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このところの降りそうで降らない曇り空はついに意を決したようで、この2日ほどは朝から強い雨を降らせていた。
その雨の下を、先日よりも重苦しい表情のリオンが肩を落とし気味に歩いていた。
先日、ゾフィーと約束をしたため必ず彼女はここに来て真実を話してくれると、ブライデマンを侮辱する言動を取った自分を信じてくれるヒンケルに告げ、事件を追いながらゾフィーが来るのを待っていたが、その日昼を過ぎても夕方になっても彼女からの連絡は無く、次第に周囲の視線に疑いと厳しさが混ざりだしていた。
だが、そんな雰囲気でもヒンケルとコニーはリオンを信じ、遅い時間になって彼女が来るかも知れないからと、リオンと一緒に刑事部屋で待ってくれていたのだが、さすがに夜明けを迎えた時には二人の表情に苦いものが浮かび上がり、ブライデマンが出勤してきた時にはリオンに聞こえないように少し離れた場所で三人が何やら話し合うようになっていた。
もう一日待ってくれとヒンケルに滅多に見せない執拗さで懇願したリオンだったが、さすがにもう待てないこと、フランクフルトの事件に関連して現地の警官がこちらに派遣されてくること、その対応に自分とブライデマンが当たらなければならない為に今日はコニーと一緒に動けと命じられてしまい、言いたいことをグッと堪えて無言で頷いてヒンケルの部屋を出たのだが、今まで同僚達から感じることの無かった疑いの視線を受けていることに気付くとただただ自嘲するしか出来なかった。
ゾフィーがここに来る事を拒んだ時点で彼女が重要参考人に格上げされてしまい、そんな彼女が来なかった為に事件と関係していることは間違いがないと確信を抱かせてしまったのだ。
彼女が己との約束を破るはずがないと信じているリオンだったが、こうなってしまえば図らずも先日ウーヴェに告げた様にゾフィーを疑うしか無かった。
リオンにとっては初めて経験する同僚達からの視線に居たたまれない思いが募ってくるが、それでも折を見てはゾフィーの携帯に電話をかけ、ホームでも同じように連絡を取ってくれているだろうマザー・カタリーナやブラザー・アーベルと頻繁に連絡を取るようにしていた。
だが、リオンが期待するように彼女からの電話はなく、またマザー・カタリーナらからもゾフィーから連絡があったという一報が届くことはなかった。
時が経つにつれ重苦しくなってくる刑事部屋の空気を敏感に察したリオンが溜息を吐いて席を立つと、少し離れた場所でヴェルナーと何やら顔を突き合わせて話していたジルベルトが顔を上げ、さり気ない態度でリオンの肩に手を置くと、振り向いた青い目に片目を閉じて美味いコーヒーでも飲むかと誘いをかける。
「んー…ここのコーヒーはコールタールみてぇじゃん、これが美味いって感じるのはコニーとボスだけだろ?」
暗に二人の味覚がおかしいと貶したリオンに同意するように笑ったジルベルトは、だから少し席を外してコーヒーを飲もうともう一度誘い、リオンが僅かに天井を仰いだ後肩を竦めて歩き出す。
「ああ、ヴェルナー、送検の手続き頼んで良いか?」
「分かった。代わりに報告書頼むぞ」
「気が向けばな」
リオンやコニーらが追いかけている殺人事件とは別の事件を追っていたヴェルナーとジルベルトだったが、先日ようやく容疑者を確保することが出来た為、二人で大詰めの作業にかかっていたのだ。
それが無事に終わりを迎えたジルベルトに少し余裕が出来たのか、それともいつもの言葉のキャッチボールを繰り広げるリオンの立場が微妙なものになってきたのを敏感に察したのか、気分転換を図らせるために部屋から連れ出す。
二人が出て行く背中にいつもならば同僚達が様々な言葉を投げ掛けるのだが、今の刑事部屋の様子はそんな気安さが喪われ、リオンに対する-と言うよりは仲間の身内を疑わなければならない事態に戸惑いを隠せない空気が漂っていた。
その戸惑いも己に向けられる一対の疑惑の目もしっかりと感じ取っているリオンは、ジルベルトの誘いに乗って休憩室に入り、ジルベルトが珍しくコーヒーを買って運んできてくれたことに目を丸くして盛大に驚いてみせる。
