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「オルレアン」はカウンター席8つ、テーブル席6つほどの広さがあるこの街では珍しいタイプの瀟洒なバーで、メニューにはないがマスターに頼めば即興で料理も出してくれて、それがまた絶品ということもあって常に客足の絶えない人気店だ。 だが「オルレアン」のマスター、フランシス・ボヌフォワは「店は趣味みたいなものさ。実益も兼ねてるけどね」と臆面もなく言い放つ。
と言うのは、フランシスの本業は情報屋だからだ。
彼に依頼すればどんな情報であろうと――例えブラギンスキ家やヴァルガス家に関わるものであろうとも――見合った対価を支払いさえすれば正確なものを入手できるため、フランシスはこの街では名うての情報屋としての地位を確立していた。
ギルベルトが店のドアを開けると、カウンターを挟んで談笑していた2人の男がこちらに視線を投げかけてきた。フランシスとアントーニョだ。他には3~4組の客がいて、時折どっと笑い声なども上がる店内は心地よいざわめきに満ちていた。
「あれ、ギルちゃん。今夜はイヴァンのとこやなかったん?」
「なになに~? 2人で熱い夜を過ごすはずが喧嘩して追い出されちゃったとか~?」
ギルベルトはによによと笑うフランシスをジロリと睨みつけた。
「おいコラ髭。毟るぞ」
「ええ!? 毟るって何を!?」
「そりゃナニやろ。決まっとるやん」
「何で!? って言うか、トーニョまで酷くない!? お兄さん助けてよ!」
「ええやん、遠慮せんと毟られとけや~」
大仰に泣き真似をするフランシスには構わずに、アントーニョはちびちびとグラスに口をつけている。その隣の席にギルベルトはどかっと腰を下ろした。フランシスは泣き真似をやめて「トーニョってば冷たーい」などと口を尖らせてギルベルトに向き直る。
「ギルちゃん何にする?」
「いつもの」
「カッコつけないでビールって言いなよ。て言うかさあ、たまには違うもの頼んでよ。今日はヴィンテージが手に入ったんだよ?」
「どうせ盗品だろが。いいからビール出せよ」
「ギル、それは言いっこなしやで。まあええやん、フラン。あれはギルにやるんは勿体ないわ、何でもガブ飲みしてまうからなあ」
「あはは、確かにそうだねえ」
アントーニョとフランシスは軽口を叩いてギルベルトをからかうが、ギルベルトは頬杖をつき伏し目がちにして黙り込んでいるだけだった。
いつもと違うギルベルトの様子にアントーニョとフランシスはきょとんとして目を見合わせる。
ギルベルトに声をかけようとするアントーニョをフランシスは困ったような微笑を浮かべて手振りだけで制止し、カウンター奥のキッチンに呼びかけた。
「坊ちゃん、ビールー」
「さっさと持ってこいや眉毛」
「眉毛って言うな! このトマト野郎が!」
キッチンからバーテンのアーサーがポコポコと怒りを露に顔をのぞかせ、そしてギルベルトの姿を認識すると表情を輝かせた。
「ギルベルト! 来てたのか」
自分を呼ぶ声にギルベルトは気だるげに目線を上げた。
「ああ、さっきな。早くビールくれよ眉毛」
「眉毛って言うなって言ってるだろうが! てめえだって『バニー』とか呼ばれてるくせによ!」
アーサーが更にポコポコ湯気を立てながらギルベルトに突っかかったが、一同の予想外なことにギルベルトからの反撃はなかった。
こういう場面では「眉毛よりはマシだバーカ!」「お前知らねーのかバカって言う方がバカなんだぞ!」などと小学生レベルの応酬が繰り広げられるのが常なのだが、ギルベルトは口を噤んだまま再び視線を落としてしまった。
そんなギルベルトの様子に拍子抜けしたのかアーサーは視線だけでフランシスとアントーニョに問いかけるが、フランシスは肩を竦め、アントーニョは「……腹でも下しとるんちゃう?」と呟くだけだった。
アーサーがギルベルトの前にビールジョッキを置いたのにも気づかずに、ギルベルトは相変わらず思考の海に沈んでいた。
(……泣いてたな……)
イヴァンの泣き顔を見たことがないわけではない。寧ろ、イヴァンはギルベルトの前ではよく泣く。
先日などは、姉から貰ったお気に入りのティーカップを割ってしまったと言ってびいびい泣き、宥めるのが大変だった。
