「駄目だ!!身体に力を入れ過ぎだ!そんな状態で上手く箒を乗りこなせるはずがないだろう。落ち着いて息を吐いて…もう一度飛んでみろ!」
「はっ…はひ!ごめんなさいいぃ!!」
炎天、体育の授業受講の最中。ジリジリと全身を焼き付けるかのように強く照らされた太陽の日差しの下、赤い体育着に身を包んだ筋肉質な教師と細身で弱々しい印象の見られるクラスメイトが執拗く響く蝉の声やらをかき消してしまう程の大声で今となっては既に聞き慣れた会話をしている中、アズールはひとり、深いため息を吐き出していた。
…あつい。暑苦しい。そう、会話も、気温も。何もかもが暑苦しくて堪らない。
(……最悪だ、。)
嫌な汗が額や背を伝う。幾ら変身薬を服用しているとは言っても、元々の姿が蛸の人魚であると言う確かな事実が揺ぐ訳もない。何時ぞやに砂漠の果てへ飛ばされた際でも、暫くは冷えを感じる事無く過ごせた程に寒さへの耐性は有るが然し対照的に暑さには滅法弱く、全身に纏う熱気を耐え凌ぐ事は難しいのだ。
ぽた、ぽたと、ウェーブの掛かった銀鼠髪の先から透明の汗が数滴、地面へと滴り落ちて行くのが見えた。同時に、自然と息が荒くなる。嫌に視界が歪む。目眩がする。頭が痛い。
……気分が、悪い。
きっと今の自身の姿を鏡で映してしまえば、普段から日焼けの後が無い真っ白な肌により一層、すっかり血の気が失せた様な不健康なまでの青白色が差されて居る事だろう。…そう心の隅で考えを湧かせたせいか、心做しか気持ちの悪さが増してしまった様な気さえする。嗚呼、駄目だ。いけない、まずい。最早、立って居る事でさえも辛く感じる様になってしまったではないか。
陸へと上がる前、様々な病気や感染症やらの綴られている本へと目を通して居た為だろうか、その原因が何なのかと言う事実には直ぐに理解が及んだ。きっと自身の健康を蝕むこの症状の数々は、所謂”熱中症”と言うそれから来た物だろう。
熱中症。体温が上がった事により、体内の水分や塩分のバランスが崩れたり体温の調節機能が上手く働かくなったりして、体温の上昇やめまい、けいれん、頭痛などのさまざまな症状を起こす病気の事。海では有り得ない、経験するはずも無いそれに、本を読んだ当初は全くもってイメージが湧かなかった。然し、今になって漸く、この病の辛さを痛感した。
(…あらかじめしっかり対策しておくべきだったか。僕としたことが、しくじったな。)
然し、その苦しさを経験しても尚、授業を抜け出し保健室へと向かう気にはなれなかった。何故か?そんなのは決まっている。勿論、ただ”余計な事で内申点を減らしたく無い”と言うだけの単純な理由から取っている行動だ。
「……ト。…グロット。…アーシェングロット!!」
「ッ!?、」
突然、自身の名を轟かせる怒号が鋭く耳孔を劈いた。既にボヤの掛かった此の能に、ガンガンと響き渡る教師の声。通常であればすぐにでも返事をしていただろうが、今日は訳が違った。
「どうした、ちゃんと聞いているのか?授業は集中して受けるんだ!」
「、…ええ、すみません。以後気をつけます、」
焦燥に駆られ我に返って何とか取り繕った笑顔を向けるも、目前に佇む体格に恵まれた筋肉質な男は未だ怪訝な表情を保ったまま呆れたように眉を寄せている。
「男らしくしっかりしろよ!全く。ほら、次はお前の番だ。補習での努力の成果を見せてみろ!」
「…もちろんですとも、この僕にお任せを。」
くそ。自分としたことが、余計なところで説教を食らってしまった。そんな考えを脳内へ浮かばせながらも彼の言葉に促されるまま箒を手に取る。
きっと、上手くやれる。そう心の中で念じるように何度も自分に言い聞かせると、緊張を紛らわせるよう、小さく息を吐く。
…くら、くらり。束無い足元のまま、決められた立ち位置へと歩みを進ませる。気分が悪かろうがなんだろうが、短時間の我慢であれば問題は無いだろう。処理能力のすっかり劣った今の頭で浮かんだ其の安易な考えを言じきったまま、手にしていた箒を構え跨った。
焦って序盤にスピードを出そうとしない事。ゆっくり、自分に合ったペースで上昇させる事。授業や補習、自習で学んだ決まりごとを、何度も心内で唱えながらも握った箒の柄へと力を込める。すると忽ち、自身の身体がふわりとした感覚に包まれた。
「……!やった、!」
飛んだ。少しかもしれないが、間違いなく飛べている。
他でもない確かなその事実が今の自分にはなぜだか堪らなく嬉しく感じて、思わず感嘆の声を漏らした。
(ほら、僕のイメージした通り…ちゃんと、順調だ。)
心做しか心地よく感じる爽やかな風が己の頬をするりと撫ぜる。これで今日の目標は達成、文句を言うものは誰もいないはず。そんな心情に心を踊らせ安堵した様に双眸を細めた……その、瞬間。
安定した飛行を保っていた箒が、まるで今までの落ち着きようが嘘だとでも言う様に突如不安定な飛行状態に陥り始めてしまった。順調だと、気を抜いてしまったことがいけなかったのかも知れない。
────そこからのペースは、最悪な物だった。
「うわぁ、っ!?」
ぐらり。跨っている箒が異様な程の傾きを見せたかと思えば、ビュン、と風を切る音を靡かせ、雲ひとつない青い空を目指すかの程の上昇を見せ始める。思う様に回らない思考を必死に回転させる、これはまずい。
まずい、まずいまずいまずい!
