「七瀬さん、よかった。ちょっと来てくれ」
そう言って社長室に戻って行く桐生さんの後を、苛立ちを抑えながらついて行く。
「桐生さん!!あれ程痕はつけないでって──」
社長室のドアが閉まると同時に文句を言おうと口を開いた途端、桐生さんは私が昨日仕上げたビジネスレターを手渡した。
「今から午後の四時頃まで出かけるけど、その間これ直しておいて」
「えっ、今から外出するんですか……?だって今日の午後は会議がありますけど……」
少し驚きながら彼を見た。
「ああ、分かってる。悪いけど篤希に今日の会議に必要な書類を全て渡しといてくれ」
──え……また……?
私は眉間にしわを寄せた。
今日の午後は経営会議があって、いつもなら必ず出席している。先々週はそれぞれのプロジェクトの進捗状況の報告会議があったのに、それもどこか突然外出してしまい欠席してしまった。
最近の桐生さんはなんだか自分の会社の事にあまり興味がないような態度で、急に慌ただしく何処かへ行ったり時には会社に一日中いない時もある。その代わり八神さんがほとんど桐生さんの代わりに社長の仕事をしていて、会社の決定事項なども今は彼がほとんど行っている。
あれだけこの会社に全てを注ぎ込んでいたような人なのに、最近彼の興味がこの会社から薄れているような気がする。少し困惑すると同時に、彼が私に何か隠し事をしている様な気がして、なんとなく気になってしまう。
「…分かりました。では資料は八神副社長に全てお渡ししておきます」
「それから……佐伯社長から会社のパーティーに呼ばれてただろ?あれ断っておいて。その代わり何かお祝いにメッセージと贈り物を。それと……」
そう言いながら、彼は私が作成した会議用のレポートも手渡した。
「これも急ぎで直しておいてくれ。直す箇所には付箋つけてあるから。蒼は英語の書類は完璧なのに日本語の方はイマイチだな」
くっ……桐生さんは仕事の時は容赦無い。私が付箋の入った書類を受け取ると彼は荷物をまとめ立ち上がった。
「いい子にしてろよ」
そう言って私を抱き寄せると、シャツをクイっと指で押し下げ私の胸元にある赤い鬱血痕を露わにした。急に彼に言いたい事があったの思い出す。
「そういえば桐生さん!あれほど痕はつけないでって──」
彼はいきなり唇を奪うと、強引ながらも優しくキスをした。キスをしながら彼の親指が愛おしそうに鬱血痕を何度も撫でる。
「久我に隙を見せるなよ。すぐ帰ってくる」
そう言って桐生さんは慌ただしく外出し、結局終業時刻直前まで会社に戻ってこなかった。
その日の夕方、桐生さんが会社に戻って間もなく受付から内線が入った。
「はい、社長室、七瀬です」
『社長にお客様がお見えになっています。』
嫌な予感がして、電話をギュッと握りしめた。最近この時間帯にアポ無しで桐生さんに会いに来るのは、一人しかいない。
「あの、お名前をいただけますか?」
『KS IT Solutionsの結城冴子様です』
「わかりました。今社長に確認してみますので少々お待ちいただけますか?」
鉛の塊が胃の中にズシリと沈みこむような感覚を感じながらも、受付からの内線を保留にして桐生さんに内線をかけた。
『はい』
「KS IT Solutionsの結城様がお見えです」
『分かった。ここまで通してくれ』
桐生さんの返事を聞いた私はさらに沈む心で彼との内線を切り、受付との内線を再び取った。
「社長がお会いになるそうです。今からそちらに迎えに行きます」
私は内線を切るとこのビルの10階にある総合受付ロビーまでエレベーターで降りた。
このビルの10階には、ここに入っている会社の為の総合受付フロアがあって天井も2階分程の高さのあるとても大きな開放的なロビーになっている。
エレベーターを降りると、目の前には壁一面がガラス張りになっていて綺麗な夜景が見える。私はその美しい夜景を背景に待合用の椅子に座っている結城さんを見つけた。
「結城様、お待たせいたしました」
「いつも遅い時間に申し訳ありません」
結城さんはレイヤーの入ったセミロングの美しい髪をふわりと揺らすと、ニコリと微笑んで私に頭を下げた。
「いいえ。どうぞこちらへ。ご案内いたします」
私もお辞儀をすると結城さんを連れて社長室のある16階フロアまで彼女を案内した。
結城さんは合コンで会った水樹さんが言っていた通り、とても綺麗な人で、その容姿と気品のある所作でただそこに立っているだけで美しい。
上品な顔立ちに綺麗に手入れをされた美しい黒髪、すらっと伸びた手足に、少し意志の強そうな眼差し。品の良い服装も彼女の美しい容姿と気品を更に際立てていて、女の私でさえはっと目を見張る美人だ。
恐らく私よりは年上で桐生さんよりは年下の30歳くらいなのではないかと思う。彼女の喋り方やその美しい所作はいつもどこか自信に溢れていて、水樹さんが言っていたように彼女がとてもよく仕事ができる秘書というのは本当だと思う。
結城さんはここ最近突然定期的に桐生さんに会いにくるようになった。いつも来るのは夕方の総合受付が閉まる直前のこの時間帯で、タブレットや色々な書類を抱えてきてるところを見ると、恐らく社長のお父様の会社からの用事なのだろうと思う。
ただ一体なんの用事で来ているのかはよくわからなくて、しかも常務の秘書だという彼女がここに来る理由もよく分からなくて私はいつもモヤモヤとしてしまう。
私が社長室のドアをノックすると桐生さんは自らドアを開けて結城さんを出迎えた。
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