、己よりも背が低いはずのヒンケルに襟首を掴まれて喉が苦痛の声を発してしまう。
「ぐぇ」
「何か言ったか?」
「ナンデモアリマセン」
だからその手を離してくれ、今すぐ離してくれなきゃ館内放送でデスクやロッカーにチョコやビスケットを隠し持っていて、糖尿病の疑いがあるのに密かに食べていることを暴露してやると叫ぶと、容赦のない拳が頭上に落ちる。
「いてぇ!!」
「いい加減にしろ!」
怒鳴るヒンケルにリオンがついに頭を押さえてその場にしゃがみ込むが、その姿やヒンケルが顔を赤くして怒鳴る顔が今までと何らかわることがなかった為、リオンがその場で立ち上がり、ヒンケルの顔を見つめてビシッと背筋を伸ばす。
「おはようございます、ボス」
今日からまた仕事に復帰するのでよろしくお願いしますと、さすがに今だけはふざけた顔を押し隠して上司に復帰を報告したリオンは、笑みを浮かべて己とヒンケルの周囲に集まってくる同僚達にも笑顔で頷き、また仕事に戻るからよろしくと太い笑みを浮かべると皆が頷く。
「良く戻って来た」
その一言に今回の事件で皆が感じた思いややるせなさなどを混ぜ込み、最後にはまた以前のように働ける安堵を滲ませたヒンケルがリオンに手を差し出したため、一瞬逡巡したリオンだがこの時ばかりは胸に込み上げてくる感慨を奥歯でかみ締めてその手を握り返す。
「また、よろしくお願いします」
「ああ」
今日からまた前のように働いて貰うぞと笑って背中を叩かれ、馬車馬のように働くのはボスだけで良いから働けと憎まれ口を叩くと背後からそれだけで息の根が止まりそうな殺気が漂ってきて、前言通りにコニーの背後に駆け寄ると弾除けにするために同僚の身体を殺意の固まりになったヒンケルの前に差し出す。
「リオンっ!」
「クランプスに殺されるっ!」
「うるさい!」
刑事部屋の中央で繰り広げられる騒動に他の同僚達は頭痛を堪える顔で頷いたり素知らぬ顔を決め込むが、騒ぎに気付いた他の部署の刑事達が顔を出し、騒動の中心にいるのが金色の嵐であることを知ると、ああ、静かな日々が懐かしいと皮肉たっぷりに、それでもリオンの復帰を喜ぶのだった。
リオンが復帰を果たしたその日は事件らしい事件も無く平和に穏やかに過ぎ去っていき、定時に帰宅できる喜びをコニーが噛み締めているのを尻目に、ヒンケルの部屋でリオンが上司とデスクを挟んで向かい合っていた。
リオンの横顔は朝のふざけている顔が想像できないほど真剣なもので、そんな真剣な部下に対面する上司も同じく真剣な表情だったが、こちらは真剣さに重苦しさも加わっていて、冗談でリオンが言い放つ悪口のような形相になっていた。
「……ジルとゾフィーのことですが、今朝思い出したことがありました」
「コニーから聞いたが、あの二人が顔見知りだったのをお前が見落としていたことか?」
「Ja.ダーシャの死体が発見された日か翌日に、ゾフィーとジルがここの入口の前でばったり会ってるんです」
その時の二人の様子が普段とはまったく違っていたことに己は気付いていたはずなのにその違和感を無視してしまったこと、また直感を信じられずにジルベルトに対してもゾフィーに対してもそれぞれが知り合いであったのかを聞き出すことが出来なかったのが悔しいと拳の中にだけ感情を込めてヒンケルを見たリオンは、上司の顔が左右に振られたため小首を傾げるが、次いで聞かされた言葉に無言で肩を竦める。
「その時にお前がもしも気付いていれば事件は違う結末を迎えたかも知れない。だが、ジルベルトと彼女が組織のメンバーだった事実は変わらない」
「……確かにそうですね」
「それに、お前はすべてを見通す目を持っている訳じゃない」
だからその時その時で精一杯のことをするしかないんだとリオンに言い聞かせると言うよりは己にそうしているような声で説得されて頷いたリオンは、どうすることも出来なかったとしてもそれでもやはりとの後悔があることを告げるが、少し表情を変えたヒンケルに太い笑みを浮かべる。
「ジルの情報がBKAから入ったら真っ先に教えて下さい」
「そうだな……ブライデマンがお前に宜しく伝えておいてくれと言っていたぞ」