「ッ、アーシェングロット!!コントロールがきかない様ならそのままじゃ危険だ!!落ち着いて深呼吸して、早く戻って来い!!焦るな!!!」
そんな事は言われなくとも分かっている。自分だって、好き勝手に暴走する箒と冷静さを失った脳を鎮静させられるのならとっくにそうしているに決まっているだろうに、一体どうしてそれが分からないのか。
ざわ、ざわ。
しだいに、辺りが騒がしくなっていくのがよく分かる。叫ぶ先生の言葉は何ひとつとして理解出来ないのに、様子を伺いに来た野次馬共の鋭い言葉だけは嫌でも耳に入って来るのは何故だろうか。
「うわ…やばすぎだろアイツ。(笑)なにやってんの?」
「あっはは、普段威張り散らかしてんのにダッセエ奴。オーイ、お前に言ってんだよインチキタコ野郎。恥ずかしくないのか?」
「おい誰か、ここはエレメンタリースクールのお遊戯会じゃないんだぞって慈悲深い寮長サマ(笑)に教えてやれよ!」
鳴呼くそ、うるさい、うるさい。ふざけるな!何も知らない癖をして、偉そうにほざくんじゃない!そう叫びたくても、今の自分がそんな余裕を持ち合わせているはずも無く。なんとも言えない悔しさやの不甲斐なさに奥歯をギリ、と擦り合わせたものの、今こうして一人で怒っていたとて決して状況は変わらない。ひとまずは安全に地上へ向かう方法を考えよう。そう考え、地面との距離を確かめるためにと既に遠く離れてしまった地上へと視線を落とした時。
また、ぐらり。目眩のような感覚に陥った。次いで、何か大きな物に吸い込まれる様な感覚。余りに唐突なそれに、つい、理解が遅れてしまった。
(…身体が、”落ちて”、いる?)
先程まで嫌という程聞こえていた野次馬の声も、セミの音も、教師の怒鳴り声も。何もかもが、激しく耳に入る風の音によりかき消されてゆく。今自分は、激しい速度で、落下しているんだ。
このまま地面に叩き付けられでもすれば、きっともう自分の命は無いだろう。そう頭では分かっているのに、何故か掌がマジカルペンへと伸びることは無かった。その理由は、自分でも分からない。きっと、痛んで、ぼやけて、使い物にならない今の頭で適切な判断が出来なかった所為だろう。
怖い。
事を理解した瞬間、あまりの恐怖に目を瞑ってしまった。今の自分は限りなく無力で、このまま訪れる結果を待つことしか出来ないなんて。いくらなんでもあんまりだ。
数秒後訪れるであろう”瞬間”に、自分の身体は一体、どうなって仕舞うのだろうか。
終わりだ、なんて。弱気な言葉を小さく呟いた。
いざ人生が幕を下ろす時は意外とあっけない部分もあるんだな、なんて。先程までなかった客観的な思考と冷静さを今になって取り戻せば、とっくに手遅れになった状況から逃避するように瞑ったままの瞼へより強く力を込める。
…しかし。一体何故だかおかしな事に、いつまで経っても、その「瞬間」が自身の元へ訪れることはなかった。
何事だ。一体今、自身の身に何が起きたんだ?
