夜闇に包まれた貧民街に銃声がこだまする。 この近辺は普段はホームレスや売春婦が多数屯しているエリアなのだが、騒ぎに怯えて逃げたのか今は人っ子一人見当たらなかった。
これだけ銃撃戦が繰り広げられているというのに、警察が駆けつける気配もない。
“Let sleeping dogs lie”――ここで生きる者なら誰もが肝に銘じていることだ。それはたとえ警察であろうとも例外ではない。
(てめえのケツはてめえで拭け、ってな)
建物の外階段の陰に隠れ、息を潜めて感覚を研ぎ澄ませる。
こちらへ近づいてくる複数の足音。
(残りは1、2、3……いや、4人か……)
弾を装填しながら更に耳を澄ますと、焦りに満ちた男たちの怒声が聞こえてきた。
「本当にヤツは1人なんだろうな!?」
「仲間と合流する暇なんてなかったはずだぜ!!」
「でもたった1人にここまでやられるなんて……援護が来たんじゃねえのか!?」
…………うるせえ、どうせお1人様大絶賛営業中だよ! こちとら1人楽しすぎる才には定評があんだ…………あ、やべ、視界が霞んできた。
てか援護って何だ、お前らには俺様には見えない誰かさんでも見えてんのか? そんな電波なヤツは髭の店の眉毛バーテンだけで十分だっての。
そう言やあの眉毛、俺に霊が憑いてるとか言ってびびらせやがって。いや、びびってねえけどな! でもムカつくからあの髭ぜってー殴る。眉毛殴ったら呪われそうだから髭殴る。
そうだ、シロクマの用件片付けたら髭殴りに行こう。
行きつけのバーのマスターが聞いたら号泣しそうな決意を胸に秘め、煙草を燻らせる。
(さてと……そろそろ頃合だな。さっさと終わらせねえと)
銃を握る左手に力を込め、
「またあのシロクマが癇癪起こしちまうし……なあ!!」
「!!ってめぇ、」
「遅ぇよハゲが!!」
男たちの前に踊り出るやいなや、不敵な笑みを浮かべたギルベルトの銃が乾いた音を放った。
「……ああ悪ぃ。まだフサフサだったなケセセ」
しゃがみこんで、地面に転がる男の頭を銃の先で小突く。ギルベルトの周囲には、その男の他にも数人の男たちの身体が転がっていた。
いずれも先刻までは生命活動を保っていたものだが、こうなってしまえばただの肉塊だ。人を撃つことに胸糞悪さを覚えたのは最初だけだった。次からは人を撃つのも看板を撃つのも大差ない。撃つのをためらえばこちらが肉塊になるだけだ。
強い者が勝って生き、弱い者が負けて死ぬ。キンダーガルテンのお子様でもわかる単純明快なルール。
それだけでこの都市は成り立っている。
(生憎、ここにゃキンダーガルテンなんて高尚なもんはねえけどな)
ギルベルトは紫煙を立ち昇らせながら肉塊を1つ1つ検分していく。しかし、見知った顔は1つもなかった。
ことの始まりは30分程前だった。雇い主から呼び出され、徒歩でその邸宅に向かっていたときである。
突如、ギルベルトの脇に遮光フィルムの貼られたワゴン車が停まり、数人の男たちが物々しく降りてきた。そしてギルベルトを車に押し込めようとしたのだ。
もちろん易々と拉致されるギルベルトでもなかったが。
(見も知らねえ他人から狙われる覚えなんざ…………うん、心当たりがありすぎる。ありすぎて皆目見当がつかねえ)
重要な手がかりとなる実行犯たちは皆、ギルベルトの足元で事切れていた。素直に拉致されておけばアジトくらいは突き止められたかもしれない。現状では黒幕の存在の有無や一味の規模など、わからないことだらけだ。
己の失態に舌打ちし、苛立ち紛れに転がっていた空き缶を蹴り上げる。
「……つぅか何でどいつもこいつも死んじまってんだよっ! 弱っちすぎんだろが! 1人くらい生き残って何かゲロする根性くらいねえのかよ殺すぞ!」
「もう死んどるっちゅーねん」
聞き慣れた声。振り向くと、果たしてそこには知己の顔があった。
「トーニョ」
アントーニョ・ヘルナンデス・カリエド。
この街を二分する老舗ファミリーの1つ、ヴァルガスファミリーの幹部である。もう1つはギルベルトが所属するブラギンスキファミリーだ。
ヴァルガス家の先代のドンは数年前に他界し、その孫であるヴァルガス兄弟が次期ドンに就任することになったのだが、2人ともまだ幼かったためドンの名を継ぐことに反対する者も多かった。そこで先代のドンの腹心であったアントーニョがその後見人に任じられたのだ。
