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砂鉄が落ち着いたあと、四人は引き続き大森のマンションへと向かう。気づけば、比較的新しい高層マンションのエントランスに到着していた。自動ドアが開き、暖かな空気が砂鉄の頬を撫でる。
大森が、さっとオートロックを解除し、エレベーターを呼んだ。藤澤は、背中のチョモを揺らさないように、そっと乗り込む。砂鉄と若井も、続いてエレベーターの中に入った。
エレベーターが静かに上昇していく間も、砂鉄は落ち着かなかった。見知らぬ人たちの家に、こんな状態のチョモを連れて行くこと。そして、自分自身も、彼らの好意に甘えることへの罪悪感。様々な感情が、砂鉄の心を占めていた。
やがて、エレベーターが目的の階で止まり、ドアが開いた。大森が、廊下にある一室の鍵を開ける。
「どうぞ」
大森が、扉を開いて砂鉄たちを招き入れた。一歩足を踏み入れると、そこは、清潔で広々とした空間だった。普段、ネカフェの狭いブースで過ごしている砂鉄にとっては、別世界のように感じられる。
「リビングのソファに、その子寝かせて」
大森が、藤澤に声をかけた。藤澤は、ゆっくりとチョモをリビングのソファに下ろす。チョモは、まだ意識が朦朧としているようで、身動ぎ一つしない。
砂鉄は、持っていたビニール袋から解熱剤と冷えピタを取り出し、チョモの熱い額に冷えピタを貼った。そして、ドラッグストアで買ったばかりの解熱剤を、チョモの口元に運ぶ。
なんとか、少量の水を飲ませながら、薬を飲ませた。
「体拭くタオルとか、着替え、貸せるよ」
「ありがとうございます」
大森が持ってきてくれたタオルでチョモの体を優しく拭き始る。熱で火照った体を、冷たいタオルで拭いてやると、チョモの体に微かな安堵が走ったようだった。
「お風呂湧いてるから、入ってきていいよ」
大森が、砂鉄に声をかけた。彼の声は、静かに響く。砂鉄は、自分の体も汗と埃で汚れていることに気づいた。こんな状態では、チョモを看病していても、清潔とは言えないだろう。
「……ありがとうございます」
砂鉄は、素直に礼を言って、立ち上がった。大森がタオルと着替えを渡してくれた。
「俺がこの子見てるから、ゆっくりしてきなよ」
大森は、チョモの額に手を当て、熱を測るようにしながら言った。砂鉄は、その言葉に甘えることにした。
砂鉄がバスルームへと向かうと、リビングには大森と、藤澤、若井の三人が残された。大森は、チョモのそばに座り込み、その荒い息遣いを注意深く聞いている。藤澤は、キッチンで何か温かい飲み物を準備しているようだった。電子レンジのチンという音が小さく聞こえる。若井は、毛布や枕などを運び込み、チョモが横になっているソファの周りを整えている。
大森は、チョモの顔をじっと見つめていた。その表情は、苦しそうだ。時折、細い肩がピクリと震える。ドラッグストアで買ってきた冷えピタを新しいものに貼り替え、チョモの首筋を冷たいタオルで拭う。チョモの熱い体が、少しでも楽になるように。
その時だった。
「ん……」
チョモが、微かに身動ぎ、小さく声を漏らした。そして、ゆっくりと、その瞼が持ち上がった。潤んだ瞳が、ぼんやりと天井を見つめる。焦点はまだ定まっていないようだ。
「……あ、起きた?」
大森が、優しくチョモに語りかけた。彼の声は、低く、落ち着いていた。チョモの目が、ゆっくりと大森の顔へと向けられる。熱で潤んだ瞳が、大森の顔を捉える。
「気分、どう?」
大森は、チョモの額に手を当て、優しく熱を確認した。チョモは、ただ、ぼんやりと大森を見つめている。まだ、自分がどこにいるのか、状況を飲み込めていないようだった。