俺様ってもしかして「秘書」じゃなくて「ベビーシッター」なんじゃねえのか。と、ギルベルトは半ば本気で思うことが多々あるのだ。
けれど、今日のように何かに堪えるように、怯えるようにイヴァンが泣いたのは――――
(ああ……あのときか。俺がしくじって……)
こんな商売だ、ギルベルトとて怪我をすることもある。
右腕に深手を負ったが利き腕である左は無事だったし、あの程度の傷なら戦闘にも不具合はなかった。
もっと酷い傷を負わされたことだってある、こんな怪我など取るに足りない。そのときのギルベルトはそう結論づけていた。
だが、ギルベルトの負傷の知らせを聞いたイヴァンは凄い勢いで部屋に飛び込んできて、少々大袈裟に包帯を巻かれたギルベルトを見るなり瞳一杯に涙を溜めて――――
(……バカだな、あいつ……)
何であんなに。俺の事。
「――――ル。ねえ、ギル。ギルってば。どうしたの? 何かあった?」
思考は、目の前の男が自分に呼びかける声に遮られた。
思わずぎくりとして顔を上げると、フランシスと視線が交わり途端に気が動転する。
「あ……いや……別に何でも……」
「お前ねえ。そんないかにも何かありましたーって顔しといて『何でもない』って、そんなの信じるほどお兄さんバカじゃないよ?」
「う……」
こちらを案じる面持ちのフランシスに、気まずさを隠しきれず目を逸らしてしまう。
周りを見ればアントーニョとアーサーも、フランシスと同じような面様でギルベルトを見つめていた。
(こんなこと、人に話せるようなことじゃねえ。でもフランの奴、普段はただの変態だけどこういうことには鋭いからなあ……)
どうにかごまかさなければ。
重い沈黙が落ちる中ぐるぐると考えを巡らせていると、フランシスはいきなりパンと両手を叩いて明るい声をあげた。
「お兄さんわかっちゃった!」
「――――は?」
一同の注目が一斉にフランシスに集まる。それを確認して、フランシスはこれ以上ないほどの見事なしたり顔で言い放った。
「ギルちゃん、生理中なんでしょ!?」
「――――はぁぁぁぁぁぁっ!?」
「そっかあ良かった~心配してたんだよ、お前があんとき『そんなもんつけんなよ……』って可愛くねだるもんだからお兄さんもつい」
「――――――――――っっっんなわけあるかあああ!! こっの、クソエロ髭が!! キモい捏造すんな燃やすぞ!!」
「うわ、ちょっとやめてそのライターマジで燃えるってばきゃああああ!!」
ギルベルトとフランシスがぎゃいぎゃいともみ合い始めたのを眺めながら、アーサーは呆れ顔で溜息をついた。
「……あれで持ち直すのか。単純なヤツ」
そう零すアーサーを、アントーニョは苛立たしげに睨みつける。
「あのなあ、単純なようであいつもいろいろ抱えこんでんねんで。ギル、自分のことは絶対言わへんけどな。フランはギルの扱い方よう心得とるからフランに任せとったらええねん」
「…………お前、すっげームカつくな」
「お前もごっつムカつくわ」
ギルベルトとフランシスのお約束のじゃれあいとは違って、こちらは真に険悪なムードを漂わせ、今にも掴みかからんとする勢いで睨み合った。
――――暫しの睨み合いの後、アントーニョはアーサーのごく眼前で力強く己の中指を立て。
一方のアーサーも負けじと親指を下に向けてスイ、と首を掻っ切るポーズを見せつけ。
そして2人はお互いにフン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
そんなアントーニョとアーサーの傍らでは、未だにギルベルトとフランシスの馬鹿馬鹿しい攻防が続いていた。
「え、フェリちゃんこっちに帰ってくんのかよ!? マジで!?」
すっかりいつもの調子を取り戻したギルベルトは、カクテルグラスを片手に顔を輝かせた。
「そうらしいよー。お友達連れてね」
フランシスはカウンター奥の棚のボトルを整理しつつギルベルトとアントーニョの会話に加わってくる。先程ギルベルトとふざけあったときに乱れた髪や服は、もうきっちりと整えられていた。
「友達?」
「うん、大学の同級生らしいわ。何でも生き別れになった兄ちゃん捜しとるんやて。もうすぐここに来るはずや」
「フランシスに情報もらうためか?」
「そうなの? だったら報酬はトーニョが身体で払ってくれれぶぁしっ」