ヴァルガス兄弟が成長した今は彼らの護衛を務めている。ヴァルガス家のNo.2とも言える男だ。
現在はヴァルガス家とブラギンスキ家は友好関係を保っており、その縁もあってアントーニョとは良い飲み仲間という間柄でもあった。
あくまで表向きは、だが。
アントーニョはゆっくりとギルベルトの方へ歩を進める。
(こいつ、いつからいたんだ? 気配はまったく感じなかったのに……)
底知れない男だ。できることなら敵に回したくない。
そんなギルベルトの心中を知る由もなく、アントーニョは大仰に肩を竦めると場違いに能天気な声を上げた。
「大体なあ、お前のボキャブラリーは『ハゲ』とか『殺すぞ』とか、子供の悪口レベルやねん。ええ大人なんやから、もうちょっと粋な言い回しせんとカッコつかへんで」
「はぁ? 何だそれ。んなもんに粋もクソもあるかよ」
「あるわボケ! せやな、例えば『ケツの穴から手ぇつっこんで奥歯ガタガタ言わせたろか!?』とか」
「イヤそれは粋じゃねえだろ!?」
「めっちゃ粋やっちゅーねん! カッコええっちゅーねん!」
「ドコがだよ! 俺様的には『我こそは黒衣を纏いし白の騎士! 今宵こそ貴様らを地獄の業火で焼き尽くしてくれる!』みたいな方が」
「厨二くさっ! まず黒か白かはっきりせえや」
「ヒドイ!」
「で、何がどうしてこうなったん?」
アントーニョはひょいとしゃがみこみ、ギルベルトの足元に横たわる骸を興味深げに見つめている。
この男の話題の切り替えが唐突なのはいつものことだ、いちいち気にしていたら身がもたない。
ギルベルトは頭をがしがしと掻き、銜えていた煙草を投げ捨てた。
「拉致られそうになったんだよ。正当防衛だ」
「過剰防衛の間違いやろ。さっきの言い草からすると、こいつらの素性はわからへんのやね」
「ああ」
「ふぅん。それは残念やわあ」
「何が残念なんだよ」
「やって、こいつらがブラギンスキ家に楯突こうとしとる奴らなら、うちとええオトモダチになれたかもしれへんやん?」
「…………おいトーニョ、てめぇ」
ギルベルトはアントーニョに剣呑な視線を走らせた。が、目の前の男はニコニコ笑っているだけだ。
このいかにも人畜無害そうな笑顔が曲者なのである。笑ってはいるが無表情と同じ。本音がまるで見えてこないのだ。
殺気立ってアントーニョを睨みつけるギルベルト。2人の間に緊張が走る。
――――数秒後、張りつめた空気を破ったのはアントーニョの方だった。
「…………ぷはっ! 冗談やって! そない怖い顔せんといて!」
視線を逸らし、我慢できないといったふうにげらげら笑い転げている。
(――――あながち冗談でもねえくせに)
ヴァルガス家が――――野心に満ちたこの男が、こんな二大勢力の仲良しごっこに満足して終わるはずがない。こいつがこの街の覇権を一手に握るのを諦めるわけがないのだ。
ただ、今はまだ行動を起こす時期じゃねえってだけのことだ。お互いに、な。
ギルベルトは軽く肩を竦めた。
「ったく、全然笑えねえぞ。うちとヴァルガスは休戦中なの忘れんなよ」
「せやねー。うちかてブラギンスキとは揉めとうないで。そんなんなったらこの街壊滅してまうわ」
けらけらと笑いながら物騒なことを言うアントーニョに、ギルベルトは呆れを隠そうともしない。そんなギルベルトには構わず、アントーニョは続ける。
「けど、やっぱりいい腕しとるよなあ、”Conejito”? さっきの見てたけど勝てる気せえへんかったわ」
ギルベルトは不機嫌な赤の眼差しをアントーニョに投げつけた。
「その呼び方やめろっつってんだろ!」
「やって皆そう呼んどるもん。白くてお目目赤くてぴょこぴょこ動くから『うさちゃん』やて」
何でこんなカッコいい俺様が“うさちゃん”なんだよ最初に言った奴ぶん殴るどうせあの髭だろよし殴る、とぶつぶつ口の中でぼやきながら、ギルベルトは新しい煙草に火を点けた。
一方のアントーニョは、鼻歌まじりに遺体の顔をしげしげと眺めたり衣服を弄ったりしている。どうせ掃除屋に片付けさせるのだ、現状保存する必要もない。好きにすればいい。
ん、と1本振り出した煙草を差し出すと、アントーニョは「Gracias」と抜き取った。掌中にあったオイルライターも投げて寄越してやる。
