テラーノベル
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路地裏を抜けて、ネオンの光が眩しい大通りに出る。思わず手で目を覆ったが、不思議と先ほど感じたような恐怖はなかった。
数分歩くと、ドラッグストアが見えてきた。深夜にもかかわらず、煌々と明かりがついている。
「あそこだよ! 入ろうか、」
藤澤が、明るい声で入口を指差した。砂鉄は、早く薬を手に入れたい一心で、彼らに続いた。
店内に入ると、ひんやりとした空気が疲労した体に当たり、心地いい。
「熱冷ましとか、あとは何か要るものある?」
若井が、気を遣うように尋ねてきた。
「……えっと、風邪薬と……いや、それだけ買います……」
砂鉄は、遠慮がちに答えた。本当は栄養ドリンクなども欲しかったが、値段の札を見る限り、とてもじゃないが手が出ない。
すると、大森が何も言わずに、さっと薬の棚に向かった。すぐに解熱剤と、冷えピタ、そしてスポーツドリンクやゼリー飲料をいくつか選んで戻ってきた。
「これで足りる?」
大森は、砂鉄の顔を真っ直ぐ見て尋ねた。砂鉄は、その多さに驚きながらも、頷いた。
「足ります……あ、でもお金が…」
すると、すぐ大森が会計を済ませてくれた。砂鉄が財布を出そうとする間もなかった。
「これは、いいよ。気にしないで」
大森は、店員からレシートを受け取りながら、にっこり笑った。
砂鉄は、その優しさに少し戸惑う。上京してから、人からこんな柔らかいものを受け取った経験がない。やっぱりなんかやりづらい人たちだな、と砂鉄は思った。
ドラッグストアを出て、再び夜の街を歩き出す。藤澤は、依然としてチョモを背負い、大森が持っているビニール袋の中には、薬や飲み物が揺れていた。砂鉄は、少しだけ体が軽くなったように感じた。
大森の家までは、あと数分といったところだろうか。静かな住宅街に入り、車の往来もほとんどなくなった。ひっそりとした闇の中を、四人の足音だけが響く。
その時、若井が、隣を歩く砂鉄に、遠慮がちに口を開いた。
「あのさ、急にこんなこと聞くのもあれなんだけど……」
若井の言葉は、少し探るような響きがあった。砂鉄は、警戒心を強める。やはり、何か聞かれるのだろうか。
「なんでこんな時間に、あの路地裏にいたの?その子凄い体調悪いし……」
若井は、チョモを気遣うように、言葉を選びながら尋ねた。彼の視線は、砂鉄の顔と、藤澤の背中で眠るチョモの姿の間を、行ったり来たりしている。
砂鉄は、一瞬、返答に詰まった。「なんで」の根本から話すとなると、警官に追われていたことや、ネカフェでの生活、そして過去のことに繋がる。どれも、簡単に話せることではなかった。ましてや、彼らは、さっき知り合ったばかりの人間だ。
砂鉄が黙り込んでいると、大森が、若井の言葉を引き取るように、静かに続けた。
「……無理に話さなくていいけどさ。もし、何か困ってることとかあるなら……言える範囲でいいから、教えてくれないかな。協力できることがあれば、したいと思ってるから」
大森の声は、穏やかだった。彼の言葉は、砂鉄の胸にじんわりと染み渡る。彼らが、ただの好奇心で尋ねているのではないこと。本当に自分たちを助けようとしているのだということが、少しずつ伝わってきた。
頭の中では、言うべきことと、言わないべきこととが、激しく交錯している。彼らの優しさは、確かに砂鉄の心を溶かし始めていた。しかし、同時に、これまでの人生で培われてしまった、他人を信じることへの深い警戒心も、まだ根強く残っている。しかし。
砂鉄は、深く息を吸い込む。この人たちなら話しても大丈夫かもしれない。そう思えたのは、彼らの優しい眼差しと、自分たちを本当に案じてくれている雰囲気があったからだ。深いことは言えない。でも、ざっくりとなら。
「……昔、親と色々あって……縁、切ったんです」
砂鉄の声は、枯れていたが、はっきりとそう告げる。
三人が、黙って耳を傾けているのが分かった。
「そこから、二人で上京して……お金ないから、ネカフェで暮らしてます」
ネカフェという言葉を口にするのは、やはり少し抵抗があった。しかし、もう彼らにとっては既知のことだ。砂鉄は、続けて言葉を紡ぐ。
「普段は、日雇いの仕事で、食い繋いでて……」
そこまで話すと、砂鉄の喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。この数ヶ月の、過酷な日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。慣れない東京での生活。日々の食費を稼ぐために、必死で働く日々。誰にも頼れず、チョモと2人っきりで抱え込んできた孤独。人目につかないように気を張りながら暮らすのは、苦しかった。
「それで……こないだ、仕事から帰ってきたら……隣のブースで、チョモが……熱出してて……」
そこまで言いかけた時だった。砂鉄の視界が、急にぼやける。彼の目尻から、温かい雫が流れ落ちる。必死に堪えてきた感情が、ダムが決壊したかのように、一気に溢れ出してしまったのだ。
砂鉄は、自分でも驚いた。まさか、こんな場所で、こんな見ず知らずの人間を前にして、泣くなんて。それは、疲労とストレス、そしてチョモへの心配、そして何よりも、この数ヶ月間の苦しみが、限界を超えて溢れ出したものだった。
顔を歪め、砂鉄は俯いた。嗚咽が漏れないように、必死で唇を噛みしめる。しかし、止まらない涙が、地面にポツリ、ポツリと落ちていく。
その様子を、大森が静かに見つめていた。
「……そっか。それは…大変だったね」
大森の声は、低く、しかし驚くほど温かかった。その言葉は、砂鉄のこれまでの苦労を全て受け止めるかのような響きがあった。大森は、砂鉄の隣にそっと歩み寄り、砂鉄の肩に、何も言わずに手を置いた。その手は、優しく、砂鉄の震えを鎮めるようだった。
藤澤も、背中にチョモを背負ったまま、砂鉄を見下ろした。
「うん……よく頑張ったね」
藤澤の声は、砂鉄を励ますように優しかった。若井も、何も言わずに、ただ静かに砂鉄の隣に立っている。
必要以上の言葉はかけない、彼らの優しさが痛かった。
「……っ……」
砂鉄は、溢れる涙を止められない。だが、その涙は、苦しみだけのものではなかった。
その時、砂鉄の頭の中に、ハッとある考えがよぎる。
(……チョモ……)
俺、今、チョモって、あいつの名前、言っちゃった……!?
砂鉄は、内心で激しく焦った。彼らの前では、絶対に名前を口にしないと決めていたはずだ。あのチャンネルの件が、彼らにバレてしまうかもしれない。心臓が、ドクンと大きく鳴った。
だが、藤澤も、大森も、若井も、特に反応を示さない。彼らの表情には、依然として砂鉄への心配と、優しい眼差しがあるだけだ。
(……気づいてない? いや、まさか……でも、何も言ってこないし……)
砂鉄は、一人で冷や汗をかいた。彼らが、チョモの名前を聞き逃したのか、あるいは、何か別の意味に捉えたのか。いずれにしても、その場では特に追求されることはなかった。砂鉄は、ホッと安堵の息を漏らした。
(……大丈夫だろう)
砂鉄は、そう自分に言い聞かせた。
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