アントーニョの手刀がフランシスの脳天を直撃した。頭を押さえて蹲るフランシスを、銜え煙草のアーサーが「おいマスター仕事しろ」とげしげし蹴りつけている。楽しくDVプレイ中の(ようにギルベルトには見えた)フランシスたちのことは無視して、アントーニョは言葉を継いだ。
「それがな、よくわからへんねん。フェリちゃん、『詳しいことは会ってから話す』の一点張りなんや。とりあえずロヴィにも人捜しの件は黙っててほしい言うし」
「何だそりゃ。掴みどころがねえ話だな」
その話題にはさして興味なさげに、ギルベルトはグラスの足に指を絡めて弄んでいた。
――――生き別れた家族、か。
アントーニョの言葉を思い返しつつグラスの中で揺れる液体をぼんやりと眺める。
――――透き通るような、空の青。あの懐かしい、あたたかい色によく似た――――
自然とギルベルトの口元に、周りの者、ともすれば自分自身でも気づかなかっただろうほどの仄かな笑みが浮かんだ。
「でもよお」
ギルベルトはその微笑を打ち消し、グラスの中身を一気に呷った。
この色は、今の俺には遠すぎる。――――それでいい。いや、そうでなくてはならない――――
「この街にいるヤツなんてろくでもねえのばっかだぞ? 出るとこ出りゃ後ろに手が回るヤツしかいねえ。そんな厄介もん、捜し出したところでなあ」
フェリシアーノは絵の勉強のために、この街を出てとある大学に通っていた。この国では名の通った名門校で、フェリシアーノは素性を隠して通学しているという。そんな大学の学生なら将来だって約束されているはずなのに、この街の者、つまりはならず者が身内にいるなどとなれば、フェリシアーノの友人とやらにとって悪影響こそあれ何もいいことなどあるはずがない。
それに最悪の場合は……
「そんなヤツが身内にいるっつーだけで、命狙われる危険だってあるってのに」
ギルベルトの言葉に、アントーニョが思案顔で天井を仰ぎ見る。
「んー、まあ確かになあ。簡単には感動の再会劇、とはならへんやろなあ」
「だろ?」
「……どんなヤツでも、家族は家族だろうが」
アーサーがぽつりともらしたが、ギルベルトは無表情にアーサーを一瞥しただけで何も言わなかった。
家族は家族、などと――そんな理屈は綺麗事でしかないのだ。
だがアーサーにそう告げるのも残酷に思えた。愛した子供を自国に置いたまま、この掃き溜めに身を潜めなければならない境遇にあるこの英国人には――――。
ギルベルトが視線を手元に戻して再び空のグラスを弄び始めた、そのとき。
「どうしようもない家族なら、おらへん方がマシや」
ふいにアントーニョの低い声が響いた。
普段の彼からは発せられることのない冷やかな雰囲気に、ギルベルトもアーサーも目を丸くしてアントーニョに視線を向ける。ギルベルトはアントーニョのらしくない様子に純粋に驚きを隠せないだけだったが、アーサーは明らかに怒気を帯びた顔つきになっていった。
「……なっ、んだよ、このトマト野郎!! 俺はただっ……」
「アーサー」
フランシスが静かな、だが厳しい口調でアーサーを窘める。
彼はとっくにアーサーの攻撃から脱してカクテルを作っていたが、こちらに背を向けていたためその表情は窺い知れなかった。フランシスの有無をも言わせぬ雰囲気にアーサーも矛を収めざるをえなくなり、「チッ」と舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。
「……トーニョも。飲みすぎじゃない? そのへんでやめといたら?」
アントーニョは少々気まずそうな微笑を湛えてフランシスの背中を見やると、目を伏せて「せやな。堪忍な」と誰にともなしに謝罪の言葉を口にした。
「……まったく、今日は皆どうしちゃったのさ。妙に内省的っていうか感情的っていうか」
苦笑を浮かべたフランシスが今しがた作ったカクテルをギルベルトの前に置く。ギルベルトは視線だけでそれに返した。その隣でアントーニョはいつものへらへらした笑顔で煙草を燻らせ始める。
「俺かてアンニュイでメランコリックな日もあるわ」
「ぷっ、何それ。じゃあ、そんなトーニョはお兄さんがベッドで慰めてあぐぇっ」
またしてもアントーニョの手刀がフランシスの頭上に振り下ろされ、フランシスはやはり頭を押さえて蹲る。カウンター下を覗きこんだところに見えるプルプルと震えているブロンドに、ギルベルトは溜息をつかざるをえなかった。