シュポ、という心地よい音とともに立ち昇る紫煙を、ギルベルトはぼんやりと眺めていた。
「…………負ける気もしなかったんだろ?」
ギルベルトの質問には無言の笑みが返されただけだった。
まったく。食えない奴だ、と内心舌を巻く――――だがそうでなければ、何も後ろ盾のない男がこの若さで組織の幹部に成り上がれるはずもない。
銃もかなりの凄腕だという評判だが、ギルベルトはこの男が銃を抜く場面に居合わせたことがない。敵に回したくないと思う一方、一度は一戦交えてみたいと思うのもまたガンマンとしての本能だろう。
「これ、おおきに」
この話は終わり、とばかりにすっと立ち上がると、アントーニョはオイルライターをぽんと投げ返して踵を回らせた。
が、はたと思い出したようにギルベルトに軽い調子で声をかける。
「親分、今からフランシスの店行くねんけど、ギルも来えへん? フラン、最近ギルちゃん来てくれへんってぼやいとったで」
「ああ……そうしたいのは山々なんだけどよ。シロクマに呼び出されてんだ」
「へーそうなん。こんな時間に」
「時間外労働もいいとこだ。人使い荒すぎんだあの野郎」
「そゆことやったらしゃあないな。イヴァンによろしゅう」
「あんまりよろしくしたくないぜー……」
「まあそう言わんと。上司は大事にせんとな。食いっぱぐれてまうで」
「お前の上司はあの天使ちゃん達だからそんな気楽なこと言ってられんだ。はあ、俺もヴァルガスで働きてえぜ」
「やめてや、そんなんほんまにブラギンスキ家と全面戦争になってまう。ギルちゃんイヴァンの愛人やねんから」
「愛人じゃねえっつってんだろ! 秘書だ秘書! 秘書兼護衛!」
「はいはい。マフィアボスの愛人のうさぎちゃんやろ」
「てめぇ!」
思わず拳が出る。だがアントーニョは「きゃー怖いーぼうりょくはんたーい」と、ふざけた調子でひらりとかわし、つんのめったギルベルトが体勢を立て直したときには曲がり角の向こうへ消えようとしていた。
「ムキになって否定するとこがますます怪しーわあ」
「ちっ……」
「油売っとらんと、早う行った方がええんちゃう? イヴァンがお待ちかねなんやろ」
「ふぁ? …………うぉ、やべえ! もうこんな時間じゃねえか!」
コートの内ポケットから携帯電話を取り出して確認すると、約束の時間はとうに過ぎてしまっていた。夥しい数の着信があったような気がしたが、それは見なかったことにした。
「ほな親分もう行くわ。……せや、煙草のポイ捨てはあかんで」と言い捨てて足早に去ってしまうアントーニョ。
1人ぽつんと残されたギルベルトは、「ああした方がカッコつくじゃねえか」と呟きながら、先程投げ捨てた吸殻を拾いあげて携帯灰皿に押し込んだ。
掃除屋への依頼など、騒動の後始末を済ませて目的の邸宅に到着したときには、すでに約束の時間から2時間近くが過ぎてしまっていた。
厳めしい両開きの門の前に立ったギルベルトは、沈鬱な表情を浮かべる。
(あいつ、怒ってんだろうなあ……)
覚悟を決めて門の脇に設置されているチャイムを押すと、頭上でジジ……と微かな音がする。監視カメラで来訪者の確認をしているのだ。
ほどなく門の鉄扉がギギギ……という重々しい音を立てながら自動で開いた。そして訪問者が門をくぐりぬけると背後でガシャン、と耳障りな音を立てて閉まるのである。
何度経験してもこの瞬間がどうにも苦手だった。まるで監獄に閉じ込められたような気分になってしまうのだ。
だが、幸い、と言っていいのか定かではないが、数々の凶悪な所業にも関わらず、実際に監獄に暮らした経験はない。
エントランスから続く長い廊下を通って、突き当たりの広間にある螺旋階段を上る。
この屋敷は2階建てで、1階部分には会合やパーティーなどに使われる広間や応接室、宿泊もできる客室、そしてイヴァンの側近たちの私室がある。水を打ったように静まり返っているところをみると、皆もう休んでしまっているのだろう。物音を立てないように気をつけながら階段を上がっていく。
イヴァンには姉妹がいるが、身の安全のためにこの屋敷には住んでいない――とは言っても、妹の方は側近たちより腕が立つほどの強者であるのだが。
ただ彼女は、いかんせん兄への愛が強すぎた。
