コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その日はやけに蒸し暑くて、今日は雨の可能性が高いと街を行く人たちが空を見ていたが、いつものようにリオンを助手席に乗せてクリニックに出勤したウーヴェは、今日の午後は休診だから少しゆっくりした後気に掛かっていることを調べるために図書館に行こうと決めながらクリニックに向かうが、階段の踊り場に人待ち顔をしているスーツ姿の青年がいることに一瞬だけ不思議そうな顔になる。
己のクリニックに来るのならばこんな所で待つことはないし、また患者の中にも思い当たる顔が無かった。
ウーヴェのクリニックの上にあるデンタルクリニックの患者だとしてもまだ診察に時間があり、一体なんだろうと思案するが、短く切り揃えられた黒髪と厳しさと優しさが融和したような不思議な面立ちの青年の横顔が不思議と脳裏から消えなかった。
だがいつまでも見つめ続けることも出来ず、不思議さを感じつつクリニックに続く廊下を進むウーヴェだったが、その青年が腕を組んだままウーヴェの背中をじっと見つめ、扉の中に姿が消えると今度は階段に立ち塞がるように壁にもたれ掛かり、まるで階下からクリニックに誰も行かせないような雰囲気になるのだった。
「おはよう、リア」
いつもとは違う空気を僅かに感じつつそれでもいつものように挨拶をして扉を閉め、何か今日は蒸し暑いから空調を少しだけ効かせようと続けたウーヴェだが、まったく返事がないために首を傾げ、彼女の名前をもう一度呼ぶ。
「リア?」
「……ウーヴェ、こっちに来て」
彼女が顔を出したのはキッチンスペースで、どうして隠れるようなことをしているんだと苦笑しつつ足を向けると、彼女の口から思いもよらなかった名前を伝えられて限界まで目を見開いて動きを止めてしまう。
「……なん、だって……?」
「診察前で申し訳ないが、弟に話があるって……」
そう言ってほんの10分ほど前に入ってきたのは、彼女自身直接の面識は今まで無かったがテレビや新聞などのメディアを通じて見聞きしたことのあるウーヴェの兄、ギュンター・ノルベルトだった。
「診察室で待たせて貰うって……」
今お茶を出してきた所だとリアが声を潜め、ウーヴェとその家族の間の溝について聞きかじっているからこそ一体どうしたものかと悩んでいるとリアが打ち明けるが、ウーヴェの耳にそんな彼女の悩みや動揺は届いていないようだった。
何故リアの口から兄の名前が出てくるのかがまず理解出来ず、次いで込み上げてくるのは理由の分からない嫌悪感だったが、視界の隅に心配そうな顔が映り込んだため、頭を一つ振ってきつく目を閉じる。
「何か……言って、たか?」
「え? いえ、いつも弟を助けてくれてありがとうって礼を言ってくれたわ」
そしてこれからも弟の良き右腕として助けてやってくれ、そう言われたことを伝えた彼女は、友人でもあり上司でもあるウーヴェの顔色が一瞬にして蒼白になり今にも倒れそうなことに慌ててしまう。
「ウーヴェ、大丈夫?」
「……リア、今日の診察は……」
「今日は三人よ」
「……もしもかすると今日は診察が出来ないかも知れない」
ウーヴェのクリニックで働くようになって結構な年数が経過するが、未だかつてこのような自信のない顔で診察できないなど言われたことの無かったリアが驚いて口に手を宛うと、なるべく診察には影響のでないようにすること、急で悪いが万が一そうなった場合は患者への連絡を取って欲しいことを伝えると、ネクタイのノットを掴んで背筋を伸ばし、そのネクタイごとシャツの胸元を握りしめる。
胸に何があるのかは分からないがある日を境にウーヴェが何ごとかを決断する時には胸に手を宛うようになり、その所作に兄と顔を合わせることがかなりの勇気を必要とするのだと察したリアは、祈るような思いでウーヴェの背中を見送るのだった。
