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陽斗は、今日も音楽室のドアをそっと開けた。
「……また来たの?」
ピアノの前で鍵盤をなぞっていた遼が、少しだけ眉をひそめる。
「うん。迷惑?」
「……別に。」
そう言いながらも、遼の指はピアノから離れなかった。むしろ、陽斗が来るのを待っていたようにさえ見えた。
陽斗は、遼のとなりの椅子に腰を下ろす。音楽室の窓から差し込む西陽が、ふたりの影を長く伸ばしていた。
「なあ、なんでそんなに上手いの? ちゃんと習ってんの?」
「うん、昔ね。小さいころからずっと。」
「へえ。でもなんで人前じゃ弾かないの? 文化祭とかでもさ、絶対弾けば注目されるのに。」
遼は、鍵盤を見つめたまましばらく沈黙した。
「……音楽って、俺にとって“武器”みたいなもんなんだ。誰かに見せびらかすものじゃない。」
「武器?」
「……言葉にできないこととか、感情とか。全部音にして吐き出してる。……だから、下手に触られるのが怖い。」
陽斗は真剣な顔で、遼の横顔を見つめた。何かを抱えていることには気づいていた。でも、それを口にした遼を初めて見た。
「……でも俺、お前の音が好きだよ。」
遼の目が一瞬揺れた。
「俺、お前のこともっと知りたい。ピアノのことも、お前のことも。」
遼は何かを言いかけたが、言葉にできずに俯いた。
代わりに、彼の指がゆっくりと鍵盤を叩きはじめる。静かで優しい旋律が、夕焼けに染まった音楽室に広がった。
陽斗は、それをじっと聴いていた。ふたりの間に言葉はなかったけれど、その音がすべてを語っていた。
旋律が静かに終わると、音楽室に沈黙が戻ってきた。
陽斗は息をのむように言った。
「……なんか、泣きそうになった。」
遼は一瞬だけ彼の顔を見た。目が真剣だった。
「……陽斗って、たまに正直すぎて、困る。」
「それ、褒めてる?」
「わからない。でも……悪くない。」
陽斗は少し笑って、「それ、今のところ俺の勝ちってことでいい?」と軽く言った。
遼は小さくため息をついて、立ち上がった。
「帰るよ。もう鍵、閉められちゃう。」
「一緒に帰っていい?」
その一言に、遼はわずかに目を見開いた。
今まで誰とも「一緒に帰る」なんてことはなかった。それが普通だった。でも、陽斗となら……少しだけ、悪くない気がした。
「……いいよ。」
遼の返事に、陽斗はちょっとだけ照れくさそうに笑った。
放課後の音楽室、そして並んで歩く帰り道。少しずつ、けれど確かに、ふたりの世界が重なり始めていた。