昔、イヴァンの首を狙う輩が、厳しい警備の網をかいくぐって屋敷内に潜り込んできたことがあった。そのときたまたま居合わせた妹君の暴走……いや、活躍ぶりは、もはや伝説だ。ギルベルトにとってはトラウマですらある。
以来、ギルベルトもイヴァンと同じく、「妹君には私邸で大人しくしていただいているのが一番」と結論づけている。
屋敷の2階部分はすべてイヴァンの私的スペースで、バス、トイレなどもあり、2階部分だけで一家族が十分に生活できる広さと設備があった。このフロアに足を踏み入れることを許されているのは、イヴァンの姉妹以外ではギルベルトだけだ。
イヴァンからは何度も一緒に住むように提案されているが、のらりくらりとはぐらかし続けて早数年。
上司と四六時中顔を突き合わせる生活なんてまっぴらごめんだった。
目的の主がいる寝室のドアの前に辿り着き、コンコン、と軽くノックをする。
「遅くなって申し訳ありません、同志。バイルシュミットです」
……反応がない。嫌な予感しかしない。
(部屋の中から禍々しいオーラを感じるぜ……)
気圧されつつも、もう一度ノックをしようとしたとき、部屋の中から「……聞こえてる。入って」と重低音がした。
(うわ、トーン低っ。何かコルコル聞こえるし!)
だがアントーニョの言うとおり、上司は大事にしなければ。こちとら生活がかかっているのだ。半ば自棄になって思い切ってドアを開ける。
件の男は、豪奢な革張りのソファに腰掛けてにこやかにこちらを見ていた。
……アントーニョとは違う意味で笑顔が怖い。
そして彼の両手には、宝物のように水道管が握られていた。
(あの水道管、何かトマトソースみたいなのついて……いや、深く追求するのはやめとこう)
目の前の男を直視できなくて、部屋の中を何とはなしに見回す。
この部屋を訪ねるのは久しぶりだった。
白い木製の大きなベッド、白革のソファに濃いブラウンの木目が美しい曲木ガラステーブルなど、品のよい調度品でまとめられてはいるが、所々に姉妹から貰ったのか、あるいは自分で購入したのか、向日葵の柄のマグカップや可愛らしい熊の大きなぬいぐるみなどが置かれているのが微笑ましくもある。
が、部屋の主であるシロクマは微笑ましさとは対極の存在だ。
「あー、あのですね、同志。遅くなってしまったのにはわけが……」
「いいから座れば? で、何で敬語なの?」
「お前が怖ぇからだろうが! とにかくコルコル言うのやめろ! んでその水道管しまえ!」
「えー……」
涙目になって訴えると、若干不服そうではあったが大男は素直に応じて水道管を部屋の片隅へと置いた。
よかった、この程度のご機嫌斜めなら暴れられずに済みそうだ。
イヴァンがソファにぽすん、と座り直す。ギルベルトはその横に少し離れて座った。
先に口を開いたのは、イヴァンだった。
「大体の事情は聞いたよ。アントーニョ君が連絡をくれたから」
「ふぁ? トーニョが?」
「うん。アントーニョ君ね、君を狙った人たちのこと、フランシス君に調べてもらったんだって。どうやらこの街で一旗揚げようって余所から最近流れてきた人たちみたいだよ。居場所もわかったし、今トーリスたちにお片付けに行ってもらってる」
階下が静かすぎるほど静かだったのはそういうわけか。どうにも穏やかでない「お片付け」なこって。
「でもさあ」
ふと横を見ると、「ずもももも」という効果音が似合いそうなイヴァンの笑顔があった。
え、ちょ、待て待て待て近い近いてか怖ぇぇぇぇ!!!!!
「連絡することくらいできたよね? 君、携帯電話を携帯してないの馬鹿なの死ぬの? 僕、ずっとずーっと待ってたのに電話もないからイラっとしちゃってちょっとだけライヴィ」
「わわわわ悪かったってマジでごめんって!!」
ライヴィスは無事なのか生きてんのかライヴィスゥゥゥゥゥ!!!
て他人の心配をしてる場合じゃねえ、この迫りくるシロクマをどうにかしなきゃ俺が一人トマティーナになっちまう!!!
と、そのとき、焦りに焦るギルベルトに救いの手を差し伸べてくれるかのようにイヴァンの携帯電話が鳴った。「お片付け」中のトーリスからである。イヴァンは面倒くさそうにしながらもそれに応じてギルベルトから離れた。
……何というグッドタイミング!! トーリス、お前には俺様栄誉賞をくれてやるぜ!!
