コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「竹村さん、お久しぶりです」
「ああ、久しぶりだな」
「このたびは、とんだご迷惑を」
「そんな事ぁどうでも良い、さっさと済ませようぜ」
竹村 誠は娘の嫁ぎ先でもべらんめえ調だった。
「こちらへどうぞ」
日本庭園を眺める長い廊下、襖には水墨画、床の間には紅梅に鶯の掛け軸が飾られていた。
「紅梅に鶯たぁ、季節外れだな」
「しっ、お父さん!」
「本当の事を言ったまでじゃねぇか」
田村龍彦はこの立派な家で蝶よ花よと育てられ、|妻《他人》の苦悩や葛藤、痛みを|慮《おもんばか》る事が出来ない|夫《大人》になったのだろう。
「あら、竹村さん、お義父さんも」
「娘が世話になった家に来ちゃ悪ぃのか」
「い、いえ。そんな事は」
気性の激しい竹村誠の登場に義母はたじろぎ、「ほほほほ」と愛想笑いをして見せた。
「そうですか、遠いところわざわざお越し頂きありがとうございます」
「本当にな、ご足労なこった!」
政宗は座敷で胡座を組みファイルをペラペラと捲っていた。
(あれが、興信所に依頼した資料)
座敷テーブルを中央に田村龍彦とその両親、向かい合って真昼、竹村誠、政宗が正座した。
「本日はお集まりいただきありがとうございます」
真昼は少しばかり後ろに下がると畳に指を突き、深々と頭を下げた。その横顔は凛々しく声に張りがあり揺るがぬ信念を感じさせた。
「大変申し訳ございませんが、私、龍彦さんとの離婚を考えております」
「え、そうなの!?」
「真昼さん、それはいきなりじゃないか」
「話し合ってやり直すんじゃないの!?」
そこで開き直った龍彦が軽い口調で会話に割って入った。
「良いじゃん、離婚しようぜ」
「ーーーーー!」
真昼は言葉を飲み込んだ。この五年間は何だったのだろうかと悔しく思い腹が立った。そして既に竹村誠の膝の上で拳が握られていた。
真昼はそれをグッと堪えて携帯電話を取り出し座敷テーブルの上に置いた。
「お義父さん、お義母さん、龍彦さんは不倫をしています」
「なんだそれは」
「まさか、龍彦ちゃんがそんな事、する訳ないでしょう!」
そこで真昼が携帯電話を取り出し、龍彦の顔色が変わった。
真昼は無言で携帯電話のボイスメモの再生ボタンを押し、聞き取り辛いと感じたのか音声を最大に調節した。
そこには淫らな龍彦と凪橙子の会話、そして|嬌声《きょうせい》。
「た、龍彦、おまえ」
「・・・・・」
「こ、こんなの嘘よ!龍彦がこんな事をする訳ないわ!」
真昼はノートパソコンを起動させその中に保存された淫靡で下劣なGoogle Meetで行われた龍彦と凪橙子との《《オンラインセックス》》の証拠を義父母の前に突き付けた。
「これは、龍彦さんの後ろ姿で間違い無いですよね」
そこには見慣れた家のリビングで卑猥な行為に耽る息子の背中が写っていた。ノートパソコンをクリックして音量を上げると凪橙子の喘ぎ声が座敷に響いた。真っ青な顔で俯き凍りついた龍彦の横顔を睨みつけた真昼は背筋を伸ばした。
「お義父さん、これは我が家のリビングで間違いないですよね」
「あ、あぁ」
「お義母さん、これは龍彦さんで間違いないですよね」
「そ、そうね龍彦だわ」
政宗は今にも立ち上がりそうな竹村誠の腕を掴んだ。
「ほ、ほら、夫婦間の性の不一致なんてよくある事だし、ねぇ、お父さん」
「ま、まぁ、そうだな」
「龍彦ちゃん、そうでしょう?」
「そうだよ、AVを見ていたんだよ」
「・・・・・・」
