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分譲地に大きく開いた穴を覗き込んで、渡辺は笑った。
「これはこれは。ぞっとするわ」
「……あんまり見ないください」
由樹は昨日の寒さを思い出し、身震いしながら目を細めた。
「記念に写真撮っとこ……」
調査用のデジカメで本当に1枚撮っている。
「やめてくださいよ!」
隣で金子も穴を見ながら眉間に皺を寄せている。
「無事で何よりでしたね…」
渡辺がヘルメットをずらしながら額を掻いた。
「時間にして、どれくらいの間埋まってたの?
「多分15分かそこらだと思いますけど」
「へえ。よく篠崎さんが気づいてくれたよ…」
言いながら渡辺は、客の母親に地盤調査の説明をしている上司を見つめた。
「でも渡辺さんが篠崎さんに電話をかけてくれなかったら、俺、今も埋もれてたと思います」
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでくださいよ」
穴の深さに怖じ気づいたのか、金子はもう涙目だ。
「てか君もさ、紛らわしいんだよ。1回家に帰ってから雪かきに行くなんて」
「え」
由樹もヘルメットをずらして渡辺を見上げる。
「帰ったんなら終わったのかなって思うじゃん?こっちとしてはさ……」
「俺、1回も帰ってないですけど?」
「………え?」
渡辺はヘルメットにやっとのことで収めた頭を傾げた。
「新谷!」
母親と話していた篠崎が叫ぶ。
「作業開始!」
「あ、はい!」
由樹は客の方を向いた。
「それでは1点目、始めさせていただきます!」
作業員3人でお辞儀をすると、母親は首だけカクンと折ってそれに答えた。
やはり起伏が激しい山のふもと、地盤は固い。
「はい。75㎝で空転。調査終了」
由樹が客と篠崎に聞こえるように言い、機械をとめ、次のポイントに移動する。
チラリと篠崎を盗み見る。
◇◇◇◇
『客への説明は俺がやるから、お前は検査員やれよ』
現場に向かう地盤車両の中で篠崎はそう言って、検査員のヘルメットを由樹に被せ、ニヤリと笑った。
『今日で決めて、ペナルティの心配ともおさらばだ。な?』
その顔には、何の翳りも含みも違和感もなく、昨日までの吹雪が嘘のように晴れあがった今日の青空のようだった。
◇◇◇◇
身振り手振りを加え、客に説明してくれている篠崎。
その横でミンクだかフォックスだかわからない毛皮を着た母親が熱心に頷いている。
と母親が突如、篠崎に一歩近づき、その身長差では足りないが、彼に何か耳打ちをしようとした。
篠崎が二言三言聞き返し、顔を寄せるために少しかがむと、その耳に母親が何かを言っている。
(……なんだろう)
由樹は1つ15㎏ある錘を左右の手で運びながら、それを見た。
母親が何か言い終わると、篠崎は大きく頷き、由樹を見た。
(こっち見てる……)
慌てて目を逸らし、作業に没頭するふりをする。
「それでは2点目、始めます。25㎏!」
機械のスイッチを入れる。
錘で地面に刺さっていくスクリューのついた棒を見ながら、その延長にいる2人を再度眺める。
と、篠崎は笑いながら母親と談笑していた。
母親にも笑顔が見える。
展示場ではくすりとも笑わなかったのに―――。
「さすがだな…」
思わず呟くと、
「新谷君!機械止めて!」
渡辺が叫んだ。
「え」
「落ちた!」
「え?!」
慌ててスイッチを切る。
急に柔らかい地盤に行き当たり、2mの棒がストンと下まで落ちてしまったのだ。
「ここってもしかして…」
金子が渡辺を振り返る。
「複合地盤…だね」
渡辺がうんざりしたように返す。
「複合だと…何点調査しなきゃいけないんですっけ」
金子がため息交じりに言う。
「最低10点」
渡辺がもっと深いため息を吐きながら言う。
「……今日の飲み代、奢らせていただきます」
由樹は2人の顔を見ながら言った。
「ごちでーす……」
2人が同時に頭を下げた。
◇◇◇◇◇
結局、作業は夕方までかかった。
客を最後まで付き合わせるわけにも行かず、後日結果が出たらまた訪問するアポをとって帰ってもらった。
篠崎と由樹が大慌てで鈴原の家を訪れたときには、メーカーと工事課の作業がとっくに済んだ後だった。
新しくなった室外機のカバーを外し、由樹は篠崎を振り返った。
「基盤だけじゃなくてそっくり交換したんですね」
「ああ」
篠崎も脇にかがみこむ。
「雪を払ったり溶かしたりしたことで、カバーも変形してたからな。今回、保証でそっくり変えたんだ」
「いいと思います。もしかしたら熱線以外にも不具合があったかもしれないし」
言いながら由樹が立ち上がると、彼も隣で立ち上がった。
「メーカーの奴がお前のこと褒めてたよ。的確な判断があったから、本体だけで済んだって」
「ああ、いや…」
「お前のその機械に明るいところは営業の強みだよな」
篠崎が微笑む。その笑顔に胸が熱くなる。
「……ありがとうございます」
由樹は顔を上げた。
「あ、あと、昨日も、助けに来ていただき、ありがとうございました」
言うと篠崎は少し驚いたような顔をしてこちらを見下ろした。