リアに見送られてキッチンスペースから診察室に向かったウーヴェは、心臓が耳のすぐ傍に移動してきたかのような激しい鼓動を聞きつつドアを開け、見慣れているはずの室内を初めて訪れたかのように感じてしまい、精神が現実と乖離しかけていることを察すると、無意識に左足に力を込めて薬指のリザードの感触を確かめ、握っている右手薬指のリングの感触から現実へと心を引き戻す。
「……おはよう、フェリクス」
診察前の忙しい時間に悪いと窓際のチェアから立ち上がったのは、一点もののスーツをそつなく着こなし、アリーセ・エリザベスと似通ったブロンドを丁寧に撫で付けた、見た目通りに隙のないやり手のビジネスマンであるギュンター・ノルベルトだった。
兄とこうして直接顔を合わせるのは一体何年ぶりだろうとぼんやりと思案することで己の心が一定の方に向かないように気を付けたウーヴェは、それでも掠れた声でおはようと返す。
その声をしっかりと聞き取り、彼女が淹れてくれる紅茶は本当に美味しいねと笑う兄に頷いた弟は、今日は一体どんな用事なんだと硬い声で問い掛けると、紅茶を褒めていた兄の顔が一瞬にして真面目なものになり、今年のヴィーズンもハンナの家に行くのかと問い掛けてくる。
「そ、のつもり……だ」
だがこれは今に始まったことではなく、もう何年も行われている行事だとやっと返すものの兄と向かい合う勇気が持てなかったウーヴェは、いつも腰を下ろしているデスクの端に尻を乗せ、なるべく兄の顔が視界に入らないように視線を下げる。
「今年は……いや、もう彼女の家に行くのは止めておきなさい、フェリクス」
「!?」
その言葉はこの時期になれば幼馴染みなどからも聞かされているためにすぐさま反論できるものであったが、止めろと言ってきたのが兄であったために今まで用意してきた数々の反論-他の誰かに言わせれば言い訳-が一瞬で霧散して頭の中が真っ白になってしまう。
あの事件で決して消えない傷を作り癒えない悲しみを生み出した一人であるはずの兄が、その事件で命を落とした人たちの心を少しでも静めるために出向くことを止めろと言うのは一体どういうことなのか。
「ど、……して……」
「俺にそんなことを言われなければならないのか、か?」
確かにお前からすれば俺に言われるのが最も腹が立つし理解できないだろうと頷いて静かに立ち上がったギュンター・ノルベルトは、蒼白なウーヴェの顔を真正面から見つめながら、もう何年が経っていると思うとこの時初めて苦しそうな表情を浮かべる。
「あの事件、ジーナが死んでもう何年になると思う、フェリクス」
どれだけ辛く悲しい死を経験したとしても自分たちの時間を止めることは出来ない、それと同じに死んだ人たちもずっとお前を縛り付けるつもりはない筈だと告げて返事を待てば、ウーヴェの肩が激しく上下し、今まで伏せられていた顔が勢いよく上げられる。
「俺だけ、が…………生きて……る……っ……! 許してもらえる……はず、が、ない……っ!」
あの事件の発端となったのは己の誘拐事件であり、その誘拐事件がいつの間にか他の人たちの命を奪う事件に発展したが、そもそも己が誘拐されなければ他の人たちは、ハシムというトルコから来ていた少年が命を落とすこともなかったのだと叫び、何故自分だけが生きているんだと事件以降常にウーヴェの心と脳味噌の片隅に居座る疑問を吐き出すと、恐ろしいほどの沈黙が室内を覆い、長く感じる一瞬の後にギュンター・ノルベルトがすべての思いを込めた一言をウーヴェの心に届くように穏やかに伝える。
「命を賭けてジーナがお前を守ったからだよ、フェリクス」
あの事件の最中、誰もお前を守る人がいないと思われていたが最後の最後で彼女はお前を守ったのだと、当時彼女の最期を伝え聞くことしかできなかったギュンター・ノルベルトが悔しさを握った拳に閉じこめつつ命を賭けてお前を守ったんだと繰り返すと、ウーヴェの顔が歪み、言葉に出来ない思いが胸に支えているのか息苦しそうに胸に手を宛う。
「彼女は確かに許せないことをした。だけど……」