「……フラン、俺、お前のその不屈の精神、っつうの? それだけは尊敬するぜ……」
「ばぁか、こいつは学習能力がないだけ……」
フランシスから目線を上げたアーサーが、ギルベルトを――否、正確にはギルベルトの後方を――凝視して硬直した。
「アーサー? どうした?」
「……客だ」
「何言ってんだ。そりゃ客くらい来るだろ」
「そうじゃねえ。あれはトマト野郎かお前の客だろ」
アーサーが忌々しげに顎でしゃくった方向――表通りに面した大きなガラスウィンドウの方を向くと、それぞれに武器を持った数人の男たちがこちらを見て何事か喚いているのが見えた。数台の車も続々と店の前に集まり始めている。他の客たちはそのただならぬ雰囲気を察知すると、我先にと横手の出入り口から逃げ出していってしまった。
「ああ、たぶん俺だな。ずっと尾けられてたしよ。撒いたんだけど、見つかっちまったなあ」
ギルベルトが煙草に火を点けながら事も無げにアーサーに告げると、蹲っていたフランシスが突如跳ねるように立ち上がってカウンターに両手をばん、と叩きつけた。
「ギル、またここ壊す気!? いい加減やめてよ、お前の友達連れてくるの!!」
「んなカリカリすんな。ちゃんと補償はしてるだろイヴァンが。つーか友達じゃねえ、俺様いつだって一人楽しすぎんだ知ってるだろ」
「そういう問題じゃなくてね!?」
「どうせなら建て直さなきゃいけねえレベルまでやっちまうか? そんでもっとイケた店にすんだよ。髑髏とか銀色のじゃらじゃらしたやつとかいっぱいつけて――」
「そんなの全然オシャレじゃない! て言うか壊さないで! 暴れるなら外でやって!」
「んなこと言うたかて、あいつらもう入ってくるで。諦めろや、フラン。形あるものいつかは壊れんねんて」
「お前らはもうちょっと物を大切にする心を養ったほうがいいと思うの!」
カウンターに突っ伏してワッとべそをかき始めたフランシスをさすがに気の毒に思ったのか、アーサーはフランシスの肩をぽん、と叩いて「とにかくキッチンに避難するぞ。いくらこのカウンターが防弾仕様っつってもここにいちゃ俺らもやべえ」とフランシスの首根っこを掴んでキッチンに引きずっていく。
ずるずると連れていかれるフランシスを見送ると、ギルベルトは銃をカウンターの上にゴトリと置いた。
「さっきの奴らの仲間なん?」
「ああ。ほら」
ギルベルトはアントーニョに携帯を見せる。そこにはエドァルドからのメールの文面が表示されていた。
「『そっちに追い込んだのであとは頼みます』って……あはは、何やコレ! お前仕事押し付けられとるやん!」
「まったくだぜ、酷い話だ。いくら俺様が小鳥のように格好よくて強いからってこき使いすぎだろ」
言葉とは裏腹に、ギルベルトは口端だけを上げて愉快そうに笑った。「うん、小鳥の件はもうつっこまへんけどな?」と前置きすると、アントーニョも懐から拳銃を取り出す。
「なあ、親分も参加してええ? 意地悪い眉毛に苛められてむしゃくしゃしとるから発散したいんや」
「俺がいつ苛めたんだよ!」
キッチンからアーサーの怒声が響いた。
……あいつ、すげえ地獄耳だな……てか、「意地悪い眉毛」てのは認めるのか……。
ギルベルトはアントーニョの銃に視線を落とす。
アントーニョのお手並み拝見の絶好のチャンスだ、逃す手はない。
それに何より、アントーニョとの共闘は“面白そう”だ。
(面白えってのは大事なことだ)
ギルベルトは軽く肩を竦めた。
「どうせ断っても無駄なんだろ? 好きにしろ。わかってるとは思うが、あいつらの始末を手伝ったからって俺に貸しを作ったことにはならねえからな。むしろ俺様の獲物を分けてやるんだ、ありがたく思え」
「何でそんな偉そうやねん。お前一人じゃあの人数相手にすんの骨が折れるやろ。あとで泣きついてきたって知らんで?」
「フン、言ってろ」
「まあ、俺はゴキゲンに遊べたらそれでええんよ。――なあ『ロヴィ』、一緒に楽しもな?」
アントーニョは両手で大事そうに持った銃に軽いキスを落とす。
……俺も銃に「フェリシアーノ」て名前つけようかな……とギルベルトがぼんやり考えていた、そのとき。
複数の足音、怒鳴り声とともにドアベルが派手に鳴り。
その音を合図にしたかのように、銃を構えたギルベルトとアントーニョはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「――――さあ、パーティーの始まりだ」