「雨でも降るんじゃねぇの?…ってもう降ってるか」
「土砂降りだぜ」
その声に二人同時にブラインドが半ば閉まっている窓を見つめ、叩き付けるような雨が窓にカーテンのようになっているのを確かめると、重苦しい溜息を吐いて紙コップのコーヒーをリオンが見つめる。
「……転職、考えた方が良いのかなぁ」
「は?お前が転職?何を言ってるんだ?」
リオンがぽつりと漏らした弱音にジルベルトが素早く噛みつき、お前自身が何か不祥事でも起こしたのならばともかく、お前と一緒に育ったゾフィーが疑われているだけで転職しなければならないなどあり得ないと笑うと、リオンが似つかわしくない寂しそうな笑みを浮かべる。
「ダンケ、ジル」
「事実を言ったまでだ。……俺はこの事件から離れているから良く分かってないが…ブライデマンだったか、あいつはどう思ってるんだ?」
「ゾフィーが犯人、もしくは犯人を知っていると思ってるだろうな」
ダーシャ・ドレチェクという少女が縁もゆかりもないこの街で死体で発見されたが、彼女に直接手を下したのがゾフィーではないとしてもその実行犯を知っている筈だ、しかもゾフィーはフランクフルトの事件で重要参考人として調べられている男とも認識があると告げると、ジルベルトが深い溜息を零す。
「マズイな、そりゃあ」
「だろ?ボスやコニーは信じてくれたとしても……ブライデマンには何の関係もねぇことだ」
今までの付き合いやリオンの働きぶりなどを知るヒンケルやコニーらは刑事という立場上仲間の家族ですら疑ってかかってしまうが、心情的にはリオンの近くにいて密かに支えてくれている。だが今回の二つの州を跨いだ事件を解決するためだけにやって来ているBKAの刑事にしてみれば、疑わしい人物-例えそれが仲間の身内-がいれば真っ先にその人物をマークするだろうし、確信を持った時点で任意聴取で引っ張ってくるだろう。
それを先日リオンは大人としてあるまじき言動で阻止してしまい、ヒンケルとコニーが尻拭いをしてくれた為に何のお咎めもないが、本来ならば署長からの叱責があってもおかしくはなかった。
その叱責を食い止めてくれている二人には本当に感謝しているが、その二人の心に背くような行動を取るゾフィーに腹が立ち、一気にコーヒーを飲むと紙コップを握りしめる。
「ったく…何を考えてるんだ、あいつは」
「お前に言いたくないことがあるんじゃねぇのか?」
ジルベルトの言葉に鋭い視線を向けたリオンはだが、ゾフィーがそう言って泣いたと自嘲し、泣かせてしまっても真実を知るためなのだから仕方がないと肩を竦めると、ジルベルトが軽く目を瞠る。
「泣いた?」
「あー、うん。久しぶりに泣かせちまった」
この会話を数日前にウーヴェと交わした結果口論してしまったことを思い出すと、呑み込んだ筈のコーヒーが逆流してきたような苦さが口の中に広がって顔を顰めてしまう。
あの後口論した気まずさよりもウーヴェを傷付けてしまった後ろめたさから連絡を取れなくなっていたリオンは、いつもならばウーヴェからアクションがある筈なのにそれがないことから、余程己に対して腹を立ててしまったのだろうと思い、更に電話をすることもメールで一言悪かったと伝えることも出来ないでいた。
ゾフィーとのことやウーヴェとのことがリオンの中で重くのし掛かり、いつになく落ち込んだ顔で実際に肩を落として広げた両足の間に頭を落としたリオンは、ジルベルトが肩を叩いて慰めてくれたことに再び軽く驚きながらも、お前が捜査に加わってくれればすぐに事件が解決しそうなのになぁと笑って整った顔に驚きの表情を浮かべさせるが、その驚きが自信に満ちた笑みに変化をするのを目の当たりにするとリオン自身にもじわじわと力が湧き起こってくる。
「…グダグダ言っても仕方ねぇか」
「そうだ。やっと気付いたか、バカ」
「あー、あー、どうせ俺はバカですよーだ」
でもバカはバカなりに前に向かって進むしかない、例えその先に待ち受けるのが悲劇であったとしても足を止めることは出来ないのだ。
辛く苦しい現実が待ち受けているとしても、こうして支えてくれる仲間もいるし、今は声を聞けないがそれでも常に己を信じて鼓舞してくれる掛け替えのない人がいると思い出したリオンは、両手で己の頬を一つ叩くと同時に立ち上がりその場でジャンプしながら屈伸をする。
