コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
バルツァー三兄弟の上二人にとっては実の両親以上に己を愛し慈しみ育ててくれたハンナの身体にガンが発見され、最早手術をすることも叶わないと知った日から数日後、彼らが離れて暮らす街はお祭り騒ぎが始まる直前の高揚感に包まれていた。
その高揚感を嫌って-本質的なところでは逃げて-いたウーヴェは、例年のように明日からクリニックを休診するため前日の今日も午後から休診にして書類整理をしていたのだが、今年の休暇は中近東あたりに旅行に行くことを教えてくれたリアに羽を伸ばしてきてくれと笑って送り出し、静まりかえったクリニックで一人沈思していた。
本来ならもう出向いているはずの山の麓の小さな村。そこにひっそりと夫婦で暮らすハンナとヘクターに世話になるつもりだったのだが、その彼女がガンに冒されもう彼女に遺された時間が少ないのだからと教えられたのだが、彼女の残りの人生を思えば真っ先に駆けつけなければならないだろうし、またそうしたかった。
だが彼女が滞在するのが今まで避けてきた実家だと教えられてしまうと、彼女を思う気持ちよりも大きくて重い何かがウーヴェにのし掛かってきて身動きが取れなくなってしまうのだ。
恩人が望むのならば自ら出向いていくらでも世話をしたかったが何故実家なのだと苦々しく思ったとき、休診を伝えるプレートを掲げているドアがノックされてその音に飛び上がりそうになる。
「……はい」
つい先程唯一の従業員を見送ったばかりで人が来るはずもないのにとの思いから掠れた声でどうぞと言うが、その声が聞こえなかったのか今度は到底ノックとは思えないリズムが付けられたそれが響き渡り、ウーヴェの身体から緊張が一気に掻き消える。
そんなノックをする人はただ一人で、その人物に思い当たると張りつめていたものが無くなるが、互いに言い出したくても言えない、また聞きたいと思いつつも無理強いできないでいる雰囲気を数日前から感じるようになっていることを思い出すと、先程とはまた違った緊張がウーヴェの身体を駆け巡る。
「どうぞ」
「ハロ、オーヴェ」
仕事お疲れさま、そして明日からの休みおめでとう。
仕事への労いと休日へのうらやましさを朗らかな声に混ぜつつ入ってきたのは、今日も朝からふつうでは考えられないほどの量の朝食を平らげて出勤していったリオンだった。
「あ、ああ、お疲れさま」
「オーヴェ、腹減った」
大股に歩み寄ってくるリオンが発する言葉に瞬きを繰り返したウーヴェは、いつかも言ったと思うがここはガストハウスでもレストランでもないぞと溜息をつきながら返すが、いつもならば真っ先に駆け寄ってキスをしてくるはずのリオンがウーヴェと向かい合うように一人がけのソファの肘置きに腰を下ろしたことに首を傾げる。
「どうした?」
「んー? ちょっと色々と考え事」
「何だそれは」
「何でしょうねー」
首を傾げたウーヴェの問いにリオンが肩を竦めつつ返すが、その言葉と声音だけを聞いていればふざけているようにしか感じられないが、悲しみを乗り越えた蒼い瞳を真っ直ぐに見つめているウーヴェはその言葉と心が裏腹であることに気付き、軽く息を飲んで次に出てくる言葉を待ち構える。
「オーヴェ」
「……なんだ」
「うん、こっち来てくれねぇか?」
そのデスクに座ったままではなく自分の前に来て欲しいと手を伸ばして笑みを浮かべる恋人に苦笑し、その願いを叶えるように立ち上がってゆっくりと前に立つと同時に腕を引かれてソファに座らされてしまう。
「リオン?」
「ふっふっふー。一度やってみたかった……!」
念願叶ったと不気味な笑みを浮かべて腰の上で手を組みまるで映画かテレビの登場人物のようにゆったりと歩き出したリオンは、デスクの横に来ると同時に振り返り、今し方までウーヴェが腰を下ろしていた椅子に腰を下ろすと、大仰な身振りで腕を上げて両手を組む。
「さて、今日はどんなことがありましたか? 俺に聞いて欲しい話は何ですか」
「――っ!」
その言葉をリオンがどんな思いで口にしたのかをウーヴェは正確には捉えられなかったが、ここ数日様々な-だが根幹は同じ-悩みを抱えつつ口に出せなかった身からすれば、今お前が抱えている悩みを総て打ち明けてしまえと促してくれているように感じて口を開いてリオンを呼ぶが、その口を封じるように裡なる声が話をするな、黙っていろと鋭い叫びを発した為、身体がびくんと竦んでしまう。