今回の事件で互いに知己を得たが、事件の性質上仕事を離れた先で言葉を交わすことも出来ず互いの本質を見抜くことも出来なかったのが悔やまれるが、この後悔は共通の敵を見つけ出す原動力にするとヒンケルにだけ伝えていたことを教えられてリオンが軽く驚き、あのような失礼な態度を取ったブライデマンだが確かに彼の言うとおりに仕事を離れた時に彼がどんな顔で笑ったり真剣な顔になるのかすらも知る機会がなかったこと、もしもその機会があればきっと違った横顔を見ることになったのだろうと納得すると、先程まで胸の奥深くで燻っていた彼への思いが一気に昇華していく。
「……次に会うとすればジルを発見したときですか」
「そうなるな」
ジルベルトもしくはロスラーの発見、逮捕ということでもない限りはBKAの刑事がそうそうこちらに出向くこともないと肩を竦める上司に部下も同じような表情で頷き、そのジルベルトが何処にいるのかが早く知りたいと呟くものの、己の恋人に確約したように単独行動で彼を見つけ出そうとするつもりは無かった。
それに、これもまた彼に告げたが、ジルベルトを発見して復讐したとしてもゾフィーが還ってくる訳ではないのだ。
一度喪われた命が戻ってくるのはフィクションの世界だけで、リオン達が日々汗水を流し時には涙を流す現実世界ではあり得ないことだった。
だからこそジルベルトを見つけたときには有りっ丈の思いを込めてあのきれいな横顔を殴り飛ばすつもりだと笑うと、ヒンケルが手加減をしてやれと苦笑する。
「んー、その時になれば考えます」
「……とにかく、お前はもう仕事に復帰したんだ。……ひとつの事件にばかり関わっていられないことは……」
「分かってますよ」
だからこれからは今まで通りに事件が起きれば指示通りに動き、一日でも一時間でも早く犯人を確保するだけですと気負うでもなく呟いたリオンは、ヒンケルの頭が上下したことに小さく笑みを浮かべ、何ごとかを思い出した顔で掌に拳を打ち付ける。
「あ、そうだ。ボス、報告があります」
「何だ?」
わざわざ報告することなのかと問われて斜め上を見上げながら別にどちらでも良いがボスの耳には入れておいた方が良いと思ったと晴れがましい笑みを浮かべて後頭部に手を宛い、オーヴェと一緒に住むことになりましたと告白する。
「は?」
「もう耳が遠くなったのかよ」
まさか同居の報告をされるとは思わなかったヒンケルが素っ頓狂な声を上げるとリオンの口がいつものように憎まれ口を叩くが、そんなリオンの頭上に拳が落ちて今度は悲鳴が流れ出す。
「んぎゃ!」
「何か言ったか、ばか者!」
「耳が遠くなったのかって言っただけですよー! 近いうちにオーヴェの家に引っ越しをします」
ようやく、ずっと夢に見ていた恋人との同居が始まると少しだけ照れたような顔でもしっかりとヒンケルに伝えたリオンは、短い沈黙の後に同じく短い言葉が返される。
「そうか」
「そうです。……ボス」
短い言葉に短く返したリオンがヒンケルを呼ぶと無言で目が向けられた為、にこりと笑みを浮かべた後にその笑みの質を変化させると、何かを察したヒンケルが椅子を蹴り倒して立ち上がる。
「引越祝い、期待してます」
「……チョコでどうだ」
「えー、どうせなら誰にでも何にでも役に立つ紫色の四角いお金が良いなぁ」
「………………」
リオンが嘯いた言葉にヒンケルのこめかみが痙攣し、さすがに500ユーロは言い過ぎたかとヒヤリとするが、しゃがみ込んでデスクをごそごそとした後に音高くデスクにそれを置いた上司に呆気に取られてしまう。
リオンの前に姿を見せたのは20センチ弱四方の変哲もない箱だったが、蓋を開けるとそこにはリオンが思わず目を輝かせてしまうような光景が広がっていた。
「ボス、これ……!」
「……引越祝いだ、持っていけ!」
そこにあったのはヒンケルが小遣いから地道に買い集めていたであろうチョコレートの山で、リオンがウーヴェと買い物に出掛けた際に買ってくれと懇願しようが機嫌を損ねようが買ってくれなかった限定のものなどもあった。
「こんなにも沢山何処に隠していたんですか、ボス?」
目の前に積まれた宝の山に感激しつつ問い掛けるとクーラーボックスに保冷剤を入れて保管しておいたと胸を張られ、思わずヒンケルの顔をまじまじと見つめてしまう。