「元気が出たか?」
「おぅ!ダンケ、ジル!愛してねぇけど好きだぜ!」
「何だそりゃ。それにお前に愛されても・・・気持ち悪いだけだ」
いつかも話したが俺はきれいなネエチャンの方が好きなんだとシニカルな笑みを浮かべたジルベルトだったが、同僚としてのお前は尊敬していると笑みを浮かべ、二人同時に互いの腰を拳で1つたたき合う。
「さー、クランプスが真っ赤になる前に戻るか」
「そーだな。真っ赤だったらまだ何とかなるけど、真っ青になってたらどーする、ジル?」
「そん時はお前に任せるかな」
「何だよ、それ」
お前が連れ出したのだから最後までお前が責任を持ってヒンケルとその横で恐ろしい顔で睨んでくるブライデマンの相手をしろとリオンが笑い、冗談を言うな誰のために連れだしたと思っているんだとジルベルトが返しながら休憩室を後にするが、いつもダニエラにゴミの後片付け-この場合は二人が使った紙コップ-をしなさいと言われているのを不意に思い出したリオンが休憩室に駆け戻り、二人分の紙コップをゴミ箱に投げ捨てるのだった。
リオンとジルベルトが刑事部屋に戻った時、部屋の空気は二人が出て行ったときよりも緊張していて、誰かが口を開けばその衝撃が部屋中に広まってしまう、そんな不思議な沈黙が支配していた。
二人がいつものように言葉のキャッチボールをしながら戻ってきたのだが部屋の様子が分かるようになるとどちらも無意識に口を閉ざし、部屋に入る時には出て行ったとき以上に神妙な面持ちになっていた。
それぞれのデスク-と言っても二人のデスクは背中合わせにある-に腰を下ろし、リオンが考えたくなくても考えてしまうゾフィーのことを、ジルベルトはヴェルナーに頼まれた報告書に取りかかろうとしたその時、ヒンケルの部屋からコニーがいつになく険しい表情でリオンを呼ぶ。
「リオン、ちょっと来い」
その声がまるで拡声器を使って話している時のように部屋中に響き渡り、その静まりかえった空気に首を傾げていたリオンが立ち上がると何故かダニエラがコニー以上に蒼白な顔で見つめてくる。
自分は仲間達からそんな真っ青な顔で見られなければならない事をしたのだろうかと自問するが、ゾフィーが殺人事件やフランクフルトで人身売買組織に関係していることが分かったんだろうと自答されて拳を握る。
もしもゾフィーが本当に人身売買組織に関係していたり殺人事件にも関係しているのであれば、先程ジルベルトに告げたように刑事という仕事を辞めなければならないだろう。
家族同然に育ってきた女性が犯罪に荷担している、そんな刑事がいて良いはずが無かった。
この事件が終われば刑事を辞めて仕事を探さなければならないなぁ、しばらくの間清掃業のアルバイトでもするかと胸の中で自嘲気味に呟いた時、刑事を辞めることよりもこの愛すべき仲間達と一緒に仕事が出来なくなるかも知れない、信じて貰えなくなった事実の方が重くのし掛かり、立ち上がったリオンの足を止めてしまう。
「早く来い、リオン」
コニーの急かす声に頷くものの一歩がどうしても出せず、どうしたんだと己の足を見下ろした時、頭の後から不思議と心の中に入り込む声が聞こえてくる。
たとえ誰もお前を信じなくなったとしても俺だけはお前を信じている。だから顔を上げろ、前を向け。
その声が聞こえた瞬間、石像になったように動かなかった身体に力が行き渡り、ごく自然に一歩が踏み出せる。
緊張気味にヒンケルの部屋に向かったリオンは、ジルベルトが心配そうに見つめていることに気付くと、腿の横で小さくサムズアップを決めてコニーに肩を竦める。
「どーしたんだ?」
たとえこの先どのような事実を突き付けられたとしても情けない姿は見せないように、いつでも胸を張って顔を上げていられるように力を分けてくれと胸の奥深くにいつもいてくれる恋人に祈り、ことさら何気なさを装って部屋に入ったリオンは、ヒンケルとブライデマンの他にもう一人の男がいることに気付いて顔を向けるが、ヒンケルが険しい表情のままフランクフルトの事件を担当しているロスラー刑事だと紹介する顔を見下ろして腰の上でしっかりと両手を組む。