「言えませんか? ここには俺とあなたしかいませんよ」
だからその胸にある思いを打ち明けて下さい。
いつも己が患者に伝えている言葉を知っているかのように告げられて心が素直になれと悲鳴じみた声を発するが、その声の奥から粘りけを帯びた声がまるで獲物を捕らえる何かのように触手を伸ばしてくる。
そしてそれに絡め取られないように顔を上げて背筋を伸ばしたウーヴェは、まるでお前が医者のようだと笑って眼鏡を押し上げながら胸の裡の葛藤を押し隠そうとするが、溜息一つで立ち上がったリオンの動きを目で追いかけ、再び隣にやってきたかと思うと今度は先程とは逆に腕を引かれて立ち上がらされ、視線でデスクに戻れと示されてしまう。
「リオン、一体何をしたいんだ?」
「お医者さんごっこ」
「は?」
医者が本職のお前はもちろんお医者さん役だと笑い、だから俺は患者だとも笑って尊大な態度で一人掛けのソファに腰を下ろして足を組んだリオンは、足の上で両手を組んで親指をくるくると回転させながら朗らかな声を挙げる。
「センセイ、聞いて下さいよー」
どうやら本格的にお医者さんごっことやらを始めるようで、それに付き合わないと機嫌を損ねることが容易く察せられた為、溜息一つで気分を切り替えて顎の下で手を組んで目を細める。
「どうしたんですか?」
あなたのお話ならば時間が許す限りは聞きますのでどうぞお話し下さい。
リオンの戯れ言に付き合うには真剣な顔で問いかけたウーヴェだが、返ってきた声は相変わらずふざけているようなものだった。だがその内容は声音と相反する真剣なものだった。
「俺、すげー好きな人がいるんです。もう本当に好きすぎてどうしようって思うくらい、好きなんです」
「……そう、ですか」
「そう。で、その人、人当たりは良いけれど絶対に踏み込めない壁を持っていて、それを乗り越えるまでは結構腹が立ったりしたんです」
「……ふぅん?」
「でも、その壁を突然乗り越えられたというか、ある日突然その壁の内側に入れて貰えたんです」
それが分かったのは少し時間が経ってからだったが、そうと気付いた時は本当に嬉しくて、刑事になった時と同じぐらいの感激に身体が震えたと笑い、ウーヴェもそれに付き合うように口角を持ち上げる。
「内側にね、入れてくれてるんです、その人」
それはすごく嬉しい事だと笑い、背もたれに寄り掛かって手を組んだリオンは、少しだけ首を傾げて真正面に座っているウーヴェを真っ直ぐに見つめながら目を細める。
「その人、悪い事ばっかして母親や姉を泣かせて困らせてきた俺にもすげー優しいんです」
俺の姉が立場を悪用して罪を犯したのに、そんな姉と一緒に過ごした過去を蔑むなって俺が前を向いて歩いて行けるように背中を押してくれるし、いつもずっと隣にいて手を握ってくれるんです。
リオンの顔が真剣さよりも感謝の思いを滲ませて目を伏せ、そんな優しい人が大好きだしまた自分も愛されているんですと笑うが、今度は一転して顔を曇らせる。
「去年から一緒に住むようになったんですけどねー、その人、最近何か悩んでるみたいなんです」
「………………」
悩んでいるのなら打ち明けて欲しいのにと溜息を零して頬に拳を宛がって首を傾げたリオンは、その表情や口調を裏切る眼光の強さだけは変えず、顔を強張らせるウーヴェを見つめながらもう一度溜息をこぼす。
「俺が仕事から帰ってくると何か緊張するみたいだし、一緒にご飯食べてる時も上の空だし。ね、センセイ、俺の好きな人、何で悩んでるんでしょうねー」
センセイもその人と良く似たタイプに思えるので相談に乗って下さいと笑い、なぁと促したリオンにウーヴェは顔の筋肉を動かすことも口を開くことも出来ずにただ世界の中心にある蒼い瞳を見つめるが、程なくして咳払いと共に我に返り、その人の悩みについては分からないがどうしても言い出せない事なんじゃないのかと返すと、俺ってそんなに信用無いのかと肩を落としてしまう。
「信用できるできないじゃないと……思うけれど?」
「そーだったらいいのになー」
俺はその人を俺よりも信頼しているから俺の事も同じように信頼して欲しいと、悲しそうに笑みを浮かべるリオンにウーヴェが頭を一つ横に振る。
「きっとその人もきみと同じように信頼しているさ」
「えー、そうですかー?」
ウーヴェの言葉を信じられない様に斜め上を見上げ信頼していたら話してくれるのではないかと呟くが、信頼していても話せない人もいるだろうとウーヴェが答えると蒼い瞳をパチパチとさせてソファの上で座り直す。