「クーラーボックス……!」
「……まあ、なんだ……」
金で祝いをするのならば部下達と一緒にするが、このチョコも祝いだと笑うヒンケルにリオンが咳払いをした後、デスクから身を乗り出すようにしてヒンケルの頭一つ分小さな身体を引っ張るように両手を握ってぶんぶんと上下させ、ありがとうございますといつもとは少しだけ違う笑みを浮かべながらしっかりと礼を言う。
「あ、ああ」
リオンからのその握手と呼ぶには激しいそれに多少驚きながらも頷いたヒンケルだったが、いきなり突き放されるようにリオンが離れた為、蹌踉けて背後の椅子に腰を落としてしまう。
「うわー、うわー、何やってんだ、俺!?」
クランプスの両手を掴んで握手してしまった、気持ち悪ぃと一声吼えてじたばたと暴れ出すリオンを呆気に取られて見つめていた彼は、次第に込み上げてくる羞恥と怒りに拳を震わせるが、その拳が振り上げられる寸前にリオンが箱を両手で抱えて部屋を飛び出していく。
「ばか者……っ!!」
開け放たれたドアからは毎度の如くヒンケルの怒声と共にブロックメモが飛び出し、それを見たリオンの同僚達がやれやれと溜息をついて今日も平和な一日が無事に終わるなぁと感慨深い溜息をつくのだった。
仕事を終えたリオンが人待ち顔で辺りを見回したとき、夏の夕暮れはまだまだ先だと教えてくれるように世界は明るくて、先日まで己が身を横たえていた世界の暗さと対照的だと目を細める。
その闇から優しく強い力で元の明るい世界へと引っ張り出してくれた男がもうすぐやって来る筈なのだが、こうして待ち合わせをして己が彼を待つことが珍しいことであることにも気付くと、短い階段に長い足を投げ出して高い空を見上げる。
そんなリオンの背後のドアが開き、音に気付いたリオンが振り仰いで逆さまに見える世界で笑う年上の幼馴染みに笑いかける。
「悪ぃ、リッシー」
「良いわ。今日はそんなにお客さんも来ないだろうし」
ここは最近オシャレな雑貨屋やカフェが建ち並ぶようになった住宅街なのだが、リオンと同じ児童福祉施設で育った二人の女性が若いながらも自分たちのアクセサリーショップを開き、彼女たちが作るシルバーや革細工のアクセサリーが有名なファッション雑誌やタウン誌にも掲載されるようになってからは以前のように知る人ぞ知る店の雰囲気では無くなっていて忙しそうだったが、さすがに児童福祉施設で生まれた頃から多感な思春期を一つ屋根の下で暮らした者同士の絆は容易く切れるものではないためか、リオンがふらりと店に訪れると彼女たちも家族が来てくれた喜びを笑みで表すのだ。
今もまたその笑顔を見たリオンだったが、視界の隅に白い車が入ってきたことに気付き、顔を戻すと同時にリッシーが笑顔で来てくれたわねと告げたために階段から立ち上がって尻を叩く。
「そーだな……何を買うつもりなんだろうな、オーヴェ」
「聞いてないの?」
「新しい仲間を増やそうとは言われたんだけどな」
先日の初めてウーヴェに抱かれた夜に囁かれたことを思い出したリオンは、その夜、抑えられずにただ泣き続けた事やいつもより少し雄の色を強くしたウーヴェに見下ろされていた事を思い出すだけで穴があったら入ってしまいたい程の羞恥を覚えるが、咳払いでそれを堪えて何が欲しいかまでは聞いていないと肩を竦める。
「ふぅん。あなたは欲しい物はないの、リオン?」
「俺? そーだな……今はまだ良いけど、もうちょっとしたらゾフィーの誕生日だろ。なんか買ってマザーに預けようかな」
リオンがぼんやりと呟いた言葉にリッシーが目を伏せて少しだけ睫毛を震わせるが、そんな彼女にリオンが姉を喪った衝撃から立ち直りつつある笑みを見せる。
「リッシー、ベラも花をありがとうってマザーが言ってた」
「……ゾフィー、沢山の花に囲まれてたって?」
「ああ。オーヴェの知り合いがさ、すげー沢山向日葵をくれたんだよ」
だからあいつ、文字通り向日葵に囲まれて旅立ったと笑い、好きな花だったから良かったと呟いた時、キャレラホワイトのスパイダーからウーヴェが降り立ち、足早にこちらに向けて歩いてくる。
「オーヴェ!」