「……リオン、今回の事件から……お前を外す」
ヒンケルの声に滲んでいるのは苦渋の色で、いつもふざけてからかっている上司であっても密かに敬愛している彼にそんな声を出させてしまった己の不甲斐なさに自嘲してしまう。
「何がおかしい?」
「ああ、いえ。───理由を聞かせて貰っても構いませんか」
ヒンケルに丁寧に話しかけるなど配属された時以来だとやけに感慨深く思い出しながら問い掛けたリオンは、ブライデマンではなくもう一人の男、ロスラー刑事にぞんざいな態度で上からの指示に従えばいい、理由など必要ないと言われて目を閉じる。
「きみの活躍は聞いているが、色々と問題行動もあったようだな。今きみたちが扱っている事件は単なる殺人ではなくある犯罪組織が関係していることが判明した」
その捜査に全力を注ぎたいから問題行動の多いきみのような刑事には外れてもらいたいと手を組みながら告げられてリオンはロスラーの顔を見つめる。
「どのようなことを聞いたのかは分かりませんけどね、確かに俺は問題行動が多々あったと思います。それで事件を外されるのなら悔しいけれど自業自得だ。受け入れます」
「ならば今すぐにここから出て行けばどうだ?」
後ろで組んだ親指同志をくるくると回転させつつ彼から視線を外してブライデマンとヒンケルを見たリオンは、やけに勝ち誇ったような笑みを浮かべるブライデマンを小さく鼻で笑い飛ばし、ヒンケルのデスクに一歩近付く。
「ボス」
「何だ」
「俺がこの事件から外れるってことは……ゾフィーが殺人事件か人身売買組織に関わっていた、その証拠が発見されたってことですよね?」
「……そうだ」
「その証拠、見せて貰えませんか?」
リオンにしてみればここ何日もずっと頭を悩ませていた事件から急に外されることになったのだ、その理由を知りたいと思うのは当然だったし、またヒンケルもそれを伝えるべきだとは思っていたがなかなかヒンケルの口が開くことはなく、焦れたリオンがデスクに両手をついて上司の頭を見下ろす。
「ボース」
「……証拠はこれだ」
リオンの問い掛けに答えたのはヒンケルではなく勝ち誇った顔でリオンを見ていたブライデマンで、横合いからの言葉に顔を向けて差し出されたファイルを受け取って読み進めていき、フランクフルトで任意聴取を受けていた男がこの街のシスターから諸外国から運んできた荷を受け取っていたこと、そのシスターはこの街での窓口で、シスター自身が積荷の引き渡しに顔を出していたことを自白した事実を知り、膝が震えるような驚愕に襲われるが、ここで座り込む醜態など見せられない意地から両足を踏ん張って先を読む。
男の供述には主に買い付けは別のものが行い、彼女の役割は小さな村の教会で買い付けられた積荷の引き受けと簡単なチェックをした後、フランクフルトやこの街のFKKに引き渡していた事実が詳細に記されていて、ハンマーか何かで頭を強かに殴られたような衝撃を受けてしまう。
そしてその供述の最後にはそのシスターはゾフィーと呼ばれていたと記されており、丁寧にその写真まで貼り付けられていた。
「……そのシスター・ゾフィーはこの間私の聴取を受けたくないと言ったシスターだな」
「そ、う、ですね……あー、やっぱり組織に関係してたのか、あいつ…」
供述調書をつづったファイルをブライデマンに返しつつぽつりと呟いたリオンは、だから自分にだけは話せないと泣いたのかと前髪を掻き上げて自嘲に顔を歪める。
ゾフィーが人身売買に関係するようになったのがいつかは分からないが、赤毛の幼馴染みがフランクフルト在住時に何度か彼女を見かけたと言っていたのは、両親の見舞いが例え嘘ではなくても本当の理由は積荷-つまりは諸外国から金で買い集めてきた少女達を運ぶことだったのだろう。
そんな事情があったのならばリオンにだけは話せないと拒んだ理由も理解出来るが、泣いて拒否する理由は分からなかった。
「この理由からお前を今回の捜査から外す」
「……分かりました」
外されるのは悔しいし腹立たしいが、適正な捜査をするのに自分の存在が邪魔になるのであれば大人しく引き下がって署内で別の仕事をしていると告げると、ブライデマンとロスラーが顔を見合わせた後、面白くもない冗談を聞いたような顔で肩を竦める。