「へ? 何で話せないんですか?」
己が信頼している相手ならば何でも話せる筈じゃないのかと驚きの声を挙げるが、ふと何かに気付いた様に顎に手を宛がい、蒼い瞳を左右に泳がせた後に掌に拳を打ち付ける。
「話をすれば殴るとか誰かに脅されてるとか?」
「――!」
リオンの言葉はウーヴェの想像を超えていて、身体が素直に反応して肩が揺れてしまい、じっと見つめて来る蒼い瞳から逃げるように顔を背けてしまう。
「センセイ?」
「……そう、なのかな?」
そんな物騒な話なら信頼しているきみに話をするのではと疑問を呈するウーヴェにリオンが首を傾げ、でも話をしてくれないんだから信頼していないか余程怖い目に遭ったかのどちらかだと思うんだと答えて一度大きく息を吸った後、足を組み替えて膝に手を置く。
「んー、そうかも知れないなぁ」
「……リ、オン……?」
「ん? ああ、いや、センセイの言う通りかなーって」
その人は俺の事をちゃんと信頼してくれているけれどそれ以上に強い何かが話すことを躊躇わせているのだろうと頷き、眼光の強さを不意に和らげて嬉しそうに口角を持ち上げる。
「俺を信頼してくれてますよね。じゃあもうちょっと待ってみようかな」
「………………」
「昔、その人が抱えてる悩みを無理矢理話をさせたことがあって……その時、泣かせちまったんです」
その時の涙が今でも忘れられず、己の言動がどれ程愛する人を苦しめていたのかと後から後からその思いが沸き上がってくるのだと素直に告白したリオンは、顔を背けて口元を手で覆うウーヴェの蒼白な横顔をじっと見つめ、いつか必ず話してくれますよねと問いかける。
「……そ、う、……だ、……な」
「じゃあ待ってるかなー。もう泣かせるのはイヤだし」
その人を泣かせたいのはベッドの中だけだと笑って反応を窺うように口を閉ざしたリオンはウーヴェの手が小刻みに震えていることに気付くと、静かに立ち上がってウーヴェの横に膝をついて震える手を掴んで口元に引き寄せる。
「な、オーヴェ、いつか話してくれるよな」
俺の愛する人は己の約束を必ず守る人だし、その約束は千金の値があると俺は知っていると告げて掌にキスをすると、ウーヴェの口から震える声が流れ出す。
「リオン……っ……!」
「うん」
リオンのキスを受けた心が素直になれと促してくるものの、リオンが見抜いたように事件の後からウーヴェの中に絶えず存在するどろりとした重く暗い何かが黙っていろと強く囁く為にまた言葉を飲み込んでしまう。
「いつか話すって言ってくれてるもんなぁ。だから大人しく待ってますかー」
ふざけた口調で呟いて立ち上がったリオンは、腹が減ったけどここじゃあ何も食べるものがないだろうからインビスにでも行って何か買ってくると残して踵を返す。
出て行くリオンの背中がドアの向こうに消えたと同時にウーヴェの身体から力が抜け、座っていた椅子から滑り落ちそうになるのを何とか堪えた時、重く暗い何かの更に奥のウーヴェでさえも滅多に感じることのない何かが小さな小さな声を挙げる。
つい黙ってしまう己をあのように全面的に信頼し、己の言葉を常に最上に置いて信じて待つと言う恋人に何故話すことが出来ないのか。
今話をしてももう誰も痛みを受ける事はないのだから言ってしまえと裡なる声に急かされ震える膝に力を込めて立ち上がったウーヴェは、だけどもしも話すことで呆れて離れて行くような事になればどうするんだと、万が一にもあり得ないと平常心ならば考えもしないことを呟くと足が止まり、どうしても一歩が踏み出せなくなってしまう。
己の中の葛藤に足が動きを止め、どれぐらいの時間が流れたのかも分からない程悩んでしまうが、こうしている間にもリオンは出て行ってしまうのだという思いが強迫観念のように湧き起こり、動きを止めたウーヴェの足に宿っている冷たい熱を思い出させてくる。
信じて待つと言ってくれているリオンをどれだけ待たせるのか、そしてこのまま話をしない己と待つリオンの間に溝が生まれてしまえばどうなるんだと囁かれ、予測される最悪の結末がごく自然と脳裏に浮かんだ瞬間、ウーヴェの身体に力が戻り重く暗い何かが伸ばし始めた触手を振り切る為にまるでアスリートの様に前傾姿勢になるとドアに向かって手を伸ばす。
「……リオ……ン……っ!」
ウーヴェがドアを開け放って悲鳴じみた声でリオンを呼ぶがその姿は無く、もう出て行ってしまったのだとの呟きが心だけではなく音となって口から流れ出すと、一瞬のうちに湧き起こった力も流れ出していく。