「……待たせたか?」
「平気。リッシーと話してた」
「お久しぶりね、ウーヴェ」
「久しぶり」
店の前で店員と客ではなく友人同士の顔で挨拶をし互いの頬にキスをした二人を見守っていたリオンだったが、開いたままのドアからもう一人の幼馴染みが顔を出したことに気付いてその彼女に手を差し伸べる。
「ベラ、オーヴェが来たぜ」
「久しぶり、ウーヴェ!」
リッシーよりは小柄で顔も少し幼いベラが舞い上がりそうな程の歓喜を滲ませてウーヴェの前に駆け寄り、挨拶もそこそこにウーヴェに抱きつくと、さすがに一瞬戸惑いを感じたウーヴェだったが彼女の背中をぽんと叩いて頬にキスをする。
「久しぶり。二人とも元気そうで良かった」
「ええ。……色々あるけれど生きているんだもの、笑って過ごしたいわ」
ベラの言葉にリッシーも笑みを浮かべて頷き、彼女たちの笑顔に何故か救われた気持ちになったリオンがウーヴェに甘えるように腰に腕を回すと、外出先であるのに腕を払われることもなく逆に腰を抱き寄せられて髪にキスをされ、リオンの口から安堵の吐息がこぼれ落ちる。
「今日は何が欲しいの?」
「そうだ、オーヴェ、何が欲しいんだ?」
あの夜、誰が見ても自分たちの関係が理解できるものを買おうと言ってくれたがと半信半疑の声を上げるリオンに苦笑し、ここで勿体ぶっても意味がないことに気付いたウーヴェが二人の女性に控え目な、だが自信の籠もった笑みを見せながら指輪が見たいと告げると三人の顔に驚きと喜びの色が浮かび上がる。
「……オーヴェ……」
「一緒に探さないか、リオン」
アクセサリーなどを売っている店にあまり出入りしないため詳しく知らないが、この店ならば自分たちが考えるようなものを提案してくれるだろうと笑うと、ベラとリッシーの顔に誇りにも似た色が浮かび上がる。
「もちろんよ」
「店の中で好きなものを見てちょうだい。思うようなものがなかったら教えて」
ウーヴェとリオンの手を握ったベラが二人を店内に招き入れ、リッシーも今日はもう閉店したことを知らせるようにドアに掲げていた札をひっくり返す。
「ねえ、ペアリングで良いのよね?」
ベラがテーブルにリングが整然と並べられているトレイを置きながら問い掛けると、応接ソファに並んで腰を下ろした二人がほぼ同時に頷くが何か良いデザインのものがあるかとウーヴェが二人を見る横からリオンがすかさずトルコ石が良いと言い放ち、三人の視線がリオンの顔に集まる。
「あんまりでかくないけど、ちゃんとしたトルコ石が嵌ってるリングはねぇか?」
「トルコ石?」
リオンにしてみればいつかのお礼だという思いもあったのか、驚くウーヴェに片目を閉じて今度はお前の目の色と同じ石を使ったリングが良いと笑い、意味を察した恋人に自慢気な笑みを見せつける。
「それで良いのか?」
「うん、それが良い」
しかもその石は見えない場所にあるものが良いと笑い、リッシーが顎に手を宛って内側に石を埋めるのかと問い掛けたため、リオンが笑顔のまま大きく頷く。
「俺だけが分かってるってのが良い」
トルコ石を使うデザインとなればどうしてもシルバーや革のアクセサリーが思い浮かび、そうなればウーヴェの手には相応しくない気がすると肩を竦めるが、ウーヴェの右手を本人に断り無く持ち上げて彼女たちの前でリングを嵌める予定の指の根元にキスをする。
「リオン……」
キスに込められた思いを感じ取り、トルコ石と呟きながらソファの回りを歩き出したベラにウーヴェが苦笑を浮かべつつ呼びかけ、一つはトルコ石で一つはサファイアにしてくれないかと提案をすると彼女がもちろんと言いたげに頷く。
「ペアリングだもん、あなたにはリオンの目と同じ色の石を使うわ」
「ありがとう」
己の思いがきちんと伝わった安堵に胸を撫で下ろし、驚くリオンに更に驚かせてやったと胸を張ったウーヴェだったが、リオンの左手が己の右手を掴んだままそっと身体の間に挟んで手を組んできたため、表情を変えることなくその手を握り返し、指と指を絡めるようにしっかりと手を組むと、リオンの口から小さな小さな、だが本当に満足していることを教えるような吐息がこぼれ落ちる。
「デザインはどうするの?」