「警部、はっきりと言えばどうだね?」
今回の事件は人身売買組織という州だけではなく国どころかEU全体で追いかけている犯罪組織でもあるのだ、その組織の一員が現役刑事の姉であると分かれば警察はどんなバッシングを受けるか分からない、今回の事件の捜査が終わるまで謹慎でもさせていればどうだ、いっそのこと他の仕事を紹介してやろうかと笑われ、さすがにその言葉にはヒンケルとコニーが蒼白だった顔を一瞬にして怒りのために赤らめる。
「リオンは確かに問題行動が多いヤツではあるが、バッシングを受けるような刑事ではない」
「そうですねー。それに、姉とは言ってもリオン自身与り知らないことですからね、それを元にリオンを処分してしまおうってことはいくらBKAであっても指図できない筈ですけどね」
地方警察の任命権は地方警察に存在していて、例えそれが州警察であろうが連邦刑事庁であろうが地方警察の刑事の罷免にまで口出しは出来ないはずだと、コニーが表情とは裏腹にのんびりした口調で二人の口を閉ざさせようとする。
上司と同僚の怒りの理由に気付いたリオンが胸の裡で感謝の思いを呟き、二人の名前を呼んで怒りを鎮めてくれと小さく呟く。
「……ボス」
「……どうした」
「俺の存在が捜査に邪魔になるのなら内勤をしています。自宅で謹慎していろと言うのならばしています」
ただ、その命令はそこの部外者の二人ではなくヒンケルの口から直接命令として聞きたいとリオンを知るものが見れば驚くような静けさで告げ、命令を待つように腰の上で手を組む。
「……しばらくの間内勤していろ、リオン」
ここにいて他の仕事をしていたとしても事件のことが気になるだろうがそれでもここにいて仲間のサポートに回れと、ヒンケルがさすがにこの時ばかりはリオンの顔を見上げながら、それでも重苦しい口調で告げると素っ気ない素振りでも口に出されない思いを受け取ったリオンの頭が上下に揺れる。
「分かりました」
「話はそれだけだ」
「Ja.────あ、内勤ってことは、昼飯も外に食いに行っちゃダメってことですか、ボス?」
ヒンケルの言葉とコニーの表情から己に向けられる感情を読み取り、感謝の思いを伝えたいとは思ったがそんな言葉よりも行動で示した方が良いだろうと決めたリオンは、それならばいつもと全く変わらない態度で皆のサポートに回ることを伝える為にいつものように軽口を叩くと、ヒンケルが答える前にブライデマンとロスラーがふざけているのかと声を荒げ、コニーがどちらに対しても救いの手を差し伸べるようにそれは諦めろ、もし行きたくなってもドクの所にしておけと肩を竦める。
「じゃあドクの所に行こうっと」
内勤などという刑事としては重要ではあっても少し寂しい処遇を受けたはずなのに何故か鼻歌交じりに行き先を告げたリオンはヒンケルとコニーには最敬礼をし、ブライデマンとロスラーを一瞥もすることなく踵を返そうとするが、きみの自宅を捜索すると告げられると同時に足を止めて青い目に強い光を浮かべて二人を見下ろす。
「俺の姉が犯罪に荷担していた、だから俺の家を調べると言うのなら残念だったな。ゾフィーの私物やあいつから預かったものなんて家にはねぇよ」
令状を取るだけ紙の無駄だから止めておけばどうだ、もしもどうしても捜索したいというのであればヒンケルの許可を取ってからにしてくれと言い残し、二人が口を開く前に部屋を出て行く。
「……警部のために忠告するが、あんなふざけた男は早々に辞めさせた方が良い」
ブライデマンの言葉にヒンケルは無言で彼を睨み返すだけで、口に出してはリオンを庇うこともブライデマンに同意を示すこともなかった。
ただ、皆の同情の視線を集めつつも軽やかな足取りで出て行くリオンを部屋から見送り、その姿が見えなくなると深く溜息を吐いて抽出を開け、胃薬と書いている箱を取りだしてコニーに向けて放り投げる。
「警部?」
「渡してやってくれ」
「了解」
この胃薬の中身が何であるかを良く知るコニーが受け取った箱を目の高さに掲げ、苦虫を噛み潰したような顔になっている二人に小さく会釈をした後、リオンの後を追うように部屋を出て行くのだった。
