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 数日ぶりに雨が上がったものの、すっきりとしない空模様に人々の表情も重苦しいものになるが、その日朝早くから警察署では蜂の巣を突いたような騒ぎが湧き起こっていた。

 その騒ぎの元はゴシップ紙に掲載された決して小さくはない記事で、そのゴシップ紙が発売されると同時にヒンケルは部長や署長に呼び出されてしまい、刑事達は真相を求めるジャーナリスト達の無遠慮なマイク攻撃を受けて辟易する羽目に陥ってしまっていた。

 内勤になったからと遅刻して良いはずがない為いつも以上に気怠く感じる朝を何とか乗り越えようと青い自転車で出勤したリオンは、自転車を所定の場所に置くと同時に幾人かの記者に取り囲まれてしまい、咄嗟に事態を把握できずに瞬きをしながら突き付けられるマイクを見つめてしまう。

 「ケーニヒ刑事、あなたの出身の児童福祉施設で働くシスターが人身売買をしていたと言うのは本当ですか?」

 「この記事ではその際に得た資金で児童福祉施設と教会の運営を行っているとなってますが、その事実をあなたは知っていましたか!?」

 矢継ぎ早に浴びせられる質問にようやく目が覚めたようにリオンが目を瞠り、どの記事だと逆に記者に聞き返してそのゴシップ紙を受け取ると、たった今聞かされた言葉が見出しとして大きく掲載されている紙面を読み進め、薄っぺらい紙面をぐしゃりと握りしめる。

 「どうなんですか!?」

 「……人身売買で得た利益で教会を運営していた事実って何だ?」

 「そこに書かれているでしょう?」

 「ふぅん……じゃあさ、教えて欲しいんだけど、そんな事実、何処に転がってるんだ?」

 握りしめた紙面が微かに震えているのを見た記者が嘲笑するように首を傾げ、その事実を確かめるためにあなたに聞いているんだと言い放つと、リオンの青い目がぎらりと光る。

 「マスコミは事実確認をせずに、ただの噂も事実として書くのか?」

 リオンが育った児童福祉施設は確かに貧しくて一般的な生活水準からすればかなり低い暮らしを余儀なくさせられていたが、ゾフィーがもしも人身売買で得た金をマザー・カタリーナらに渡していれば、今も児童福祉施設で暮らす子ども達は真冬の寒さに震えていないだろう。

 そして何よりも犯罪で得た金をマザー・カタリーナが受け取るとは到底思えなかったし、また受け取った形跡が無いこともリオンは良く知っていた。

 だから自分が知る事実とは違うと記者に告げ、あんたらが事実になって欲しいと思う噂はあくまでも噂だし今朝初めて聞いたと肩を竦めると、同じ児童福祉施設出身のシスターを庇いたい気持ちは理解できるが真実ではないのかと詰め寄られてその記者に向き直り一歩踏み出した時、リオンの背後から場違いなほどのんびりとした声が聞こえてきて全員がそちらへと顔を向ける。

 「おーい、リオン、警部が呼んでるぞー」

 「ハロ、コニー。クランプスが呼んでるって?」

 その声の主は余程のことがない限りは泰然自若の体で仕事に臨むコニーで、愛用のマグカップを片手にリオンに呼びかけ、記者達の顔を一瞥すると背後に向けて頭を振る。

 「気を付けろよー。警部が頭から岩石を飛ばしてるからな」

 「げー!弾避けにジルを使うかぁ」

 怒り心頭のヒンケルが活火山のようになっていると教えられてげっそりとした顔で空を振り仰いだリオンは、コニーにこの場を任せるためにその肩を叩いて手を挙げる。

 「えー、入口で騒がれると出動の際に邪魔になるので、詳細は後ほど会見を行います」

 だからそれまでの間このゴシップ記事について警察関係者に対するインタビューをしないで貰いたいと依頼形式の命令をしたコニーは、記者達の反発を柔和な強さを秘めた瞳で未然に押さえると、何ごとかと遠くから見守る市民に肩を竦め、出動の邪魔をすれば公務執行妨害を適用すると言い残して署内に戻っていくのだった。

 


 ロッカールームに立ち寄らずにそのまま階段を昇ってヒンケルの部屋に向かったリオンは、階段ですれ違う制服警官から疑いの目で見られ、同期の警官から意味ありげに肩を叩かれたりしつつ刑事部屋に入ると、同僚達がどう接して良いのか分からないと言いたげな顔でリオンを見つめる。

