テラーノベル
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井戸の底。光が届くことはない。
湿気と闇の中で、二つの箱は並んで鎮座した。
糸のほつれた飛行機のぬいぐるみから、するりと糸が抜けて、箱に絡みついた。
泥にまみれた鉛筆が、カタリと箱にぶつかった。
体のない日本人形から目の玉が落ちて、箱へと転がっていった。
じわりじわりと箱にあたったものたちは、右の箱へと呑み込まれていった。
一つ、また一つ。
右の箱にはシミが浮き、角が朽ちた。
ミミズが朽ちた箱の縁を横切った。
朽ちた箱は、隣の朽ちることなく美しいままの箱にぶつかった。
美しい箱が開いて、中から朽ちた紙片が崩れ出た。
ミミズの身体に一切れの紙片が張り付いた。
ペタペタ。
ミミズは穴を掘って潜っていった。
ー人のいる場所へ。
ー女の姿ならば。
ー名前を尋ねよう。
ー住所だってわかる。
ーあの服を着ていれば。
ーすみません。と言えばいい。
ー目が合ったならば。
ー微笑むの。
ーーーきっと、教えてくれる。
電車の窓から漏れる明かりが暗い地面を照らした。
ミミズの身体に張り付いた紙片は、ひらりと剥がれ地面に着地した。
19時30分発の電車が駆けていく。
電車の風に乗って、紙片はするりと車輪の上の隙間へと巻き込まれていった。
紙片が解けて、黒い靄が広がった。
靄はやがて人型へと姿を変えた。
黒いヒールはくすんでいた。
灰色の足はボロボロと剥がれた。
灰色のスーツは解れていた。
目が明後日の方向を向いていた。
ゴワゴワした髪の毛は、真っ白だった。
できあがったものは、くすんだ紫色の口元を歪ませた。
「す…す…すみ…ませ…ん。」
人は窓に映ったそのものを見て逃げ出した。
ー誰も教えてくれない。
ーこれではだめ。
ーもっと人に近づこう。
目が焦点を結んだ。
灰色の肌が、青白くなった。
スーツの解れが結ばれた。
真っ白な髪の毛が、黒色へと色を変えていった。
のっぺりとしたスーツにくびれが現れた。
変化したものは女の形をしていた。
女は薄紫の唇で微笑んだ。
男の子が手を振ってくれた。
ーあの子なら知っている。
ーだって英介くんによく似ているもの。
女の頭に割れたおはじきの声が広がった。
女が一歩踏み出すと、窓ガラスが割れた。
破片が飛び散った。
女の手が男の子の腕へと伸びた。
男の子を隣にいた男が大きな体で隠してしまった。
女の手は、男の肩を掴んだ。
「す…す…すみ…、ません。英介くんを…知りませんか」
男の体が痙攣した。
女は手に力を入れた。
男の体がさらに激しく痙攣し、動かなくなった。
「あの…」
女は肩に置いた手を揺すった。
「すみません。」
男から答えは得られなかった。
女は手を離して、周りを見た。
倒れた男と、泣きじゃくる男の子の周りにはたくさんの人がいたが、誰も女の方をみていなかった。
女は仕方なく、その場を離れようと振り返った。
女の前にさっきの男が半透明の姿で呆然と立っていた。
倒れた男と瓜二つの半透明の男は、女の向こうを見ていた。
「あの…すみません」
「はい」
今度は答えてくれた。
女は口元を歪ませ、口角を上げた。
「英介くんを、知りませんか?」
男は首を横にふった。
「英介くんは知りません」
「では、薫ちゃんは?」
「知りません。」
女はポケットから分厚い手帳を出すと、手帳に書いてある名前を次々と尋ねていった。
男は知らないと答え続けたが、それでも、女の質問に答え続けた。
女は手帳に書かれた最後の名前を尋ねた。
男は知らないと答えた。
女は最後に尋ねた。
「あなたの名前は?」
「坂下透」
女は頷いて、手帳の最後のページに赤色のインクで名前を書いた。
『坂下透』
女が顔を上げると、半透明の男ー坂下透ーは消えていた。
女は次の人を探すため、一歩を踏み出した。
汚れた箱の中に、名前が刻まれた。
『坂下透』
コメント
1件
読み終わりました…🥀 井戸の底から這い上がる“何か”の描写が、詩的でいてとても不気味で、一気に引き込まれました。「すみません」と話しかける女の形が、人の名前を書いていく手帳…あのラストの『坂下透』が刻まれるまでの流れ、じわじわ怖かったです。続きがすごく気になります…!