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水曜日、真昼はニューグランドホテルエントランスの革のソファーに脚を組んで腰掛けていた。毎週水曜日、14:00、2018号室で龍彦と凪橙子が逢瀬を繰り返しているのならばこの時間、この場所に現れる筈だ。
(来る、絶対来る!)
皺ひとつない白いワイシャツに、濃灰で極細黒のストライプ膝丈タイトスカート、革の黒いパンプス、そして口紅はシアーな赤を選んだ。迎撃体制は整っている。
(来る!)
真昼の傍には大型の茶封筒があった。この中には先週この場所で撮影した二人の仲睦まじい写真が入っている。正規のフォトショップで最大限に拡大、プリントしたので少々出費が嵩んだ。
(この代金も慰謝料に上乗せしてやる!)
「いらっしゃいませ」
ドアボーイの声に顔を上げ振り向くと、そこには黒いタイトなワンピースを着た凪橙子が周囲を見回していた。誰かと待ち合わせをしている。脇に汗が滲んで口の中が乾くのが分かった。
(誰かなんて分かりきった事だわ)
離婚すると決心したにも関わらず、龍彦がこの場所に現れると思うと胸が痛んだ。この五年間裏切り続けられたと分かっていても、心の何処かに龍彦への愛情が残っている。
(でも、もうこれでお終いにするのよ!)
真昼はエレベーターホール側に腰掛けていた。凪橙子は回転扉に向かってソファに腰掛けた。二人は大理石の円柱を背中合わせに座っていた。
(ーーーーー白檀の香りがする)
凪橙子は自分の背後に恋人の正妻が座っているとは思いもしないだろう。龍彦も愛人の背後に真昼が座っているとは予想だにしないだろう。時計の針は45分を差している。
(これでお終い!)
心臓の音が鼓膜へと響いてくる。組んだ脚を解くとそれが小刻みに震えているのが分かった。茶封筒を握り、胸に抱き締めてその時を待った。
白檀の香りが立ち上がった。チラリと背後を窺い見るとそこには髪の毛をヘアワックスで整え、髭を剃り、焦茶のスーツにグレーのワイシャツ、赤茶の革靴を履いた《《見たことのない》》龍彦が和かな笑顔で手を振っていた。
(ーーたっちゃん)
結婚してあんな爽やかな笑顔を見せた事はあっただろうか、あんなに小洒落た出立ちで一緒に出掛けた事はあっただろうか。真昼の目尻に涙が滲んだ。
(これで全部終わり!)
真昼はパンプスの足裏に力を込めて立ち上がると、手を振る凪橙子の横を通り過ぎ龍彦の顔を見据えて歩み寄った。その時の龍彦の取り乱した表情ほど滑稽なものはなかった。
真昼の右手は大きく反り返り龍彦の左の頬を叩いた。足元からよろめきチェスボードの床に倒れ込むその姿に、振りかぶった茶封筒を叩き付けた。
「ま、真昼」
ドアボーイや宿泊客は動きを止め、周囲から音が消えた。エントランスにはグランドピアノの自動演奏が虚しく響き渡った。
真昼は茶封筒の中から一枚の写真を抜き取ると初めて会う愛人に詰め寄った。
「これはあなたですよね」
真昼は写真を持つ凪橙子の左手の薬指に指輪を見付けた。凪橙子は焦点の合わない眼差しで小さく頷いた。
「凪橙子さん、近々、あなたのご自宅に内容証明郵便が届きます」
「あ、あなたは誰ですか」
「田村龍彦の妻、田村真昼です」
「ま、真昼さ、ん」
「家庭裁判所でお会いしましょう」
片手を突いて立ち上がった龍彦に向かってドアボーイが駆け寄り「大丈夫ですか、お怪我はありませんか」と声を掛けたが龍彦は反応する事もなくその場に茫然と立ちすくんでいた。
黒いスーツを着たホテルスタッフが真昼に近寄ったがその手は凪橙子の前に差し出された。
「返して下さい」
「・・・・・・」
「その指輪は田村があなたに贈った物ですよね」
「そ、それは」
凪橙子は左手の薬指に光るプラチナの指輪を隠した。
「返して下さい」