 「……謹慎してた方が良いよなぁ、これ」

 同僚のその視線に肩を竦めて自嘲したリオンだが、ヒンケルが部屋から顔を出して無言で呼んだことに気付いて溜息を吐き、己のデスクに荷物を投げ出して一つ伸びをする。

 一挙手一投足を見守られる居心地の悪さにもう一度苦笑し、大股にヒンケルの部屋に向かいドアを開けて開口一番謹慎すると叫ぶが、同じ音量でふざけるなと言う怒声が浴びせられて首を竦める。

 「うひぃ」

 「何度も同じことを言わせるな!お前が謹慎するかどうかを決めるのは俺であってお前じゃない!」

 ヒンケルの怒声とデスクを殴る音に首を竦めつつ後ろ手でドアを閉めたリオンは、ブライデマンやフランクフルトから来たロスラー刑事がいない事を確かめると、いつものように丸椅子をデスクの前に引きずってきて腰を下ろしてくるりと一回転する。

 「……ボス、こんな記事書かれちゃマズイでしょ」

 態度を見る限りでは誰がどう見てもふざけているとしか思えないが、リオンの表情は態度や声音とは裏腹に真剣で、ヒンケルも溜息を吐きながら皺の寄った紙面を二人の間に放り出す。

 「確かにマズイがお前の心配などどうとでもなる。それこそ最悪の場合は暫く謹慎するか減俸すりゃあいい。それよりも問題なのはこの記事をすっぱ抜いたヤツだ」

 「……あ」

 「そうだ。まだ任意聴取を一度しただけだぞ、それにやっと荷担している確証を得たぐらいだ。何処から情報が漏れた?」

 ゾフィーが犯罪に荷担している確証は確かに先日ここで初めて皆が得たものだったが、どうして紙面にそれが掲載されるのか。

 誰かがマスコミにリークしたとしか考えられないが、そうなった場合、リオンの謹慎云々よりも遙かに重要で重大なヒンケルへの処罰問題に発展する可能性もあった。

 自分自身のことならば好きなようにしろと開き直れるリオンだが、さすがに敬愛する上司への処罰にまでことが及ぶと考えただけでじっとしていられず、椅子を蹴り倒してデスクに手を付く。

 「ボス、リークしたヤツを探しましょう」

 「そんな暇があるのならさっさと犯人の検挙に繋がる情報を持ってこい!」

 リオンの言葉にヒンケルが目を吊り上げて怒鳴り、その剣幕に首を竦めて怒りをやり過ごしたリオンは、持ってこいと言われても俺は外に出られませんと胸を張ると本物のクランプスでさえも逃げ出しそうな顔で睨まれてしまう。

 「……ボス、俺もみんなを疑ってません。疑いたくないです」

 「だったら…」

 「でも、実際に情報はリークされた。ならその情報が何処から出たのかを把握しておいても良いと思いませんか?」

 リオンがデスクに手を付き真剣に話す言葉にヒンケルも耳を傾けて納得したように頷くものの、リオン同様に部下の誰一人をも疑いたくはなかったが、そんな上司の心情を読み取ったリオンが少しだけ声に明るさを増して口を開く。

 「これを言ったら怒られると思うんですけどねー」

 「何だ」

 「んー、ブライデマンかロスラーがリーク元だったら良いなーって」

 不謹慎すぎますよねと肩を竦めたリオンを一瞥し、言って良いことと悪いことがあるぞと睨みを利かせるが、その時ヒンケルのデスクの電話が鳴り、掌を立てて合図を送られたためリオンが丸椅子に腰を下ろしてくるりと回転し始める。

 「……分かりました、すぐに行きます」

 暫く真剣な声でやり取りしていたヒンケルだったがリオンの青い瞳を見据えながらすぐに行くと告げて受話器を下ろし、深く溜息を吐いてデスクの抽出を開け放つが、いつも存在している胃薬箱-正しくはチョコレートボックス-が無く、思わず舌打ちをして胃薬を返せとリオンを睨む。

 「は?返せってボスがくれたんでしょうが。貰ったものは返しませーん」

 リオンのふざけきっている声にヒンケルが拳を震わせるもののいつもと表面上は変わることのない部下の様子に少しだけ安堵していて、部長と署長に呼ばれたから行ってくるとさり気なく告げて立ち上がる。