「んー、オーヴェが仕事中にしていても不都合がないシンプルなものが良い」
「でも、あまりシンプルにするとマリッジリングと間違われない?」
リッシーの素朴な疑問にリオンがウーヴェの横顔を見つめるが、その顔が穏やかさと揺るぎない意思を秘めていた為、にやりと唇の端を持ち上げる。
「マリッジリングもいずれベラに作ってもらう」
だからそれとは違うデザインで考えてくれと笑い、歩き回るベラの足をぴたりと止めさせたリオンは、意味を察した二人に大きく頷いて己の右手で拳を作って突き出す。
「俺たちに相応しいマリッジリングも作ってくれ、ベラ」
「…………作らせてくれるの?」
「もちろん。な、オーヴェ」
「ああ」
自分たちが神や友人達に祝福して貰うときの指輪を是非作ってくれと頷き、その時には一緒に祝ってくれとも笑うとベラよりも喜んでいるようにリッシーが顔を輝かせ始める。
「もちろんよ」
ベラも一緒にあなた達二人が幸せになるその瞬間を見届けてあげると請け負われて二人で頷き、良いデザインが浮かんだら教えてくれとベラに告げると、二人の目の色と同じ石を内側に配し、外のデザインはシンプルなものと呟きながら再度ソファの周りを歩き始める。
彼女のその行為がデザインを考える際の癖であることを熟知しているリッシーが無言で肩を竦めるが、ベラが何かを閃くまでは話しかけるだけ無駄だと小声でウーヴェに告げ、リオンが片腕を突き上げて大きく伸びをする。
「リオン?」
「な、後はベラに任せてさ、今日はもう帰ろうぜ」
「もう帰るの?」
もっとゆっくりしていけばいいのに残念だと笑うリッシーの頬にキスをしたリオンは、彼女が自分たちの為のデザインを考え始めているのに邪魔をするのは己の首を己で絞めるようなものだと笑うが、意味の分からない例え方をするなとウーヴェに冷たく言われて肩を落とす。
「デザインが出来上がったら連絡を入れるわ。それを見てから作った方が良いでしょう?」
セミオーダーメイドになるがその方が良いだろうと笑うリッシーの心遣いを感謝しつつもデザインに関しては全面的に信頼を置いているリオンと、彼女達が作るアクセサリーが己の心に気持ちよく響くことを理解しているウーヴェがほぼ同時にその必要はないこと、二人が納得のいくデザインが出来上がったらその通りに作ってくれればいいと頷き、同じことを考えていたと二人が秘密を共有する子どものような顔で笑う。
「総てベラとリッシーに任せる」
リオンとウーヴェが二人のアーティストの仕事に全幅の信頼を置いていることを伝え、自信に満ちた笑みを浮かべて立ち上がると、さすがにその動きには気付いたベラが顔を上げて二人の前に駆け寄ってくる。
「デザイン、良いものが出来たら……」
「見せなくても良いからさ、それで作ってくれよ、ベラ」
ベラのデザインは俺もオーヴェも本当に気に入っていて、違和感があってもそれすらも楽しめるものだと笑ったリオンに目を丸くした彼女だが、己の感性や仕事の腕前を認めた上で好きにしろと言ってくれるリオンとウーヴェに最大限の謝意を表す為、二人の首に同時に腕を回して超特急で作るから待っていてと力強く告げ、そんな彼女の背中を抱いたリオンも期待していると嬉しそうに声を弾ませる。
「あなたも」
「ああ、もちろん。楽しみにしている」
出来上がったら連絡をくれないかと笑い、ベラの頬にキスをしたウーヴェは、ちらりと見たリオンの顔とリッシーの顔が心底嬉しそうなものだった為、自分たちの関係が先に進んだことを喜んでくれる人がいる事実をしっかりと受け止める。
「じゃあ今日は帰るな、ベラ、リッシー」
「ええ。出来上がりを楽しみにしていて」
背の高いリッシーにぶら下がるように腕を組み、店を出て行く二人に手を振ったベラは、幼馴染みであり共同経営者でもあるリッシーが本当に嬉しそうな顔をしている事が嬉しくて、もう一人の幼馴染みとその恋人の為に良いデザインを考えましょうと笑いかけて同意を得ると、店の片付けを頼んで自らは想像しているデザインを形にする為にスケッチブックを取り出すのだった。
ベラとリッシーの店を後にした二人だったが、スパイダーに乗り込んでも何故かどちらも口を開かなかった。