最後はお前を全力で守ったんだとも告げ、息苦しそうに肩を上下させるウーヴェを痛ましそうに見守り、許さなくても良いが彼女の最期の行いだけは認めてやって欲しいことを伝えると、ウーヴェが少し落ち着きを取り戻すのをじっと待つ。
兄の前で無様に倒れる姿など見せられるはずもなく何とか顔を上げて真正面から兄の顔を見たウーヴェは、早鐘のようになる鼓動にうるさいと吐き捨て、いつでも己に力を分け与えてくれる笑顔を脳裏に描く。
その笑顔を思い出すだけで心が落ち着きを取り戻し何とか冷静に向き直れることに気付いたウーヴェが深呼吸をした後、あの事件で命を落とした人たちの為にもあの村に訪れることは止めないことを可能な限りの穏やかさで伝えると、ギュンター・ノルベルトの手が一度開かれて再び握られる。
「慰安のためならこちらでも出来ると思うけどな」
「……俺が、決めた、こと、だ、から……」
だから誰に何を言われたとしても止めるつもりはないと伝えたウーヴェにギュンター・ノルベルトが溜息をついた後、それならばそれで構わないが、ハンナの世話になるのはやめなさいと最初に伝えた言葉を告げてウーヴェの眉を顰めさせる。
「どう、いう……?」
「……この間、エリーと一緒にベルトランの店に行ったそうだね」
「…………」
答える必要はないと沈黙するウーヴェだがその沈黙が答えになっていて、兄が素っ気なく頷いて何でもないことのように重大な事実をウーヴェに伝える。
「その夜、ハンナがヘクターと家に来た。大学病院で精密検査を受けた結果、ハンナがガンと診断されたそうだ」
余命についてはっきりとは聞かされていないが、高齢という理由を差し引いたとしてもガンの進行はかなり進んでいるようだと伝えると、今度は先程とは違った理由からウーヴェの肩が震え始める。
「……ハンナが……ガ、ン……!?」
「ああ。ただ俺が見た限りではまだ痛みは出ていないようだった」
今年の春先から調子が悪かったそうだが、高齢だし手術をする方が彼女の負担になることもあり、投薬での治療のみになることや病院での療養は断り可能な限り自宅での暮らしを続けたいそうだと、こればかりはまだ納得がいかない顔で頷いたギュンター・ノルベルトは、ウーヴェが掌で口を覆って肩を上下させる様も見守りつつ、今はヘクターと一緒に家にいることを告げ、さっきまでとはまったく違う顔でウーヴェを見つめる。
「ヴィーズンの間はヘクターもハンナも家にいるから、今年は家で二人の面倒をみてやりなさい」
兄の一言はウーヴェの気持ちを上向かせるのに十分だった。だが兄への反発心から素直にそれを聞き入れることが難しく、頭を振って勝手に決めるなと吐き捨てるとギュンター・ノルベルトがひとつ頭を振ってウーヴェを諭すように穏やかに呼びかける。
「フェリクス、俺たちの大切な宝。……ハンナの時間を考えなさい」
「……!!」
その呼びかけは遠い遙かな記憶の彼方からも響いてくるようで、呆然と目を瞠って兄を見つめるウーヴェにギュンター・ノルベルトがそっと頷き、いずれ必ずやって来る別れだが、今まで世話になった恩を返す時間を神が与えてくれたのかも知れないと寂しさが隠しきれない声で呟いて天井を見上げる。
「ハンナは……もう、長くは……?」
「そうみたいだな。ガンと診断された人については俺よりもお前の方が詳しいだろう」
病院と主治医の名前を聞き出してあるから気になるのならば同じ医者として患者について問い合わせてみればどうだと笑い、スーツから名刺を取りだして丁寧な文字で医者の名前を書き記した後、まだ呆然としているウーヴェの手にそれを握らせ、ハンナがお前に会いたがっているとも伝えて診察室をゆっくりと見回していく。
もうここに来ることがないかも知れない思いから室内の様子を脳に刻みつけようとするのか、十二分に時間をかけて室内を見回した彼は、衝撃から立ち直れない弟の髪を撫でて肩を抱いて大丈夫だと安心させたい衝動に駆られるが、事件が解決した直後に父と決めたことを思い出して拳を握ってその思いを閉じこめる。
「……じゃあ仕事に行くよ。朝の忙しいときに悪かった」
「………………」