 「……ボス」

 「分かっている。さっきも言ったが、最悪の場合お前の謹慎と減俸になるぐらいだ」

 俺はせいぜい監督不行届で注意を受けるだけだと笑うヒンケルにリオンが無言で頭を下げると、その後頭部に拳が落ちる。

 「いてぇ!」

 「俺が戻ってくるまでヴェルナーの仕事をサポートしていろ。お前の代わりにジルに手伝って貰う」

 「わかりました」

 リオンが外れた後をジルベルトに任せるつもりであること、その間ヴェルナーと組んで仕事をしていることを伝えて部屋を出ようとしたヒンケルだが、二人が動くよりも先にドアがノックされたために顔を見合わせて入れと返事をする。

 「警部、少しお話があるんですが」

 その声とともに姿を見せたのはジルベルトで、ちょうど良かった、リオンの代わりにコニーと一緒に動いてくれとヒンケルが伝えるが、自他共に認める男前の顔が申し訳なさそうに翳り、二人が再度顔を見合わせる。

 「あ、ボス、俺、戻ってます」

 「内勤だからといってサボるんじゃないぞ」

 「えー、どうしようかなー」

 その言動がブライデマンとロスラーらにふざけた男と言わしめるのだが全く意に介することなくいつものように呟いて部屋を出たリオンは、すれ違いざまにジルベルトが何やら意味ありげな視線を寄越したことに気付いていたものの表立っては全く気付いてない素振りで口笛すら吹きながら部屋を出て行く。

 その背中を二人で見送った後、ジルベルトが心底申し訳なさそうな顔で口を開く。

 「警部、今事件を追っていて大変なことは分かってるんですが…」

 「どうした」

 「昨日、フィレンツェのじいさんが危篤だから帰って来いと言われました」

 ジルベルトを大層可愛がっていた祖父がとの連絡を受け、危篤に陥ったと知らされればやはり祖父の傍にいてやりたいと思うことを告げると、ヒンケルの目が驚きに見開かれた後で暫く考え込むように左右に揺れるが、深く溜息を吐いた後に頭に手を宛がう。

 「……今すぐ行くつもりか?」

 「そうですね、出来れば二三日中には」

 仕事柄肉親の死に目に会えないのは理解していたのですが、この祖父がいるおかげで己は今ここで毎日面白おかしく刑事として働いていられるのだ、その礼なり恩なりを顔を見ることで返したいと目を伏せる部下を一瞥したヒンケルは、ジルベルトが己の部下になって以来初めてのような私情を見せられて叶えてやりたい気持ちと人手が一人でも欲しいのにとの思いが入り交じるが、今日中に返事をするから少しだけ待ってくれと告げて署長や部長の前に出向く為に己の部屋を出るのだった。


   

 ヒンケルの部屋ではいつも通りのふざけた様子のリオンだったが、さすがに同僚達の前でもふざけた態度でいるのはいかがなものかと自らを省み、殊勝な表情でコニーの前に立つと皆一様に緊張した面持ちのままリオンの背中を見守る。

 その居心地の悪さに肩を竦めたリオンだったが、こんな居心地の悪い中で仕事など出来ないと鼻息荒く言い放ち、驚くコニーに背を向けてダニエラ、ヴェルナー、マクシミリアンの順に顔を見た後、肩を一つ竦めながら迷惑をかけて悪いと謝罪とは思えない謝罪をする。

 「……ゾフィーのことで迷惑をかけて悪ぃ」

 ゴシップ紙にも大々的に書かれてしまった事実とやらは当然ながら事実無根の噂であり、そもそも犯罪で得た金があるとすればホームで暮らす子ども達の身形や建物などももっと立派なものになっているとこの時ばかりは真剣な顔で告げるが、いつもは軽口をたたき合う面々でさえも何か思うところがあるのか直ぐさま返事がないため、外に出れば迷惑になるからここで事務仕事をしていると告げ、コニーへと再度向き直って苦笑する。

 「後はジルと組んでやってくれってボスが言ってたぜ、コニー」

 「そうだなぁ、ジルならお前のようにグダグダ文句を言わないだろうしな」

 「げ、何だよ、それ」

 すべての事情を知るコニーだけはいつもと変わらない接し方だったが、三人はどう接すればいいのかに戸惑っている顔でリオンを見た後、解答を求めるようにコニーを見つめ、見られた穏やかな顔が一瞬だけ歪むが特に何も言うことはなかった。