胸に抱えた秘密を話そうと決心をしたのにその相手がいなくなればウーヴェの決意は空回りしてしまい、いつもはリアが仕事をしているデスクに手をついて肩を揺らしてしまう。
待つと言ってくれているがやはり待てなかったのだろうか。いつまで経ってもロクに話も出来ない己に呆れて出て行ってしまったのではないだろうか。
手をつくデスクを見下ろしても答えはなく顔を上げて天井を見上げても当然ながら回答が書いてあるはずもなく、己の経験から導き出すしかなかったウーヴェは冷静ならば考える事すらないだろう思いに囚われてしまい、情けない己への怒りを拳に宿してデスクを一つ殴る。
その音が意外な大きさで室内に響いて驚いてしまうが、どうでも良くなってきたウーヴェがデスクの端に尻を乗せてぼんやりと靴の先を見下ろしていると、足音が聞こえてきて静かに扉が開いて出て行ったはずのリオンが姿を見せる。
「オーヴェ、ゼンメルとホットサンドだったらどっちが良い?」
戻って来たリオンが手にしているのはクリニックから最も近い場所にあるインビスの紙袋で、二人分の食べ物を買ってきたから好きな方を選べと袋を突き出すが、デスクの端に尻を乗せたまま呆然と見つめて来るだけのウーヴェの様子に首を傾げる。
「オーヴェ?」
「……ぃ、らない……っ」
「へ?」
「要らない……っ!」
食べ物など必要無いと吐き捨てるように叫んで顔を背けると、リオンが紙袋をデスクに置いてウーヴェの横に並ぶように立つと、天井を見上げて一つ溜息を吐く。
「あ、そうだ。――センセイ、さっき言った俺の好きな人なんですけどねー」
肩が触れあう距離にいながらも互いの顔を見ることはせずにリオンが先程のお医者さんごっこの続きを始めてしまい、ウーヴェがデスクについた手に力が籠もる。
「ものすげー素直じゃないんです」
「………………」
「おまけにヒドイんですよ。俺が見抜けないと思ってるのか、すげー大切な話をする時に限って嘘を吐くんです」
本当にヒドイでしょう、でもそんな素直じゃなくて本当は一番聞いて欲しい筈の話が出来ずに嘘を吐いてしまうような人であっても、でも、やっぱり大好きなんですと笑い、ねぇ、ヒドイと思いませんかと再度同意を求めてウーヴェの横顔を見たリオンは、一拍の間を置いて顔を振り向けてくるウーヴェと視線を合わせると、今までの陽気さを一瞬で掻き消して低い声でウーヴェを呼ぶ。
「オーヴェも嘘を見抜くのが得意だろうけど、それは俺も同じだ」
何度か言っているが俺の仕事は何だと目を光らせると僅かに怯んだウーヴェに向けて顔を突き出して鼻の頭同士が触れあうほどの距離に近寄ると、刑事の目を甘く見るなと恫喝するように笑う。
その顔はウーヴェが滅多に見ることのない刑事の顔で、まるで自分が被疑者であるかのように感じてしまい、自然と身体が震えるのを抑えられなかったウーヴェだが、意地を張るように片肘をぎゅっと握り片手で眼鏡のフレームを押し上げる。
「誰が……甘く見てるんだ」
「お前」
「……見ていない。それに、嘘も……ついて、いない……」
「うっそだぁー」
ウーヴェの掠れる言葉を軽快な言葉で否定したリオンは、ウーヴェの眼鏡のブリッジを指先で押さえながらにやりと笑みを浮かべてウーヴェが更に驚くようなことを言い放つ。
「お前、嘘ついてる時は眼鏡のフレームかここを触ってるよな。気付いてなかったか?」
「!!」
その一言はウーヴェにとっては予想外のものであり、リオンに指摘されて気付いたのか目を瞠ったまま微かに震える指先で眼鏡のフレームを撫でてしまう。
「そ、んな……ことは……」
「あるんだな、これが」
そんな分かりやすい癖を今まで誰にも見抜かれていなかったのかと呆れるように笑われても信じられなかったが、嘘と言うよりは己の本心を偽る時にはつい眼鏡に触れていたかも知れないと気付くとリオンが自ら言っているように人の所作からその心の在処を見抜く目の良さに驚き、そんな彼を無意識に甘く見ていたことも知らされて愕然としてしまう。
「多分他の人は気付いてねぇんじゃないか?」
でなければすでに誰かが指摘しているだろうと肩を竦めるリオンを呆然と見つめるだけのウーヴェだが、いつ気付いたとだけ問いかけるとかなり以前から気付いていたと返されると自然と肩が揺れて笑いがこみ上げてくる。
「……分かって……いた、のか……?」
「ああ。お前の口から話して欲しかったし、それに……」