「ああ、いや。その後は大丈夫だったか?」
「はい。あっつい風呂に入りました」
「あっつい風呂か」
篠崎がまた微笑む。
「なんか……逆に邪魔して悪かったな」
「え?邪魔って……?」
ガラガラと窓が開けられる。
「問題ないでしょう?」
鈴原夏希が、葵を抱っこしながら顔を出した。
「ええ。順調そのものです」
篠崎が彼女を見上げる。
その双方の瞳に、表情に、先週からの変化は見られない。
由樹は内心ほっとしながら彼女に抱かれている葵を見上げた。
こちらを見てニコニコと手を伸ばしている。
「こら、葵、あぶない!」
言いながら抱き直し、夏希が葵の白いほっぺにキスをする。
その動作がすごく自然で、由樹は思わず微笑んだ。
「中でお茶でも。どーぞー」
夏希がこちらの返答も聞かずに窓を閉めた。
「………茶が出るなんて、初めてだ」
篠崎がこちらを見てこっそり囁く。
由樹は微笑んだ。
「ご馳走になってこうぜ」
「はい!」
2人は手袋を外すと、雪を長靴でかき分けながら鈴原家に入って行った。
リビングに通された篠崎は、並ぶ段ボール箱に唖然とした。
「……夏希さん、引っ越しされるんですか?」
キッチンに立つ夏希を振り返ると、彼女は口元だけ微笑んでまたすぐにヤカンに視線を戻した。
「ええ。この家はローンごと東田家に押し付けることにしました」
「…………」
なんと声をかけていいのかわからず、篠崎はその表情から感情を伺いしろうと夏希を見上げた。
「コーヒー、ブラックでいいですか?もうミルクも砂糖も箱にしまっちゃって。ホントバカ。食品は最後にすればいいのに。ねえ?」
夏希が笑いながら眉毛を下げる。
そこにあったのはカラッとした諦めと、清々しい未来への期待だった。
「葵が救急車で運ばれたとき、私、思ったんです。この子さえいれば、他に何もいらなかったのにって。この子さえそばにいてくれたなら、家も、体裁も、見栄も、若さも、美しさも、何もかも、いらなかったのにって。
全部!全部あげるから、この子を返してください!神様!!って何回も雪降る空を見つめて」
篠崎は数日前、驚くほどに取り乱した夏希の顔を思い出した。
自分の子供の命が危ぶまれた時の母親はここまで壊れるものかと、改めて母親の大きな愛を知りつつ、葵の容態によっては自分の命さえ簡単に投げ出さんばかりの危うさに、一時も彼女のそばを離れることが出来なかった。
夏希はよちよちとローテーブルに捕まりながら足を踏み鳴らしている葵に微笑んだ。
「この子とこの家に帰ってきて。電気ストーブをつけて、温かいねって言いながら笑いあったら。私、こんなことしてる場合じゃないなって。この子を幸せにするためだったら、なんだってしなきゃいけないんだなって思ったんです。
それで、次の日、両親に連絡を取って、新幹線で会いに行ってきました」
女性の、いや母親の強さに舌を巻きながら篠崎は小さく頷いた。
「待っていた父と母に、今までのこと土下座して謝りました」
こんなにプライドの高い女性が土下座までするとは―――。
「父に叱られました。“赤ん坊と言えど、自分の子供の前で土下座なんてみっともないことするな“って」
夏希の目に涙が浮かぶ。
「そんなことしなくていいから、仏様に線香あげて来いって。またこの家にお世話になりますって挨拶してこいって」
最後の方は込み上げた涙で言葉にならなかった。
「母が“この子の名前は何ていうの?“って向日葵からとって葵だって言ったら、“太陽に向かう強い子ね”って」
急に泣き出した母親に葵がびっくりして、テーブルからその肩に手を移す。
夏希は葵を抱き上げ、膝に座らせると、その柔らかい髪の毛で涙を拭った。
「そうだ……。ちょっと笑っちゃうんですけど、見てくれます?」
夏希は涙に濡れた目で微笑みながら、傍らにあったバックから色紙を取り出した。
「父が詠んだ短歌。見るたびに笑えてきて」
そこには、和紙で出来た色紙に、達筆な筆で歌がしたためられていた。
【雪が降り 地は凍り付き 砕け散り 新しき地に 葵が芽吹く】
「クッソ下手くそなんですけど」
夏希が言葉を崩して笑う。
「実家に帰ったら部屋に貼っとこうと思って」
クククとまだ笑っている。
葵も母親の笑顔に嬉しくなったのかまたニコニコと笑いだした。
グスッと隣から音が聞こえて振り返る。
「なぜにお前が泣く……」
篠崎は呆れて目を細めた。
「だって………」
新谷がハンカチで目を抑えている。
葵が気づき夏希に捕まり立ち上がる。
今後は篠崎に捕まりながらヨチヨチ歩き、新谷の膝に着地した。
その覗き込む小さな肩を優しく包みながら、新谷が微笑む。
「心配してくれてるの?」
葵が無垢な瞳で見つめる。
「ありがとう……!」
篠崎は夏希と目を見合わせて微笑んだ。
(強いな……。本当に、強い……)
葵が命をかけて、彼女を母親に変えた。
もうきっと、2人は大丈夫だ。
篠崎はコーヒーを口に含んだ。
まだポロポロと涙を流している新谷を見る。
(……本当によく泣く奴……。男のくせに……)
今まで篠崎も幾度となくこの男を泣かせてきた。
でも自分がこの男を泣かせるのは……
(今夜が、最後だ)