それは女性の直感だった。龍彦は真昼に「お金に余裕がないから」と言って結婚指輪を用意しなかった。然し乍らそれは金銭的な理由ではなく、精神的に龍彦の心は凪橙子だけのものという意味合いがあったのではないかと真昼は考えた。
「勘違いだったらごめんなさい」
「・・・・・・」
「田村があなたに贈った物ならば返して下さい」
「こ、これは」
「返して!」
真昼の気迫に負けた凪橙子はおずおずと左の薬指から《《結婚指輪》》を外して真昼の手のひらの上に置いた。その重さ、やや生温い感触は大理石の床に叩き付けたい程に気味が悪かった。
「ありがとうございます」
真昼はポケットに指輪を入れ、踵を返すと龍彦の隣で立ち止まった。
「ま、真昼」
「叔父さんが弁護士を立てました」
「弁護士?」
「あなたとは離婚します」
「え」
「さようなら」
その翌日、弁護士を交えた協議離婚の手続きの前に「龍彦の|顔《つら》が見てぇ」と真昼の父親、|竹村 誠《たけむらまこと》が言い出した。政宗は兄を車の助手席に乗せ真昼が待つ田村家を目指した。
「お、その交差点を右だ」
「言われなくても分かってる」
「直進で左三軒目、隣の駐車場、一番手前に停めろ」
「兄さん、ちょっと黙っていてくれ」
「ここだここだ」
「知ってるよ」
家の隣の駐車場は田村家の資産で月極駐車場として貸し出しているという。その他に賃貸アパートを三棟所有し、自宅の門構えも立派で庭には飾り石が置かれ赤松が植えられていた。
「いつ来てもすげぇな」
「あぁ、真昼が食い|扶持《ぶち》に困らんと思った」
「俺もそう思った」
「失敗した」
「失敗したな」
母屋の向かいには<田村工務店>の看板が掲げられた二階建て黒瓦の作業場、その隣に若夫婦が好みそうな白壁三階建て、レンガ貼りの家屋があった。
「ここが真昼の住んどる家か」
「兄さん来るのは初めてか」
「おう」
ピンポーーン
「はい」
「おう、俺だ」
「あ、今開けるね」
オートロックの鍵はすぐに開いた。この家は真昼と龍彦が田村の義父母と同居する際に二世帯住宅として建てた。
「入るぞ」
「お邪魔するぜ」
「どうぞ」
真昼の柑橘系の香りに混ざって男性特有の脂の臭いがした。忌々しい龍彦の臭いだ。
「あ、叔父さんも来てくれたの」
「あぁ、兄さんが龍彦に飛び掛からんように付いてきた」
「飛び掛かるつもりだったの」
真昼は食器戸棚を開けてお茶の準備をし始めた。
「いや、茶はいらん」
「そう?じゃあ、座って」
「おう」
何処からか纏わり付くような香の匂いが漂い、気分が悪くなった父親と政宗は顔を|顰《しか》めた。
「真昼、この匂いはなんだ」
「それが、ええと」
溌剌さが取り柄の娘の曖昧な返答に首を傾げていると思いもよらぬ答えが返って来た。
「これ、たっちゃんの不倫相手がいつも着けてる香水なの」
「如何いう事だ」
「龍彦は不倫相手の匂いを付けて帰って来たのか」
「・・・・・うん、まぁ」
「まぁって、なんで相談しなかった!」
「兄さん」
「もっと早くに相談してくれれば!」
真昼は父親の顔を悲しげな目で見た。
「相談したらなにか変わってた?」
「・・・・それは」
「きっとなにも変わらなかったと思う。」
「そうか」
「たっちゃんは今までと同じように取り繕って誤魔化して、嘘を吐いてまたその人と不倫したと思う」
「そうか」
「そう思う」
その時、玄関の扉が開く音がして人の気配が近付いて来た。
「真昼」
「たっちゃん」
低くて肝の座った声だった。
「お義父さん」
「おう、邪魔するぞ」
「政宗さんも、お揃いですね」
「揃ってちゃ悪いのか」
「いえ」
これから離婚の話し合いをするのにそのだらしのない格好に二人は呆れた。毛玉だらけのフード付きトレーナーに薄汚れたジーンズを履いている。
(これならまだ、繁華街の《《チャラついた》》男たちの方が《《まとも》》だ)
「真昼、時間だから、来て」
「うん」
真昼は茶封筒と携帯電話、ノートパソコンを持って立ち上がった。