ギュンター・ノルベルトが挨拶を残して出て行く背中をぼんやりと見つめ、己の手の中に残された名刺を見つめたウーヴェは、衝動的にそれを破り捨てたくなるものの、ハンナの主治医に連絡が取れなくなることを思い出してグッと堪え、デスクに座ろうとして失敗してしまう。
「……!」
デスクではなく床に尻餅をつくように座り込んだウーヴェは、立てた膝の間に頭を落として歯を噛み締めるが、次から次へと湧き起こってくる悔しさや苛立ちや理解できない感情に握った拳を床にたたきつける。
何故あの善良なハンナがガンという病に冒されてしまうのか。
優しくいつも温かく迎えてくれる彼女にはガンによる苦痛ではなく、穏やかな眠るような最期を迎えて欲しいしその資格も十二分にあると思っていた。
なのに何故、最期に神は彼女に苦痛という試練を与えたのか。
その思いが溢れかえり、信じることを止めてしまった神への恨み言を吐き出そうと口を開くものの、出てくるものはやはりいつものように呼気の固まりであり言葉にならない声だけだった。
病は誰の身にもやって来る。その軽重や時期については誰が決めた事でも誰のせいでもないと己の患者の負担を少しでも軽くする為ならば素直に言えるその言葉だったが、己の恩人が余命宣告されてしまった事実に直面した今、その言葉がやけに空々しく感じてしまい、己の仕事に対して急激に空虚感を抱いてしまう。
ここで何人もの患者が社会復帰する手助けをしてきた事実も遠くに霞んでしまいそうで、ウーヴェの脳が危険信号を発信する。
その信号を受け止めようと無意識に行動したのはウーヴェの握りしめられている右手で、拳を叩き付けている床にぶつかった以外の痛みが芽生え、その痛みを感じ取った脳味噌がウーヴェの目を見開かせる。
この痛みの元となっているのは細身のリングであり、これを嵌めているのは自分だけではないことを思い出すとごく自然に真夏に咲き誇る向日葵を連想させる笑顔も思い出すが、その笑顔が脳裏に広がった瞬間、身体全体を覆っていた虚無感や言い表せない感情が生み出した黒雲が晴れ、目を開けていられないほどの眩しい光が世界に満ちる。
その光が脳内から指の先に通っている毛細血管にまで満ちると、何処かに消え失せていた力がじわじわと沸き起こり、指先から痺れるような力を感じて異常な速さで脈を打っていた心臓に届くと、その動きが徐々に落ち着きを取り戻してくる。
そして少し取り戻した冷静さを糧に脳が落ち着けと命じた為、今度は全身から力が抜けてしまうが背後にあるデスクに寄り掛かって天井を見上げ溜息を吐く。
「………………」
落ち着きを取り戻したと同時に今度は馴染みの頭痛が起こり、きつく眉を寄せて痛みを堪えようとするが、兄と直接言葉を交わしたこととその兄に恩人が病に冒されている事実を伝えられた衝撃に身体が堪えきれないようで、頭痛が次第にひどくなっていく。
頭が割れてしまう、そんなあり得ない恐怖が芽生えたウーヴェが咄嗟に取った行動は携帯を取り出すことで、隣の部屋にいるリアを呼ぶ為の声が出ない為に震える手で今日の診察が出来そうにないので患者に診察日を振り替えて欲しいことを伝えてくれとメールで頼み、返事を聞く前にリダイヤルの回数が最も多い番号を呼び出す。
今日もいつものように朝食を食べながら一日の予定を話し合ったのだが、先日からこの街に逃げ込んだ殺人事件の被疑者とその事件の重要参考人を事件があった町の刑事と一緒に捜さなければならない、一緒にいて楽しい人だが気持ちが先走っているからかロクに休憩もせずに走り回るから疲れることを愚痴っていた恋人の笑顔を思い出しつつコールを数えていると、暢気な声がいつものように聞こえてくる。
『ハロ、オーヴェ。どうした?』
「……っ……!」
その声に、つい今経験したことを話してしまいたかったが、喉に蓋をされたように声が出て来ず、話したい心と押し止める脳が体内で静かに対峙してしまう。
このまま沈黙していると怪しまれるし電話を切られてしまう恐怖がそれに加わり、最終的に勝利をしたのは今までと変わらない沈黙してしまう行動だった。