そんな考えを抱きつつ、恐る恐る瞼を開く。すると、視界に移るったのはスレスレの地面と宙に浮いたまままった自身の箒。
「…はあ、?」
予想だにしなかったあまりにも衝撃的すぎる光景に、驚きの反動からつい気の抜けたような声色をもらしてしまう。と、次の瞬間、マジカルペンを片手に此方へ駆けてくる一人の男子生徒の姿が目に入った。
「……何をやってるんだ、君は。」
「えっ、」
さきほどの野次馬共のひとりか?なんて、疑いの視線を送るも、軈て捉えられる事になった色黒の肌、宝石のように輝く双瞳を目にすれば、言葉に詰まるような感覚を覚え不思議に何も言葉を紡げなくなってしまう。…見覚えのある顔立ちだ
「!…あ、なたは、確か…同じクラスの…。」
「ん?ああそうだよ。…と言うかそんな事を言っている場合じゃないだろ。咄嗟の事だったという事もあって雑な方法にはなってしまったが、とりあえずは無事そうでなによりだ。怪我はないな?」
思い出したように声を上げると、呆れた様子を見せながらも安堵の息をつく彼の口から並べられた言葉を聞いて、始めて目前に佇む彼自身がわざわざ己の為に魔法を発動しこちらへ赴き助けてくれたのだと言う事実に気がついた。
…で、あるにも関わらず。今の自身の心に、感謝の気持ちなんてものは微塵たりとて湧いていなかった。
何故か?そんなもの、こうして自分を助けたのをいい事に、彼はきっと莫大な対価を要求してくるに違いないと心の隅で確言していたからだ。
「ええ、まあ…おかげさまで怪我はありませんよ、ありがとうございました。それで、僕を助けた対価に何をお望みですか?」
「は?望み?」
どうせ彼だって、この問いかけに食いついてくるに違いない。だって、自分の望みを叶えるためでなければ危険を顧みず誰かを助ける必要なんてありやしないのだから。
…さて、そんな思いを胸にしながらどこか訝しげな様子で問いを送ったところ。
名も知らぬ彼が艶やかな長髪を揺らしくつくつと笑い始めた為、思わず鳩が豆鉄砲を食らった様な表情を浮かべてしまう。一体、自分の何がそんなにも可笑しいのだろうか。
「ふ、っあはははは、!変なやつだな君は。通りすがりに落ちそうになってるやつがいたら誰でも助けるだろ。オクタヴィネルの寮長が対価だうんたらにヤケに厳しいって噂は本当だった訳か、なるほどな。さっき死にかけてたやっとは思えない素振りだ。」
「……僕の事を、随分とよくご存知なんですねえ?」
まさか、対価を要求するつもりもなく、ただ目的もなく、助けただけなんて。俄には信じ難い。初対面のこの彼はどこまでお人好しなのだろうか。彼自身に何の得もないであろう行動を起こしておいて、対価は必要としないだなんて。全くもって、彼の考えが理解が出来ない。
「他寮とはいえ寮長なんだ、多少なりとも知ってなきゃおかしいだろ。努力家なのは結構なことだが、体調の優れない時にまで無理をするんじゃない。自分で歩けるならさっさと医務室に向かえ、先生には俺が伝えておいてやる。」
そう言うと、固まっていた自身の身体や箒の魔法を解き優しく地面へ立たせてくれる彼。まさか、体調不良を見破られるとは夢にも思って居なかった為、思わず驚いたように目を見開いてしまった。
“それじゃあ、俺はこれで。”そんな呆気ない一言と共に、ヒラヒラと手を振り本当に立ち去ってしまう彼。自分の命を救って貰っておいてまだお礼も言えていなければ、望まれていないとはいえ、対価だって支払えていないままだ。
「…なんだったんだ、一体。……っ、ふふ、」
既にどこかへ消えてしまった不意義な雰囲気の彼との会話を思い返すと、忽ち堪えていた愉快さが込み上げ思わず吹き出してしまう。
医務室で治療を終えたら彼の元へ急ぐこととしよう。極力、借りを作った状態でいる事は避けたい。変わらずな思考を回しながらも、未だ少しふらつく足取りでひとり、医務室へと歩みを進ませた。
(追記裏話。実はジャミルくんがアズールくんに一目惚れ(※友人としてと言う解釈でも◎)してくれてたら嬉しいなって思いながら書きました。立ち去ったと見せ掛けて、さっきアズールくんに悪口言ってた野次馬共に注意しに行っててくれたら嬉しいなとも思いましたが絶対そんな事しないのでセルフ解釈違いです。)
-おしまい。
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