いつか話をするから待っていてくれと言っていた時は眼鏡に触ることがなかったから偽りではないと気付いていたと、口調を一変させて囁いたリオンがウーヴェの眼鏡をそっと外して嫌な笑みの形に歪む唇に触れるだけのキスをする。
「いつも言ってるけどさ、素直じゃないお前も好きだけど、素直なお前はもっと好き」
だから今その胸にある悩みも以前から抱えているものも吐き出してしまえと促すと、ウーヴェの白っぽい髪が左右に揺れて項垂れてしまうが、その様子をじっと我慢するように見つめているとウーヴェがリオンのシャツを掴んで勢いよく顔を上げる。
「……っ……! ぁ……!」
「――ごめんな、オーヴェ。俺、お前みたいに上手く聞き出せねぇから辛いよな」
お前のように人の心にするりと入って悩みも苦しみも素直に吐き出させられなくて本当にごめんと謝り、心身の苦痛に顔を歪めるウーヴェの頬にキスをする。
「だからじゃねぇけど、どんなことがあってもお前と一緒にいる」
もしいつかその悩みを口にした時、己の想像以上の出来事であっても絶対に受け止めるからと常に抱いている思いを口にするとウーヴェの頭がゆっくりと下がってリオンの肩に額をぶつけてしまう。
ここまで言ってくれる男に素直になれない己が情けなくて一つ肩を揺らしたウーヴェの背中に手を回し、上昇と急降下を繰り返す心までをも宥めてくれるような温もりが背中を何度も撫でてくれることで頑なだった何かが徐々に溶けていく。
「……話を……聞いて、くれる、か……?」
「うん。お前の話なら何でも聞く。今聞いて欲しい話は何だ?」
この胸にあってもっとも重く苦しいものを与えているのは何だと囁くと、ウーヴェが顔を背けたままリオンから離れてその肩に手をついて身体を支える。
「ここで?」
「…………」
リオンの問いに無言で頭を横に振ったウーヴェは、俯いたままリオンの左手を掴んで胸元に引き寄せながら診察室に戻ると、リオンをデスクに向かわせて己は一人掛けのソファに力なく腰を下ろして肘置きに手をついて頭を支える。
先程と同じように向かい合って腰掛けたがさっきとは全く違う雰囲気になっていて、リオンがやや躊躇いがちに咳払いをするとウーヴェが顔を伏せたまま口を開く。
「……聞いて欲しい話は、いくつも……ある……」
「そっか。んー……じゃあさ、俺に一番聞いて欲しい話と一番聞かれたくない話は何だ?」
ウーヴェの聞こえにくい声を何とか聞き止めて首を傾げたリオンは、ある答えを予想しつつ問いかけるとウーヴェの身体がびくりと揺れ、じっと答えを待っている内にウーヴェの身体の異変に気付いて目を瞠る。
初秋とは言ってもまだまだ日中は暑さを感じるが、それでもしっかりとネクタイを締めるウーヴェが苦しそうにネクタイのノットを掴んでぐいと引っ張りドレスシャツの襟元を広げると、見慣れてしまった痣がじわじわと白い肌に浮かび上がり、あっという間にぐるりと一周したようで苦しそうに息を吐いてウーヴェが胸に手を宛がう。
「……お前の過去に関する事、だよな?」
「……ああ」
ウーヴェの声に冷静さが戻って安心したリオンが痣を見つめながら問いかけ、一番聞いて欲しい話よりも聞かれたくない話から始めようと促して返事を待つと、躊躇うように視線を左右に泳がせたウーヴェは、どれから話して良いのかも分からないと前髪を掻き上げるが、その手を伸ばしてリオンの注意を引くとデスクの引き出しを開けろと命じ、遠くから来たことを思わせる消印が掠れた封筒を取り出させる。
「……これ?」
「……開けて、くれないか……」
どうしても自らの手で開ける事が出来ないと言われてリオンが封を開けると、変哲のない便箋と年を経ていることが一目で分かる写真がデスクに落ちる。
その写真と手紙は先日ウーヴェに届けられたエアメールで、それが届けられた時も自らの手で開けられずにリアに開封して貰ったのだが、目元を掌で覆い隠しながらリオンが手紙を読み進めるのを待っていると、驚いたような声で呼ばれて顔を向ける。
「これ、もしかして……」
「………………ハシム、の、写真……だ」
その名前はウーヴェの人生において忘れ得ぬものだったが、断片的に話を聞かされていたリオンにとってもある種のキーワードのようなものになっていた。
だから聞かされた名前に驚きはあっても納得できたため、写真を手にとって二〇年以上前の過去から笑ってくる少年をじっと見つめ、今まで何度か聞かされてきた悲しい最期を迎えた少年の終わってしまった時間ではなく生きている時の光景を思い描く。