そっと通話を終えようとしたウーヴェの耳に訝る声が何度も呼びかけてくるのが聞こえるが、それに対してどんな言葉や声も出すことが出来ず、先程取り戻したばかりの光明が弱まり消えていくのを感じ取りながらウーヴェは通話を切ってしまうのだった。
ウーヴェのクリニックを出る直前、心配そうな顔で見送ってくれる彼女にいつも話だけは聞いているがこれからも弟の良き右腕として友人として傍にいて支えて欲しいと伝えたギュンター・ノルベルトは、無言で頷くリアに目を細めて朝からお騒がせしたと苦笑しつつ扉を開けるが、少し開いただけで扉の向こうにダークスーツ姿の男を発見して更に苦笑する。
「何か変わったことはあったか、ヘクター?」
「いえ、特に何も」
長身で髪を短く刈っている男、ヘクターが階段の踊り場からクリニックの前にやってくると驚くリアに目礼をしてギュンターの斜め後ろに立って次の予定を口にするが、すべてを語り終える前にギュンター・ノルベルトが片手を上げてそれを制止する。
「……美術館に行きたい」
「分かりました」
ギュンター・ノルベルトの言葉はヘクターにとっては絶対なのか、普段ならば会社で精力的に仕事をこなすはずなのに美術館に行くと言い出す社長に反論するつもりなど毛頭無い顔で頷き、先程己が見下ろしていた階段に向かう背中を守るようについていく。
「午前の会議は午後に回してくれ。時間の調整がつかないものについては副社長に出て貰ってくれ」
地下駐車場に停めてある高級車の後部シートに乗り込んで会社に連絡を入れた彼は、電話に出た秘書に予定の変更と午前中は誰からであっても電話を繋ぐなとやんわりと命じると、ヘクターが運転席に乗り込んでルームミラーでギュンター・ノルベルトの様子を窺う。
「――ヘクター」
「はい」
「…………何年ぶり、だろうな」
こうしてウーヴェに直接会って一方的なものではない話をするのは何年ぶりなのかと、アタッシュケースから取りだした書類に視線を落としつつ呟くギュンター・ノルベルトにヘクターは咄嗟に何も言えなかったが、安全運転で車を美術館へと走らせる。
「大学卒業以来か?」
「そう、だな……もうそれぐらいは経つかな」
本当に久しぶりに顔を見て話をしたがエリーが言うように年々似てくると笑う顔をルームミラーで見たヘクターは、仕事中の顔しか知らない人が見れば別人だと信じて疑わない優しい顔のギュンター・ノルベルトに驚くが、長年顔を合わせることを避けていたウーヴェとの短い時間の接触が余程嬉しかったのだろうと想像すると、バルツァーの社長とSPではなく年の離れた友人の顔で頷く。
仕事中は無駄口は叩かないヘクターだが仕事を離れれば多少は口数が増える為、背後の雰囲気からそれを察するとそれでも気配りしながら笑いかける。
「良かったな、ギュンター」
「もっと明るい話題で話が出来れば良いんだけどな」
随分と久しぶりに言葉を交わす弟だが、何故それが恩人に残された時間が短いという話題なんだと苛立たしそうに舌打ちをすると、朝の忙しない車の流れをぼんやりと見つめる。
平日の朝、これから仕事に出掛ける人もいるだろうしもう動いている人もいるだろう。そんな人達の中には己の愛する人を喪う覚悟を持った人もいるだろうし、逆にそれを考える事すら出来ない幸福な人達もいるだろう。
善良な人達やそうでない人達にも愛する人がいて、その人達を喪う悲しみを経験したものは自分なりの方法でそれを乗り越え-もしくは封印している筈で、自分だけではないと不意に浮かんだ思いを否定するように頭を振ったギュンター・ノルベルトは、ここで待たせるのも気の毒だから美術館近くで下ろしてくれた後は適当に時間を潰して欲しいことを伝えると、美術館のカフェでコーヒーを飲んでいると返されて苦笑する。
「心配しなくても大丈夫だ、ヘクター」
「……お前が心配だからカフェに行くんじゃないんだけどな」