暫く電話中のイヴァンの言葉に耳を傾けていたが、その口ぶりから察するに、「お片付け」は滞りなく終わってその現場にライヴィスもいるらしい。
よかった……ライヴィス生きてた……。
話が長引きそうだったので、同じ階にあるキッチンへ行き、紅茶を淹れてやることにした。
多数ある茶葉から、イヴァン好みのものを選ぶ。自分には濃いブラックのコーヒーを。神経を覚醒させておいた方がいい、今夜は長い夜になりそうだ。
美味い紅茶の淹れ方を眉毛のバーテンに教わったのだが、どうにもまだ自分の腕では満足できる味は出せなかった。
(あいつ、紅茶だけは美味いからな。紅茶だけは)
ついでにお茶菓子も、と最下段のラックを漁ってクッキーなども用意する。たまにここでイヴァンに料理を作ってやることもあるから、このキッチンの使い勝手は心得ていた。
飲み物を持って部屋に戻ると、イヴァンはまだ電話中だった。イヴァンの声を背後に聞きながらソファに腰をおろして、熱いコーヒーを啜る。
(――トーニョの奴、やっぱりあいつらと組むことを考えてたんだな。おそらく、奴らのことを調べてみたが組むに値しないと判断し、その情報をこっちに流したってとこか)
アントーニョとしては、奴らがブラギンスキの者に手を出すのを諦め、攻撃の矛先がヴァルガスに――ロヴィーノに向きでもしたらたまらない。そんな面倒な事態になる前にこちらで片付けさせたかったのだろう。「てめえのケツはてめえで拭け」ということだ。
アントーニョの思惑はどうあれ、結果的には煩わしい小バエの集団が1つ消えただけのことである。何も問題はない。
「……ボスの家族を誘拐、かあ。昔からの王道だよね」
ぽつりと漏らされた呟きによって、意識がアントーニョのことから背後の男に引き戻される。
イヴァンは電話をガラステーブルの上に投げ出してギルベルトの隣に座り、「スパスィーバ」と紅茶を口にした。どうやら先程までの超絶恐ろしいご機嫌斜めモードは解除されたようだ。
よかった……ほんとによかった……。
生きた心地がしたところで、コーヒーの黒い水面に視線を落として今のイヴァンの言葉を反芻する。
「ボスの家族の誘拐」。なるほど、それがあの一味の狙いだったわけだ。
ああ、そう言えばこいつも、ガキの頃に誘拐されかけたことあったな。あんときは……
…………ん? 今こいつ、何て言った? 「家族」だと? 誰が? 俺が?
「ちょっと待て、俺はお前の家族になった覚えはねえぞ」
「愛人なんだから家族も同然、て思われたんじゃないの?」
ブハッ!
……思い切りコーヒー噴いちまったじゃねえか!!!
「おいおいおい冗談じゃねえっつの! トーニョにも言われたけど、俺って世間じゃそんな認識なのかよ!」
「え、だって事実じゃない」
「事実無根だ! 濡れ衣だ!」
「濡れ衣ってどういう意味かなコルコルコル」
「全身全霊すみませんでした!!」
はー、危ねえ。また怒らせるとこだったぜ。
……じゃなくて!
何でそんな誤解が生まれてんだ!
俺とこいつは単純に労働契約に基づく雇用主と労働者という関係だ。それ以上でも以下でもねえ!