『何で!? 俺たち2人でファミリーを、皆を守っていこうって約束したじゃない!』
『絵しか取り柄のないお前みたいなヘタレがこの世界でやっていけるわけねえだろ、足手まといなんだよ! とっとと出ていけっつってんだこの野郎! そんで二度と帰ってくるな!』
数年前、フェリシアーノはとある旧知の縁で権威ある大学の芸術学部で学べる機会に恵まれた。ロヴィーノとアントーニョはそのことを大いに喜び――ロヴィーノは大っぴらにはそんな様子は見せなかったが――家業が露見すれば進学の話もなくなってしまうかもしれないと、偽の経歴まで用意してくれた。
だが、フェリシアーノの心中は複雑だった。
絵を本格的に勉強してみたいという気持ちはもちろんあった。だけど、すべてを兄に押し付けて自分は夢を追って安穏と暮らすだなんて。
そんなこと、できるわけがない。
――――兄ちゃんだってヘタレのくせに。本当は怖いくせに。
『フェリちゃん、大学行ったらどうや? ロヴィはああ言うとるけど、何も今すぐに出てくとか継ぐとか決めんでもええやろ。この街出て、大学行って、いろんなもん見て、よう考えてから決めてもええんちゃうか? それになあ、ロヴィがあの調子やもん。今は話し合おう言うたかて無理やろ。時間置いた方がええ。――そない堅苦しく考えることないって、戻ってきたかったら戻ってきてええんや。ここはフェリちゃんの家でもあるんやからな。――心配せんでええ。何があってもロヴィは俺が守るから。やからフェリちゃんは安心して――――』
そうしてロヴィーノとは喧嘩別れ、アントーニョには半ば押し切られるようにして通い始めた大学だったが、キャンパス生活は純粋に楽しかった。友人や教師にも恵まれて実りある日々を過ごせていると思う。
だが、やはり家のこと――ロヴィーノのことが、いつもフェリシアーノの心に小さな暗い影を落としていた。
『綺麗だな』
教室でキャンバスに向かっていると、背後から重々しいバリトンが響いた。
ぎょっとして振り返ると、そこにいたのは威圧感の猛々しい金髪碧眼の青年で。
『す、すまない。驚かせてしまっただろうか。その、たまたま通りかかっただけで、怪しい者では――』
大きな身体を縮こまらせてあたふたとする様子が、その外見に似合わずあまりに可愛らしくて。
思わず、クスクス笑ってしまった。
ムキムキ君は、困惑を隠せずにフェリシアーノを呆然と見つめている。
『ヴェー、俺の方こそごめんね? この絵、気に入ってくれたんだ。嬉しいな。ねえ、俺、フェリシアーノっていうんだ。君は?』
それが、ルートヴィッヒとの出会いだった。
学部は違ったが、ルートヴィッヒと打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
だが親しくなるにつれ、素性を隠しているのが心苦しくなって、思い切って家のことを打ち明けた。
――――縁を切られても仕方ない、と覚悟していたのだが。
ルートヴィッヒはわずかに驚いた表情を見せたが、少しの間沈黙した後、訥々と言葉を紡いだ。
「確かに、その……誉められた職業ではない、な……。お前の家族は、何か別の真面目な仕事をすべきだとは思う……だが、それは俺がお前と距離を置く理由にはならないだろう?」
そうして、ルートヴィッヒは今までと変わらない態度でフェリシアーノを受け入れたのだった。
それから数日後のある昼下がり。2人でカフェで寛いでいたときである。
フェリシアーノはテーブルに身を乗り出すほどにして、向かいに座るムキムキ青年の顔をまじまじと見つめていた。ルートヴィッヒは居心地悪そうにフェリシアーノから視線を逸らして、コーヒーカップを手に取る。
「……おい、フェリシアーノ。さっきから何なんだ。俺の顔に何かついているのか」
「そうじゃなくってえ……ヴェー、そっかあ、わかった!」
「だから何の話だ」
「うん、あのね、ずっと思ってたんだけど。ルート、俺の知り合いによく似てるんだー」
「……俺に似ている……?」
「うん、やっぱりそうだ! ルートをちょっと細くした感じかなあ。きっと髪の色とか目の色とかが全然違うからわからなかったんだ」
「………………」