 そんな何とも言えない微妙な雰囲気の中、ブライデマンとロスラーが談笑しながらやって来たが、部屋の中を見回してリオンを発見すると、重要な情報がマスコミにリークされたがリーク元はきみではないか、それに随分と大事になってしまったから謹慎でもすればどうかねとブライデマンが部屋中に響く声で言い放ち、ロスラーも同調するように下卑た笑みを浮かべて大きく頷く。

 「リオンが情報源だと言うのならもっと早くに漏れてるんじゃないかな。それに自分の首を自分で絞めるような情報を流す馬鹿がどこにいるんだ?」

 あんたらが来たから情報が漏れたんじゃないのかね。

 その呆れ返った言葉がコニーの口からぼそりとこぼれ落ちた時、一斉に皆の視線がコニーに突き刺さるが、いつも穏やかな顔はいつもと全く変わらない穏やかさで瞳だけが怒りを宿していることに気付くとダニエラがまず溜息を吐いて赤毛に手を宛い、その動きにつられるようにマクシミリアンも生真面目な顔で頷いてヴェルナーを見ると、たった今悪夢から覚めたような顔でヴェルナーが背筋を伸ばし、三人が揃って己のデスクに向かうと山積みになっていた書類をリオンの前に突き出す。

 「……へ?」

 三方から突き出される書類の山にリオンの青い目が丸くなり、三人の色の違う瞳をじっと見つめるが、早く受け取れ重くて仕方がないと異口同音に叫ばれて咄嗟に書類を受け止める。

 「これ、来週までに纏めて報告しなきゃいけない書類。事務仕事してるんでしょう。お願いね」

 「これは今週中、こちらは明日までに警部に提出するもの、これは…」

 「リオン、この間ジルと組んでいた事件の報告、手書きが終わってるから報告書に纏めておいてくれないかな」

 三人の言葉にリオンが目を白黒させてこんなにも大量な書類整理なんて出来ないと叫ぶと、所長に呼び出されたはずのヒンケルとそんな彼に相談があると部屋に向かったジルベルトが一緒に姿を見せたかと思うと、それぐらいで根を上げるなばか者と怒鳴りジルベルトが豪快に笑い飛ばす。

 「くそー!書類一件につきチョコ一つでどうだ!」

 「ばか者!それがお前の仕事だろうが!」

 取引めいたことを持ちかけるなばか者と一息で怒鳴られて首を竦めたリオンは、両手が塞がっていて中指が立てられない為、ヒンケル目掛けて思いっきり舌を出して己のデスクに書類を置く。

 「…何処までもふざけた男だな、きみは。どうしてきみのような男が刑事としてやっているのか、甚だ疑問に感じるね」

 ブライデマンのこめかみが痙攣しロスラーも顔を引きつらせるが、そんな二人に言葉を返したのはふざけた男ではなくリオン曰くクソが付く程生真面目なマクシミリアンだった。

 「リオンは確かにふざけた言動をとる事が多いが、だからといって仕事が出来ない訳ではない。仕事が出来ないでふざけているのならば分かるが、彼の事を何も知らないあなた方が批判したり目くじら立てるのはどうかと思いますよ」

 「さーすが、マックス」

 マクシミリアンの言葉にブライデマンは何も言えずに口を閉ざしロスラーが忌々しそうに舌打ちをすると、ジルベルトがそんな二人をバカにしたように口を歪める。

 「人を見掛けで判断するなって教えられなかったのかねぇ」

 ジルベルトの皮肉たっぷりな言葉にロスラーが食ってかかるような目で睨み付けるが、ブライデマンが手で合図をした為に身を引いてふんと言い放つ。

 「……ジル、さっきの話は考えておく」

 ジルベルトの肩に手を置いた後、部長と署長に呼び出されていることを思い出したヒンケルが肩を竦め、二人には自分が戻ってくるまで己の部屋で待っていてくれと言い残して部屋を出て行くと、アウェイで二人取り残された顔のブライデマンとロスラーが顔を見合わせてバツの悪そうな笑みを浮かべあうものの、やはりリオンに何かしら言いたいのか、ロスラーがデスクで事務仕事に取りかかろうとしているリオンの後ろに立ってその肩に手を載せて耳元で短く何かを囁くと、リオンの青い瞳に狂暴な光が宿る。