「ここは禁煙だって言ったでしょ」
苛々して胸元の煙草に手を伸ばしたら、イヴァンに咎められた。
「んな変な噂立ってんだぞ! 吸わなきゃやってらんねえだろが!」
「もう。そんなに気に入らないなら『俺はイヴァンの愛人じゃねえ!』って叫びながら街を走り回れば? そしたら皆わかってくれるかもよ」
「んなの恥ずかしすぎる! 恥ずかしすぎて死ねる!」
「そう? 僕は『ギルは僕の恋人だよー』って叫びながら街を走り回れるよ?」
「頼むからするなよ!? 絶対にするなよ!?」
「それって本当はしてほしいってことなんでしょ? フランシス君に教えてもらったもん、嫌よ嫌よも好きの内って」
「それ何か違う! つぅか余計なこと吹き込みやがって、あのクソ髭毟り取る!」
――――そんな下らないやり取りはしばらく続き、結局は「掃除屋さんの費用は自腹で払ってね☆」と言うイヴァンに対して「経費として認めてください!」と土下座で懇願するギルベルト、という構図で幕を閉じたのであった。
「納得いかねえ」と、掃除屋の件についてぶつぶつ文句を垂れつつ、ギルベルトはソファに寝転がりバイク雑誌を広げた。前にこの部屋を訪れたときに忘れていったものだ。
ひとしきり不満を垂れ流して諦めがついたのか、ギルベルトの意識はすぐに雑誌の方に奪われた。「これくらい買ってあげるよ」と一緒に雑誌を眺めていたイヴァンは申し出たが、ギルベルトには「んなことしたら妙な噂がますます広まりそうじゃねえか! それに、こんなもん俺のアパートの前に置いてたら1時間もしねーうちに跡形もなくなっちまうだろうよ」とばっさり断られてしまった。
だったら尚更のこと警備の厳重なこの屋敷に住めばいいとイヴァンは思うのだが、ギルベルトがそれをよしとしないのはわかりきったことだ。
楽しそうに雑誌を繰り、「あーコレかっけえ!」などと大きな独り言を大量生産しているギルベルトを横目に眺めながら、イヴァンはティーカップを手に取る。先程ギルベルトが淹れたその紅茶は、とっくに冷めてしまっていた。
「そう言や、俺を呼び出した用件は何だったんだよ。このドタバタですっかり忘れてたけど」
今になってようやくここへ来た本来の目的を思い出したギルベルトは、雑誌から視線を外してイヴァンを仰ぎ見る。大きなソファの上で、うつ伏せで雑誌を繰るギルベルトの鼻先にイヴァンが座っている状況なので、自然と見上げる形になる。
イヴァンが何だか寂しげに見えたのは、この右下の角度からその横顔を眺めた経験がないせいだと思うことにした。
「ああ、それはもういいんだ」
「はあ? どういうことだよ」
その言葉の意味が飲み込めず、問い詰めようと雑誌を閉じて身を起こしたそのとき、イヴァンがぽつりと呟いた。
「君に会いたかっただけだもん」
「あっそ…………って、はああああああ!?」
「怖い夢見て目が覚めちゃったの。また眠ろうとしたけど眠れなくて、無性に君に会いたくなっちゃって」
「……………………」
ギルベルトは言葉を失ってイヴァンをまじまじと見た。呆れてものも言えないとはこのことだ。
ああ、わかっていた。わかってはいたけど、まさかここまでとは。ここまでこいつがガキだったとは。夜更けに「お願い、今すぐ来て」なんて電話があるから、てっきりファミリーの一大事かと思えば……
「……ふふ、子供だって思ってるでしょ?」
「人の思考を読むな!」
「ギルが単細胞なだけじゃない」
イヴァンはギルベルトに悪戯っぽく笑いかける。
「子供でいいもん。ギル、子供好きだもんね?」
「…………アル中で聞き分けなくてすぐ癇癪起こして水道管振り回す子供は嫌いだ」
「えーそれ誰のこと?」
ニコニコと無邪気に微笑むイヴァンの両手にはいつのまにか水道管がしっかりと握られていた。
「だぁぁぁぁもう! わぁったよ、お前が眠るまで羊数えてやるからとっとと寝ろ!」
「君のしゃがれた声で数えられても眠れるとは思えないよ」
「何言ってやがる! 俺様、地声は超絶イケメン声だぜ! エドァルドと聞き間違えるくらいにな! 10匹と数えない内に眠りにつかせてやんよ!」
「はいはい。イケメン声もいいけど、それより僕、君の可愛い声聞かせてほしいなあ。ベッドの上で」
「――――――どこでそんなマセた台詞覚えてきやがんだああああこのクソガキ!!!」
「フランシス君に教えてもらったの。あははー、ギルってばおもしろーい☆ 顔真っ赤だよー」
「――――もういいっ!! 俺様帰るっ!! そんであの髭燃やす!!」
何なんだよこいつほんとワケわかんねえ!!!
――――さっきあんな寂しそうな顔してたから、ちょっと心配したってのによっ!!