今朝はコーヒーを飲んできていないので無性に飲みたくなっただけだとルームミラーで視線を交わして笑うヘクターにギュンター・ノルベルトが瞬きをした後、ウーヴェとそっくりな笑みを浮かべながら運転席のシートの上に見える後頭部を指で軽く突く。
「俺が心配なんだろう?素直に認めればどうだ?」
「そっちこそ、待っていてくれと言えばどうだ?」
運転席と後部席で交わされる気心の知れた友人の会話は美術館に到着するまで続けられ、運良く美術館前の道路に駐車することが出来た為、車から降り立ってもその会話は続けられるが、館内に入るとごく自然な動作でギュンター・ノルベルトの荷物をヘクターが預かりカフェへ通じる小さな階段を登っていき、その背中を見送った彼は自らのチケットだけを購入し、通い慣れている美術館だから音声ガイダンスも不要だと笑って顔馴染みの係員と二言三言言葉を交わすと、左右に伸びる長い階段をゆっくりと登っていき、目当ての絵が飾られている展示室へと向かう。
この美術館は、昔この街を中心に周辺一帯を治めていた王が買い集めた絵画を展示しているのだが、その中にその王が異常なほどの情熱で買い求めた聖母子像の絵があった。
幼い頃、信心深いハンナに良く教会に連れて行かれては説教を受けたりしてきた彼だが、ウーヴェが神への信仰心を放棄した年齢とほぼ同じ頃にそれを捨てていた。
いくら神を信じなくなったからと言って絵を見ることと信仰することは別であり、この美術館にも何点かある聖母子像の中で何故か心惹かれるその絵の前に立ったギュンター・ノルベルトは、その絵を見るのではなく対話するかのように見つめ、背後にあるチェアに腰掛ける。
手を組みじっと聖母子像を見つめていたギュンター・ノルベルトは、今目にしている絵の中のイエスと同じ年頃のウーヴェの姿を思い出すと、組んでいた手に自然と力を込めてしまう。
遠い昔の面影を脳裏に描くと決して忘れることの出来ない、また忘れてはいけない笑顔も思い浮かんで握りしめていた手から力が抜ける。
元々芸術には興味の無かった彼だが、ある時何気なく見かけた雑誌に今対面している絵が掲載されていて、時間を作ってここにやってきたのだが、その時彼の胸にあった悩みが消える代わりに、何があっても己で守らなければならないと強い意志が芽生え、自分たちの関係を大きく変化させた出来事の後もその言葉を金科玉条にしていた。
だが、例えどのような強固な意志を持っていたとしてもやはり人である以上、時には心が弱くなることもあり、身体の疲労が心の疲労を伴って世間を斜めに見たくなる時には自省の意味と救済を求めてこの絵の前にやってきては時間を過ごすようになっていた。
会社の命運をかけたような大事業に一歩を踏み出す時にはなんの躊躇もなく行えるが、顔を見て話を聞くことも出来ないウーヴェの身に起きた様々な出来事を耳にするたびに、ギュンター・ノルベルトは時間を無理矢理作ってはこの絵の前にやってきて、己の胸の中でのみ生きている女性に語りかけ、思い出というフィルターを通している為に優しさしか感じられない声に背中を押されて意志を新たにしていたのだった。
今日もまたその思いを新たにする為にやってきた彼は、一見すればぼんやりと、だが胸の裡では、母親代わりの女性がガンに冒されたやるせない思いや久しぶりにウーヴェと話をしたことを思い出の中の彼女に語りかけるのだった。
ギュンター・ノルベルトが突然ウーヴェのクリニックを来訪したその日の夜-と言ってもまだ日は沈んでいない為に明るかった-、周囲の訝る声も一切無視したリオンが定時を1分過ぎたと同時に警察署を飛び出して帰路に就いた。
今朝はウーヴェの車に乗せてきて貰った為に職場から最も近い駅に駆け込み、切符販売機を壊す勢いで切符を買ってこれまた打刻機に切符を突っ込んで引っこ抜くとホームへ続く階段を一段飛ばしに駆け下りていく。
地下に駅を作ったのだから仕方がないが、何故こんなにも階段を下りなければならないのかと舌打ちしたリオンは、エスカレーターを一目見て人気がないことをしっかりと確かめると、エスカレーター手すり横のスロープ部分を一気に駆け下り、階段を利用している人の驚愕を無視してホームのある階に辿り着くと、出発間際の列車に飛び乗る。