「や、嫌だわ、もう」
竹村誠は半ば立ち上がりそうになり政宗はその背中に手を置いた。確かに、この調子ではいつ田村龍彦に飛び掛かってもおかしくない。
次に真昼はプリントアウトした田村龍彦と凪橙子のライントーク画面を持ち出した。そこには次に会う予定の日時や部屋番号、一緒に食事をしている画像、目を覆いたくなる卑猥な画像も含まれていた。
橙子先生、会いたい
既読
早くしたい
既読
我慢できません
既読
今度こそ結婚して下さい
既読
愛しています
既読
「なんだこれ!真昼!おまえ俺の携帯見たのか!」
「だって!」
「信じらんねぇ!」
「だって!」
「プライバシーの侵害だろう!人間として恥ずかしくないのかよ!」
真昼は龍彦に向けその紙が勢いよく投げつけた。ハラハラと舞い落ちるその中に涙を流す真昼の姿があった。
「人間として恥ずかしいのはたっちゃんでしょう!」
その紙を手にした田村龍彦の父親は息子の顔を睨みつけた。
「おまえ、橙子、この女は凪橙子か!」
「そ、それは」
「龍彦ちゃん、あなたまだその女と付き合っていたの!?」
政宗さんが手にしていたファイルを田村家の面々の前に投げ置くと、三人は餌に群がるハイエナのようにそのページを捲り始めた。
「龍彦!おまえは!」
「龍彦ちゃん!どうして約束したじゃない!」
どうやら龍彦の両親は、凪橙子の存在を薄々感じていたようだ。
「こんな年増の女とは別れろと言っただろう!」
龍彦の父親が手のひらを振り上げた瞬間、竹村誠がフードパーカーの襟首を掴んで締め上げた。龍彦の顔が歪んだ。
「てめぇ、いつからこの女と付き合ってた!」
「お、おとう」
「お父さんと呼ばれる筋合いはねぇ!いつからだ!」
「ご、五年前です」
「真昼と付き合っていた時からか!」
「ーーーは、はい」
政宗は竹村誠の振り上げた拳を咄嗟に掴んだ。
「兄さん、駄目だ!懲戒免職だぞ!」
それは力強く、必死に止めなければならなかった。
「もう、もう凪さんとは別れなさい?真昼さんとやり直しなさい、ね?」
「無理だ!橙子先生は妊娠した!」
「えぇ!?」
「俺の赤ん坊だ!」
座敷の中は水を打ったように静まり返った。
「橙子先生の腹には俺の子がいる、だから真昼とは別れる」
「た、龍彦!」
そんな中、真昼は冷静だった。
「たっちゃん、それは凪さんと再婚するための嘘、だよね」
「なに、嘘じゃねぇよ」
真昼は座布団の下から透明ファイルを一枚取り出すと折り畳まれた厚手の紙を座敷テーブルの上に広げた。
「お義母さん、これが<不妊治療>の検査結果です」
「や、やっと届いたの」
「お見せしようかどうか悩みました」
田村家の両親は老眼鏡を掛け、その検査結果を端から端まで目を通した。然し乍ら、その英数字の意味が分からず首を傾げていた。
「龍彦さんに子どもは出来ません」
「どういう事?」
「龍彦さんの精子の数は極端に少なくて動きも悪いそうです」
「それって」
「不妊の可能性が高いそうです。再検査に来るようにと書かれていました」
「そ、そうなのか!?」
その場で一番驚いたのは田村龍彦本人だった。
「だから子どもが」
「だから私とたっちゃんに子どもが出来なかったの」
「そんな」
「残念ね」
真昼の発した「残念ね」が気に障ったのか、田村龍彦は逆上して畳から立ち上がり三人を見下ろした。
「おまえなんかとセックスしたって子どもは出来ねーよ!」
「どう言う意味よ!」
「濡れねぇしなんも言わねぇ!」
「や、やめてよ!」
「つまんねぇ女!」
「ーーーーあっ!」
そう怒鳴り散らした龍彦は足を滑らせた。