ソファから立ち上がり、ポールスタンドに掛けておいたコートを乱暴に引っ掴んで部屋を出ようとした、そのとき。
「行かないで」
突然、耳元で声がした。
状況を理解するには数秒の時間が必要だった。
――――――イヴァンに後ろから抱きすくめられている、というこの状況を。
「は、え? な、な、何なんだよ? 離せっ、コラ! 俺様帰るっつってんだろ!」
じたばたともがくも、ギルベルトを抱きしめる両腕はびくともしない。一対一の喧嘩ならばあの手この手で勝てる自信はあるが、単純な腕力勝負ではこの大男にかなうわけがなかった。「この馬鹿力! 離せってこのシロクマが! 離さねえと怒るぞ!」などと罵声をあげて暴れるも、イヴァンはギルベルトの肩に顔を埋めて黙りこくったままだ。
それでも諦めず抵抗を続けていると、イヴァンが震える声で呟いた。
「だから、帰らないでって言ってるのっ」
「――――っ、お、俺様は、帰るって」
イヴァンの腕に、一層の力が込められた。
「――――――あの人、の、夢だったんだ」
「――――っ、」
――――鼓動が、止まる。息ができなくなる。
イヴァンの言う「あの人」が誰なのか、ギルベルトは知りすぎるほどに知っている。
この掃き溜めで生きていくための、あらゆる術をギルベルトに教えてくれた人。
そして、ギルベルトの心の奥底に、消えることのない深い想いと傷跡を刻み込んでいった人――――――
「今、彼のこと考えてるでしょ……?」
俯いたまま大人しくなったギルベルトのうなじに、イヴァンは軽くキスを落とす。
瞬間、ギルベルトの身体がびくりと跳ねた。だが、ギルベルトからは何の言葉も返ってこなかった。
イヴァンはまたギルベルトの肩に顔を埋めて、悲愴な声で話す。
「夢でね、あの人がね、君を連れてっちゃうんだ。僕が追いかけても、君は見向きもしてくれなくて、あの人だけ見てて、っ、幸せ、そうに笑ってて――――」
「……………………」
「……ねえ、ギル。僕を憎んでる…………?」
「――――それは、」
ギルベルトの喉がひゅ、と鳴る。だが、続きが言葉になることはなかった。
イヴァンは悲しげに、ふ、と吐息を漏らす。
「……そうだよね。憎まれて当然だよね。僕、君に酷いことばかりしてきたもの」
あまりに悲痛な声。
「あの、な。イヴァ、」
思わず肩越しに振り返ると、揺れるアメジストの瞳と視線が合った。
――――あ、泣きそう――――
アメジストが近づいてくる。
――――抵抗しようとは思わなかった。
軽く唇と唇が触れ合う。何度も何度も、啄ばむようなキス。
最後にちゅ、と大きくリップ音を立てて、イヴァンはゆっくりと離れていく。
アメジストが零れる瞬間を見たくなくて、ギルベルトは視線を自分の足先に落とした。
「ギル、お願い。今日泊まっていってよ。1人にしないで。お願いだから……」
後ろから抱きしめる腕が震えているのに気づいていないわけじゃない。
――――だけど、今は。
まだ、もう少し時間がほしい。
震える大きな腕に手を添えてゆっくりと解き、背後の男に向き直る。
アメジストが今にも溢れ落ちそうに揺れ動いていた。
――そんな顔をさせたいわけじゃない。けれど、今はまだ――――
「…………それは命令、でしょうか? 同志」
「――――意地悪」
「意地悪で結構だ。とにかくもう寝ろ。――お前が眠るまで、ちゃんとここにいるから」
「……ん……」
アメジストの瞳から、いくつもの滴が零れ落ちた。
――――もう少し、時間がほしい。
でもそれは一体いつまでなのだろう。
いつになったら、自分はこの男に、そして自分自身に答えを出してやれるのだろう。
この男に凄まじい嫌悪や憎悪を抱いたことも、さほど遠い昔の記憶ではない。
だが、心の底から憎むには、ギルベルトはこの男のことを知りすぎた。その悲しさや寂しさ、そして不器用な優しさを――――
(こいつを憎んだってしょうがないことはわかってる。頭じゃ理解してんだ。でも……)
失ってしまった今でも、はっきりと感じられるのだ。
目を閉じれば「彼」の声が聞こえる。頬に触れる「彼」の指先の感触も、首筋にかかる息遣いも、まだこの身体は忘れられずにいる――――
(憎んでない、って言ってやれればいいんだろうな。だけど)
「ごめんな。俺はまだあいつとのことを、『思い出』なんて呼べねえんだよ……」
讃美歌を口ずさむのを止めて、ベッドですやすやと寝息を立てるイヴァンのプラチナブロンドを軽く梳いてやると、ギルベルトはスツールから立ち上がり静かにイヴァンの寝室を後にした。
「嘘つき。眠るまでここにいるって言ったのに……」という小さな声がギルベルトに届くことはなかった――――