 その光に気付いたコニーがマグカップを置いて手を挙げてリオンの暴発を防ごうとするが、盛大な溜息を吐いたリオンがあんたの御託に付き合っている暇はない、そもそも俺に文句を言う暇があるのならばさっさとあんたらが犯人だと思い、あんたが今言ったビッチを見つければどうだ、俺は捜査から外されていて探したくても探せないんだからと冷笑し、背後のロスラーの存在を抹消したように手元の書類を読み始める。

 感情の暴発は抑えられているが冷たい光となってロスラーに向けられた様子にコニーがひとまず胸を撫で下ろし、ヒンケルが戻ってくるまでに仕事に取りかかろうと皆に告げると、ジルベルトがリオンの背後の己のデスクに腰掛け、真面目に取り組む背中に呼びかける。

 「リオン、忙しいところを悪いな」

 「悪いと思うなら邪魔をするなよ」

 ジルベルトの言葉にいつもより若干棘がある声でリオンが返すが間髪入れずにくるりと振り返ってにやりと笑みを浮かべ、八つ当たりをしたことを無言で詫びたためにジルベルトも素直にそれを受け入る証として笑みを浮かべる。

 「警部には話をしたが、お前にだけは先に言っておく」

 「何だ?」

 背中合わせのデスクの為、振り返って額をぶつけそうな程顔を寄せた二人を遠巻きに皆が無意識に胸を撫で下ろし己の仕事に取りかかろうとしていたが、ジルベルトが声を潜めた理由を知ったリオンの青い目が見開かれる。

 「……フィレンツェに帰るのか?」

 「ああ、そうなりそうだ。お前が事件から外れて人手が足りないしあのいけ好かない二人がいて大変なのは分かるんだけどな…」

 何しろ今では滅多に行かないフィレンツェではこれでもかと可愛がってくれた祖父が危篤に陥っていると聞けば仕事と祖父を天秤にかけてしまうと肩を竦めるジルベルトにリオンが瞬きを繰り返し、そんな事情ならば仕方がないだろうと同意を示す。

 「仕方ないよなぁ…」

 俺には祖父母どころか両親すらいないのだ、だから親族が危篤になった時の気持ちはあくまでも想像でしかないと自嘲したリオンにジルベルトが意味ありげに目を細めてそうかと呟くと、残念ながら肉親というものが分からないとひっそりと返される。

 「…でも、さ、お前のじいちゃんが危ないんだったら行ってやれよ」

 俺はそんな状況に陥ることがないと、いつもの陽気さを全く感じさせない暗い顔で呟くリオンに口を閉ざしたジルベルトだったが、マザー・カタリーナやゾフィーは家族のようなものだろうと呟いてリオンに苦笑される。

 「みたいなもの、だ」

 家族のようなものであって家族ではないと続けたかったのだろうが、何かがリオンの口を閉ざさせたようで、曖昧な言葉だけを呟いてその話はもう終わりだと宣言する。

 「じゃあ俺の代わりにコニーと組むのはヴェルナーか」

 「そうなるんじゃねぇの?俺はここで一人寂しくお留守番だー」

 ジルベルトが抜けた後はもう一人別の事件にかかっていたヴェルナーの手が空く為、コニーと組ませてヴェルナーに任せることになるとジルベルトが予測しリオンが苦笑した後、お留守番は嫌いだと声を上げるが、その声に三方から留守番も大切な仕事だとの声が挙がりがっくりと肩を落とす。

 「まあそう肩を落とすなよ」

 「あー、くそー。まったく、ゾフィーが出てきたらはり倒してやる」

 「女性に手を挙げるのは感心しないねぇ」

 いつものように舌戦が繰り広げられる、そんな予感を残しつつジルベルトが肩を竦めて口を閉ざし、己のデスクに向き直ったためにリオンも少々呆気に取られながらも振り返って再度書類に向き直るのだった。

 この日が、リオンがジルベルトと舌戦を繰り広げたり言葉のキャッチボールで互いの意気を高揚させる姿を他の仲間達が見る最後の日になるのだが、今この場にいる誰もがまさかそんな日が来るとは予想すら出来ないのだった。



 警察署が蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた頃、すっきりとしない空模様を舌打ちしたい顔で振り仰いだのは、ここの所物足りない朝の時間を送っていたウーヴェだった。