藤澤が、温かい湯気を出しているマグカップを手に、キッチンからリビングへ戻ってきた。若井も、チョモの様子を心配そうに覗き込む。
「どこか痛いところとか、気持ち悪いところとかある?」
大森が、焦らず、ゆっくりとチョモに問いかけた。チョモは、熱にうなされながらも、必死に状況を理解しようとしているようだった。彼の目には、わずかに意識の光が戻り始めていた。
「……誰……!?」
チョモの口から、掠れた声が漏れた。熱で潤んだ瞳が、ゆっくりと周囲を見回す。見慣れない天井、見慣れない部屋、そして、見慣れない男たち。路地裏で意識が朦朧としていたチョモにとって、現状は理解不能だった。彼の表情に、瞬く間に恐怖が浮かび上がる。まるで、迷子になった子供のように、不安げな視線を宙に彷徨わせた。
「大丈夫だよ」
大森は、チョモの反応を予測していたかのように、穏やかな声で言った。チョモが驚いて体を動かそうとするのを、大森はそっと肩に手を置いて制した。
「ここは俺の家だよ。君が具合が悪かったから、ここに連れてきたんだ」
大森は、焦らず、ゆっくりと説明した。彼の声は、まるで聞かせている相手が怯えた小動物であるかのように、優しく、語りかけるようだった。
チョモの視線が、再び大森に固定される。まだ完全に状況を飲み込めてはいないようだが、大森の落ち着いた声と、その穏やかな表情に、チョモの体から少しだけ緊張が抜けていくのが見て取れた。
「砂鉄は…!?」
「うん、その子が、君の具合が悪いのを心配して、俺たちに声をかけてくれたんだ。今、お風呂に入ってる」
大森は、藤澤や若井の方をちらりと見た。藤澤は、心配そうに眉を下げているが、優しく微笑んでいる。若井は、少し離れたところから、静かにチョモの様子を見守っていた。
チョモは、まだ完全に理解しているわけではないようだが、大森の言葉を聞いて、少しだけ落ち着いたように見えた。その大きな瞳に、徐々に状況を把握しようとする光が宿り始める。熱で火照った頬は赤いが、先ほどまでの激しい呼吸は、少しずつ穏やかになっていた。
チョモがゆっくりと状況を飲み込み始めた、その時だった。
バスルームのドアが開き、砂鉄が戻ってきた。湯気で少し赤くなった顔に、濡れた髪が張り付いている。清潔なTシャツとスウェットに着替えた砂鉄の姿は、先ほどまでの憔悴しきった姿とは見違えるようだった。
砂鉄は、リビングに入ると、まずチョモの元へと視線を向けた。そして、ソファに横たわるチョモが、目を開いているのを見た瞬間、彼の体から、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れた。
「チョモ……!」
砂鉄の声は、絞り出すような、掠れたものだった。その目から、堪えきれなかった涙が、とめどなく溢れ出す。砂鉄は、チョモのそばに駆け寄ると、ソファの横に膝をつき、彼の熱い手を、自分の両手でぎゅっと握りしめた。
「よかった……よかった……っ、本当に……!」
言葉にならない嗚咽を漏らしながら、チョモの手を握りしめ続ける。チョモは、砂鉄の涙を見て、まだ熱でぼんやりとした頭で、何かを理解したようだった。彼の目にも、うっすらと涙がにじむ。
大森は、そんな砂鉄の様子を、静かに見守っていた。そして、ゆっくりと砂鉄の隣に座り、その震える背中に、優しく手を置いた。
「もう大丈夫だよ」
大森の声は、静かで、温かかった。その言葉は、まるで砂鉄の心に深く染み渡り、彼を包み込むようだった。藤澤も、マグカップをテーブルに置き、若井も心配そうに砂鉄たちを見守っている。誰も何も言わない。ただ、砂鉄の涙と、彼らの温かい眼差しだけが、リビングに満ちていた。