この少年がウーヴェが諦めの感情以外すべてを喪失していた時に光となっていたのだと気付きそれが失われた瞬間を想像すると、喪うことを経験した身体の芯から震えが湧き起こってくるのを何とか堪え、便せんと写真をデスクに置いてぎゅっと手を組む。
我が身を守る術など持たない幼いウーヴェが巻き込まれた事件、その最中に得た一条の光のような存在は事件の終わりを迎える直前に無惨な形で喪われただけではなく、その結末はお前の選択の結果だと見せつけられたときの苦痛は想像すら出来なかったが、その一端だけでも今のリオンならば理解することが出来たため、静かにデスクを立ってウーヴェの前に膝を着いて座ると、自嘲とも何とも言えない笑みを浮かべる恋人を抱き寄せる。
「オーヴェ……良く見せてくれたな」
「……その手紙……、が……この間、トルコから……届いた」
「うん」
この手紙が届いた日は少し前にウーヴェの様子がおかしかった日であると思い出し、兄貴か親父が来たのかと思ったが違ったのかと呟くと腕の中の身体がびくんと竦んで新たな緊張が生まれたことに気付いて眉を寄せる。
「兄が……この間、き、た……」
「兄貴がここに来たのか!?」
その話を今初めて聞かされたと驚くリオンだが心当たりがあり、短い間にウーヴェの過去に直結する出来事が周りで起こりだしたのだと気付くと、これは一体何なんだと苦々しげに呟いてしまう。
ウーヴェの過去は今まで断片的に教えられていただけで自ら調べることも無かったリオンだが、ウーヴェに届いた手紙と絶縁状態の兄が訪れたことから何かしら得体の知れないものが過去から手を伸ばしてきているように感じてしまい、その手に愛するウーヴェが囚われないようにするために腕に力を込めると、小さな子どものような吐息が一つ落ちる。
「兄貴が来た時ってさ、もしかしてこの間、何回電話しても出なかった時か?」
「……ああ」
ウーヴェの力無い返事から己の予想が正しいものであると知り、そうかぁと溜息を吐いてウーヴェの白っぽい髪をゆっくりと何度も撫でる。
「俺の好きな人はホントに頑固で我慢強くて立派だけどさぁ……」
もっとこうして頼って欲しいなぁと少しだけ寂しそうに呟くリオンだが、ウーヴェが身動いだのを強い力で封じてその耳に口を寄せる。
「でも、こうして辛いことも話してくれる。頼ってくれる……」
お前は本当に強い男だとも告げてウーヴェの髪にキスをしたリオンは、兄貴は何の用事があって来たんだと問い掛けると、何度か肩が上下した後に予想外の名前を聞かされてリオンの目が丸くなる。
「ハンナ? ハンナってあの村の?」
「ああ」
彼女がガンに冒されていることが分かり、いつもならば世話になっているのだが今年はそれが出来ない事、代わりにハンナとヘクターをウーヴェの実家に招いたからお前が世話をしなさいと言われたことを訥々と伝えると、リオンがその言葉の意味をしっかりと読み取るように考え込むが、途中でそれを放棄したのか天井を仰いで溜息をつく。
「……悲しいな、オーヴェ」
毎年行っている慰霊の旅が出来ない事も悲しいが、それよりも何よりもその一人きりで過去と向き合う旅を密かに支えてくれていた存在がやがて居なくなる未来を突き付けられてしまったことが悲しいと呟いてウーヴェの髪に頬を当てて寂しいなとも呟く。
「ハンナ、いなくなっちゃうのか……」
「……っ……!」
その短い一言にウーヴェが口にすることが出来なかった思いが籠もっているようで、思わず身体を竦めたウーヴェは、季節が半年ほど先に進んだ様な寒さを感じてリオンの身体に更に身を寄せる。
「……それ、で……兄が……家に、帰って来い、と……」
「あー、ハンナとヘクターに付き合えって言ってきたのかぁ」
それは悩むなぁと苦笑したリオンはウーヴェの頬にキスをして一度離れると、今度はその手をしっかりと握りながら胡座を掻いて床に直接座って俯く顔を見上げる。
「オーヴェはどうしたいんだ?」
「……二人の世話は……したい……で、も……」
「兄貴と親父がいる家には帰りたくはない?」
「………………」
リオンの問いに返事が出来なかったウーヴェだが無言であることが十分返事になっている為にリオンは気にせずに一つ頷き、確かに場所は嫌だが心から世話をしたい人がいるのだから大丈夫だろうと提案すると、ウーヴェの顔が僅かに明るさを増す。
「オーヴェはさ、一つ嫌なことがあってもやりたいことがあれば絶対にやって来たよな?」