刑事部屋を出たコニーは出動する時のように階段を駆け下り、ロッカールームに入ろうとしているリオンの後ろ姿を発見して自らも素早くロッカールームに駆け込む。
「警部から預かったぞ、リオン」
胃薬の文字を見せつけるように箱を差し出したコニーはリオンが何とも言えない顔をしつつ受け取らないことに苦笑し、直接渡してくれと頼まれたことを片目を閉じて告げながらその手に箱を握らせる。
「……迷惑をかけて…悪い」
リオンが言う迷惑が何であるかを察せられないコニーでは無いために何も言わずに首を振り、長椅子にリオンを腰掛けさせるとロッカールームのドアに鍵をかける。
「どうした?」
「あの二人がいるから言えなかったが、お前を内勤にしたのはちゃんとした理由がある」
振り返ったコニーの顔はいつもの柔和なものから険しいものになっていて、何を言われるのか身構えるリオンの前に立って腕を組んでロッカーにもたれ掛かると、お前を外した方が良いと言ったのは俺だと教えてリオンの反応を待つ。
「コニーが?」
「ああ。俺も警部も他の誰もお前が私情を挟むとは思っていない。だがな、ゾフィーが今回の事件に関係していることがはっきりとしたからお前を外しておいた方が良いと思ったんだ」
「……ゾフィーが事件に関係していることを示すものを隠される心配があるから?」
「そんな事を俺たちが思うと思ってるのか、リオン?」
思わず卑屈になってしまうリオンをじろりと見たコニーに言い過ぎたと反省を示し、ならば何故俺を外したと再度問いかけるとコニーが重苦しい溜息を吐く。
「……良いか、最悪の予想だからな。これはあくまでも想像だ」
わざわざそんな前置きをするほどのことなのかとリオンが訝った時、コニーの口から聞こえてきたのはゾフィーの身に何かが起きているのではないかとの言葉だった。
「何か…?」
「ああ。人身売買の組織の一員だった、これはどうしようもない事実だろう。彼女に事情を聞く為に待っていたが来なかった、それどころかお前やマザー・カタリーナたちが連絡を取ろうとしても出来ない。考えられるのは彼女が自発的に連絡を取ろうとしないか、取りたくても取れなくなっているかも知れない、そのどちらかだ」
「……ああ」
己が疑問に思ったことはコニーらもしっかりと考えていたようで、同僚の推理を聞きながら親指をくるくると回転させたリオンは、組織が絡んでいる殺人事件の関係者として警察にマークされた彼女を組織の人間が放置しておくだろうかと呟かれて青い目を見開く。
「まさか…」
「その可能性は捨てきれないだろう?」
もしも最悪の予想が的中した場合、彼女の命は危機にさらされているだろうと冷静に指摘されてリオンは広げた足の間で拳を掌に叩きつける。
「…っ!」
先日の夜に必ず来いと約束をしたが姿を見せない今、連絡が付かないのはコニーの言葉のように連絡する手段を断たれてしまっている可能性が高かった。
刑事として事件を追っている時ならば当たり前に考えられたそれを出来なかった己に気付き、冷静でいられると思っていた己がもっとも冷静さを欠いていたことにも気付くと、ただ自嘲の笑みを零すことしか出来なかった。
「そうなった場合……いくら犯罪者だからといってもお前にとって彼女は姉のようなものだ。家族同然の人が命を落とすような事件には関わらせられない」
感情に突き動かされて現場で混乱をきたすような事態になればリオンの立場が更に危うくなる、その危惧からリオンを遠ざける為に内勤で皆のサポートに回らせることを決めたと肩を竦めたコニーは、リオンが返事をしないことに不安を覚えてやや俯いている顔を覗き込もうとするが、ちらりとその横顔を見た瞬間、背筋にイヤな汗が伝い落ちる。
「……ダンケ、コニー。でも、もしもそうなったとしても…俺は平気だ」
家族同然ではあるが家族ではないし、それに何よりもゾフィーは人身売買という犯罪に手を染めていたのだ、逮捕される覚悟はしていただろうと呟くが、その声から希望を感じることが出来ず、コニーが一つ身体を震わせる。
「とにかく、俺たちもゾフィーの身柄を確保するために全力を挙げる。お前も彼女の居場所が分かればすぐに教えてくれ」