「ホントよく似てるやー。年はルートの方が少し下かなあ。その人ねえ、とっても綺麗な色してるから、何度か描かせてもらったこともあるんだよー。銀髪で、赤紫っぽい碧眼なんだ。珍しいでしょ? ホント、黙ってれば格好いいんだけどねー……ヴェ? ルート? どうしたの?」
「………………」
ルートヴィッヒの顔色が見る見るうちに失われてゆく。
彼の反応にわけがわからずオロオロすることしかできないフェリシアーノの両肩を、突然ルートヴィッヒががしりと掴んだ。
「ヴェ、ル、ルート、何!? 痛いよ離し――」
「その人の名前は!?」
「ヴェッ?」
「その人物の名前は何というんだ!?」
「――え、ギ、ギルベルト、だけど……」
「――――――っ」
ルートヴィッヒは息を呑んで凍りついてしまった。
もはや彼の両目はフェリシアーノを映してはおらず、まるで遙か彼方にいる誰かを追い求めているかのようで――――
「ルート……?」
「……にいさ、ん……」
「え?」
「っ、その人は俺の、兄さんなんだ! フェリシアーノ、頼むっ、その人に、兄さんに、兄さんに会わせてくれ!」
ルートヴィッヒのあまりの必死の剣幕に、とるものもとりあえずここまで来てしまったけれど。
――――もし、ギルベルトがルートヴィッヒの兄だったとしても。
2人が住む世界は、あまりにも違いすぎる。
フェリシアーノにとっては兄も亡くなった祖父もアントーニョもファミリーの皆も、大好きな、大事な人たちだ。
だが、彼らの生き方が人として真っ当かと問われれば――――。
映画のような魅力的な世界ではない。この世界を支配するのは、金と暴力。それだけだ。
フェリシアーノの素性を受け入れてくれたルートヴィッヒにすら、告げられないような過去はいくらでもあるのだ。
――――もしも、もしも本当に、ギルベルトがルートヴィッヒの兄だったとして――――
そんな暗い世界に弟が不用心に近づくことを、ギルベルトは望むだろうか。
そんな暗い世界に身を落とした兄を見て、ルートヴィッヒは何を思うのだろうか。
――――大丈夫。ルートヴィッヒは俺を受け入れてくれたじゃないか。
……いや。自分はこの世界の人間ではあるけれど、ギルベルトやアントーニョとはまた違う存在で――――
――――もしかして俺は、2人にとってとても残酷なことをしようとしているんじゃないのか――――?
「フェリシアーノ? 着いたでー」
運転席の女から声をかけられて、フェリシアーノはハッと我に返った。
「でも今は店の中入られへんなあ」
「え、どういうこと?」
「見てみいな」
促されて後部座席の窓を開けて外を覗くと、薄暗い街灯に照らされた通りの中で一点だけいやに明るい箇所――目的の店「オルレアン」が見えた。
が、その異常な光景にフェリシアーノとその隣のルートヴィッヒは息を呑む。
普段は落ち着いた佇まいを見せる「オルレアン」の前には何台もの車が停まっていた。飛び込むタイミングを計っているかのように店内を覗きこんでいる人影もいくつか見える。そのどれもが銃などを携えているようだった。
そして店内では数人が入り乱れ、いくつもの銃声が響き、窓ガラスがパリン、パリンという耳障りな音とともに次々と割れていく――
「銃撃戦……」
ルートヴィッヒの顔が蒼褪めていく。それとは対照的に快活な高い声が車内に響いた。
「またアントーニョさん暴れとるんかいな。お兄ちゃんにまた怒られんで、補償費用結構かかるらしいからなあ」
運転席のヘアバンドをした女はハンドルに顎を乗せてけらけらと笑った。
「ヴェ、ルート。あれじゃ今は近づけないよ。終わるまで待ってから……」
フェリシアーノはルートヴィッヒを見やるが、ルートヴィッヒの目は「オルレアン」に釘付けになっていた。
「ルート?」
「……兄さんだ」
「え?」
「あの銀髪、兄さんに間違いない!」
ルートヴィッヒは一人車を飛び出して店に向かって駆け出していってしまった。
「駄目だよルート! 危険だってば!」
フェリシアーノがいくら制止の声を上げても、もはやルートヴィッヒには届いていなかった。見る見るうちにルートヴィッヒの後ろ姿が小さくなっていってしまう。
「……っ、ベル、ベルは戻ってて!」
「え、そんなこと言うても……」
「俺たちは大丈夫だから! とにかくベルは家に戻って!」
(ルートは俺が守らないと……!)
フェリシアーノも車を飛び出し、ルートヴィッヒを追って必死に走り出していった。