 数日前にリオンと電話口で口論になって以来、どちらからも連絡を取る努力をしていないために声を聞くだけではなくメールで互いの思いを確かめることすら行っていなかった。

 その口論の後、いつまで経っても晴れることのない靄を胸の中に抱えてしまったウーヴェは、未だにその感情を昇華しきれずにいた。

 このままでは良くない方向へと自分たちが突き進んでしまうのではないか、そんな危惧が不意に昨夜辺りから芽生えてきていたのだが、今朝目を覚ました時に無意識に隣に手を伸ばし、いつも感じていた温もりが無い事に寝起きの頭を強かに殴られたような衝撃を受けたのだ。

 今までは一人でこのベッドで眠るのが当たり前で、目を覚ましても一人というのが当然だと思っていた。

 だが、騒々しくてまるで子どものような陽気さと狡猾な大人の顔を自然と併せ持っているリオンと付き合いだして半同棲のような状態になってからは、毎朝眠いと不平を漏らす彼を宥め賺したり脅迫じみた言動で起こして仕事に向かわせることが日課になっていた。

 リオンがいる事によって毎朝同じ時間に起きて朝食の用意をし、二人で肩を並べて他愛もない話をしながら食事をする。そうしてそれぞれの戦場でもある職場へと向かう力を与えあうようになっていたが、それがウーヴェにも力を分け与えてくれていたことに今更気付いたのだ。

 リオンが連絡をしてくるのを待つことにしたが、己のそれが単なる意地であることを素直に認めたウーヴェは、今日の仕事が終われば連絡を入れてみようと決め、今日も一日頑張ろうと声に出して己を鼓舞した後、クリニックで読む為の新聞を読まずに鞄に詰めて家を出たのだった。

 己の職場に着いたウーヴェは、受付や事務全般を行ってくれるリアがまだ出勤してきていない為、今日は自らが朝のお茶の用意をするためにキッチンスペースに入り、電気ケトルのスイッチを入れてお気に入りのマグカップとリアの為のティーカップを用意する。

 彼女のような丁寧さでお茶の用意はさすがに出来ない為、マグカップにティーパックを入れて湯を注ぎ、程良く紅茶の色が出て香りも立ってきた時、扉が開く音が聞こえてキッチンスペースから顔を出す。

 「おはよう、リア」

 「……ウーヴェ、今朝の新聞を見た!?」

 マグカップ片手にキッチンから出てきたウーヴェが挨拶をするものの、入って来たリアから聞こえた言葉はおはようではなく焦っているような声で、首を傾げたウーヴェがまだ見ていないと呟くと少し青ざめたリアが新聞を差し出してくる。

 「どうしたんだ?」

 「これ……ねえ、まさかとは思うけど…」

 仕事になれば冷静沈着で常に患者とウーヴェの間に立って良き架け橋になってくれ、仕事を離れれば良き相談相手になってくれるリアの不明瞭な言葉にウーヴェがさすがに何事があったのかと眉を寄せるが、彼女の微かに震える指が指し示した記事を読み進めていくうちにウーヴェの形の良い眉がくっきりと寄せられ、読み終わった頃には険しい色がターコイズ色の双眸に浮かんでいた。

 「これ、まさか……」

 「……リオンのことだろうな」

 二人の視線が突き刺さる記事はどちらかと言えばゴシップ的なものだったが、現役の刑事の姉が犯罪組織に所属していた、しかもその姉は小さないつ潰れてもおかしくない教会と児童福祉施設で働くシスターだったと書かれていて、ウーヴェやリアにしてみれば誰の事を書いているのか一目瞭然だった。

 記事の内容を詳しく読むと、治安が悪いと呼ばれている地区にある小さな聖母教会とその教会が運営している児童福祉施設で働くシスターが、裏でEU諸国でも問題になっている少女の人身売買組織の一員であり、東欧諸国の貧しい農村やスラムで暮らす少女達を金で集めてドイツに連れてきた後、主に南部の州の主要都市にあるFKKに高値で売り飛ばしていた。

 その時に得た資金が教会と児童福祉施設の運営資金となっている為、いつ人がいなくなってもおかしくない、壊れてしまいそうな教会や児童福祉施設が潰れることなく存在しているという事実無根な内容がショッキングな文章で綴られていた。