「ああ、うん」
「彼女は確かに罪を犯したがその組織について証言できる重要な人間だ。だからまず彼女の身柄を確保すると同時に証人保護プログラムで彼女を保護する。良いな、リオン。彼女は犯した罪を償わなければならないが、もっと大きな罪を告発できる重要な人だ」
コニーの真摯な言葉に暗い道へと一歩を踏み出そうとしていたリオンの足が止まり、顔を上げてじっと見つめると穏やかな笑みを浮かべたコニーが一つ頷く。
「ああ、そうだ。お前の家を捜索するなんてことはさせないからな」
だから部屋の片付けなどしなくても良いと笑い、リオンがくすりと小さく笑う。
「内勤って何をすれば良いんだ?」
「そうだな、ヴェルナーとジルの事件が終わりそうだろう?だからジルとお前を入れ替えるから、ヴェルナーの仕事を手伝ってやればどうだ?」
「えー、俺送検の手続きとか報告書とか大嫌いなんだけどなぁ」
「好き嫌いの問題じゃないだろう、リオン」
それにここだけの話にしておいてやるがあまりふざけたことばかりを言っていればヒンケルの血圧が上昇して噴火しかねないとコニーが片目を閉じ、その姿を想像したリオンが肩を揺らして笑い出す。
「噴火してさ、あの二人に思いっきり岩をぶつけてくれりゃ良いのになぁ」
「本当だな。フランクフルトから来たあの刑事も気にくわないしな」
「ロスラーだっけ。マジで気にくわないな」
顔を見合わせて楽しそうに笑いながらロッカールームを出て行く二人だったが、リオンがさっき宣言したようにドクの所に行くのならちゃんとヴェルナーに一言伝えてからにしろと告げて階段を昇ったコニーは、返事と足音が聞こえないことに気付いて振り返り、胃薬と書かれた箱を宙に浮かせて掌で受け止めたリオンが無言で肩を竦めたことに目を瞠る。
「リオン?」
「んーオーヴェのクリニックには…行かねぇ」
「行かないのか?」
「……オーヴェにまで迷惑掛けたくねぇから」
付き合っている恋人が刑事で男でしかもその男の姉が犯罪者だったとなれば、きっと口さがない人たちが彼のことまで好き勝手に言い立てるだろう。
そんなことは想像するだけでも嫌だと眉を寄せて呟いたリオンは、コニーがあの人はそんなことを気にするような人じゃないだろうとリオンに翻意を求めるが、迷惑をかけたくないと笑って取り合わず、箱をしっかりと握りながらコニーの横を通って階段を昇っていく。
「あー、そうだ。コニー、ゾフィーが見つかったら一発殴ってやってくれよ」
「そんなことをしてみろ、俺が暴行容疑で逮捕されるだろう?」
だから何を馬鹿なことをしていたんだとゾフィーを叱りたいのならば、それは家族のお前がするべきことだしお前にしか出来ないことだと肩を叩かれ、やれやれと肩を竦めたリオンは、とにかく事件が終わるまで内勤に励むかぁと暢気に呟き、コニーに少しだけ呆れの色を浮かべさせながら刑事部屋に戻っていくのだった。
今はあまり人も住んでいない古いアパートの一室に、その部屋を訪れるには似付かわしくない高級そうなスーツと同じく手入れがされている高級な革靴を身につけた男が煙草を咥えながら入り、足を組んで古いソファに腰を下ろしている男の横に立つ。
「……様子はどうだ」
「可哀想なもんだぜ」
男の言葉にソファに座る男が同情するにしては冷酷な笑みを浮かべて隣に立つ男を見上げ、次いで己と向かい合うように置いたベッドの上で横たわったまま身動がない女性へと顔を向ける。
あの嵐の夜に教会からここに連れてこられてからずっと二人の男が好きな時に好きなだけ彼女の身体を弄んでいるのだが、後から来た男よりも先に来ていた男が様子を見た時には長い髪は乱雑に短く切られ、何度も殴られたのか白い頬には見るも無惨な痣が浮かび、己の未来を想像した瞳には絶望の靄がたゆたっていて、男が近づいて彼女の顎を掴んでもぼんやりと見つめ返してくるだけだった。
そんな彼女が力なく横たわるベッドに近づいた男は、気の強い女だと思っていたが所詮女の体力や腕力では男に勝てるはずがないことを思い知ったかと笑って女の頬を手の甲で叩いて瞳に光を取り戻させる。
「……地獄に落ちろ…ゲス野郎」