空いているシートではなくドアに寄り掛かり携帯を取りだしてウーヴェの番号を呼び出すが、午前中から何度掛けても出なかったのと同じように虚しく呼び出し音が流れるだけだった。
無機質な呼び出し音にシャイセと罵った後は比較的冷静さを取り戻した顔で腕を組み、自宅近くの駅に到着するまではぼんやりと車窓の景色を見つめているのだった。
自宅最寄り駅に着いてもまだ諦めきれずにもう一度ウーヴェの携帯を呼び出すと、コールが10回目を数える直前に少し掠れた声が聞こえてくる。
『Ja.』
「オーヴェ!? 今家にいるのか?」
『うん? ああ、家にいる』
「そっか……今さ、駅に着いた」
だからもうすぐ家に帰ると告げると全く感情が籠もっていないような声が気をつけてとそれでも気遣ってくれた為、なるべく早く帰ると告げて携帯をジーンズの尻ポケットに突っ込み、駆け足と徒歩の間の速さで自宅アパートがある小高い丘の上を目指して駆け上がるとアパートの警備員が親しげに頷いて出迎えてくれる。
「今日もまだまだ暑かったですね」
「マジいつまでも暑いのはいやだよなぁ」
真冬もイヤだがいつまでもこの暑さはイヤだと笑って片手を挙げたリオンは、エレベーターに乗り込んで苛立たしげに右足で床をノックするが、ただひとつのドアがあるフロアに到着し、真鍮のドアノブに手をかけるとドアが静かに開いていく。
「……お疲れさま、リーオ」
ドアの向こうにいたのはいつもと比べれば少し顔色が悪いがそれでも穏やかな笑みを浮かべているウーヴェで、その顔を見た瞬間、安心すると同時にいい知れない不安も感じて咄嗟に手を伸ばし、驚くウーヴェを抱きしめる。
「リーオ? どうした?」
「………………」
どうしたと聞きたいのはこちらだと内心呟きつつ何度も電話をしたのに何故出てくれなかったんだと白とも銀ともつかない髪に口を寄せて強く囁けば、腕の中の身体に緊張が走る。
「……少し、調子が悪かった」
だから午前の診察も今日は休診にして家で寝ていたんだと答えられ、嘘を吐いている訳ではないが全てを話している訳でもないことを察すると、溜息を零してもう大丈夫なのかと問いかける。
「あ、ああ、もう、大丈夫、だ……」
大丈夫というのならば何故そんなに声が掠れて身体が緊張するんだと問いかけたいのをグッと堪え、そっかと頷いて口調を変えて腹が減ったと笑って告げる。
「そうだな、もうすぐごはんの用意が出来る」
「マジ? じゃあ着替えてくるから用意して欲しいっ」
「分かった」
着替えて来いとウーヴェが背中を撫でた手が力がないようにも思え、自らの口から話して欲しいと密かに願いつつそっと離れて青白い頬にキスをするとウーヴェの喉が奇妙な音を立てる。
その、ひとつひとつの行動がリオンにウーヴェの心の葛藤や異変を伝えていることに気付いていないのだろうかと訝ると同時に何故か悲しくなってしまい、頭をひとつ振ってベッドルームではなく己の部屋に向かったリオンは、ドアを開けて違和感を覚える。
今朝出勤する前に部屋に入ってヴェルナーから借りていた古いビデオを探したのだが、その時と今とでは何かが大きく違っている感覚を覚え、ぐるりと見回して違和感の原因を発見する。
それは、いつも半分折りたたまれている-と言えば聞こえは良いが乱雑に捲り上げただけ-のコンフォーターが、丁寧に整えられていることだった。
その癖はリオンが孤児院にいる時からのもので、何故か半分を乱雑に畳んでしまうのだが、真っ直ぐに伸びていることからウーヴェが部屋に入ってベッドに寝ていたことを察する。
この部屋にウーヴェが入るのにはいくつかの理由があるが、その最大の理由はやはり己の過去に直結する何かを経験したときだった。
引っ越す前の古いアパートにリオンが住んでいた時はウーヴェの父が関係した仕事で一悶着合った時だったし、兄から電話が掛かってきただけで精神的にノックアウトされてその部屋に転がり込んだこともあった。