 その小さな教会を運営している彼女らの苦労をよく知るウーヴェやリアなどは、この記事を書いた記者は事実を確かめること無く記事が書けるのかと笑い飛ばせるが、事情を知らない者からすれば信じてしまうような内容ではあった。

 今日はエイプリルフールではないことを呟いたウーヴェにリアが何をふざけたことを言っているの、リオンは知っているのと詰問されて苦笑し、リオンにそろそろ連絡を取らなければならないと今朝思ったと告げると、まだあれから連絡をしていないのかと驚かれて小さく頷く。

 「まだなんだ」

 「……私が余計な口を挟むのもあれだけど……」

 今は喧嘩をしている場合じゃないと二人の関係を思って忠告してくれるリアに感謝の言葉を伝え、言葉で伝えるよりも実行している姿を見て貰おうと携帯を取りだしてリオンを呼び出すが、コールが10回を数えても陽気な-または落ち込んでいるような声は聞こえて来なかった。

 「忙しいのかしら」

 「そうだろうな」

 とにかく着信履歴が残るからまた掛かってくるかも知れないし、こちらも時間をみては電話を掛けてみると約束をし、そろそろ今日の仕事の段取りについて話し合おうと苦笑するが、リアが己のデスクについてラップトップを開いた時、両開きの扉が開いて爽やかな笑顔の青年が入って来る。

 「おはよう、リア、ウーヴェ」

 「クリス?おはよう。何かあったのか?」

 いつ見ても爽やかな青年は二人に微妙に違う声音で挨拶をした後、ウーヴェの問いに答えるように肩を竦める。

 「昨日郵便配達員が間違えたようで、ウーヴェ宛の郵便物がうちに届いたみたいだ」

 本当ならば昨日のうちに渡すべきだったのだが忙しくて出来なかったと悪気無く告げられてただ苦笑したウーヴェは、クリスが差し出す封筒を受け取ると差出人を確かめて封筒の裏表を見るが、差出人の住所はおろか名前も書かれておらず、リアを見つめて誰だろうと首を傾げる。

 「名前は?」

 「……Sとしか書いていない」

 「じゃあウーヴェ、僕は帰るよ」

 「あ、ああ。ありがとう、クリス。アロイスに面白い本が手に入ったと伝えておいてくれないか」

 「分かった」

 同じアパートの上下で専門分野は違っていても同じ医者で同じく本の虫であるアロイスに伝えてくれと笑うと、クリスが仕方がないと言いたげな顔で頷いてリアに片目を閉じてクリニックを出て行く。

 「……彼、良い青年だと思うしステキだけど、私に色目を使うのはね」

 「彼はタイプではない?」

 「残念ながら」

 そんな事よりもその封筒の中身は何だとリアが控えめに問いかけ、ウーヴェが苦笑しつつペーパーナイフで封を切って逆さまにすると、使い込まれている赤い革の手帳が二人の視線を集めながらデスクに落ちる。

 「ウーヴェ、これは…」

 「何かは分からないが……リア、触らない方が良い」

 リアが手を伸ばして手帳を手に取ろうとするのを遮り、自らもハンカチを使って手帳を手に取って慎重にページを捲っていくが、手帳の最後のページに震える文字で走り書きがあるのを発見し、読む内にウーヴェの目がみるみる見開かれていく。

 「ウーヴェ?」

 「リア、今日の午後の診察はどんな感じだ?」

 「え?ちょっと待って、今日は4時の診察が最後よ」

 リアがバインダーの書類を捲りながら答えたのにウーヴェが素っ気なく頷き、赤い革の手帳を慎重に封筒に戻すと、溜息を一つ吐いてリアに首を傾げさせる。

 「どうしたの?」

 「……この手帳はシスター・ゾフィーのものだ」

 「!?」

 ウーヴェの眉間に深い皺が刻まれて重苦しい声が答えると、リアの目が瞠られて封筒に視線が注がれる。

 「どうしてあなたに送られてくるの?」

 「分からない」

 彼女からこうして何かを送られたことなど今まで無かった事だし何故手帳が届けられるのかが分からないと顎に手を宛がったウーヴェは、とにかく今日の診察が終われば警察に行って来ると告げ、彼女からの何らかのメッセージを受け取ると、己の本業に意識を切り替えてリアにも診察の準備に掛かってくれと告げるのだった。



Über das glückliche Leben.

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