嫌なことがあってもそれ以上に己がしたいとの思いが強ければそれを糧に乗り越えてきたはずだと絶対の信頼を込めた目でウーヴェを見上げたリオンは、血色も悪く表情もなかった顔に徐々に明るさが戻り始めたことを察すると、俺のオーヴェはと続けて手の甲に恭しいキスをする。
「俺のオーヴェは……辛い過去を乗り越えてきた強い人だ。これぐらいのことで動けないなんてあり得ない」
何度も何度も心身の苦痛を乗り越え、今まさに苦しんでいる人の手助けが出来る強くて優しい人だから、過去を否が応でも思い出させる二人が居る場所にいても、世話をしてくれた人への恩返しが絶対に出来ると、ウーヴェ自身も気付かない強さを全面的に認め信じるリオンが手の甲を撫でながら笑みを浮かべると、ウーヴェのターコイズ色の瞳が限界まで見開かれ、ソファから滑り落ちるようにリオンの身体に腕が回される。
「……オーヴェ、お前なら大丈夫だ。あの家でもちゃんと今まで通りにハンナとヘクターと一緒にいて楽しく過ごせる」
滑り落ちてくるウーヴェを何とか受け止めたリオンだが、そのままゆっくりと背後に倒れ込んで乗り上げてくる痩身を抱き締め、お前ならば大丈夫だと何よりもウーヴェに力を与える言葉を何度と無く囁きかける。
あの日、仲間だと信じて疑わなかった友が姉を殺した事実を知り、何もかも投げ捨てた己を優しく包み強い力で支えてくれたウーヴェならば絶対に大丈夫だし、そんな力はないがそれでも俺が傍にいるとも伝えると、リオンに乗り上げたウーヴェの身体から緊張が完全に抜け去っていく。
「だからオーヴェ、今お前が一番やりたいことをしようぜ」
ハンナとヘクターにずっと世話になったのだからあの二人が満足するまで世話をしようと笑い、その笑いに隠しきれない寂寥感を滲ませてリオンがウーヴェの髪を撫でる。
「……ハンナとの思い出をいっぱい作ってこいよ、オーヴェ」
彼女に遺された時間が後少しだと教えて貰えたのだ、悔いが残らないようにしようと笑ったリオンにウーヴェが無言で何度も頷き、リオンが明るく発した問いに掠れた声ながらもしっかりと己の思いを込めて返事をする。
「な、オーヴェ、今一番やりたいことは何だ?」
「……二人、と……一緒にいる、こ、と……」
「ん、じゃあそうしようぜ。今回は……一番嫌なこととやりたいことが同じ場所にあるけどさ、オーヴェなら出来る。大丈夫だ」
安心させるように背中をぽんと叩き、不安ならば日中だけ実家に戻り夜には家に帰ってくればいいと笑うと、少しの沈黙の後にその言葉は否定されてしまう。
「……実家に、いる……」
ヴィーズンが終わるまではあの家で二人の世話をすると伝えながら手を付いて上体を起こしたウーヴェは、信頼の目で見上げてくるリオンの額に額を重ねて小さく礼を言い、もう一度言ってくれと小さな声で力を分け与えてくれと強請るとリオンが頭を擡げてウーヴェの鼻先にキスをする。
「お前なら出来る。やり通せる。大丈夫だ」
もしも万が一倒れそうになっても俺がいると伝えて全開の笑みを浮かべたリオンにウーヴェが軽く息を飲むが、分け与えられた力が全身に巡ったことを実感すると安堵の溜息をついて目を閉じる。
「……ヴィーズンが終わるまで……今年は実家に、いる……」
「分かった。あの村にいる間は行けなかったけどさ、実家なら毎日通えるな」
それに、非番の時であれば実家に遊びに行ってハンナとヘクターとも会えるとリオンが笑いウーヴェも控え目な笑みで同意を示すと、どちらからともなく起き上がって互いの肩に顎と頬を乗せて溜息をつく。
「大丈夫だよな、オーヴェ」
己の言葉で励まし力を分け与えたつもりだが最後の最後は己の力でやり遂げなければならないことを良く知るリオンがそっと問い掛けると、リオンの肩に頬を預けていたウーヴェが弱いながらもしっかりと頷き、お前がいると答える代わりにシャツの背中をぎゅっと握る。
「……兄貴が来た理由についてはもう大丈夫だよな」
後はあの手紙と写真だとリオンが呟くとウーヴェの身体が三度緊張に竦んでしまうものの、先程とは違い最早リオンにすべてを預ける心積もりが出来ているウーヴェが何度か深呼吸をすることで平静さを取り戻す。
「……リーオ、あの写真……だ、けど……持っていてくれない、か……?」
「ん? 俺が持ってても良いのか?」
「あ、あ……イェニーの木箱の鍵と同じ、だ……」
暖炉の上のあの木箱の鍵があれば開けてしまいたくなる、だから隠していて欲しいといつか言っていたが俺もその写真を持っていると破りたくなるだけではなく過去に戻ってしまう可能性が高いと告げて頼むから写真を持っていて欲しいと震える声で頼んだウーヴェは、しばしの逡巡の後に分かったと頷かれて今度こそ安堵に全身から力が抜けそうになる。
