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(――誰が納得したって? やっぱり、納得なんかしてないんじゃない!)
あたしは、陸太朗の姿だけを思い浮かべて、廊下を全速力で走った。おとといの陸太朗の様子が、次から次へと思い起こされる。
あの時、握りしめた手が震えていた。目も合わせようとしなかった。らしくなく感情を露わにしたりして、無理しているのは明らかだった。
あの時、あたしは何も言えなかった。だからだ、ずっと後悔しているのは。今度こそちゃんと話をしなければ。
ミヤちが声をかけてからそれほど時間は経っていないはず。おそらく、まだ遠くへは行っていないだろう。
廊下を行きかう生徒も先生たちもいなくて幸いだった。あたしは誰にとめられることなく昇降口に駆け込み、陸太朗の下駄箱を勝手に開ける。外履きがないことを見て取ると、すぐに靴を履き替えた。
昇降口を出たところで、校門のあたりに探し人の後姿を見つけた。あたしはスピードをゆるめず最短距離で走り抜ける。
「陸太朗!」
呼びかけが聞こえたのかはわからない。何の気なしに振り返った様子の陸太朗は、背後にあたしの姿を見つけてぎょっとしたようだ。待っていてくれることを期待したが、彼は門の外に向かって一目散に走りだした。あたしは思わず舌打ちする。
(そうだ、ずっと避けられてるんだった……!)
それでもこの調子なら追い付けそうだったが、学校前の信号は陸太朗に味方した。じりじりと信号の色が変わるのを待ちながら、遠ざかっていく背中をにらみつける。
いくら頑張って逃げようと、基本インドア派な陸太朗に負ける気はしない。信号が青に変わると同時にロケットスタートを切った。
上着も持ってこられなかったが、ずっと走っているからむしろ暑いくらいだ。陸太朗の姿がじわりと近づいてきて、余計に闘志が燃える。
ひたすら走り続けて息が苦しくなったころ、立花屋が視界に入ってしめたと思った。陸太朗がちらりと目をやったのだ。苦しい息づかいの中に、安堵の息が混じる。
さすがに店に着く前に追い付くのは無理だったが、ようやく一息つけそうだ。店に入ろうと鍵を開けようとすれば、陸太朗は立ち止まるしかない。その隙をついて捕まえることができるだろう。
それなのに、ほっとしたのもつかの間、彼は予想を裏切った。店を素通りしてそのまま走り続けたのだ。
「えっ、うそ……っ!」
いくらなんでももう限界だ。次の信号まで走ったら諦めて、店の前で待ち伏せをするか。
そう思っていたら、陸太朗の方が先にバテた。橋の手前で後ろを振り向き、驚いた拍子に足がもつれたようだ。
「っ! 捕まえた……っ!」
「――っ!?」
とびかかったあたしを支えきれず、陸太朗は川原へ向かって体勢を崩した。二人で原っぱにしりもちをつき、しばらく荒い呼吸を繰り返す。
「――……おまえ……、なんなんだ……!」
陸太朗が、呼吸の合間にあえぐように言った。
「なんで、ここまで追いかけてくる……!」
「――なんでって、あんたが逃げるからでしょ!」
あたしは何とか息を整えると、進路をふさぐように陸太朗の正面に立ちはだかった。
「あれからずっとあたしのこと避けてたでしょ!? かと思ったら、家庭科室こっそりに見に来ちゃったりしてさ。やりたいなら、和菓子作りたいなら、そう言えばいいじゃない!」
「……そんなことしていない」
陸太朗は性懲りもなく目をそらす。この期に及んで往生際が悪い。
「だって、現に来てたじゃない。嘘ついたってわかるよ、ミヤちが見てたんだから!」
「もう、やめると言っただろう。退部届も出した。あそこへは……、片づけをしに行っただけだ」
「――え……」
予想外の言葉に息が止まる。
――退部届。家庭科室の片づけ。
心臓がドクンと鳴った。
陸太朗は、きっと考え直して戻ってくる。そう、どこかでずっと信じていた。それは本当に、あたしの思い違いだったのだろうか。