今日はリオンが仕事に復帰してから初めて出勤したのだが、その時の様子はどうだったんだとウーヴェが問いかけても、うん、みんな優しかったとしかリオンは答えなかった。
その様子から職場で意に添わないことがあったりゾフィーのことで何か言われたのかと密かに危惧をしながら横顔を窺ったものの、助手席で膝を抱えて膝頭に顎を載せているリオンの口から流れ出しているのが、いつからか機嫌が極上な時に歌うようになったものだった。
だから安心していたウーヴェだったが、不意に歌を止めたリオンが車内中に響き渡る声で幸せすぎて困っちゃうと叫んだ為、ステアリングを握る手が滑って危うく街灯に衝突しそうになる。
「オーヴェ、危ねぇ……!」
「危ないのはどっちだ!」
突然そんな事を叫ばれたら驚いてしまうだろうと、交通量が少ない為に路肩にスパイダーを停めて助手席を睨み付けたウーヴェは、抱えた膝をそのままにだって幸せなんだから仕方がないと肩を竦めるリオンに何も言えなかったが、幸せじゃないかと問われて瞬きを繰り返す。
「な、オーヴェ。幸せだと思わねぇか?」
「………………」
膝頭に顎を載せてのほほんと暢気な笑みを見せるリオンの横顔をまじまじと見つめたウーヴェは、一人の少女の死が発端となった今回の事件で経験した様々な出来事を思い出し、その時その時は確かに辛く苦しいことだったが、通り過ぎつつある今はその時の苦痛も和らいでいることに気付くと同時に、どうしても消すことの出来ない悲哀も存在することも気付いて目を細める。
「……お前は幸せだと思うか?」
「うん? 幸せだと思う」
血の繋がりはないが一つ屋根の下で暮らした姉が罪を犯したが、刑事である己とは別であり関係がないと言い切って身分を護ってくれたであろう上司や同僚たちがいて、仕事に復帰しても前と変わらない態度で接してくれることは幸せだし、ゾフィーとの思い出を共有できる人たちが、彼女といずれ再会するまでは前を向き、同じ生きるのであれば笑って過ごしたいと言ってくれたことが嬉しいと笑い、一度膝頭に額を押し当てて表情を隠したリオンは、助手席から手を伸ばしてシフトレバーの上にある暖かな手に掌を重ねて指を曲げると、意を察した掌が返されてしっかりと指が組み合わされる。
「……こうして……何も言わなくても分かってくれる……」
辛いときも楽しいときも並んで歩いてくれる、疲れたときには休める場所になってくれる、そんな人がいることは幸せ以外の何物でもないと呟いて一つ肩を揺らすと、顔を上げてウーヴェが常に心の何処かで願っている笑みを浮かべる。
「オーヴェ。お前がいてくれる」
それだけで他には何も要らないほど幸せだと笑うリオンにウーヴェが一度口を開いて閉ざすが、繋いだ手を引き寄せリオンの頭を抱き寄せると、大人しく引き寄せられるくすんだ金髪に口付ける。
「……これだけは言っておく」
「…………うん」
「俺もそう思っていることを忘れるな、リーオ」
俺の幸せはお前がいてこそなんだと込み上げる感情を堪えつつ強い声で囁くと、絶対の庇護を得た子どもが発する小さな小さな声がうんと返し、ウーヴェの背中に空いた手が回される。
「……家に帰ろう、リオン」
俺とお前でいられるあの家に、これから先も泣いたり笑ったり、時には背中合わせにベッドに入ったりすることもあるだろうが、二人でいることが幸せだと感じられるあの家に帰ろうと囁くと、ウーヴェの腕の中でリオンが小さく頷く。
「俺たちの……家?」
「ああ。俺とお前の家に帰ろう」
幼い頃から今に至るまで常に心の奥底に秘めていた願い、その願いへの一歩である二人で暮らす家に帰ろうと笑ったウーヴェにリオンが目の前の肩に顔を押しつける。
「……帰ろう、オーヴェ」
「ああ。帰ろうか」
今回の一連の事件で二人が負った傷は大きなものだったが、こうして互いの体温を感じていればその傷も必ず癒えることを口に出さずにも分かっている二人は、互いに身を引いて少しだけ照れたような笑みを浮かべると、ウーヴェが周囲を確認しながら車を走らせる。
その助手席ではリオンが先程と同じように膝を抱え、ウーヴェの言葉を切っ掛けに好きになった歌を小さな声で歌い続けるのだった。