生命力が感じられない声だがその双眸に浮かぶのは男に対する限りない憎悪で、その憎悪のみで命を繋いでいるかのように声を振り絞った女、ゾフィーは、今度は拳で頬を殴られて痛みに呻きながらベッドの上を転がる。
「てめぇ、そんなに死にたいのなら今すぐ殺してやろうか?あぁ!?」
「……さっさ…と…殺しなさいよ…」
無残に切られて短くなった髪を掴んで引きずられ、力が入らない身体を足蹴にされて床に転がり落ちたゾフィーは、それでも男に対する憎悪の言葉を吐き出し、背中を蹴られて悲鳴を上げる。
「お前を殺すだけじゃあ楽しくねぇからなぁ。───この動画、あいつに送り付けてやるから楽しみにしてろよ」
痛みに呻く彼女を見下ろして下卑た笑いを挙げる男が携帯を取りだし、教会でゾフィーをレイプしている動画を再生すると、彼女の身体が痛み以外の理由から震えだす。
「やめて…っ!」
男が言うあいつが誰であるかは明白で、こんな姿を見られたく無いと腕を伸ばして男のスラックスを握りしめるが、男の手が無造作に彼女の手を振り払う。
「お願い…、それだけ…は、やめて…っ!」
複数の男に何度も何度もレイプされている姿など絶対に見られたく無いゾフィーが、振り払われても男の足へと手を伸ばし、お願いだから止めてくれと懇願するが、そんな声など聞こえないと笑った男に頭を蹴りつけられてしまう。
「あぐ…っ!」
「良い動画じゃねぇか」
いっそこれを編集してアダルトサイトに投稿してやろうかと男の背後で同じく下卑た笑いが上がり、そちらの男も睨んだゾフィーは、最後だからと声を振り絞って男の足首辺りに手を伸ばす。
その時、彼女の手がスラックスを押さえていた男の手首を引っ掻き、その痛みに男が顔を顰めた後、動画を再生していた携帯をスーツのポケットに入れて彼女の髪をもう一度掴んで引きずり起こすと、咥えていた煙草の火を露わになり青や紫の痣が浮かんでいる彼女の乳房に押し当てる。
「キャァアアアア!」
胸に生まれた激痛と灼熱感にゾフィーの口から甲高い悲鳴が上がり、掴んでいる男の手を払いのけようと必死に手を振るが、そのまま床に突き放されて胸を抱えて痛みに身体を丸めるものの、テーブルに置いたままの安いウィスキーのボトルを持った男が彼女の肩を蹴って仰向かせると、煙草の火を押しつけられて焼けただれている胸にウィスキーを垂れ流す。
「ァアアアアアア!」
火傷にアルコールが掛けられた痛みにゾフィーが身体を突っ張らせて痙攣するが、その姿を見ながら少し離れたソファに腰を下ろした男が笑い、ウィスキーを掛けた男も楽しそうに笑う。
ゾフィーを散々レイプしていた二人の男は今は食事に出ている為、戻って来るまで二人で留守番をするのだが、不意にあることを思いついた男がウィスキーのボトルを痙攣する彼女の横に投げ捨てて振り返る。
「おい、コイツの始末だが、あいつらにつけさせるか」
「どうしたんだ?」
「……あいつらは商品の姉を殺すヘマをやりやがった。その始末をつけさせたいと思っている」
ソファに座る男の前に歩いて行った男はキャメルに火をつけてゆっくりと煙を吐き出すと、あの二人もいずれ始末するつもりだが、それならばこいつの始末をつけさせてからあの二人もここで始末すれば俺たちは安全だと笑う。
「────悪党だな」
「お前に言われたくねぇな」
今、痛みに失神し掛かっているゾフィーに人身売買の罪を被せて二人の男に始末をさせ、その後その二人を始末-つまりは殺して自分たちはしばらくの間ドイツを離れてほとぼりが冷めるのを待つつもりだと見抜いた男が悪党と罵ると、お前も人のことが言えないだろうと笑われてしまって口を閉ざす。
たった今思いついた計画だがそれを実行するにはもう少し時間的な余裕が欲しいと男が笑い、特に警察には大人しくして貰いたいと舌打ちをすると、マスコミを使おうと提案されて男の貌に暗い笑みが浮かぶ。
「そうだな…」
マスコミにシスターが人身売買組織の一員だったとリークすれば警察だけではなく教会関係者も大騒ぎになって時間が出来るだろうと頷き、ならば自分が懇意にしているフリージャーナリストに情報を提供することを男が決め、傷口の疼きに合わせてか細い悲鳴を上げるゾフィーを見下ろし、これからが楽しみだと大声で笑うのだった。