「……でも、だったら、堂々と入ってきて、片付けていけばいいじゃない。そんな、逃げるみたいなことしないで……」
往生際が悪いのはあたしの方かもしれない。自分でもそう思ったが、止められない。唇をぎゅっと引き結んで、なんとか震えずに声を出した。
「だから、逃げてなんかいない。あれは……、別に、今日じゃなくていいんだ。家庭科室を使用する部活は他にないし……。おまえが、何かしていたから、邪魔しないようにと思って……」
それでも、陸太朗の歯切れは悪かった。少しだけ勇気づけられて、のどに力をいれる。
これだけは、陸太朗に、言っておかなければならない。
「……陸太朗。あたし、何度もメッセージ送ったよね。一度も返事くれなかったけど。あれ、直接言いたいことがあったからなんだ。――あたし、コンテスト、応募することにしたから」
「……は?」
陸太朗がぽかんとしてあたしを見る。
「何言って……、意味ないだろ、そんな――」
「意味なくなんかないよ。少なくともあたしにとっては。だって、あたしは、あれを完成させたいと思った。ちゃんと名前を付けて、みんなに見てもらって、おいしいって食べてもらいたい。そうじゃないと、あのレシピがかわいそうじゃん。陸太朗の目的とは関係なく、あたしはそう思ってるから」
「…………」
レシピだけじゃない。あたしたちもかわいそうだ。こんな中途半端で終わったら、きっと、後悔ばかりが残って先に進むことができない。
(それに、あたしは、陸太朗がちゃんと笑うところが見たい……)
コンテストに応募したところで、もうそれは叶わないかもしれない。だが、やれることが残っているなら、まだ諦めたくない。まだ、終わりじゃない。
「あたしは、初めて和菓子を作って楽しかった。いろいろ二人で考えたり悩んだりして、大変だけど楽しかったよ。陸太朗は、そうじゃなかった?」
「……俺は、もう決めたんだ」
「この間からそう言ってるけど、あたしには、揺らいでるように見えるよ。部活をやめるのも、家庭科室を片付けるのも、未練を断ちたくて焦ってるように見える。……迷ってるって言ってたあの時の方が、ずっと、陸太朗らしかった……」
見つめる未来は定まっていなかったのかもしれない。だが、その視線は前に向けられていた。知らないうちに惹き付けられてしまうほど、その瞳に灯る光は強くて、まっすぐだった。
今みたいに、どこを見ていいかわからず、あたしと目を合わせることもできないような弱々しさではなかった。
あたしは、陸太朗の方へ右手を差し出した。
「あたしは、迷ってたら本気じゃないなんて、そんな風には思わない。だって、本気だから迷うんじゃない。どっちも同じくらい大事だから迷うんでしょ? それなのに、無理やり一方の道を断ち切っちゃうなんて、よくないよ。自分で気づいてないのかもしれないけど、あんた、苦しそうじゃん。……だからさ、もう少し、やってみようよ。せめて、今日くらいは最後まで」
「…………」
陸太朗は何も言わない。あたしはそれでも、無言で待った。
冷たい秋風が二人の間の空気を冷やして通り抜けていく。冷気が制服の中にも入ってきて、忘れていた寒さを思いださせる。
あの時とは逆だ。陸太朗が料理部に入ってくれとあたしに頭を下げたのと。
だが、決定的に違うのは、あたしには今日しかないということ。
今、陸太朗がこの手を取ってくれなければ、明日はない。
「…………」
散々ためらった末に、陸太朗が、ピクリと動いた。ゆっくりと、こちらを見る。
「櫻庭――」
(……陸太朗……!)
――だが、陸太朗の手は今の位置から持ち上がることはなく。
「もし……料理部を続けたいなら……、廃部届を取り下げてもいいが……」
「――……っ」
陸太朗の言葉に愕然とした。何も伝わっていない。あたしの気持ちなんて、何もわかっていない。
「……は……」
玉砕だ。
それはもう、笑えるくらい、きっぱりと。
あたしは泣きたい気持ちをこらえて、口元に笑みを浮かべた。
「……それこそ意味ないよ。陸太朗のいない料理部なんて」
――彼は結局、あたしの手を取らなかった。