階下への階段を下りていくと、ちょうど「お片付け」から帰還したトーリスたちに出くわした。
「あれ、ギルベルト。帰るの?」
「ああ。で、そっちはどうだったんだ?」
「すぐ終わったよ。ただ、まだ別の場所に潜んでる仲間がいるみたいでね。そっちはエドァルドに追ってもらってる。俺たちはイヴァンさんの警護にいた方がいいと思って」
「そっか」
「ギルベルトもここにいた方がいいんじゃない? また狙われるかもしれないよ」
「いや、大丈夫だ。自分の身くらい自分で守れるからよ」
ちら、とトーリスの隣にいるライヴィスを見やる。……頭の包帯はもしかして……。
イヴァンには「苛ついたからって部下に当たるな」ときつく言わなければ。……「きつく」言えるのかは甚だ疑問だが。
「ライヴィス、あー、その、迷惑かけたみたいで悪かったな」
「大丈夫ですよ。……いつものことですから……」
「ギルベルトがイヴァンさんを怒らせさえしなきゃ……」
「え、俺が悪ぃのかよ!?」
苦笑を浮かべるライヴィスとトーリスに若干の罪悪感を覚えつつ、2人と別れて屋敷を後にした。
歩を進めながらも脳裏にちらつくのは先刻見た大男の泣き顔ばかりだ。
「……イヴァン」
ふと立ち止まって、その名を呟いてみる。声は白い息となって夜にかき消えた。
イヴァンが「彼」のことにふれたのはあのとき以来だ。あのときからずっと、俺たちはそこから目を背けてきた。
……いや、踏み出せずにいるのは俺の方か。けれど……。
ギルベルトは頭をがしがしと掻いた。
……駄目だ。思考がまとまらない。明日も早いんだ、さっさと帰って寝るに限る……とは思うが、こんなぐちゃぐちゃな頭では眠れそうにない。
フランシスの店にでも行くか。あそこは朝までやっているからトーニョもまだいるかもしれない。それぞれ腹に一物ある奴らとはいえ、トーニョやフランと飲む酒が美味いのは事実だ。朝まで飲んだくれていい気分になれば、きっと全部忘れられる。それにあの髭、毟り燃やしてやらねえと――――
ギルベルトは目線だけで周囲を窺い、アパートとは反対の方向へと踵を返した。
ギルベルトがフランシスの店へと向かっていたその頃、一台の車がドラッグの売人や売春婦、またその客たちなどで賑わう通りを滑り抜けていた。
後部座席に座る金髪碧眼の体格のよい青年は、そんないかがわしい街の景色を睨めつけている。その隣の栗毛の青年は携帯電話を切り、心配そうに金髪の青年に声をかけた。
「ルートヴィッヒ、アントーニョ兄ちゃんと連絡ついたよ。さっき話したよね、ここで俺たちがお世話になる人。ルートが疲れてないなら、一旦俺の家に行って荷物置いてからトーニョ兄ちゃんと合流したいんだけど……」
「……………………」
ルートヴィッヒと呼ばれた青年には栗毛の青年の声は届かなかったようだ。先程と変わらず窓の外を睨みつけている。
逡巡しながらも、栗毛の青年は金髪の青年の肩に軽く触れた。
金髪の青年はびくりと肩を揺らして栗毛の青年を振り返り、表情を和らげる。
「ねえ、ルート。あんまり思いつめないで。俺の知ってるその人がお前のお兄さんって決まったわけじゃないんだから」
「あ、ああ、すまないフェリシアーノ。大丈夫だ、わかっている。危険なことはしない。……だが、やっと掴んだ手がかりなんだ。この13年間、ずっと探してきてやっと……。髪の色も眼の色も年齢も、名前すら一致しているなんて偶然だとは思えない。だからその人が、に……兄貴だという気がしてならなくて……」
「ルート……」
俯いて膝の上で震える拳を握りしめるルートヴィッヒに、フェリシアーノは何と声をかけていいかわからなかった。
「……と、とにかく、家に戻ってからアントーニョ兄ちゃんのいる店に行くってことでいい? 少しでも早くアントーニョ兄ちゃんに話しておいた方がいいと思うし。そうだ、今から行く店のマスター、フランシスっていう人なんだけど俺の知り合いで……」
何とかルートヴィッヒの緊張をほぐそうと他愛ない話を続けてみるも、肝心の彼の耳にはまた何も届いていないようだった。
(もし……もしあの人がルートのお兄さんだったとしても……。2人が傷ついてしまったら俺のせいだ。俺が余計なこと言っちゃったせいで……。――――神様どうか、どうか2人をお守りください)
フェリシアーノは神にすがることしかできなかった。
それぞれの思いを乗せ、車は夜の闇に溶けていく。
――――道を急ぐ銀髪の男とすれ違ったことにすら気づかないままに。
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