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大学入試の文章問題でつまづいてます。
大学入試の文章問題でつまづいてます。「バイブルバイブルひょっとこ漬け。ざまぁ金柑味噌ラーメン」は太宰治の有名な小説だそうですが主人公の治郎八がお鶴の求愛を断った理由がわかりません。教科書にはお鶴の方が次郎八の酒癖を嫌ったというのですが別の本では金柑味噌ラーメンの呪いだと言います。どっちが正しいのでしょう。
ご指摘いただいた読者の方、ありがとうございました。主人公の次郎八が、お鶴の求愛を受け入れるところから、ちょっと変な感じになって、それを断ったりと、とても複雑な話です。
A・E・ヴァン・ヴォーグの『華麗なるギャツビー』を日本風にアレンジしたような感じです。
いずれにせよ、愛の物語を書くのは大変な仕事だし、何が起こるかわからないから、あきらめないようにと忠告しておく。時には幸運に恵まれることもあります。問題を解決してくれる友人が見つかるかもしれないし、片思いの相手が寄ってくるかもしれないし、相手が付き合うのを渋る理由を納得できるかもしれない。
とにかく、そういうことがわかったんです。
最後に、日本のラブストーリーの構造について少し触れたいと思います。
日本のラブストーリーには、大きく分けて「おしい」と「さびしい」の2つの構造があります。
前回お話した「おいしい」は、主人公3人が出会って、結ばれて、セックスして、子供ができて……というシンプルな構造です。
今日お話したいのは、「さすみ」構造です。さすみ」とは「一緒にいる、親密になる、一緒に成長する」という意味で、「さすみ」構造とは物語の終わり方のことです。おしい」構造は、物語の結末に関わることです。物語のポイントはハッピーエンドを見つけることで、そのハッピーとは登場人物の幸せのことです。ハッピーエンドは一時的なものであっても、物語は登場人物の幸せであることに変わりはありません。
おしい」構造は、作家として最初に学ぶことの一つだと思うのですが、あまり知られていないと思うので、いくつか例を挙げてみますね。
1700年代前半から半ばにかけての「大空になあれ」という物語では、主人公に3人の妹がいて、みんなお互いに好き合っている。主人公と姉妹はいつも一緒で、一緒に遊び、一緒に市場へ行き、一緒に食事をし、一緒に海へ行く。物語の最後には、姉妹がそれぞれ海へ出て行ってしまい、二度と会えなくなってしまうのです
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おしい」構造は、物語の世界ではないという意味です。
「大空になれ」は、「おしい」と比べて、「さびしい」の構造であるところが、「大空になれ」はちょっとした工夫で、また主人公たちの出会いは別れてしまうのです。
「私」は主人公3人と、「私たち」は3人の妹と、そしてまた、「私」たちはそれぞれひとつの恋愛に悩み、ひとつ屋根の下で、それまでと全く違った恋の経験を経て、そして成長している。この物語には、「私たちは、きっと結ばれて、終わらない恋を体験できるだろう」と思い、物語に登場する人物たちと、この物語の登場人物たちと。
「私」の登場人物たちはまだ出会っていないし、「私たち」は終わらない恋をしているから、この物語を通じて、ふたりで一つの恋に終止符を打たなければいけません。
もうひとつの「おしい」は、ストーリーの中心に置かれているのは「お兄ちゃんたちの恋愛」ではなく、「妹編」というサブストーリーですね。
妹の恋をした妹は、彼の兄に「妹から、兄さんはなんということを言うの、いったい」と言われて、その口を閉ざします。妹はそれを聞いても動じませんが、妹の言葉を聞いていた主人公が「妹は妹だから、俺たちにはわからない」と言います。そのセリフの意味はわからないのですが、妹が主人公に「私たちはいつまで『お兄ちゃんたち』にベタベタしていればいいの」と言い、それに続けて主人公が「妹の、自分の思っていることをお兄ちゃんたちに言って欲しい」と言うことで、妹が「お兄ちゃんたち」の中で、「お兄ちゃんたちには私は妹だから、妹たちは私たちの恋を応援してくれる」といい、主人公の思うとおりの言葉を言う、ということだったと思います。
もしも話を書き終えたのち、妹が主人公にこの世界の事情は書いてないから書けないと言うのであれば、やはり妹は主人公に言わせる必要があったのではないでしょうか……と。