その過去と照らし合わせ、つい今見たばかりのウーヴェの顔が青白いこと、調子が悪くて寝ていたことやリオンの言葉に逐一敏感に反応することから、ウーヴェの父か兄から連絡があったかもしくはそのどちらかがクリニックに来たのではないかと推測するが、食事の用意が出来たぞと遠くで呼ばれて声だけは元気いっぱいに返事をすると、いつかのようにこちらから迫るのではなく、自ら語ってくれるのを待とうと決めると頬をひとつ叩いて長期戦に臨む刑事の顔になるのだった。
その夜、いつもと同じで確実に何かが違う雰囲気の中で食事を終えたウーヴェは、何も言わないリオンに感謝しつつもいつ指摘されるか分からない不安を抱えたままシャワーを浴び、髪を拭きながら鏡に映った己の顔色の悪さに溜息を吐いていた。
今朝、ギュンター・ノルベルトがクリニックを訪れ、自分たちにとっての恩人である女性がガンに冒された事実を教えてくれた時からの心身の不調は続いていた。
ロクに診察も出来ない事実に驚くリアを何とか説得して一日クリニックを閉めることにしたのだが、自宅に辛うじて戻って来られたウーヴェが真っ先にしたのはリオンの部屋に転がり込み、乱雑に折り畳まれているコンフォーターがあるベッドに倒れ込むことだった。
午後の遅くには何とかベッドから起き上がることが出来、こんな顔色をしているのに良くリオンに事情を話せと迫られなかったと胸を撫で下ろすが、鏡の中の己の首筋を取り巻く痣を見るだけで気持ちが更に沈んでしまう。
この痣を見れば兄か父が己に接触を図ったことが一目瞭然だったが、だからといって夏と秋の入れ替わりのような今、痣を隠すネックウォーマーを巻くことも出来なかった。
このまま何食わぬ顔でベッドに潜り込みリオンが何かを問いかけるよりも先に眠ってしまえばいいと、日頃のウーヴェらしからぬ逃げるような思いが脳内を占めるが、何かを問われても何とか誤魔化そうと決め、髪を乾かしてベッドルームに戻る。
ベッドルームの照明は落とされていて、ベッドの左右にあるサイドテーブルの照明-いわゆる暖かな照明-だけが灯されていた為、ウーヴェがいるバスルームのドア付近からはベッドの周囲がぼんやりと明るく照らし出されていた。
この暗さの中ならばごまかせるかも知れないと思いつつベッドに近づくと、リオンが枕を抱え込む様に横臥していて、顔を覗き込むと穏やかな寝息が伝わってくる。
眠っている事に心底ホッとし、起こさないように気をつけつつベッドに入ると、リオンの背中に顔を寄せるように横臥する。
いつか必ず話をするからもう少しだけ時間をくれと呟くが、眠っているリオンに聞こえるはずも無い事に思い至ると苦笑してしまい、背中にお休みの挨拶をするとコンフォーターを引き上げるが、その時、リオンが寝返りを打って腰に腕が載せられてしまう。
「……オーヴェ……?」
「……お休み、リーオ」
「……ん……」
寝ぼけ眼を瞬かせるリオンの額にキスをし、今度は聞こえるようにお休みと小さく笑ったウーヴェにリオンがひとつ頷いた後に顔を寄せてくる。
間近に感じる温もりに穏やかな規則正しい息遣いにウーヴェの心の中で凝り固まっていた暗い感情が解きほぐされていく。
緊張が解れた心が眠りを促し身体も心の声に同調した為にウーヴェが小さく欠伸をして程なくして小さな寝息を立て始めるが、寝ぼけ眼でウーヴェのキスを受けた筈のリオンの目が逆にしっかりと開き、ウーヴェの顎で隠れているがそれでも間違いなく存在する痣に目をやると、今朝の切羽詰まった様な声で名前を呼んだ後に切れた電話の理由を察すると帰宅してからの様子が変だったことも納得してしまう。
いつか父や兄との不仲の理由を話してくれるだろうと思っているがもう少しだけ時間をくれとたった今背中に囁かれたことも思い出すと同時に、過去について話をしろと迫って涙を流させたことも思いだし、あの涙を見るぐらいならば話してくれるのを待つと決めた帰宅直後の決意を新たにするのだった。