「み~んな~のボーダレス」
ずぼしズボンが踊る。新発売の携帯を耳元にして。ぶかぶかのズボンがまとわりついてこける。健太はこのCMを見るたびに、腹をかかえて笑うのだった。
畳の上に転がる。天井の電燈がまぶしい。横を向く。いぐさの匂い。頬が冷たい。マルチーズの鼻。くすぐったい、やめてくれ。
テレビの音がぷっつりと途切れた。健太は上半身を起こす。画面が消えている。部屋の電気はついている。コンセントをチェック。抜けてない。背後から、畳のきしむ音が聞こえた。振り向くと毛深い父の手が見え、テレビのリモコンを握っている。
「そこへ座れ」
低い声が頭上から響いた。健太は部屋の隅にある座布団を一枚剥がし、その上に乗る。マルチーズが尻尾を振って腿にすり寄ってきた。なでる。純白の毛並みが、柔らかい。
父の黒いトレパンが健太の正面に来て、正座になる。さすがにあぐらでは居心地が悪くなり、健太も正座にかえた。父は大きな二つ折りの紙を顔の前で掲げている。
「中学受験模試 試験結果」の字が反対になって透けていた。その上から、整髪料で光る髪が見える。
「前に言っただろ? もっと塾のコマ、増やしとけって」
紙面が折れると、父の広い額と銀縁メガネが見えた。
「そんないまさら」と健太。
「いいや、お父さんは言った」
そうよ、と台所から母の声まで飛んできた。でも、と健太が言ったところで、父の鼻の下の髭が動く。
「いいか、大人になったら、言い訳は通用しないんだぞ」
「僕はまだ子供だけど」と健太は小声で返した。
父は成績表をたたき落とす。犬が吼える。健太は背中をなでる。二つ折りだった紙は畳の上で広がり、科目ごとの数字がところどころ赤くプリントされているのが見えた。それぞれ、合格圏から遥かに離れているという意味だ。
「いいか、こんな成績じゃとても志望校なんて」
「志望校……」
確かに、日本選抜の有名中学名が並ぶ志望校欄の横に、「氏名 岡本健太」と書いてある。紙の上では。台所の鍋がぐつぐついう音が聞こえる。
「受けないでどうする」父の語気が強まった。
「公立なんかに行ってみろ、基樹伯父さんみたくなっちゃうぞ」
基樹伯父さんとは父の兄のことで、親戚中でただひとり、祖父の製麺会社には入らず、江東区亀戸の四畳半で一人暮らしをしている。
「そしたらお前はどうか知らんけど、お父さんとお母さんまで物笑いの種になるんだぞ。こっちの身にもなれ」
足がしびれてきた。健太は上半身を前に倒し、両手を膝の前につく。ミシッと畳が小さく鳴いた。尻がかかとからわずかに浮く。「こっちの身にもなれ」と健太は小さく言い返してみたが、父には聴こえてなさそうだった。
「見てみろ、正月だって伯父さんだけが、おじいちゃんの家に呼ばれなかったじゃないか。お前も大人になって、ああなりたいのか」
壁時計の秒針の動く音が聴こえる。
「伯父さん、行きたくなかったんじゃないかな」と健太はぽつり言った。
「馬鹿っ!」父の声に、マルチーズの耳がぴくっと動いた。健太の身体は固まる。父は台所の方へ顔を向けた。
「こんな屁理屈ばかりこねるのは、誰に似たんだ。お前だろ」
台所の、コンロのスイッチが切れる。鍋の音も消えた。廊下のきしむ音。途中で畳を踏む音に変わる。前掛けで手を拭く母が現れた。
「人聞き悪いこというわね」
「じゃあ一体誰に似たっていうんだ? 基樹兄貴か」
父のつばが健太の前の成績表にまで飛ぶ。母の眉がいびつに動いた。
「私はお前じゃありません。ちゃんとした名前があります」
母は台所前にある食卓の椅子に座った。健太は、これはチャンスだと悟った。あとはいつものように、母が男女平等論をかざしてくれさえすれば、長期戦となる。健太は足を崩して前に伸ばし、スラックスの上からふくらはぎをさする。感覚が戻るまでしばらくその姿勢でいたあと腹ばいになり、腹と腕でまだジンジンしている足をひきずりながら、歩腹前進をはじめた。空中戦の下をレーダーにひっかからないように、そろりのろり慎重に。
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