「いっ、て」
いや、政宗が龍彦の脚を蹴り上げ、その上半身が畳の上に音を立てて沈んだ、それが正しい。
「い、いって!お!い!」
政宗は龍彦の腹に馬乗りになって襟元を掴み上げ無言でその片頬を拳骨で殴り続けた。拳に龍彦の頬骨がめり込んだ。
「や、やめろ!政宗!政宗やめろ!」
竹村誠が政宗の両脇を抱えて引き剥がそうとしたが微動だにしなかった。
「ーーーーやめろ!」
政宗の拳は龍彦を殴り続けた。
「もういい!政宗!やめろーーー!」
「叔父さん!」
政宗は自身が真昼に田村龍彦を紹介した事を悔やんでいた。その怒りが爆発し、衝動のまま龍彦を殴り付けたのだ。
「真昼、頼む」
「うん、わかった」
政宗はリビングの床で胡座をかき、真っ赤に腫れた拳を保冷剤で冷やしていた。目の前には心配そうな真昼の顔があった。
「悪かった」
「びっくりした」
「俺も驚いてる、兄さんを止めに来た筈がこの様だ」
「痛くない?」
「痛いに決まってるがよぉ」
冷静になった政宗はガックリと肩を落とした。
「龍彦はどーーしたよ」
「生きてるよ」
「傷害致死になるのか」
「死んでないから、傷害罪くらいじゃない?」
「なんか壊したか」
「あーーーー座敷の花瓶が割れて、あと座卓の脚が折れていたかな」
「器物損壊かーー、まじかーー」
真昼は悪戯めいた笑顔で政宗の顔を覗き込んだ。
「お父さん、田村のお義父さんにギャンギャン噛み付いてた」
「そうか、怖ぇな」
「結婚前から騙されたのかーー」
「俺が悪い、もっと調べておけば良かった」
「5年も前から不倫とか最悪」
「最悪だな」
温くなった保冷剤が新しい物に取り替えられた。気持ちが良い。
「暴力沙汰にしちまって悪い」
「叔父さん」
「なんだ」
「慰謝料請求額500万円、高いかな」
「一年間100万円と考えればそれも良いんじゃねぇか」
「でね」
「なんだ」
「慰謝料を350万円に減額したら、叔父さんがたっちゃんを殴った事は忘れるって」
「出来るのかよ」
「させるってお父さんが息巻いてた」
「・・・・・兄さんらしいな」
「早速、念書を書かせてたよ」
「帰りに龍彦の首に縄でも付けて公証役場に行くか」
真昼は大きく背伸びをして微笑みながら振り返った。
「これで離婚成立」
真昼は政宗の目の前で離婚届を書き印鑑を捺した。証人は政宗と叔母に書いてもらう事になった。
「おう、龍彦に離婚届書かせてくるわ」
「ありがとう」
「帰りに市役所に出して来るか」
「忙しいわね」
「善は急げだ」
真昼はリビングテーブルの上に凪橙子の結婚指輪を置いた。
(ーーーーー終わった)
そして印鑑や通帳、保険証書など必要最低限の物をまとめて車に詰め込んだ。
「おい、真昼、この婚礼道具如何するんだ」
「処分してもらう」
「勿体ねぇなぁ」
「良いの!」
「おい、真昼、このスーツ如何するんだ」
「如何しようかな」
「シャネルだぞ」
「メルカリに出品しようかな」
「勿体ねぇなぁ」
「良いの!」
白檀の香りが染み付いた物になんの未練もなかった。
数日後、必要な荷物を運び出した真昼はけじめとして色留袖を着て座敷の畳に指を突いていた。
「お義父さん、お義母さん、お世話になりました」
「ま、真昼」
「さようなら、たっちゃん元気でね」
真昼の色留袖の袖は|淡緑《たんりょく》の濃淡、ごく細い黄土の線で描かれた撫子の花弁はまるで糸を紡ぎ合わせた|産着《うぶぎ》、その花は生成りに近い白地に渋いピンク色で染められていた。
清々しい秋晴れ、田村真昼は竹村真昼として第二の人生を歩み始めた。