「手紙と写真、一緒に預かっておくな、オーヴェ」
「……うん、頼む」
「分かった。でもさ、あの手紙読んだけど、ハシムに弟がいたんだな……」
事件から二〇年以上経過しているが手紙の差出人はまだ若い印象を受けたことを伝えると、ウーヴェがオウム返しに弟と呟いたことからあの手紙をウーヴェが読んでいないことを知る。
「あ、うん、ハシムの弟みたいだな。トルコ語だから分かんねぇけど、メジフって言うのかな」
手紙に書かれていたのは突然の連絡を詫びる言葉と近々こちらに来るのでその時に会いたいという、ドイツ語を母国語としない出身の割には文法的にも誤りのない丁寧なドイツ語だったため、もしかするとドイツ語を話す人が身近にいるのかも知れないと想像し、それを伝えるとウーヴェも軽く驚いたように顔を上げる。
「……会いたい……?」
「うん。オーヴェに会って話がしたいって書いてた」
何の話なのかまでは書いていないがとにかく会いたいようだと返し、無理やり会う必要はないことも伝えてウーヴェのこめかみにキスをしたリオンは、写真を見て過去を思い出して辛くなるのだから会わなくても良いと思うとも告げつつウーヴェの髪を撫でると躊躇う声が腕の中から聞こえてくる。
「でも……会いたいと言ってるんだ、リオン……」
「んー、正直俺は会わせたくねぇな」
「…………」
写真を見ただけであんなに苦しい思いをするのにあの事件の関係者と会うことは心配でならないことを素直に告白し、出来れば弁護士に依頼した方が良いと解決策を提案するが、責任感の強い生真面目な恋人ならば己が直接会わなければならないと思うこと、また間に人を挟んで出来る話ではないことも気付いているだろうと内心溜息を吐くがその想像は間違っておらず、俺に来たのだから俺が会うと答えられて諦め混じりの吐息を零す。
だが、次いで聞こえてきた言葉はさすがに想像できないものだったため、ようやく平静さを取り戻して穏やかな表情になったウーヴェの顔をまじまじと見つめてしまう。
「……その時は……一緒にいてくれないか……?」
己の過去に向き合うとき、出来れば今のように傍にいて欲しい。
やや羞恥や躊躇いを滲ませながらも信頼している顔でリオンを見つめ、どうか一緒にいてくれと伝えたウーヴェを頷き一つで抱き締め、うん、一緒にいると答えて背中を撫でる。
「俺がいても良いのか、オーヴェ?」
お前の過去を深く知っても良いのかと、教えてくれと先程まで言っていたのにいざ教えて貰えるとなると同時に躊躇いを覚えたリオンの左手をそっと胸に宛ったウーヴェが伏し目がちに頷き、お前に、お前だけにすべてを知って欲しいと告げて顔を上げたときにはいつもと変わらない、だけど何かが確実に違う笑みを浮かべていて、リオンが軽く息を飲んでしまう。
「すべて……話す、か、ら……」
「うん……うん、オーヴェ」
今まで誰にも告げたことのないことも含め己のすべてを知ってくれと小さく笑ったウーヴェにリオンが頷いて名を呼ぶしか出来なかったが、それだけでも十分だったようで、ウーヴェの顔にようやく笑みが浮かんでリオンもつられて笑みを浮かべてしまう。
「ベルトランも知らない話も……ある」
「そっか。……長い話になるよな?」
「ああ、そうだな」
ウーヴェの言葉にリオンが何かを思い出した顔で斜め上を見るが、長い話を聞くのだから腹ごしらえをしたいと笑うとウーヴェの目が丸くなるものの、小さく吹き出してその言葉にリオンらしいと頷いてくれる。
「へへ」
「……ゼンメルとホットサンドを買ってきたんだったな。一緒に食べようか、リーオ」
「食おうぜ、オーヴェ」
思い出した空腹感に切なげに眉を下げて立ち上がったリオンは、同じように立ち上がるウーヴェの腰に腕を回し、小首を傾げる恋人の頬にキスをする。
「昼飯食ったら一度署に戻るから、話は帰ってからでも良いか?」
「構わない。……近いうちに実家に行くからその準備をしておく」
「そっか」
実家に戻っている間は毎日電話をすること、非番の時は実家に遊びに行くことを約束し、二人で診察室を出て待合室のデスクに置いたままのインビスの袋からソーセージ-既にかなり冷たくなっている-を取りだしたウーヴェは、温め直して食べようと提案するものの、その温めている時間を待てないリオンが態度で不満を示したため、ホットサンドと温くなったコーラでランチを済ませるのだった。